13
署を出た頃には、もう十一時近くになっていた。
あの男から得られた情報は多くない。
自分がどこかの組織に使われている——どうやら、その程度しか理解していないらしかった。
とはいえ、不思議ではなかった。所詮は下っ端だ。
自分のやっていることがまともじゃないと理解していても、その先に何があるのかまでは知らない。
KNという男が、どれほど厄介な連中と関わっていたのかも。
とにかく、男は近くの署へ引き渡した。
いずれ捜査一課も動くだろう。光がそこへ首を突っ込まないはずがない。
なにより、あの男は音無を――少なくとも、あの黒いヴァイオリンケースを見た瞬間、明らかに反応していた。
なら、一度きちんと話を聞く必要がある。
……とはいえ、それは明日考えればいい。
今日はさすがに色々ありすぎた。
気になっていた狙撃ポイントを一つ確認しただけのはずなのに、頭の整理が追いつかない。
光は歩きながら、隣の音無へ視線を向けた。
こいつに対する感情は今でも複雑なままだが、さっきの動きは見事だった。
不意に、桜咲高校の頃を思い出す。
音無がいたのはたった一ヶ月だけ。
その短い間、二人はまるで恋人みたいにくだらないことばかりしていた。
どっちが先に食堂へ着くか競争したのも、その一つだ。
「おい、音無」
音無が顔を上げて、手にはまだ缶のおしるこがあった。
ゆっくり飲んでいるせいか、さっきより顔色もいい。
「……桜咲高校のこと、覚えてるか」
「どの話です?」
「ほら、前に賭けしただろ。どっちが先に食堂へ着くかって」
音無はすぐ思い出したようだった。
「ああ。ありましたね。あの時は光さんが負けました」
たしかにそうだった。
あの日の午前、最後の授業の前。
光はボールペンの先で音無の背中をツンツンと突き、この勝負を持ちかけた。
この勝負、光には勝算があった。
自分は野球部員であるというだけでなく、当時の音無はとても運動ができそうには見えなかった。
渋った様子を見て、勝負を怖がっているのだと思った。
さすがにそこまでムキになることもないかと思い直した矢先、意外にも音無はその申し出を受けてきた。
音無が前を向き直ったとき、その目に宿っていた異様なまでの決意の意味を、光はまだ理解していなかった。
「本当に驚かされたよ。チャイムが鳴った瞬間、先生がまだ終わりとも言ってないのに、ヴァイオリンケースをひっつかんで飛び出したんだからな……っていうか、あの状況でさえケースを忘れずに背負っていくとは、本当にお前らしかったよ」
「だって、中身は僕にとってとても大事なものですから」
「銃が?」
「銃じゃありません、ヴァイオリンです。
銃は僕がStyxで生き抜くための道具で、Myosotisの象徴だ。
でもヴァイオリンは、僕が自分で選んだものなんです」
「で?」
「だから、光さんとヴァイオリンは、僕が僕でいるためのアンカーなんです。」
そのあまりに真剣な眼差しに、光はしばし言葉を失った。
「……それに、おまえウサギみたいに走ってたじゃないか。
階段の手すりを滑り降りただけじゃ飽き足らず、おまえ、とどめに——」
「ああ、二階の窓から飛び降りましたね。
あの時は窓の真下にひさしがあって、ちょうど地面も改修工事中で、防護ネットで囲われた浅い穴。あそこが最短だと思ったんです。
飛び降りた後、光さんが二階で大声で叫んでいて、正直ちょっと心配になったのを覚えてますよ」
「何を心配したんだよ」
「光さんも勢いで一緒に飛び降りてくるんじゃないかって。
光さんはダメですよ、僕みたいな訓練を受けてないんですから」
音無は困ったように首を振る。
「でもあの時は必死で、とにかく食堂まで走ることしか頭になくて、絶対に負けられないって。
もし光さんまで飛び降りてきてたら、たぶん僕は慌てて戻ってたと思います。
なんとかして受け止めようとして。怪我なんてさせませんよ」
「おまえさ、なんであんな必死だったんだよ。
音楽一筋で、運動は苦手そうにしてただろ」
音無は缶しるこを光へ差し出した。
光が怪訝そうに見ると、音無は「飲んでください」とでも言いたげに軽く缶を揺らす。
仕方なく受け取って口をつけた。
甘いしるこが喉を通り、胃へ落ちていく。
空っぽだった腹がじんわり温まり、落ち着かなかった焦燥感も少しだけ和らいだ。
思わず肩の力が抜ける。
音無はそんな様子を細めた目で見ていた。
「……あの頃、あまりお金がなかったんです」
「金?」
「学校へ通うこと自体は許されてました。
