15
「……」
「……無」
「音無、音無!」
明るい男の声に呼ばれ、柊音無は眠りから引き戻された。
ぼんやりと目を開き、辺りを見回す。
ほのかに柚子の花の香りが漂う廊下を、生徒たちが談笑しながら行き交っている。
磨き上げられた床は窓から差し込む光を反射していた。
男子たちは机をくっつけて通信対戦だと騒ぎ、女子たちは三々五々、本を抱えて小走りに通り過ぎていく。
誰かのポニーテールが鼻先をかすめ、音無は思わず一歩退いて壁にもたれた。
視界いっぱいに、一人の少年が立っていた。
十五歳の泉上光だった。
白いシャツのボタンは二つ外され、袖も無造作にたくし上げられている。
引き締まった前腕が覗き、その手のひらが目の前でひらひらと振られた。
「寝ぼけてんのか? 行こうぜ、ぶらつこう」
音無は呆然と光を見つめた。
十五歳。国三。山吹国中。
そうだ。
今はまだ、何も起きていない。
光の父親を殺してもいない。
Styxに罰せられてもいない。
光に告白されてから、まだ二週間しか経っていない。
それは二人が何も考えず、ただ幸せでいられた頃だった。
きっとあの頃だけだったのだ。
気がつけば光はもう歩き出していた。
それでも音無はその場に立ち尽くしたままだ。
あまりにも幸せな時間が、突然目の前に転がり込んできたとでもいうように。
いや、夢じゃない。
これは現実だ。
そう思いたかった。
音無は足を踏み出し、小走りで光の隣に追いついた。
二人の上履きが床を擦る音が廊下に響く。
その音さえ、音無の耳には弦を爪弾くような心地よい響きに聞こえた。
光はいつものように音無の右側に回り込み、その右手をぐっと握ってくる。
音無の手がぴくりと震えた。
うつむいた視線の先には、自分の手首がある。
そこにはまだ腕時計はない。
そうだ。
この頃の自分はまだ、時計をつける習慣なんてなかった。
身体からふっと力が抜ける。
でも、その手を強く握り返した。
光は笑いながら言った。
「お前なあ、今日はマジでやばかったぞ。国語であんな答えするやつ初めて見たわ。
漫才のネタでももうちょい新しいだろ。 昭和かよ。」
「……え?」
「は? 立たされてた間、ぼーっとしてたのかよ。先生に川端康成を紹介しろって言われて、お前なんて答えた?」
音無は必死に記憶を探り、あ、と小さく声を漏らした。
思わず顔を赤らめる。
「……いい人、です」
「おいマジかよ!」
光はまた噴き出した。
授業中も一番大きな声で笑っていたのだから、その古臭いボケがよほどツボに入ったらしい。
「つまりノーベルいい人賞受賞作家ってことかよ! 音無、お前マジで……っ、無理だわ、ほんと……毎日授業中に何考えてんだよ」
そう言いながら、光は音無の目の下を親指で軽くなぞった。
「隈ひでえぞ。こっそり布団の中でGBAでもやってたんだろ」
音無は反射的に首を振った。
だがすぐに頷き直して、いつものように肩口へ手をやる。
――ない。
肩口に触れるはずの感触がない。
音無ははっとして足を止める。
慌てて両手を背中へ回し、その場でくるりと振り返る。
「……ヴァイオリンケースは?」
「ケースって?」
光は両手を広げた。
「そんなもん、最初からねえよ」
「……最初から?」
音無は目を見開いた。
「じゃあ、どうやって……」
いや。
別におかしな話でもない。
音無はすぐにそう考え直した。
もともと自分には、背負うものなんてなかったのかもしれない。
十五の少年の肩に食い込むものが、必ずしも銃とは限らない。
少なくとも今の自分は、勉強なんてからきしだ。
Styxで教わらなかったからというわけではなく、単に頭が悪くて、怠けていただけなのかもしれない。
誰かが机に向かって必死に勉強している間も、自分は暖かい布団の中でゲームをしていて、何度も同じステージで足止めを食いながら。
――ただ、それだけの話だったのかもしれない。
幸福は膨らみ続ける風船みたいに、音無を高く押し上げていく。
足元がふわりと浮くような感覚。
いつか激しく地面へ叩きつけられる予感でもあった。
落ちる時、自分を繋ぎ止める錨が欲しかった。
地面に叩きつけられても砕けてしまわないように、音無は慌てて光の手を握りしめた。
けれど掌には汗が滲む。
このままでは、自分だけじゃない。光まで巻き込んでしまうかもしれない。
それが何より怖かった。
だが、光は手を離さなかった。
そして何事もないように、その指を絡めてくる。
十指が重なった。
「今日の三者面談、お前んとこだけじゃなくて、うちの親父も来なかった」
光は片眉を上げた。
「こういうとこまでお似合いとかさ。相性良すぎだろ、俺ら」
音無は堪えきれずに笑ってしまった。
「……光さんのご家族、ずっとお忙しいみたいですからね」
「親父はな、ずっと忙しいんだよ。聞いてくれよ、あいつ、マジで仕事の鬼でさ。
山葉正人っていう部下がいるんだけど、俺より山葉さんと一緒にいる時間の方が全然長いんだぜ。 あれ絶対、山葉さんの方が実の息子だろ」
「はあ……」
「嘘じゃねえぞ!一回、一緒に朝飯食ってる時に突然、『光、お前来年もう高校受験か?』って聞いてきやがったんだぜ。 マジで、ぽかんとしたわ!親父の頭ン中には仕事しかねえんだよ。
俺なんて東京湾から流れ着いた、親父は桃太郎を拾おうと思ったら、本物は先に持ってかれててさ」
今度こそ、音無は声を上げて笑ってしまった。それでも光は構わずに続ける。
「俺は本気だぞ!隣の佐藤さんにすら負けてるんだぞ!
