17
井上翔太は柊音無の報告書に目を通していた。
人差し指で軽く頬骨のあたりをトントンと叩きながら、時折眼鏡を押し上げた。
「なるほど、あの男はもう捜査一課に移送されて取り調べ中ということか。どこまで口を割るかはわからんが、上に辿り着ければ上出来だな」
井上は頷いた。その顔には相変わらず、賞賛とも皮肉ともつかない、本心の読めない表情が浮かんでいる。
「では、この後は僕が泉上と引き続き動きます。昨日の続きを――」
「ああ、それは今は無理だ。奴はつい先ほど待機を命じられたらしい。さっき奴の班長から連絡があった」
井上はもう一度、人差し指でコツンと机を叩いた。
「午前中はおとなしくここで情報整理をしていてくれ。君の仕事は大場譲治の件だけじゃない。現場は警察に任せろ」
「待機……?」
「……まあ、おそらく刑事局のほうが動き始めたんだろう。大場の件で痺れを切らした連中がいるんだろう。 だが、君は一人で見事なアリバイを成立させたじゃないか。その点は評価しているよ」
何かを言うより先に、井上は報告書を机の上へ置き、含みのある笑みを浮かべて音無を見据えた。
「つまるところ、最初から君は泉上のいる刑事局じゃなく、公安に身を寄せた。そういうことだろう? なかなか上手く立ち回るじゃないか」
「……仕事に戻ります」
そう言って音無は背を向けた。
廊下を歩いていくと、すれ違う警察官たちが皆どこか緊張した面持ちで音無を見ていた。音無はまっすぐ前を見据えたまま、意に介することなく歩き続けた。
その視線のほとんどは、音無の電子首輪に向けられていた。
それも仕方のないことだった。
この首輪こそが、このビルで働く公務員たちと自分を分ける残酷な烙印なのだから。
異物に過ぎない。
もう慣れている。
音無は携帯を取り出し、メッセージアプリを開いた。そこには自分が昨日送った一通のメッセージが残っているだけで、光からの返信は何も届いていなかった。
見知らぬ番号から着信があった。
音無は一瞬戸惑った。
泉上光と井上翔太以外に、自分の連絡先を知る者はいないはずだった。
Trigonotis以外に考えられない。
昨日の話の続きをするつもりなのか。
二人きりで会えれば話は早いのだが、そんなことは不可能だ。
そう思いながら、音無は振り返った。
その視線は井上翔太の執務室へ向かう。
ドアは固く閉ざされていた。
その中にいる人間と同じように、何を考えているのかまるで窺い知れない。
◇
「こんな朝早くに呼び出してごめんね! でも今日、あたし一日中シフトびっしりでさあ、多分この時間しか会えないと思ったんだよねえ」
三人が入ったのは、飾り気のない小さな喫茶店だった。
まだ朝が早いためか、店内に客の姿はほとんどなかった。
店主が飼っているらしい小型犬が一匹、期待したような目でこちらを見ていたが、
誰も頭を撫でに来ないと悟ると、退屈そうにあくびをした。
そして自分の寝床へ戻り、焼きたてのロールパンのように丸くなった。
井上は穏やかな笑みを浮かべたまま、静かにTrigonotisを見つめていた。
だが、音無にはわかっていた。
井上もまた、Trigonotisと自分があまりに似ていることに驚いたに違いない。
柔らかな黒髪に、くりりとした大きな目。
瞳の色こそ違うが、口を閉じさえすれば、自分たちは兄弟のように見えるだろう。
しかし、音無は本当にTrigonotisを知らない。
そもそもStyxにTrigonotisのような人間がいるはずがなかった。
おそらく組織に入ったその日に、毒理部門の連中に実験室へ引きずり込まれるか、公海へ連れて行かれ、どこかの金持ちの坊ちゃんやお嬢様のために細切れにされていたかもしれない。
それもまたある意味では幸運なのかもしれないと思った。
「――にしても、うわあ、警視庁ってイケメンだらけなんだね! あたし、毎日違うタイプのイケメンに会えて、めちゃラッキーなんだけど!」
Trigonotisは相変わらず、甘えたような口調で誰とでもすぐ打ち解けてしまう。
それが彼の作っているキャラなのか、それとも生まれつきの人懐っこさなのかはわからない。
「いえいえ、こちらこそ情報を提供してくださって感謝しています。本日は私がお話を伺わせていただきます。 では、大場の件でも昨晩の男のことでも、何か思い出したことがあれば何でもお聞かせください」
井上はTrigonotisの取り留めのないおしゃべりを遮ったが、その表情は変わらず穏やかだった。
「うう……」
だが、昨夜の男の話になった途端、Trigonotisは急に口をつぐんだ。
過去の関係が原因というより、昨夜の恐怖がぶり返したらしい。
「昨日は本当にこのお兄さんのおかげで助かったよ……でもさあ、あのおじさんが何をしてた人なのか、あたしにもよくわかんないんだよね。
一応恋人ごっこみたいなことはしてたんだけど、もう終わりぃ~、終わり! 人殺しの男を好きになるなんて、さすがのあたしでも無理! これだけは絶対譲れないからね!」
「それは確かに、許されることではありませんね」
井上は音無へちらりと視線を向けた。
「それに、実はあたし、どっちかっていうとKNさん――大場さんの彼氏になりたかったんだよね。でも大場さん、他に好きな人がいたみたいでさあ……」
大場の名前が出た途端、Trigonotisの瞳がぱっと輝いた。
「あのさ、実は昨日も聞こうと思ってたんだけど、お兄さん、本当にKNさんのこと知らない?」
音無はまばたきを一つした。
「……どうしてそう聞くんですか?」
「ごまかさないでよ? 昨日わざわざ聞かなかったのはね、昨日一緒にいたあの警察の人、お兄さんの恋人なんでしょ? あたし、実はお兄さんのこと助けてあげてるんだからね」
「……違います」
音無は首を振った。
井上は片眉を上げた。
「でも、変じゃない? ほら、あたし、それまではずっとM側だったんだよね。でもKNさんはわざわざあたしにSをやらせて、しかもすごく熱心に教えてくれたの。
それでね、一度プレイが終わった後に、おじさんに聞いたことがあるんだ。
なんであたしなの? だってあたしの顔、どう見てもSって感じじゃないしさ」
そう言いながら、Trigonotisはポケットから首輪を取り出した。
音無はその首輪を見つめた。店の壁に飾られていた、Welcomeのeを形作っていたあの首輪だった。
首輪の内側には、K.N.の文字が刻まれている。
こんな近くで見て初めて気づいた。
内側には、うっすらと血の跡が残っていた。
「これは……」
「KNさんね、昔ある少年と知り合ったんだって。で、その子があたしとすごくそっくりだったんだって。
もしその子が大人になってたら、きっとあたしみたいになってたんだろうなあ、って言ってた」
井上は背筋を伸ばした。
一瞬も視線を逸らさず、音無を見つめた。
音無もまた、目を見開いた。
「この首輪ね、KNさんがあたしとのプレイに使ってたものじゃないんだよ。だってこれ、だってこれ、どう見ても成人男性が着けられるサイズじゃないでしょ?
