18
「う……おえっ……」
気がつくと、耳元で誰かが吐いている音がしていた。
瞼は鉛のように重く、頭の奥はじんじんと痺れていた。
何かにしがみつく両手の先だけが鋭く痛んでいた。
洗面所の照明はやけに明るく、目の前の光景が嫌でも網膜に焼きついてくる。
なのに脳は、目に入るものすべてを処理しきれずにいた。
便器の縁に食い込ませた指先の感覚も次第に薄れていく。
自分が今もこの手を持っているのかどうかさえ、わからなくなっていた。
考えられない。理解もできない。
魂が何度も身体を抜け出そうとしていた。
天井の隅へ逃げ込み、この苦しみから目を逸らそうとするみたいに。
身体は痛みに満ちていた。
意識はこの肉体を抜け出さなければ、息すらつけない気がした。
それはただ、同情を乞うための言い訳に過ぎない。
心が悲鳴を上げる一方で、頭のどこかでは冷静な声が自分を責め続けていた。
一片の弱さも見せてはならない。
相手に気づかれてはいけない。
何も知らないまま、自分を殺させなければならない。
そう思うと、両手はさらに強く力を込めた。
今にも身体を離れていきそうな魂を、必死で引き留めるように。
まるで空へ逃げていこうとする風船を、子供が細い糸一本で繋ぎ止めるみたいに。
自分に絡みついた黒い糸が指に食い込み、視界だけが赤く滲んだ。
最後に見えたのは、泉上光が先に手を離す姿だった。
――「結局、引き金を引いたのはお前なんだろ」
十六歳の光が、自分に向かってそう言った。
片手を腰に当てたその姿は、十六歳の頃と何ひとつ変わっていなかった。
逆光で表情は見えない。ただ、唇の動きだけがぼんやりと見えて、途切れ途切れの言葉がかすかに伝わってきた。
「今さら被害者ぶった顔して、自分の傷ばかり見せつけられたって、俺がお前に同情するわけないだろ」
——違う。違うのに。
そう言い返そうとしたが、口を開いた瞬間、声帯さえ自分を裏切り、声が出なかった。
何かが喉に巻きついている。
乱暴に引き剥がそうと手をやれば、指先に触れたのは冷たい首輪だけだった。
黒い、冷たい電子首輪。
自ら嵌めた首輪だった。
贖罪のために。
自分が罪人であることを忘れないために。
けれど、それすら結局は弱さの証明なのかもしれない。
「どうせ自分のことも可哀想だと思ってるんだろ?
罪滅ぼしのふりして、心のなかではこう考えてる――Styxに殺しの道具として育てられて、ずっと命令通りに殺してきただけで、殺さなければ自分が殺されるか、もっと酷い目に遭うかだった。 全部誰かにやらされただけなんだ――って」
――違う、違う、違う!
自分のものとは思えない嗚咽が漏れていた。
気づけば、光はさっきよりも遠くに立っていた。
まるで関わりたくもないと言うように、嫌悪を隠そうともせずに。
魂はとうに身体を離れていた。
飛び散った魂の破片が、四方から嗤いかけてくる。
「わざわざ傷を抉って見せて、自分は罪悪感に押し潰されてるんだって、そんなふうに俺に理解してほしいのか?」
「たとえ過去を全部話したところで、俺は絶対に聞かない。一言もだ」
そう言うと、光は背を向けた。
もう二度と、あんパンとカルピスを分け合ってくれる人はいない。
もう二度と、つっかえながら弾く『アヴェ・マリア』を最後まで聴いてくれる人はいない。
もう二度と、本当の名前を呼んでくれる人はいない。
お前の名前はMyosotisだ。
五歳の頃、誰にも選ばれなかったコードネーム、誰にも望まれなかったコードネーム。
八歳の時には毒と一緒に身体へ流し込まれた。血に溶け、神経に絡みつき、やがて身体の一部になった、
決して獲物を逃さない銃となって、その手に収まった。
――照準の先にあったのは、恋人の父親の胸だった。
十五歳の時、暗闇の隙間からようやく掴んだ光が、指の隙間から零れ落ちるように遠ざかっていく。
追いかけたかった。抱き締めたかった。
あの明るい声で、もう一度名前を呼んでほしかった。
どんな代償を払ってでも。
それでも足だけは動かなかった。
