第三章 「氏」の重み(後編)
「盾とな」
「檜原は武蔵と甲斐の境にございます。山道も、水場も、峠を越える間道も、我らは知り尽くしております」
綱景は顔を上げた。
「甲斐より敵が来れば、最初に血を流すのは平山でございましょう。上杉方の残党が山へ入れば、我らが捕らえます。北条に仇なす者が甲斐へ逃れれば、その首を取ります」
「昨日までは、我らの敵であった者がか」
「昨日まで敵であったからこそ、敵の考えが分かります」
氏照の口元に、初めてわずかな笑みが浮かんだ。
「よく申す」
だが、次の瞬間には笑みが消えた。
「では問おう。長尾景虎が再び関東へ来たら、どうする」
「戦います」
「三田の遺児が兵を挙げたら」
「討ちます」
綱景の喉がわずかに鳴った。
「かつて肩を並べた者が、北条へ弓を引けば」
「討ちます」
答えるたび、胸の奥で何かが削られていく。
氏照はそれを見逃さなかった。
「苦しいか」
綱景は少しだけ間を置いた。
「苦しくないと申せば、嘘になります」
「それでも討つか」
「北条に従うとは、そういうことにございましょう」
長い沈黙が落ちた。
氏照は肘掛けに手を置き、綱景を見つめている。
値踏みはまだ終わっていない。
綱景は悟った。
氏照が欲しているのは、口先の忠誠ではない。
旧主への恩を忘れた薄情者でもなければ、死に場所を求めるだけの愚直な武士でもない。
過去の恩義を背負いながら、それでも新たな主のために刃を振るえる男。
その矛盾に耐えられる者を求めている。
氏照がようやく口を開いた。
「平山綱景」
「はっ」
「おぬしは、忠義を軽んじておるのではないな」
「軽んじたことはございませぬ」
「ゆえに、苦しんでおる」
綱景は答えなかった。
氏照は低く笑った。
「気に入った」
左右の重臣たちが顔を上げる。
氏照は姿勢を正した。
「己の命を惜しまぬ者など、いくらでもおる。死ねと命じれば、死ぬだけの男だ」
その声は若いが、広間の隅までよく通った。
「だが、守るべきもののために恥を忍び、昨日の味方へ刃を向ける覚悟を持つ者は少ない」
氏照は綱景へ告げた。
「平山家の降伏を受け入れる」
綱景は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
「檜原の所領は安堵する」
広間に小さなどよめきが起きた。
綱景自身も、一瞬、耳を疑った。
領地の一部を削られる覚悟はしていた。
場合によっては、檜原から引き離されることさえ考えていた。
氏照は言葉を続ける。
「その代わり、平山は我が由井領に組み込む。以後、檜原の道は北条の道、檜原の兵は北条の兵である」
「はっ」
「城の普請、軍役、兵糧の差配、すべて我が命に従え」
「承知いたしました」
「人質も出してもらう」
綱景の指先が、わずかに畳を押した。
やはり、無条件ではない。
「嫡男を差し出せ」
その言葉に、胸の奥が冷えた。
嫡男は、まだ幼い。
何も知らず、檜原の谷で木刀を振っている。
「異存があるか」
氏照の目が鋭くなる。
綱景は額を畳へつけた。
「ございませぬ」
声は震えなかった。
それが領地を守る代価ならば、呑むしかない。
氏照はしばらく綱景を見つめ、やがて傍らの小姓へ目をやった。
小姓が一通の書状を運んでくる。
氏照はそれを手に取り、自ら綱景の前へ置いた。
「もう一つある」
「何にございましょう」
「名を改めよ」
綱景は顔を上げた。
「綱景の綱は、古き主従の名残であろう」
「……はっ」
名の由来を、氏照は知っていた。
それだけ平山家について調べていたということだ。
氏照は書状を指先で押した。
「古き名を捨てよ」
「新たな名は、いかがいたしましょう」
「我が名より一字を与える」
広間が静まり返った。
氏照は、はっきりと告げた。
「氏の字を取れ」
綱景の呼吸が止まった。
北条氏の「氏」。
氏康。
氏政。
氏照。
小田原北条家の当主と一門が、代々用いる一字である。
