12
壁と見分けがつかないほど錆びついた鉄扉を押し開けた瞬間、湿った夜風が埃を巻き上げながら吹き込んできた。
光は思わず目を細める。
そのすぐ後ろから、音無も屋上へと姿を現した。
放置されたままの屋上らしい。
手入れの気配はなく、監視カメラには蛛が巣を張っていて、まともに動いているようには見えなかった。
周囲を囲う金網も、大人の腰ほどの高さしかない。少し身を乗り出せば、そのまま落ちてしまいそうだった。
だが――狙撃ポイントとしては悪くない。
周囲を見回すと、すぐに目に入ったのは地図で確認した、昼夜問わず工事が続いている商業ビルだった。いくつかの標識灯が点滅している。
白いラテックス手袋をはめると、床に積もった埃を指でなぞった。
埃の感触は均一だった。重い機材を固定した痕跡も見当たらない。
音無も金網の手すりに顔を近づけ、錆の剥がれ具合を調べた。剥がれ方にも不自然な偏りはない。
「うん、ざっと見たところ、重いものを預けた痕跡はなさそうです」
「重いもの……狙撃銃か?」
「ええ。500メートルを超える狙撃なら、構えを安定させ続ける必要があります。安定してないと話になりません。
バイポッドなり何かしらの支持具を使えば、金網に銃身の痕は残るはずです。
それに、あちらは夜通し工事中です。この距離だと、サプレッサーを使っても音は周囲に漏れます。少々目立ちすぎますね」
話している間にも、工事の騒音がかすかに届き、鮮やかな青い溶接の光はここからでもはっきりと見えた。
「となると、ますますありえないな」
二人はそろって手すりの向こうを見やった。
縦横に走る街路と高層ビル群が描き出す都市のスカイラインが、徐々に闇のなかへと沈んでいく。
「ここをダミー、あるいは予備候補と見るなら……
それより、現場からは遠いが、もう少し高いオフィスビルはどうだ? 」
光はポケットから手帳を取り出した。
「屋上入口には監視カメラがある。ただ、時間帯によっては死角ができるらしい。
下に降りれば、そのまま路地へ抜けられる。犯行時刻にも人の動きは確認されてない。
狙撃地点としてはあり得る。SATも候補には挙げてる。
ただ、距離が遠すぎるらしい。遮蔽物も多いし、跳弾の危険もある。
それに、逃げるならこっちのほうが動きやすいそうだ。」
「……とはいえ、可能性は消せませんね。次を見に行きましょう」
「ああ。……おまえ、腹は減ってないか?」
光は携帯電話を取り出し、バッテリーが切れていた。
もともと時計をする習慣がない。
音無は手首を見て、時刻を確認する。
「僕はまだ大丈夫です。光さんは?」
「俺もだ。なら、そのまま行くぞ」
二人は屋上の扉を閉め、シューズカバーを外す。
そのまま消防階段へ入ったところで、ふいに同時に足を止めた。
妙に満足げで、力の抜けた息だった。
光と音無は顔を見合わせる。
こんな廃ビルにまだ誰かいるとは思っていなかった。
その声には、何かを終えたあとの気怠さと妙な解放感が滲んでいた。
「ふう……まったく、おじさんって変わってるよねぇ。
仕事も謎だし、会う場所も毎回バラバラだしさぁ。
あたしは別にどこでもいいんだけど~。
でも、どうやってこんな場所ばっか見つけてくるの?」
よく通る、高めに作った声だった。
そして、その特徴的な一人称。
光と音無は無言で視線を交わす。
大場譲治によって「Trigonotis」と名づけられた、あの青年だった。
いや、違う。
たとえ本人が了承していたとしても、店側がこんな危険な場所を許すとは思えなかった。
となると、店を通さず個人的に会っているのか。
しかも口ぶりからして、今回が初めてではない。
二人は足を止めたまま、息を潜めて続きを待つ。
やがて、少しかすれた男の声が返ってきた。
「たまにはこういう場所も刺激があっていいだろう?
さっきのおまえ、ずいぶん気持ちよさそうだったじゃないか」
「まあねぇ。おじさんの彼氏になれたの、あたしほんと嬉しいし。
でも、お店にはナイショだからね?」
「もちろんさ。
……ただ、トリゴちゃんが前にKNって相手とかなり親しくしてたって聞いて、おじさん、ちょっと傷ついてるんだよ」
KN――
その名前に、光と音無は瞬時に反応した。
大場譲治。
あの男は死んでもなお、人を振り回していた。
「KN?ああ、あのおじさんねぇ。
しょうがないじゃん、あたしの仕事だし。
でも、しばらくはお店来ないんじゃないかなぁ?
