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夜明け近く(後半、子ども時代のリシュエル視点)

 報告書の束を勢いよく机に叩きつけると、ソファでうたた寝していたキースを揺さぶった。


「っ!はっ!!ぼ、僕寝て…!」

「…馬車を出せ」

「えっと…今何時ですか…」

「そんなことはどうでも良い」


 キースは机の上の束に目をやって、全てを理解したらしい。

 俺が掛けてやったブランケットを押し退けると、キースは束になって顔に落ちている髪の毛を撫で付けながら走り出した。




 冬に向かうシューリムの早朝は、朝靄がかかって、登る朝日を乱反射させている。ぼんやりとした曖昧な世界は、まるでこれからの行く末を暗示しているかのような気がして胸騒ぎがした。


「…やはり、マリーア様は王都へ帰られた後のようです」


 馬車へ乗り込むなりキースが言った。


「引き留めなかった俺が愚かなんだろう…」

「そんな…報告書が上がるまで、元婚約者がマリーア様に火傷を負わせたなんて誰も思わな……あっ…」


 しまったという風に、執事は口を両手で押さえた。


(……怒りでどうにかなってしまいそうだ)


 一度は生涯を添い遂げようと思った相手に強いられた苦痛の数々を、まるで自分自信に刻みつけるように思い巡らせた。


 王都に帰ったマリーアに待ち受けるのは、間違いなく困難と非難だろう。


(どうか、一秒でも早く…!!)


 祈るような気持ちで手を組み項垂れた。





✳︎ ✳︎ ✳︎





 ホーネスト家に、孫娘が暫く滞在するらしい。


「まだ五歳になったばかりだと聞く。リシュエルと同年代だ。屋敷も近いから明日挨拶に行こう」


 父は提案したが、気乗りしない。


(王都の令嬢なんて、気取っていてお高く止まっているんだろうな)


 どうせ何もない田舎町だと馬鹿にするに決まっている。


(まあ、王都ほど何もないのは事実だけど)


 遠くに見える山々や、金色の稲穂が揺れる景色を馬鹿にする奴はどうも許せない。


(フェリア様の娘か…)


 どうしようと思う。父が言うなら挨拶だけにして、関わらぬよう過ごせば良いのだが…。

 暫く滞在するという、その暫くがどれくらいのことなのか分からない。


 それにしても、ただ孫娘が滞在するのに挨拶など少し大袈裟だなと思う。


(そうだ)


 確か、ホーネスト邸の前には林檎の木があった。登ってどんな奴なのか見てみようと思い立つ。

 書斎に籠ってしまった父に知られぬよう、忙しなく働く使用人の目を盗んで屋敷を抜け出した。


 ホーネスト家には、奥様が焼いたお菓子のお礼に、花を持っていたりするくらいしか立ち入らない。

 だから尚更、なんだか緊張した。


(悪いことをしようとしているのは、分かっている)


 木の凸凹を足がかりに、林檎の木をよじ登っていく。


(シューリム育ちは木登りが得意なんだ)


 坂の上に建つホーネスト邸は、絵に描いたような美しい屋敷だ。初めてこんな高さから屋敷を眺めるな、なんて思う。


 ふと、金木犀の木の下にフェリア様がいるのが見えた。隣には…


(あれが、フェリア様の娘、か)


 絵本を読んでもらっているのだろうか。ベンチがあると言うのに、わざわざブランケットを敷いて木陰に座っている。

 少女は目を擦った。


(なんだ?眠いのか?やはり王都の人間はシューリムが退屈……)


 けれど、幼い少女は意外なことを口にした。


「お母様、私…こんなに美しい景色の中で、こんなにも悲しい物語を読んでいたら、胸が苦しいわ」

「あら!私が小さい頃に読んでいたものだけれど…ペンギンだいさくせんが悲しい物語かしら」


 ぽろぽろ涙をこぼす少女は、遠くの山々を見て、瞳を輝かせながらやはり泣いている。

 葉に隠れた俺はと言うと、その光景から目が離せなくなっていた。


「分からないの、涙が止まらないわ。悲しいのとは違うのかしら」

「…私が育ったシューリムの景色は綺麗でしょう?」

「ええ、とても。なんだか胸が締め付けられるの。この感情はなんて言うのかしら」

「マリーアはきっと、感受性が豊かなのね」

「私、この気持ちの名前を知らないわ?」

「うーん、感傷的、かしらねぇ」


 少女は瞳をきらきらと輝かせながら、涙が流れるままにシューリムの景色を眺めていた。


(なんか……)


 ゆっくりと木から降りると、坂道を駆け降りていた。


 あの少女の泣き顔が、頭から離れない。

 夕食も、湯浴みも、ベッドに潜ってからも。


(明日会うのか。あの少女に)


 泣かれたらどうしようと思う。実はめちゃくちゃ面倒臭い奴なんじゃないかと言う気がしてきた。


(まあ良いや、別に仲良くしなければいけないというわけでもないんだし)


 ところが、挨拶に訪れたホーネスト邸で待っていたのは、完璧なカーテシーと、信じられないほどの気品を纏った少女だった。


「マリーア・トノールと申します」


(び、)


 びっくりした。

 昨日、あんなに泣いていた少女が、上品な笑みを湛えている。


「リ、リシュエル・ハイデンローと申します。以後、お見知り置きください」


 奥様がお菓子を焼いているらしい。フェリア様は、二人で遊んで待っていてなんて言い出した。


(あ、遊んで…って…言われても)


 戸惑う俺に、マリーアは「なんとお呼びすれば?」と問うた。


「好きに…呼んでくれて構わない」

「私のことは気さくにマリーアと呼んでください。叶うならリシュエルと呼んでも?」

「あ、ああ」


 マリーアはとっておきの場所があると言うので、案内してもらうことになった。


「…いきなり遊べと言われても、困ってしまいますわよね。ごめんなさいね」

「いや、別に…」


 庭園にたどり着くと、マリーアはいつの間にか持っていたブランケットをばさりと広げた。


(ここは…)


 あの金木犀の下だ。

 どきまぎする。まさか昨日の盗み見がバレていたのだろうか。


「リシュエル、座って?」


 促されるまま腰を下ろすと、マリーアは「見て」と言った。


「ここからの景色、とっても美しいと思わない?」

「え?」


 仮にも俺はシューリムで生まれ育ち、暮らしているのだ。この地の美しさは誰よりも知っている。

 けれど、


「ね?美しいでしょう?私も昨日知ったのよ」


 風が遊ばせた髪を、耳にかけながら、あんまりにも無邪気に君が笑いかけるから。


「…ああ、本当だな。素晴らしく綺麗だ」


 そう答えた。


「私は半年しかいられないから、シューリムで暮らすリシュエルが羨ましいわ」


 半年。

 ということは、春には王都に戻るのだろう。


「なら、ずっとここにいたらいい。夏のシューリムを知らずに帰るなんて、もったいない」


 顔にかかった長い髪を、思わず耳にかけてやる。マリーアの、社交辞令ではない笑みを知った。


(こんな風に笑うのか)


 マリーアは「本当にそうしたいわ」と言って膝を抱えたが、俺は本気でそう思っていた。

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