婚約破棄は許さない
「帰っているなら帰っているで、きちんと挨拶しなさい」
「申し訳ありません、お父様」
「まあいい。今日はドマーニ公爵邸へお招きいただいたんだろう?私も手土産のことで気を揉んでいたんだ。なぜ報告しない?」
「はい…」
父は、はあとあからさまな嫌悪を孕んだため息をつくと、どっかりとソファに沈んだ。
「そこに座りなさい」
問い面のソファを指したので、斜に膝を向ける様にして腰を下ろした。
これで額の怪我は目立たないはずだ。
「全く。…それで、どうだったのだね?」
「夫人と少し会話しましたわ。ドマーニ公爵はワインを好むけれど、夫人はあまり好まないことなんかを…」
「それだけか?」
「…それだけって…夫人はあまり体調が優れなかったのですわ。すぐに退散しようとしましたが、リンドーネ侯爵家とは懇意にしているからと最後までお付き合い頂きました」
「ふん。あちらが良いなら良いんだろう。まあ鈍感なお前のことだ。どうせ食事が終わるまで夫人の体調不良に気が付かなかったんだろうが」
腕を組んだ父はイラついているのか、ため息を繰り返している。
「…マリーア、ちゃんと目を見て話しなさい」
「え…っ…は、はい」
恐る恐る正面を向くと、前髪で必死に隠していた怪我に、父の目が釘付けになった。
「…なんだそれは!」
「あ、あの…これは……これは……」
「答えなさい」
「その…こ、転んでしまって…」
「いつ、どこでのことだ」
「ドマーニ公爵邸から帰る時に、ですわ」
「婚約しているとはいえ、嫁入り前の娘が顔に傷を作るなど!結婚式まで日にちはないんだぞ!?跡になったらどうするんだ!!なぜ転んだ!?」
「ご、ごめんなさい!」
「謝罪はいい。なぜ転んだかと問うておる」
「ですから…転んで…」
「何もないところで転ぶわけがないだろう!?なぜ転んだのかと聞いているんだ!」
何故転んだのか、答えることができない。本当は転んでなどいないし、そう問われた時の回答をダステムから聞かされていない。
「えっと…そう、ドレスの裾を踏んだのですわ」
そう答えると父は急に立ち上がった。
「お父様、どちらへ?」
「ダステム殿がエスコートしていながら、ドレスの裾に躓くなど!どうして庇えなかったのか問いただすのだ!」
そう言われてギョッとした。なんとしてでも引き留めなくては。
「お父様!!よして下さい!こ、これを!!ダステムがこの白いハンカチを額に当てて必死に介抱してくれたのですわ!」
父は縋る私を見下す様に一瞥すると、どっかりとソファに腰を落とした。
ホッとした反面、出て行ってはくれないのかという気持ちになる。
「…手土産の件と言い、怪我の件といい、お前はトノール家の令嬢であるという自覚がなさすぎる」
「申し訳ありません」
「おまけに最近のお前ときたら、鬱々として過ごしているそうじゃないか。まったく、結婚が決まるとどうして女はあからさまに不機嫌になるものなのだ。お前とて例外ではない訳だ…全く」
父は、気づいている。きっと私が結婚に対して躊躇いの気持ちが生まれていることに。
ごくり、と生唾を飲み込んで意を決した。ぎゅっと拳を握り込む。
「お…お父様…。その…結婚のことですが……」
「言っておくが、婚約を解消したいなどと言い出すなよ」
「…えっ」
重いため息で充満した部屋。その最後のダメ押しとばかりのため息は、私の心をすっかり疲弊させた。
「ちょっとしたことを論ったところで、家庭に入れば目を瞑らなければならないことなど、ごまんとあるのだぞ。いいか、結婚は我慢だ。女は、そこに変に夢を見るだろう?だから現実を突きつけられた時決まって憂鬱になるんだ」
「そんな…」
「私にも母さんにも相手に言っていないだけで、心の奥底に積もった蟠りなど、掃いて捨てるほどあるからな。婚約を解消したいなどと言ってみろ、許さぬからな」
「そ、そんな言い方…あんまりですわ」
「これはお前だけの問題じゃないんだ!トノール家の名誉にも関わることだぞ」
「今時、婚約解消など珍しいことでもありませんでしょうに」
「だから馬鹿だと言うんだ!良いか、あちら側が都合の良いように破棄の理由を吹聴して回ったらどうする?それだけじゃない、あることないこと面白おかしく筋書き立てて言い広めるのがこの社交界だ!」
「お、お父様……」
やっとのこと父が立ち上がって退出する後ろ姿にホッとしたのも束の間、立ち上がれないほど恐ろしい目で私を一瞥した。
「…お前は、自分のことばかりを考えているが……。そのうち愛想を尽かされて、あちらから破綻の申し入れがあるかも知れぬぞ。そうならぬよう、ダステム殿によく尽くし、身を慎むのだな」
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