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檜原の霧、武蔵の嵐 ――甲斐国境・平山氏の選択  作者: 水川仁


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第四章 大切の境目(前編)

平山綱景という男が滝山城で死に、平山氏重として檜原へ戻ってから、ほどなくして一通の朱印状が届いた。


使者は北条氏照の近習だった。


檜原城の広間で書状を開いた氏重は、記された文字を何度も読み返した。


そこには、檜原の山道と甲斐国境の警固を、平山家へ命じる旨が記されていた。


そして、その役目の重さを示すように、ひときわ力強い筆でこう添えられていた。


――大切の境目。


「大切の、境目……」


氏重が小さく読み上げる。


傍らに座していた主水正が、わずかに眉を動かした。


「重い言葉にございますな」


「うむ」


氏重は書状を畳んだ。


氏照が、ただ山道を見張れと言っているのではないことは明らかだった。


武蔵国と甲斐国を隔てる山々。


その境目を越えた西には、甲斐の虎と恐れられる武田信玄がいる。


東へ下れば、氏照の本拠である滝山城。


さらに街道をたどれば、北条家の本城・小田原へつながる。


檜原の山を破られるということは、一つの小城を失うことではない。


敵に、西武蔵へ入り込む道を与えることだった。


「氏照様は、我らを試しておられるのでしょうか」


主水正が尋ねた。


「試しているだけなら、まだよい」


氏重は書状へ目を落とした。


「本当に、ここを通すまいと思っておられる」


「我らの兵だけで、武田を防げと」


「武田の大軍を正面から止めることなどできぬ」


氏重は立ち上がり、広間の奥に掛けられた粗末な絵図の前へ進んだ。


檜原の谷。


秋川の流れ。


甲斐へ抜ける峠。


猟師や炭焼きしか知らない間道。


沢沿いに延びる細道。


その一本一本を指でなぞっていく。


「大軍が来れば、すぐに滝山へ知らせる」


氏重は言った。


「道を崩し、橋を落とし、進みを遅らせる。その間に氏照様が兵を集める」


「では、我らの役目は敵を討ち払うことではなく」


「敵を見つけることだ」


氏重の指が、国境に近い尾根で止まった。


「誰が、いつ、どの道を越えたか。何人いるか。何を持ち、どこへ向かうか。それを誰よりも早く知る」


主水正が頷く。


「甲斐から来るのは、武者ばかりではありませぬからな」


「商人、山伏、修験者、木地師、薬売り」


氏重は低く続けた。


「姿は何にでも変えられる」


武田信玄の恐ろしさは、戦場で兵を動かす力だけではなかった。


甲斐から送り込まれる間者。


人の噂を拾う者。


敵地の道を調べる者。


城の兵糧や守りを探る者。


乱波とも、素破とも呼ばれる彼らは、槍や旗を掲げては来ない。


霧のように境を越え、村人の中へ紛れ込み、必要なものだけを盗み見て去っていく。


敵であることに気づいた時には、すでに姿を消している。


氏重は、平山家の主だった家臣を集めた。


広間には、武士だけでなく、猟師や木こり、炭焼きを束ねる者たちも呼ばれていた。


普段なら、城主の前へ上がることなどない者ばかりである。


土間に座らされた男たちは、落ち着かぬ様子で顔を見合わせていた。


「面を上げよ」


氏重が言う。


「今日より、おぬしらにも国境を守ってもらう」


炭焼きの老人が目を瞬いた。


「我らが、戦をするのでございますか」


「槍を持てとは言わぬ」


氏重は答えた。


「山で見慣れぬ者を見たら、城へ知らせよ」


「旅の者であっても、でございますか」


「旅人かどうかは、我らが決める」


氏重は一同を見回した。


「新しい草鞋を履きながら、何日も山を歩いてきたと申す者。薬売りを名乗りながら、薬の名を知らぬ者。道に迷ったと言いながら、峠の位置を尋ねる者」


猟師の一人が唸った。


「なるほど。山を知らぬ者ほど、余計なことを聞きますな」