罪悪感が、地面へ縫い留めていた。
――いや、違う。
罪悪感なんて曖昧なものだけじゃない。
もっと冷たくて、もっと確かな何かが、自分の身体をその場に縛りつけていた。
身体が言うことを聞かなくなった瞬間、抗おうとした。
けれどStyxで学んだ格闘術は何の役にも立たなかった。
誇りだったはずの実績が、皮肉なほど優しい平手打ちとなって頬を打った。
身体より先に、視界が縄で引き裂かれていく気がした。
千々に散った感覚だけが、ばらばらのまま現実を拾い集めていく。
左目には、自分の身体が震え、痙攣しているのが見えた。
右目には、自分の上で、誰かの影が自分の上で蠢いていたのが見えた。
右耳は耳障りな声に痛みを覚え、
左耳だけが、その掠れた声が自分のものだと気づいていた。
冷たく、ぬめついた手が蛇のように腰を這い、胸を撫で、腕を滑り、やがて首元へと辿り着く。
最後に誰かの犬歯が喉仏の下へ食い込み、解離しかけた意識を引きずり戻し、現実を見ろとでも言うように――
――手は縛られ、足も拘束され、縄で雁字搦めにされていた。
まるで好きに使われるためのように縛り上げられたような姿だった。
――犯されたような姿だった。
『恋人の父親を殺した気分はどうだ?』
『あんな勢いで俺を殺しに来たくせに、結局はこの有様か』
『じゃ、ゲームをしよう』
『さっき他の女の子たちとしようとしたのに、君が拳銃で台無しにしたゲームだ』
『ああ、もちろん。ゲームをもっと盛り上げるために、プレゼントもあるんだ。▢▢▢▢から拝借してきた贈り物だ。
ほら、着けろ。 今日からお前は、俺のCute Puppy……』
『おいおい、なんで泣いてるんだ?まさか、初めてを▢▢▢さまに奪われた、つらい、もう死にたい――なんて考えてるわけじゃないよな?』
『今さら純情ぶるなよ。お前、初吻だってどの教官に奪われたのかすら分からないんだろ』
『これからは、お前を慰めるのも、満たすのも俺だけだ』
『どうしてか分かるか?』
『――任務のブリーフィングを書き換えたのは俺だ。だがな、引き金を引いたのはお前だよ——Myosotis!』
…
……
◇♪2025年(令和7年)夏 泉上光(25) 柊音無(25)
「……無……」
「音無! おい! 柊音無!」
光は音無を便器のそばから抱え起こし、顔を無理やり上向かせた。
「ゆっくり息をしろ! おい! 聞こえてるか!?」
まず耳が戻った。次に視界。散り散りになっていた知覚が、少しずつ身体へと呼び戻されていく。
照明の下、光の青藍色の瞳が痛いほど鮮やかだった。
その指を音無の電子首輪の内側へ差し込み、親指で首輪と肌の間にわずかな隙間を作っていた。
最後に戻ってきたのは触覚だった。
首輪の振動が、その指の腹越しに伝わってきた。それなのに、不思議と怖くはなかった。
音無は呆然としたまま光を見つめた。
湖色の瞳には今にも零れそうな涙が溜まっていた。
「少し落ち着いたか? 立てるか?」
音無は首を振り、それから小さく頷いた。
立ち上がろうとした。
震える脚は言うことを聞かず、力を入れた途端、膝が折れ、そのまま光の身体へ倒れ込んだ。
無意識に伸ばした指先が、光の指先に触れかけたところでびくりと止まった。
火傷でもしたかのように、慌てて引っ込めようとして――
――その瞬間、光は音無の手を強く掴んだ。
「ゆっくり呼吸しろ。俺は……ここにいるから」
音無の身体がびくりと強張った。
その直後、今まで以上に激しく震え始めた。
二人はしばらくそのまま抱き合っていた。
首輪の振動が弱まり、音無の呼吸が落ち着いた頃になって、ようやく光は差し込んでいた親指をゆっくり引き抜く。
光は眉を寄せた。
その皺は、先ほどよりも深くなっていた。
さっき、たしかに触れたのだ。
喉仏のすぐ近くにある、小さく抉れた痕。
誰かに深く噛みつかれた、今も消えずに残る、古い傷痕。
ポケットの中で、証拠品袋に封じられた桃色の首輪が微かに擦れた。
色褪せた鈴が、ちりん、と小さく鳴る。