あっちには帰ればポチが尻尾振って迎えるだろ?俺んちには夕日だけだぞ!
風情はあるけどな」
やがて二人は、校庭の花壇のそばまで来ていた。ちょうどいい日陰を見つけて腰を下ろす。
音無がシャツの胸元をつまんでパタパタとあおぐと、光はすぐに立ち上がり、音無と場所を入れ替えた。
「……じゃあ、光さんのお母さんは」
「話しただろ、うちの母さんはとっくに死んでる。ただな、気にしなくていいって。 俺、母親ってものにまるで記憶がねえから。家には位牌もなければ、母さんの写真すら一枚もない。」
「……写真もないですか」
「そうだ。なんでか親父に聞いたことあるけど、感傷的っつうか、頑固っつうか。
写真を見ると母さんを思い出すけど、つらいことまで思い出す、見ないことにしてるんだと。
うちのアルバムなんて、半分に切られた写真ばっかだぞ。
ひどいのになると三分の一しか残ってない。親父だけが、ぽつんと一人で写ってる」
「……そうですか」
「そういうこった。じゃあ、お前んちは?一度も聞いたことなかったよな」
「僕は……家の事情が、少し複雑で」
音無は慎重に言葉を選んだ。
Styxで教え込まれた、身の上を誤魔化すための決まり文句はいくらでもある。
それを口にすれば済む話だったが、よりによって、この人にだけは嘘をつきたくなかった。
「……今は、一緒にいないんです」
結局、そんな曖昧な言葉しか出てこなかった。
「でも、それなら布団の中でずっとGBAできますし」
「ははっ、マジでやってんのかよ! 今どきGBAって、どんだけレトロなんだよ」
「え……やらないものなんですか? だって、光さんが言ったんじゃ……。じゃあ今の人たちは、やってないんですか……?」
「いや、適当に言っただけだって。マジでやってるとは思わなかったわ。何やってんの? ファイアーエムブレム? 逆転裁判?」
「僕は……その……」
景色がゆっくりと滲んでいく。
二人の声も、少しずつ遠ざかっていった。
幸福という風船が弾けるより早く、現実の剣はもう音無のすぐ頭上まで迫っている。
ぼやけていく光の顔を見つめながら、音無は思わず声を張り上げた。
「光さん、光さん!」
届かない。
失重感が増していく。
もうすぐ落ちる。そんな予感だけがあった。
剣が振り下ろされる。夢が終わる。現実へ引き戻される。
音無は俯いた。
霞む視界の先には、まだ繋がったままの二人の手があった。
光の手がぴくりと震える。
まるで危険を察したように、逃げ出そうとするように。
その指先が、わずかに緩んでいった。
◇♪2025年(令和7年)夏 泉上光(25) 柊音無(25)
音無は夢から完全に目を覚ました。
無意識に背後を振り返る。
黒いヴァイオリンケースが壁際に立てかけられ、背中のすぐ後ろにあった。
右手の黒い腕時計は朝の光を受けて金色の縁を帯びている。
その縁をなぞるように、光がゆっくりと流れていた。
目をやれば、少し離れたところで光が畳の上に横たわっている。
薄い布団をかぶり、肩が呼吸に合わせて静かに上下していた。
まだ眠っているようだった。
文字盤の反射が眩しく、音無は思わず目を細めた。
そのまま右手へ目を落とす。
白く盛り上がった傷痕が、朝日に照らされていっそう目立っていた。
彼はすぐに腕時計のバンドを一コマ締め直し、ヴァイオリンケースへ背を預ける。
慣れ親しんだ冷たく硬い感触に、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。
自分の手をじっと見つめているうちに、ふと昨夜の会話が蘇ってくる。
「この写真、昔は親父と母さんのツーショットだと思ってたんだ。
母さんが死んだから、親父が半分に破いたんだって。
でも今になって見れば、全然違ったんだよな」
「見ろよ。女の手がこんなでかいわけねえじゃん。どんだけ背が高けりゃ、こんな自然に肩に手を置けるんだよ。どう見ても男の手だろ。よく見りゃ傷まであるし。
ガキの頃の俺は気づかなかったけどな」
「でも、どうして破いたんでしょう」
「仲違いしたんだろ。刑事にはよくある話だ。
俺だって十六の時、お前との写真を真っ二つにしたしな。
あの頃は、お前が親父を殺したなんて知らなかった。
ただ、何も言わずに消えたのが腹立たしかったんだよ」
「……」
そこまで思い出して、音無は顔を上げた。
朝日に照らされた写真立てを見つめる。
たとえ引き裂かれてもなお、泉上一の肩に置かれたままの、その手を。




