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Myosotis 〜 過去は、まだ引き金を握っている 〜  作者: Bpch


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壁と見分けがつかないほど錆びついた鉄扉を押し開けた瞬間、湿った夜風が埃を巻き上げながら吹き込んできた。

光は思わず目を細める。

そのすぐ後ろから、音無も屋上へと姿を現した。


放置されたままの屋上らしい。

手入れの気配はなく、監視カメラには蛛が巣を張っていて、まともに動いているようには見えなかった。

周囲を囲う金網も、大人の腰ほどの高さしかない。少し身を乗り出せば、そのまま落ちてしまいそうだった。


だが――狙撃ポイントとしては悪くない。


周囲を見回すと、すぐに目に入ったのは地図で確認した、昼夜問わず工事が続いている商業ビルだった。いくつかの標識灯が点滅している。


白いラテックス手袋をはめると、床に積もった埃を指でなぞった。

埃の感触は均一だった。重い機材を固定した痕跡も見当たらない。

音無も金網の手すりに顔を近づけ、錆の剥がれ具合を調べた。剥がれ方にも不自然な偏りはない。


「うん、ざっと見たところ、重いものを預けた痕跡はなさそうです」

「重いもの……狙撃銃か?」

「ええ。500メートルを超える狙撃なら、構えを安定させ続ける必要があります。安定してないと話になりません。

バイポッドなり何かしらの支持具を使えば、金網に銃身の痕は残るはずです。

それに、あちらは夜通し工事中です。この距離だと、サプレッサーを使っても音は周囲に漏れます。少々目立ちすぎますね」


話している間にも、工事の騒音がかすかに届き、鮮やかな青い溶接の光はここからでもはっきりと見えた。


「となると、ますますありえないな」


二人はそろって手すりの向こうを見やった。

縦横に走る街路と高層ビル群が描き出す都市のスカイラインが、徐々に闇のなかへと沈んでいく。




「ここをダミー、あるいは予備候補と見るなら……

それより、現場からは遠いが、もう少し高いオフィスビルはどうだ? 」


光はポケットから手帳を取り出した。


「屋上入口には監視カメラがある。ただ、時間帯によっては死角ができるらしい。

下に降りれば、そのまま路地へ抜けられる。犯行時刻にも人の動きは確認されてない。

狙撃地点としてはあり得る。SATも候補には挙げてる。

ただ、距離が遠すぎるらしい。遮蔽物も多いし、跳弾の危険もある。

それに、逃げるならこっちのほうが動きやすいそうだ。」


「……とはいえ、可能性は消せませんね。次を見に行きましょう」


「ああ。……おまえ、腹は減ってないか?」


光は携帯電話を取り出し、バッテリーが切れていた。

もともと時計をする習慣がない。


音無は手首を見て、時刻を確認する。


「僕はまだ大丈夫です。光さんは?」


「俺もだ。なら、そのまま行くぞ」


二人は屋上の扉を閉め、シューズカバーを外す。

そのまま消防階段へ入ったところで、ふいに同時に足を止めた。


妙に満足げで、力の抜けた息だった。


光と音無は顔を見合わせる。

こんな廃ビルにまだ誰かいるとは思っていなかった。


その声には、何かを終えたあとの気怠さと妙な解放感が滲んでいた。


「ふう……まったく、おじさんって変わってるよねぇ。

仕事も謎だし、会う場所も毎回バラバラだしさぁ。

あたしは別にどこでもいいんだけど~。

でも、どうやってこんな場所ばっか見つけてくるの?」


よく通る、高めに作った声だった。

そして、その特徴的な一人称。


光と音無は無言で視線を交わす。


大場譲治によって「Trigonotis」と名づけられた、あの青年だった。


いや、違う。


たとえ本人が了承していたとしても、店側がこんな危険な場所を許すとは思えなかった。


となると、店を通さず個人的に会っているのか。


しかも口ぶりからして、今回が初めてではない。


二人は足を止めたまま、息を潜めて続きを待つ。


やがて、少しかすれた男の声が返ってきた。


「たまにはこういう場所も刺激があっていいだろう?

さっきのおまえ、ずいぶん気持ちよさそうだったじゃないか」


「まあねぇ。おじさんの彼氏になれたの、あたしほんと嬉しいし。

でも、お店にはナイショだからね?」


「もちろんさ。

……ただ、トリゴちゃんが前にKNって相手とかなり親しくしてたって聞いて、おじさん、ちょっと傷ついてるんだよ」


KN――


その名前に、光と音無は瞬時に反応した。


大場譲治。


あの男は死んでもなお、人を振り回していた。


「KN?ああ、あのおじさんねぇ。

しょうがないじゃん、あたしの仕事だし。

でも、しばらくはお店来ないんじゃないかなぁ?