中高生くらいの子か、女性ならともかく。
あたしがそう聞いたら、KNさんはこれをあたしに渡したんだ。好きな人はもう自分のそばにはいないから、持っていても仕方ないんだって。見るたびにつらくなるから、あたしにあげる、って」
そう言ってTrigonotisはテーブルの上の首輪を指さし、それから音無の首にある電子首輪へ視線を移した。
「お兄さん、案外こういうの好きなんじゃない? 捜査中でもずっと着けてるくらいだし」
「これは……」
「だからさ、お兄さん。大場譲治って、ただ知ってるだけじゃないんでしょ? もっと特別な関係だったんじゃないの? この首輪、きっとお兄さんのものだよね?」
「彼、お兄さんのこと、すごく……すごく好きだったんじゃないかな」
◇
Trigonotisが去った後、井上は腕を組み、値踏みするように音無を眺めた。
「彼の話は本当なのかね? そう聞きたいところだが、どうやら聞くまでもなさそうだな」
音無は目の前の首輪を見つめたまま、しばらく黙り込んでいた。
やがて、ゆっくりと首を振った。
「……違います」
「何が違う?」
「大場譲治とそういう関係だったことは、一度もありません。彼が好きだった相手は、絶対に僕じゃない」
「ああ、でも私は泉上じゃないんだ。君の恋愛遍歴に興味はない。たいていの場合、私は人の言葉より行動を見る」
井上は薄笑いを浮かべたまま、固く組まれた音無の両手へ視線を落とした。
「――君は大場譲治と知り合いなのか?」
「大場譲治という人物は知りません。少なくとも、顔を合わせたことは一度もありません。仕事上で接点があったかどうかまではわかりませんが、あなたやTrigonotisが想像しているような関係は、絶対にありません」
音無は声を潜めて言った。
井上は是とも否とも言わなかった。
ポケットから白い手袋を取り出してはめると、首輪を拾い上げ、音無の手元へ静かに滑らせた。
首輪についた金色の鈴が、チリンと鳴る。
その瞬間、音無の体がかすかに震えたのを、井上は見逃さなかった。
「なら、この首輪には見覚えがあるのか?」
「……覚えがありません」
「公安が君に電子首輪を付ける前、我々は君の身体検査を行っている。その身体検査の記録を見返していて、これまでは気にも留めていなかったんだがね。だが、Trigonotisに言われて、ちょっと思い当たる節があってな」
「……お手洗いに、行きたいんですが」
音無は視線を逸らした。
「少し我慢してくれ。改めて聞こう――」
井上は淡々とした手つきで首輪を証拠品袋に収めながら続けた。
だが、その言葉を最後まで聞かず、音無は立ち上がった。
そのまま足早に化粧室へ向かった。
井上は眉をひそめた。
音無が消えた方角を見つめ、それから証拠品袋の中の首輪へ視線を落とした。
桃色の首輪に、金色の小さな鈴。
かなり年季が入っていて、最近まで使われていたものとは思えなかった。
内側の血痕も濃い茶色に変色しており、注意して見なければ気づかないほどだ。
ドアが外から開かれた。
泉上光は店内の冷房に身震いし、顔をしかめながら周囲を見渡す。
井上を見つけると、足早に歩み寄った。
「悪い、遅くなった。課のほうで少し用事があって」
光は井上の前まで来ると、軽く会釈だけした。
「構わないよ。こちらの聴取も終わったところだ。後で柊に内容を共有させる。課は忙しいのか?」
「別に。大した話じゃないです」
光は曖昧に答え、話題を変えるように卓上の首輪へ目を向けた。
「これ、何ですか」
「それが何かは、柊に訊いてくれ」
「は? あいつ、どこにいるんです」
「化粧室だ。吐いてるんだろうな、多分」
「マジかよ」
光はテーブルの上の首輪を手に取ると、大股で化粧室へ向かった。
井上の視線はしばらくその背中を追っていたが、やがてゆっくりと店の隅で丸くなっている犬へと落ちる。
いつの間にか犬は向きを変え、こちらに背を向けていた。
首に巻かれた革の首輪が、呼吸に合わせて静かに上下している。
その赤だけが、不自然なほど目についた。




