第三章 「氏」の重み(前編)
滝山城は、山そのものが巨大な獣へ姿を変えたような城だった。
加住丘陵の尾根を削り、幾重もの曲輪を連ね、深い空堀と土塁を巡らせている。
城へ至る道は、まっすぐではない。
坂を登れば折れ、門をくぐればまた曲がる。
そのたびに高い土塁の上から兵の視線が降り注ぎ、侵入者は知らぬ間に弓や鉄砲の狙いへ入る仕組みになっていた。
檜原城も山城である。
だが、その規模は比べるべくもない。
滝山城には、北条氏が西武蔵へ伸ばした力そのものが形となって現れていた。
平山綱景は、わずかな供回りを連れ、その城門をくぐった。
軍装ではない。
麻の衣に肩衣を重ね、腰には短い脇差だけを帯びている。
主だった武器は、登城口で預けた。
戦うために来たのではない。
頭を下げるために来たのだ。
それでも、城内を進む綱景の足取りは乱れなかった。
左右に並ぶ北条の兵たちが、遠慮のない目を向けてくる。
三田の残党。
昨日までの敵。
生き残るために主を替えた卑怯者。
言葉にされずとも、その視線が何を語っているのかは分かった。
背後を歩く平山主水正が、小さく息を吐いた。
「見世物になっておりますな」
「見せておけばよい」
綱景は前を向いたまま答えた。
「今日、我らは値踏みされる」
「首を落とす価値があるか、使う価値があるか」
「そのどちらかだ」
主水正は黙った。
平山家が降伏の軍使を送ってから、十日余り。
北条氏照から届いた返答は、簡潔だった。
――平山伊賀守自ら、滝山へ出頭せよ。
所領を安堵するとも、命を助けるとも書かれていなかった。
ただ、来い。
それだけである。
家臣の中には、罠だと止める者もいた。
滝山城へ入れば、その場で捕らえられ、三田氏への見せしめとして首を刎ねられるかもしれない。
ならば城に籠もり、最後の一兵まで戦うべきだと訴える者もいた。
綱景は、それらの声を退けた。
「降ると決めた者が、命を惜しんで主君の前へ出ぬのでは話にならぬ」
そう言って、滝山へ来た。
だが、命を惜しんでいないわけではない。
死にたくはなかった。
自分が死ねば、平山家の立場はさらに弱くなる。
幼い子らの将来も、檜原の民の命も、北条の胸先三寸に委ねられる。
だからこそ、綱景は生きて帰らねばならなかった。
死を恐れぬことと、死んでもよいと思うことは違う。
戦国の世で家を預かる者に必要なのは、勇ましく死ぬ覚悟だけではない。
恥を呑み、疑いを受け、それでも生き抜く覚悟だった。
綱景は広い曲輪を抜け、御殿へ通された。
板敷きの廊下には、まだ新しい木の匂いが残っている。
城外では兵が行き交い、馬の嘶きや鍛冶の音が響いていた。
三田氏を滅ぼした後も、氏照は兵を休ませてはいない。
西武蔵の支配を固め、さらに周辺の国衆を従えるため、滝山城は絶えず動き続けていた。
綱景たちは広間の外で待たされた。
半刻。
さらに半刻。
誰も呼びに来ない。
主水正が膝の上で拳を握った。
「わざと待たせておりますな」
「だろうな」
「我らが苛立つか、怯えるかを見ている」
「ならば、何も見せるな」
綱景は静かに座っていた。
庭から風が吹き込み、障子をわずかに震わせる。
待たされる時間が長くなるほど、人は余計なことを考える。
勝沼城の炎。
辛垣城に立ちこめた煙。
箱に入れられて届いた戦友の首。
自分も同じように塩漬けにされ、檜原へ送り返されるのではないか。
綱景の胸にも、そんな考えが浮かんだ。
だが、顔には出さなかった。
やがて、奥から小姓が現れた。
「平山伊賀守殿。お入りください」
主水正が立ち上がろうとした。
しかし、小姓が手を上げる。
「御目通りを許されたのは、伊賀守殿お一人にございます」
主水正の顔が険しくなった。
綱景は軽く頷いた。
「ここで待て」
「殿」