「そうだ」


氏重は頷いた。


「だが、決して自ら捕らえようとするな。相手が間者なら、懐に刃を忍ばせている」


村人たちの顔に緊張が走った。


「見たことだけを知らせよ。どこで、何人、どちらへ向かったか。それでよい」


平山家の新たな国境警固は、こうして始まった。


尾根には見張り小屋が設けられた。


谷を見下ろす高所には、煙で異変を知らせる場所が定められた。


昼は煙。


夜は火。


敵が一人なら一つ。


数人なら二つ。


武装した集団なら三つ。


村から村へ、合図が伝わる仕組みを作った。


山道の要所には倒木が準備された。


縄を切れば、丸太と岩が斜面を転がり落ち、道を塞ぐ。


沢に架かる細い橋には、いつでも板を外せるよう細工を施した。


通行人には、村の者が必ず声をかけた。


名を聞き、行き先を尋ね、荷の中身を確かめる。


檜原の山そのものが、巨大な城へと姿を変えていった。


それでも、完全に人の出入りを止めることはできない。


山は広い。


谷は深い。


獣さえ通る細道を、すべて見張ることなど不可能だった。


最初の異変が起きたのは、秋の終わりだった。


山の木々が赤く染まり、朝晩の空気に冬の匂いが混じり始めた頃である。


檜原の西にある小さな集落へ、二人の山伏が現れた。


熊野から来たと名乗り、一夜の宿を求めた。


粗末な法衣。


背に負った笈。


手には錫杖。


どこから見ても、山野を巡る修験者だった。


村人たちは囲炉裏端へ招き、粟の粥を振る舞った。


二人は礼儀正しく、仏の教えや遠国の話を語った。


怪しむ者はいなかった。


ただ一人、年老いた炭焼きだけが、不審に思った。


山伏の一人が、夜中に外へ出たのだ。


用を足すにしては長い。


老人が炭焼き小屋の陰から見ていると、男は月明かりの下で周囲の山を眺め、何やら指を折って数えていた。


見張り小屋の位置。


村の家の数。


谷から城へ向かう道。


それらを確かめているようだった。


翌朝、二人が村を発つと、老人はすぐさま若者を城へ走らせた。


報せを受けた氏重は、自ら甲冑を身につけた。


「殿御自身が出られるのですか」


主水正が問う。


「最初が肝心だ」


氏重は槍を手に取った。


「平山がどこまで本気で境を守るか、甲斐の者に教えてやる」


氏重は十数人の兵を率い、山伏たちの後を追った。


正面から道をたどったのでは、追いつけない。


氏重たちは谷へ下り、沢を渡り、獣道を使って先回りした。


檜原の者にしか歩けぬ道だった。


空は低く、昼を過ぎる頃には細かな雨が降り始めた。


濡れた落ち葉が足元へ張りつく。


岩は苔に覆われ、一歩誤れば深い谷へ落ちる。


「足を置く前に確かめろ」


氏重が小声で命じた。


「急ぐな。音を立てるな」


兵たちは互いの背を追い、細い尾根を進んだ。


やがて先頭を行く猟師が手を上げた。


木々の向こうに、人影が二つ見える。


山伏たちは、村を出た時とは違う道を進んでいた。


甲斐へ戻る道ではない。


南へ回り、滝山方面を望める尾根へ向かっている。


氏重は木の陰へ身を隠した。


一人が錫杖を地面へ置き、背負っていた笈を下ろす。


中から取り出したのは、経巻ではなかった。


細く巻かれた紙。


墨。


小さな矢立て。


男は周囲の地形を確かめながら、紙へ何かを書き込んでいる。


もう一人は木に登り、東を眺めていた。


「間違いない」


主水正が囁いた。


「甲斐の乱波にございましょう」


氏重は頷いた。


「生け捕りにする」


「危のうございます」


「聞くべきことがある」


氏重は兵を左右へ分けた。


逃げ道を塞ぎ、静かに距離を詰める。


あと十間。


五間。


その時、風向きが変わった。


兵の一人が踏んだ濡れ枝が、乾いた音を立てた。


木の上にいた男が振り返る。


「誰だ!」


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