16
もしこれがよくある恋愛小説なら、目を覚ました泉上光の前には、エプロン姿の柊音無が朝の光の中で優しく微笑んでいるはずだった。
「光さん、おはようございます。今日の玉子焼きは砂糖を三グラム多めにしてみました。お口に合うといいのですが……」
けれど現実は甘くない。
いかにも家庭的そうな雰囲気をしているくせに、音無は料理がからきし駄目だった。
スマホのレシピを頼りに十五分格闘した結果、完成したのは見た目からして怪しい玉子焼きだった。
それで精一杯だった。
光に見られながら、音無は真っ赤になって、辛うじて原形を留めているものを二つ選び、光の前へと寄せた。
自分の皿に残ったのは、もはや玉子焼きと呼んでいいのかも怪しい卵の残骸である。
「ご飯は?」
音無ははっと顔を上げた。
「ご飯って……?」
「白米だ。まさか玉子焼きだけで済ませるつもりか?」
「……あ。」
光はとうとう観念した。
音無の皿に残っていた正体不明のそれをゴミ箱に捨て、自分の皿の玉子焼きを一つ、音無の皿へ移してやる。
幸い、見た目はひどいが、味だけは意外とまともだった。レシピに忠実に作ったおかげだろう。
「光さん、今日の予定は?」
「とりあえず主任と打ち合わせて、大場譲治の人間関係を引き続き洗う。それからTrigonotisとの話し合いもある……って、なんで俺がお前にいちいち説明しなきゃならないんだ」
「今はひとまず我慢してください。最優先は大場譲治の事件の真相を明らかにすることです」
光はじっと音無を見つめた。
「……なんですか?」
「顔、洗ったのか?」
「え? 洗いましたけど」
「その首輪、防水なのか」
「防水です。でも、隠れてる部分はどうしても……指を濡らして隙間に入れて拭くくらいしかできなくて」
「うわ、汚ねえな」
「汚いんですよ」
そう言いながら、光は手を伸ばし、音無の首輪にそっと触れた。
触れた瞬間、音無の表情は変わらなかった。だが、首まわりの皮膚がうっすらと粟立つのを、光は見逃さなかった。
「そういえば昨日の夜、Trigonotisが抱きつこうとしたとき、お前、あいつを投げ飛ばそうとしてたよな」
「……今日、きちんと謝ります」
「なんだそれ。殺し屋の職業病か?」
光はなおも首輪に指を這わせながら、音無の反応を観察していた。
顔に貼りついたままの笑み。
押さえきれずに震え始める指先。
呼吸は速くなっているのに、吐き出される息だけは妙に静かだ。
そして首筋に浮いた鳥肌は、時間が経つほどにはっきりとしていく。
そこまで露骨な反応を示す人間を、光は見たことがなかった。
少なくとも、ただ触れられただけでこうなる人間は。
光の記憶にあるかぎり、少なくとも十六歳以前の音無にそんな兆候はなかった。
むしろ、放っておけばすぐ隣にくっついてくるようなやつだった。
十六歳のとき、音無は光の父親を殺した。
だが、その裏で何かがあったはずだ。
音無が今も語ろうとしない何かが。
SM趣味の男が、音無によく似た少年をそばに置き、Trigonotisと名づけた。
九年前には、別の男が音無に執着し、そして殺された。
今の音無は、人に触れられることを極端に嫌がる。
偶然にしては、出来すぎていた。
――どう考えても、嫌な結論にしか辿り着かない。
光は皿に残った最後の玉子焼きを見下ろした。
急に喉を通る気がしなかった。
口を開きかけたものの、何から聞けばいいのかわからなかった。
その変化に気づいた音無は、すぐに顔を逸らした。
箸を置き、首筋に浮いた鳥肌を隠すようにさすった。
「……ちょっと、洗い直してきます」
そう言い残すと、音無は逃げるように席を立った。
光はその背中を見送りながら、一人その場に残った。
やがて、洗面所のほうから水の流れる音が聞こえてくる。
朝の陽射しの中、東京の街はゆっくりと目を覚ましていく。
少年たちが自転車のベルで朝霧を払うようにして、アパートの前を笑い声とともに駆け抜けていった。
光は皿に残った最後の玉子焼きを見つめた。
部屋の中は、肌が粟立つほど静かだった。
「……玉子焼き、ちゃんと練習しますから」
浴室から音無の声が届く。
水音にまぎれて、はっきりとは聞き取れなかった。
少なくとも当分は、玉子焼きを見たくない気分だった。
◇
警視庁・捜査一課。
光は自席に座り、手帳を眺めながら、キャップを付けたままのペンで机をとん、とん、と叩いていた。
視線は手帳に落ちている。だが思考はまるでまとまらない。
昨夜、Trigonotisの口を封じようとした男。
まだ特定できていない狙撃地点。
そして――音無が人に触れられたときに見せる、あの異様な反応。
頭の中は、それらでいっぱいだった。
思考はこんがらがった毛糸玉のように絡まり、どうにもほどけそうにない。
光は思わず深く息を吸い込んだ。
指が無意識にネクタイの結び目へと伸び、そのままシャツの襟を緩める。
今朝は少し締めすぎていたらしい。
席について間もなく、小林がファイルで肩を叩きながら入ってきた。
「会議だ」
光もほかの連中に続いて立ち上がる。
各自が状況を報告し、光も昨夜の出来事を報告した。
主任から手際よく任務が割り振られる。
また慌ただしい一日が始まる。
散会後、光は最後に会議室を出た。
昨夜Trigonotisを口封じしようとした男の取り調べへ向かおうとした、そのときだった。
後ろから肩を軽く叩かれた。
「泉上」
小林の声は妙に歯切れが悪かった。
「お前はここで待機だ」
「はい。……はあ?」
光は振り返る。
「あの男、一応俺が押さえたようなもんでしょう」
「いや、その、俺が連れて行かないって話じゃなくてだな」
小林は少し困ったような顔をした。
「課長がお呼びだ。今すぐ会議室に来いとのことだ」
光の胸がずしりと沈んだ。
「……了解です。すぐに」
手帳を置き、再び無意識にネクタイへと手を伸ばす。
少しだけ緩めた。
今朝は締めすぎていたらしい。
首元を圧迫する不快感が、ずっと離れなかった。
あいつは――
いったいどれほどの覚悟で、あの首を縛られるような不快感に耐えながら、自分の前に立っていたのだろう。
光はそのことを、初めてまともに考えた。