「何があっても、城内で騒ぐな」
「されど――」
「我が首が出てきてもだ」
主水正は唇を引き結んだ。
やがて深く頭を下げる。
「承知いたしました」
綱景は一人で広間へ入った。
そこは、想像していたよりも質素だった。
金銀で飾られた調度はない。
壁際に武具が置かれ、床の間には簡素な掛物があるだけだった。
だが、座している者たちの顔ぶれが、場の空気を重くしていた。
左右には、北条氏照の重臣たちが並んでいる。
戦場で名を知られた武将。
由井領の政務を担う奉行。
三田攻めに加わった者もいる。
その全員が、綱景へ冷たい目を向けていた。
上座にいるのは、北条氏康の三男――北条氏照である。
年若い。
まだ三十にも届いていない。
だが、その眼差しには若さゆえの揺らぎがなかった。
鋭く細められた目は、綱景の衣の汚れから呼吸の速さまで見抜こうとしているようだった。
綱景は広間の中央まで進み、両手をついて平伏した。
「平山伊賀守綱景、召しにより参上いたしました」
返事はない。
沈黙が広間を支配する。
綱景は額を畳につけたまま待った。
やがて、上座から声が落ちてきた。
「面を上げよ」
綱景はゆっくりと顔を上げた。
氏照と目が合う。
そこには怒りも笑みもなかった。
「平山伊賀守」
「はっ」
「三田の残党として処刑される覚悟で参ったか」
広間の空気が、さらに冷たくなった。
脅しではない。
氏照が命じれば、この場で首は落ちる。
綱景は一度だけ息を整えた。
「その覚悟もなく、敵将の御前へ参るほど、愚かではございませぬ」
家臣たちの間に、ざわめきが起きた。
氏照の眉が微かに動く。
「敵将と申したか」
「昨日までは、まさしく敵にございました」
綱景は目を逸らさなかった。
「されど、本日よりは違います」
「何が違う」
「平山は、北条家へ従います」
「命が惜しくなったか」
「惜しゅうございます」
綱景は即座に答えた。
広間の何人かが、不快そうに眉をひそめた。
武士ならば、命など惜しくないと答えるべき場面だったのかもしれない。
だが、綱景は言葉を飾らなかった。
「我が命だけではございませぬ。妻子の命、家臣の命、檜原の民の命。すべて惜しゅうございます」
氏照は黙っている。
「ゆえに、生き残る道を選びました」
「三田を捨ててか」
その問いは、刃のようだった。
綱景の胸に、古い傷を抉るように突き刺さる。
「三田家には、長く御恩を受けました」
「ならば殉じるべきではなかったか」
「それも武士の道でありましょう」
綱景は答えた。
「されど、我が一命のみならず、領民まで道連れにすることを、忠義とは思えませぬ」
氏照の脇に座していた武将が声を上げた。
「聞き捨てならぬ。主家が滅びれば、臣下も死ぬ。それが武門の習いであろう」
綱景はその男へ顔を向けた。
「ならば、三田家とともに滅びた者だけが忠臣で、民を守るため生き延びた者は、すべて不忠者にございましょうか」
「何だと」
男が膝を進めた。
氏照が片手を上げる。
それだけで、武将は口を閉じた。
氏照は綱景を見つめたまま尋ねた。
「北条に従えば、民を守れると考えたか」
「少なくとも、戦えば守れませぬ」
「檜原城に籠もれば、幾月持つ」
「ひと月」
綱景は答えた。
「山道を崩し、谷へ誘い込めば、さらに延ばせましょう」
「我が兵を何人討てる」
「百。運が良ければ二百」
広間の重臣たちの表情が変わった。
単なる虚勢ではない。
檜原の山を知り尽くした男が、冷静に算段した数字だと分かったのだろう。
「その後は」
氏照が問う。
「城は落ちます」
「おぬしは死ぬ」
「死にましょう」
「村は焼ける」
「ゆえに、降りました」
綱景は再び両手をついた。
「これからは由井領の一角として、北条の御盾となる覚悟にございます」
氏照の目が細くなった。