……ううん、もしかしたら、もうずっと来れないかもね」
「どうして?」
「だってさぁ、今日、警察にいろいろ聞かれちゃったんだよねぇ。
KNのおじさんと何話してたとか、縛るときの趣味とか~。まあ、そういうのは別にいいんだけど。
でもね、その警察の人がめちゃくちゃタイプだったの!
おじさんも素敵だけど、あの人ほんと反則級っていうかさぁ〜
店長が言ってたんだけど、警察って何回も話聞きに来るんでしょ?
ってことは、明日もまた来るかもしれないんだよねぇ。ちょっと楽しみかも~」
「……そうか。おじさん、少し妬けてしまうな」
音無はすぐに光へ視線を向けた。
光の表情もすでに変わっている。
背筋に冷たいものが走った。
これはただの惚気話じゃない。
もし予感が当たっているなら――
「それはしょうがないよぉ。おじさんがもっとモテたかったら、もっと稼がな――うっ!? おじさん、なに——んむっ、や、はな……!」
Trigonotisの甘い声が悲鳴にかき消され、さらに何かで押さえつけられたようにくぐもった。
光はすでに階段を駆け下りていた。
音無の手も反射的にヴァイオリンケースへ伸びる。
一瞬ためらい、結局はストラップを掴んだまま、光のあとを追った。
三階の通路へ飛び込む。
そこには、男に組み伏せられたTrigonotisの姿があった。
片手で口と鼻を塞がれ、もう片方の腕で首を締め上げられている。
間に合わなければ、首の骨を折られていたかもしれない。
光の姿を見た瞬間、Trigonotisの目が大きく見開かれた。
助けを求めるように、さらに激しくもがく。
男はTrigonotisの口を塞いでいた手を離し、素早く懐へ滑り込ませる。
次の瞬間、拳銃が抜き放たれていた。
同時に、首を締めていた腕が乱暴に引き戻される。
Trigonotisが状況を理解するより早く、冷たい銃口がこめかみに押し当てられた。
「――カチリ」
スライドが引かれ、初弾が装填される。
Trigonotisの動きが止まった。
あとは、怯えきったような震えだけが残る。
光は足を止めた。
非番だ。拳銃は持っていない。
この距離で、装填済みの銃口を前に丸腰で飛び込めるほど甘くはない。
「下がれ。階段まで戻れ」
しゃがれた男の声。
光はゆっくり両手を上げた。
指示どおり後退しながら、視線だけをわずかに動かす。
階段上の踊り場。
そこに立つ音無と、一瞬だけ目が合った。
――やる気か。
光は即座に察する。
「落ち着け。銃を下ろせ。俺はただ通りかかっただけだ。まだ取り返しがつかないわけじゃない。お前たちのトラブルに、俺は――」
光が時間を稼いでいる間に、音無は踊り場脇の窓から外へ出ていた。
雨水管を伝い、一気に三階まで滑り降りる。
黒い影が月光を横切った。
男の背後にある窓明かりが、不意に遮られる。
光はそこで口を閉ざした。
男が異変に気づく。
振り返ろうとした瞬間――
ガラスが轟音とともに砕け散った。
無数の破片が白く弾ける。
音無が窓から室内へ飛び込んだ。
着地と同時に踏み込み、そのまま男の腕を取る。
関節を逆方向へ捻り上げた。
「っ、ぁ!?」
鈍い悲鳴。
拳銃が床へ転がる。
同時に、Trigonotisの首を締めていた腕の力も緩んだ。
光も動いた。
崩れ落ちたTrigonotisを男から引き剥がし、そのまま床へ転がった拳銃へ視線を走らせる。
次の瞬間、鋭い横蹴り。
拳銃が回転しながら、階段下の闇へと消えた。
男はなおも抵抗しようとする。だが、音無は逃がさない。
捻り上げた手首を固定したまま、もう片方の手で肩を掴む。
前のめりになった勢いを利用し、足を払った。
両腕を背中側へ極められ、男は苦しげにむせた。
無理やり顔を上げた先。
そこにあったのは、湖のような緑色の瞳だった。
だが男の視線は、その背後にある巨大な黒いヴァイオリンケースへと吸い寄せられていく。
男の顔から、一瞬で血の気が引いた。
それでも音無の声は静かなままだった。
「……Styxの人間だな?僕はお前を知らない。
情報官をやっていた時期はあるが、下っ端の顔まで全部覚えてるわけじゃないからね」
「お、おまえ……まさか……」
「――僕が誰かなんて、どうでもいい」
音無は男の言葉を切った。
「KN。大場譲治。あいつは何を知っていた?
Styxがそこまで必死になって、関係する痕跡を潰し、関係者まで消そうとする理由はなんだ」
「――教えてくれるよな、おじさん?」