……ううん、もしかしたら、もうずっと来れないかもね」


「どうして?」


「だってさぁ、今日、警察にいろいろ聞かれちゃったんだよねぇ。

KNのおじさんと何話してたとか、縛るときの趣味とか~。まあ、そういうのは別にいいんだけど。

でもね、その警察の人がめちゃくちゃタイプだったの!

おじさんも素敵だけど、あの人ほんと反則級っていうかさぁ〜

店長が言ってたんだけど、警察って何回も話聞きに来るんでしょ?

ってことは、明日もまた来るかもしれないんだよねぇ。ちょっと楽しみかも~」


「……そうか。おじさん、少し妬けてしまうな」


音無はすぐに光へ視線を向けた。


光の表情もすでに変わっている。


背筋に冷たいものが走った。


これはただの惚気話じゃない。


もし予感が当たっているなら――


「それはしょうがないよぉ。おじさんがもっとモテたかったら、もっと稼がな――うっ!? おじさん、なに——んむっ、や、はな……!」


Trigonotisの甘い声が悲鳴にかき消され、さらに何かで押さえつけられたようにくぐもった。


光はすでに階段を駆け下りていた。

音無の手も反射的にヴァイオリンケースへ伸びる。

一瞬ためらい、結局はストラップを掴んだまま、光のあとを追った。


三階の通路へ飛び込む。

そこには、男に組み伏せられたTrigonotisの姿があった。

片手で口と鼻を塞がれ、もう片方の腕で首を締め上げられている。

間に合わなければ、首の骨を折られていたかもしれない。


光の姿を見た瞬間、Trigonotisの目が大きく見開かれた。

助けを求めるように、さらに激しくもがく。


男はTrigonotisの口を塞いでいた手を離し、素早く懐へ滑り込ませる。

次の瞬間、拳銃が抜き放たれていた。

同時に、首を締めていた腕が乱暴に引き戻される。


Trigonotisが状況を理解するより早く、冷たい銃口がこめかみに押し当てられた。


「――カチリ」


スライドが引かれ、初弾が装填される。


Trigonotisの動きが止まった。


あとは、怯えきったような震えだけが残る。



光は足を止めた。

非番だ。拳銃は持っていない。

この距離で、装填済みの銃口を前に丸腰で飛び込めるほど甘くはない。


「下がれ。階段まで戻れ」


しゃがれた男の声。


光はゆっくり両手を上げた。

指示どおり後退しながら、視線だけをわずかに動かす。

階段上の踊り場。

そこに立つ音無と、一瞬だけ目が合った。


――やる気か。


光は即座に察する。


「落ち着け。銃を下ろせ。俺はただ通りかかっただけだ。まだ取り返しがつかないわけじゃない。お前たちのトラブルに、俺は――」


光が時間を稼いでいる間に、音無は踊り場脇の窓から外へ出ていた。

雨水管を伝い、一気に三階まで滑り降りる。


黒い影が月光を横切った。

男の背後にある窓明かりが、不意に遮られる。


光はそこで口を閉ざした。


男が異変に気づく。

振り返ろうとした瞬間――


ガラスが轟音とともに砕け散った。


無数の破片が白く弾ける。


音無が窓から室内へ飛び込んだ。

着地と同時に踏み込み、そのまま男の腕を取る。

関節を逆方向へ捻り上げた。


「っ、ぁ!?」


鈍い悲鳴。


拳銃が床へ転がる。


同時に、Trigonotisの首を締めていた腕の力も緩んだ。


光も動いた。


崩れ落ちたTrigonotisを男から引き剥がし、そのまま床へ転がった拳銃へ視線を走らせる。


次の瞬間、鋭い横蹴り。


拳銃が回転しながら、階段下の闇へと消えた。


男はなおも抵抗しようとする。だが、音無は逃がさない。

捻り上げた手首を固定したまま、もう片方の手で肩を掴む。

前のめりになった勢いを利用し、足を払った。

両腕を背中側へ極められ、男は苦しげにむせた。

無理やり顔を上げた先。


そこにあったのは、湖のような緑色の瞳だった。


だが男の視線は、その背後にある巨大な黒いヴァイオリンケースへと吸い寄せられていく。

男の顔から、一瞬で血の気が引いた。


それでも音無の声は静かなままだった。


「……Styxの人間だな?僕はお前を知らない。

情報官をやっていた時期はあるが、下っ端の顔まで全部覚えてるわけじゃないからね」


「お、おまえ……まさか……」


「――僕が誰かなんて、どうでもいい」


音無は男の言葉を切った。


「KN。大場譲治。あいつは何を知っていた?

Styxがそこまで必死になって、関係する痕跡を潰し、関係者まで消そうとする理由はなんだ」


「――教えてくれるよな、おじさん?」


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