その字を与えられることは、単なる改名ではない。
北条の支配の内側へ迎え入れられる証だった。
少なくとも、この場にいる者たちへは、氏照が平山家を自らの家臣として用いるという強い意思表示になる。
同時に、それは後戻りを許さぬ刻印でもあった。
北条の「氏」を名に刻んだ者が、再び上杉や三田の旗へ戻ることはできない。
裏切れば、平山一族の誰一人として許されぬだろう。
氏照の声が響く。
「これより、氏重と名乗れ」
「氏重……」
綱景は、無意識にその名を繰り返した。
「平山伊賀守氏重」
氏照が言う。
「重き役目を負い、我が西の境を守れ」
綱景は書状へ目を落とした。
そこには、平山家の所領を安堵し、由井領の軍役へ組み込むことが記されていた。
末尾には、新たな名がある。
平山氏重。
まだ目になじまぬ四文字だった。
それでも、その名こそが、平山家を明日へつなぐ命綱なのだ。
綱景は――氏重は、深く平伏した。
「ははっ」
畳につけた額が、微かに震える。
「この氏重、命に代えましても、氏照様に忠義を尽くし奉ります」
「命に代えるのは最後にせよ」
氏照は冷たく言った。
「まずは生きて働け」
氏重は顔を上げた。
氏照の口元には、不敵な笑みが戻っていた。
「死ぬだけなら、三田とともに死ねたはずだ。生き残る道を選んだ以上、その命、余すところなく我がために使え」
「御意」
その返事は、先ほどまでとは違っていた。
平山綱景として答えたのではない。
北条氏照の臣、平山氏重としての最初の返事だった。
退出を許され、氏重が広間を出ると、廊下で主水正が待っていた。
無事な姿を見て、古参の家臣は明らかに安堵した顔を見せる。
「殿」
氏重は手にした書状を差し出した。
主水正が目を通し、その目を見開いた。
「所領安堵……」
「うむ」
「されど、人質を」
「嫡男を出す」
主水正は苦しげに眉を寄せた。
だが、次の文面を読み、動きを止めた。
「氏重」
その口から、新しい名がこぼれる。
「氏照様より、氏の字を」
氏重は廊下の先へ目を向けた。
滝山城の曲輪では、北条の三つ鱗の旗が風を受けて翻っている。
三田家の旗は、もうどこにもない。
「重い名だ」
氏重は呟いた。
「喜ばしくはございませぬか」
「喜ばしい」
そう答えながらも、胸には別の感情があった。
誇り。
安堵。
恐れ。
そして、拭いきれぬ罪悪感。
北条の氏を賜ったということは、平山家が認められた証である。
だが同時に、北条が滅びる時には、ともに滅びよと命じられたに等しい。
主水正が尋ねた。
「これで、平山は助かりましたな」
氏重は首を横に振った。
「まだだ」
「所領は安堵されたのでしょう」
「今日、死なずに済んだだけだ」
氏重は滝山城の高い土塁を見上げた。
「北条に仕えるとは、北条の敵を我らの敵とすることだ」
甲斐には武田がいる。
北には上杉がいる。
東にはなお北条へ従わぬ国衆が残る。
そのすべてと戦う覚悟を求められる。
「これからが、本当の始まりだ」
氏重は城を下りた。
登城した時に浴びた兵たちの視線は、帰りにはわずかに変わっていた。
三田の残党を見る目ではない。
氏照から所領を安堵され、その名の一字を与えられた新参の家臣を見る目だった。
敬意ではない。
警戒。
嫉妬。
疑念。
氏重は、そのすべてを正面から受け止めた。
城門を出ると、西の空に檜原の山々が見えた。
幾重にも連なる峰の向こうで、家臣と民が帰りを待っている。
氏重は馬へ乗り、山へ続く道を見つめた。
平山綱景は、この日、滝山城で死んだ。
処刑されたのではない。
自ら古い名を捨て、古い主従を胸の奥へ葬ったのだ。
その代わりに生まれたのが、北条氏照の忠臣――平山氏重だった。
だが、「氏」の一字は、恩賞であると同時に鎖でもあった。
北条が栄える限り、平山家も生きる。
北条が天下を敵に回せば、平山家もまた、その嵐の中へ立たねばならない。




