幸せにしたいだけなのに
夜明けが訪れ、鳥のさえずりで目を覚ましたシヴィアは、侍女達が鎧戸を開けに来る前に寝台を降りた。
まだほんのりと生温い夏の空気が、鎧戸と窓を開けると涼やかな風に流される。
沢山学んで、沢山努力して、そして領民たちの生活を向上させ、国のために尽くす。
正当なる後継者に爵位を譲り、その後は。
シヴィアはハッとして首を振る。
(また、そんな事を考えるのは早すぎるわ)
領地の検問は厳しくしてある。
公爵家の許可がなければ、ディアドラが『公爵家の用向き』で送ってきた物も人も差し止める事になっていた。
無い知恵を絞って、何とか領主の城に自分の手の者を送り込みたいのは分かる。
彼女は一度としてこのレミントン公爵領に足を踏み入れた事は無い。
徹底的に王都や権力、煌びやかな場所にしか興味は無いのだ。
衣装を仕立ててあげたい、と仕立屋を送ろうとしてきた痕跡もあったが、フローレンスを害したいという意思は知っている。
知っているのに通す訳にはいかない。
『領地で着る衣装は領地で作ります』
そう追い返して貰った。
追い返して貰う時の文言は予め検問所に伝えてあるのだ。
役人に偽装してきた場合は、まず正式な訪問の手紙を領地に送り正式な書状と通行証を用意されたし、と追い返して貰う。
(いい加減諦めてくださるといいのだけれど)
「釣りに行こう、シヴィ」
朝食の席で突然アルシェンが言い出した。
「行きたいよな?カッツェ」
シヴィアの返事を待たないまま、アルシェンはカッツェに問いかける。
カッツェは、少し考えた後頷く。
「勉強は一人でも出来ますからね。殿下がいる間はお付き合いしますよ」
「良く言った。フローレンスはどうする?」
声がかかると思っていなかったのか、フローレンスは大きな目を見開いて首を横に振った。
「わたくし、村の薬草摘みのお仕事を手伝っているのでございます、殿下」
「ほう。偉いな、フローレンスは」
まさか村人の仕事の手伝いで、王子からの誘いを断るなんて……と貴族達からは顰蹙を買いそうな発言だが、アルシェンは楽しそうに笑っている。
シヴィアも安心したように微笑んだ。
「フロー、決して森で一人になっては駄目よ」
「はい、お姉様。ミカエルやディークも一緒ですし、森番のお爺様とも仲良くして頂いています」
「そう、それは良かったこと」
ふわふわの金の髪を撫でて、愛おしそうにシヴィアは目を細める。
フローレンスについては心配事もあるけれど、今の返答を聞いただけで権力に固執するディアドラとは別なのだと安心出来たのだ。
きっと村の人々と交流させた事はフローレンスの糧になると確信を深める。
「貴女の提案していた騎士や従僕、小間使いへの登用もきちんと形にいたしますからね、フロー」
「はい、お姉様。お姉様も殿下もカッツェお兄様も水遊びにはお気をつけなさいませ」
立ち上がって淑女の礼を執ると、フローレンスは行儀よく祖父や夫人にも挨拶をしてから朝餐室を軽やかに出て行った。
「フローレンスは君に似て並の令嬢ではなさそうだな」
小さな後ろ姿を見送りながら、アルシェンが微笑む。
シヴィアも静かに頷いた。
「ええ、これも全て殿下のお陰ですわ」
「シヴィ、いい加減殿下呼びはやめないか。アルと呼べ、いつもみたいに」
一瞬シヴィアの目が丸くなる。
いつもみたいに?と心の中で反芻したような間を置いてから、眉間に皺を寄せる。
またいつもの意地悪だ。
カッツェと張り合う為の嘘である。
「いつもみたいに、ではないですが……この夏の間でしたらお呼びします」
「まあ、それでもいいだろう。カッツェはアルシェンと呼ぶと良い」
あからさまな差別に、シヴィアは溜息を吐いた。
「アル、貴方ジフに似てきたのではなくって?」
「奴とも手紙で文通してるせいか。それは困ったな」
困っていなさそうに笑うアルシェンに、シヴィアは冷たく釘を刺した。