でも、Styxから使える小遣いには制限があって。結構カツカツだったんですよ」
「おまえ、あの頃もうSSS級だったろ」
「Styx内部のポイントなら、いくらでもありましたけどね。十分の一くらいで換金できましたし。
でも、山吹中学も、桜咲高校も、光さんと過ごした時間だけは同じにしたくなかったんです」
音無はうつむき、ヴァイオリンケースのストラップを握りしめる。
「あのお金は人を殺して手に入れたお金だから。
Styxで生きるなら使わなきゃいけない。
でも、せめて光さんと食事する時くらいは血の匂いを持ち込みたくなかった」
「……」
思わずうつむいた。
自分に言い聞かせたくなる。
こいつは殺し屋だ、詐欺師だ。
こんなの、どうせ俺を丸め込むための芝居だ。
光は黙ったまま、しるこの缶を音無へ返した。
それを受け取り、缶についた水滴を爪の先でつつき、ひとつに集めていく。
集めては指先で拭った。
「……だからあんな必死だったのか。夜、腹減るのが怖くて」
「そうです。光さんに奢ると、夜の任務の頃にはもう空腹でかなりきつくなるので。
Styxに戻った後は、まともに夕食を食べる時間もありませんし。
失敗したら、その……」
音無はそこで言葉を止めた。
——失敗すれば、罰。
たぶん、そういうことなのだろう。
光はその先を察した。
音無の表情がゆっくり陰っていく。
空気がふっと沈む。
沈黙する二人のあいだ、夜風が吹き抜けていく。
警察がTrigonotisを連れて出てきた。
二人が顔を上げると、青年はうつむき加減で、肩には警察から借りたらしい上着が掛けられていた。
「ひとまず事情聴取は終わりました。
以降の引き継ぎについては、明日警視庁と連絡を取ります。
ただ、こちらの佐藤太郎さんがどうしてもお二人に話したいことがあるとおっしゃっていて、約束もしてあるとかで……」
警察官が言うと、Trigonotisこと佐藤太郎は自分の名前が出たとたん、助けを求めるような顔をした。
本当に佐藤太郎なのかよ。
光は思わず口元をひくつかせたが、音無はただ静かな目で警察官を見つめ、うなずく。
そういえば、こいつにもコードネームがあったな。
Myosotis、勿忘草。
そんな名前で殺しをしてると思うと、妙にむず痒くなる。
光は心のなかで毒づく。
「おにーさん!」
Trigonotisが音無の胸に飛び込もうとした。
まさにその瞬間、音無が動いた。
半歩身を引いて勢いを流し、そのまま右手を伸ばす。
だが、それは相手を支えるための手ではなかった。
光は目を見開いた。
——制圧する気だ。
手首を取り、そのまま体勢を崩して地面へ叩きつける。
勢いを利用して自分は横へ抜けるつもりなのだろう。
光は即座に手を伸ばし、力を込めかけていた右手首をガッと掴んだ。
有無を言わせず止めた。
音無の動きが一瞬止まる。
張り詰めていた空気が一気に抜けた。
Trigonotisはすでに音無の胸にしっかりと飛び込んでいた。
自分が危うく何をされかけたのかまるでわかっていない。
一見穏やかそうなこの青年が何をするつもりだったのか、隣にいた警察官もまったく察していなかった。
だが、光は確かに見ていた。
あの瞬間だけ、音無の目から感情が消えた。
そこにあったのは、反射のような制圧の意志だけだった。
三人のあいだを夜風が抜け、止まっていた時間がようやく動き出す。
「うう……さっきはほんとに怖かったんだからぁ……
お兄さんがいてくれてよかった!
さっきほんっとに格好よかったよ……」
光は音無をじっと見つめながら、ゆっくりと手首を離した。
さっき強く掴んだせいで、腕時計が手のひらに食い込み、赤い跡が残っていた。
その痛みが張り詰めていた意識を引き戻した。
音無の表情もようやくいつも通りに戻る。
警察官は最後に光に二言三言伝えると、足早にその場を去った。
どうやら二人の関係を完全に誤解したらしい。
光はため息をつき、振り返った。
佐藤は音無より頭ひとつ分背が低く、今は必死に相手にしがみついている。
まるで命拾いしたみたいな顔で。
かたや音無は、されるがままぎゅっと抱きつかれている。
前髪がちょうど目元を隠していて、両腕は不自然なほど強張っていた。
その右手も微かに震えている。
指がわずかに開いたかと思えば、ぎゅっと握り込まれる。
黒い腕時計のバンドが彼の手首に食い込むほどにきつく締まっている。
針は、静かに十二へ近づいていた。