「傲慢不遜な男性は女性に嫌われましてよ」
その言葉にアルシェンの表情が固まる。
思い返してみれば。
アジフに対するシヴィアはとても鋭く尖った返事をしていた。
流石にそれは避けたい、とアルシェンは考え直す。
「態度を改めよう。カッツェもアルと呼んでいいぞ」
だが、カッツェは一度目を瞑って考えてから、静かに低い声で言った。
「やめておきます。愛称をお呼びするなんて、何だか気持ち悪いので」
「それもそうだな」
男二人が納得したところで、シヴィアが立ち上がる。
「外着に着替えて参ります。釣果は晩餐に出してもらいましょう。競争ですわよ」
領地を流れる川の畔、森の中の支流に三人は座っていた。
釣り竿に網、木桶には水を張ってありその中に釣ったばかりの魚が入っている。
従者達は近くに天幕を張り、三人に言われるままそこで休憩していた。
騎士達は魚を脅かさないよう、川から離れた位置で待機している。
「王族は少し遊びに行くだけでも大行列だな」
「ああ、帝国よりマシだと思って我慢している。替えがいるのだから、そこまで必死になる事はないのだが」
「いいえ、アル。貴方の替えなどいないのよ」
軽口のつもりだったが、シヴィアに言われた言葉にアルシェンは胸を貫かれる。
何だかそれは、冷たいようでいて、甘い言葉に聞こえた。
「そうか……」
「そうよ」
二人の間に流れる空気に、カッツェは胸が痛む思いがした。
アルシェンだけが特別のような、そんな事はないとわかっていながらも。
艶やかな黒い髪も、その色に対して眩しいほどの白い肌も、シヴィアはどこまでも美しく目に映る。
アルシェンに対しては何の罪悪感もなければ、気負う事もないのだろうか。
いつもよりも少女らしく屈託なく笑う姿に見惚れる。
「結婚しよう、シヴィ」
とんでもないことをカッツェが口にして、シヴィアもアルシェンも固まった。
「え……」
戸惑うようにそれだけ発して、シヴィアは何と答えて良いのか分からないまま、カッツェを見つめた。
だが、一呼吸おいて、アルシェンが叫ぶように言う。
「駄目だ!嫁にはやらん!」
「何でだ、お前には関係ないだろう」
「関係ある!分かっているだろう」
喧嘩が始まってしまった。
けれど、何と止めれば良いのか、シヴィアには分からなかったのだ。
嬉しさと切なさと悲しさと、胸の中がぎゅっとなるようなそんな気持ちを抱いたまま、二人を見つめる。
二人の気持ちは知っている。
まだ幼い少年の、この先どうなるか分からない気持ちでも。
シヴィアを大事にして、恋い慕ってくれているのは。
そしてそれは、決して成就させてあげられないという事も、シヴィアには分っていたからだ。
つかみ合いの喧嘩をしながら、血を吐くようにアルシェンが言った。
「何も知らない癖に、シヴィアに辛い思いをさせるな」
「俺はシヴィアと結婚して幸せにする。何も辛い思いはさせない」
「うるさい!俺だって、そう思ってる!」
殴り合いに発展しそうなところで、見守っていた騎士達が二人を引き剥がした。
「好きな女性を泣かせてどうするのですか」
お互い睨み合っていた二人が、騎士の言葉ではっとなる。
シヴィアの紫色の美しい瞳から、ほろほろと涙が零れ落ちていた。
悲しみというより、呆然としたままの顔で。
二人の視線を受けると、白い両手で顔を覆う。
「見ないで、くださいませ。……泣くなんてはしたないことを……」
アルシェンは騎士の手を振り解くと、素早くかけよって跪き、シヴィアを抱きしめた。
「触れる事を許せ、シヴィ。そして、悲しませてすまなかった。俺からカッツェに話して良いなら、話す。母上から君の気持ちは聞いている。いつか、君を頷かせるための答えを、俺は探す事を諦めない」
まるで今すぐ消えてしまいそうなものを抱きしめるかのように、アルシェンはシヴィアをきつく抱きしめる。
そのぬくもりに守られながら、シヴィアはただ頷いた。




