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檜原の霧、武蔵の嵐 ――甲斐国境・平山氏の選択  作者: 水川仁


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第二章 赤き落日(後編)

綱景は赤い空を見つめたまま答えた。


「出して、何になる」


「しかし、三田殿は我らの主筋にございます」


「五十の兵を出せば、五十の首が増える。百を出せば、百の首が増える。それだけだ」


若い家臣は顔を歪めた。


「見殺しにせよと申されますか」


その言葉に、周囲の空気が凍った。


主君へ向けるには、あまりに激しい言葉だった。


だが、綱景は怒らなかった。


「そうだ」


静かに答えた。


「我らは三田を見殺しにする」


若者の頬が震えた。


「殿は、小田原でともに戦われたではありませぬか」


「戦った」


「ならば――」


「だからこそ分かる」


綱景はようやく家臣たちを振り返った。


「今の我らに、三田を救う力はない」


その声は低かったが、逃げる響きはなかった。


「力なき忠義は、ただ家臣を死なせ、妻を泣かせ、村を焼くだけだ」


若い家臣は言葉を失った。


綱景とて、胸の内が穏やかなわけではない。


三田氏とは長く結びついてきた。


兵を出し合い、山道を守り、北条の侵攻に備えてきた。


勝沼の館で酒を酌み交わした夜もある。


三田弾正少弼から賜った書状も、今なお大切に保管していた。


だが、思い出で戦は止められない。


忠義で兵糧は増えない。


誇りだけで、圧倒的な兵力差を覆すことはできない。


勝沼城を失った三田勢は、さらに険しい辛垣城へ退いた。


山を削り、尾根に曲輪を連ねた堅城である。


岩と木々に守られたその城ならば、北条の大軍を相手にしても容易には落ちぬと考えられた。


しかし、氏照は攻撃の手を緩めなかった。


山裾を囲み、道を封じ、水場を押さえた。


逃げ道を断ち、兵糧の搬入を止め、城内が飢えるのを待った。


その上で、調略の手を伸ばした。


恩賞を約束し、命を保証し、裏切りを誘う。


武力だけではない。


心を切り崩すことこそ、北条の恐ろしさだった。


辛垣城の周辺から上がる煙は、幾日も消えなかった。


夜になると、檜原の山からでも空が薄赤く染まって見えた。


まるで落日が何日も沈み続けているかのようだった。


やがて、辛垣城は落ちた。


三田氏の当主は逃れたとも、討たれたとも伝わった。


家臣たちは散り、ある者は山中で命を落とし、ある者は農民に姿を変え、ある者は北条へ降った。


永禄六年――一五六三年。


西多摩に長く勢力を誇った三田氏は、事実上滅びた。


名門の落日は、あまりにも赤く、あまりにも早かった。


その数日後。


檜原城へ、一人の使者がやってきた。


北条氏照の名代だった。


使者は十人ほどの兵を従えていたが、誰も武器へ手をかけてはいない。


使者は礼を失わず、穏やかな口調で綱景へ告げた。


「北条家は、平山伊賀守殿の進退を問うております」


それだけだった。


降れとも、戦えとも言わない。


だが、意味は明らかだった。


北条に従うか。


三田とともに滅びるか。


答えは二つしかない。


使者が持参した箱が、広間の中央へ置かれた。


蓋が開けられる。


中には、塩漬けにされた男の首が収められていた。


三田家に仕えた武将の一人だった。


綱景も顔を知っている。


小田原へ向かう道中、同じ火を囲み、北条を打ち破った後の話をした男である。


今は目を閉じ、頬から生気を失っていた。


若い家臣の一人が、たまらず顔を背けた。


主水正は拳を握り締めている。


北条の使者は静かに頭を下げた。


「返答は、三日のうちに」


使者が去った後も、誰も動かなかった。


広間の中央に置かれた首が、平山家の行く末を見つめているようだった。


「三田家は滅びた」


綱景が言った。


自分でも驚くほど、乾いた声だった。


「次は、我が平山か」


「戦いましょう」


若い家臣が叫んだ。


勝沼が燃えた日に、綱景を責めた男だった。


「檜原の山は険しい。道は我らしか知らぬ。北条が何万来ようとも、山中へ引き入れれば戦えます」


「戦える」


綱景は頷いた。


「だが、勝てるか」


若者は答えられない。


「十日なら守れよう。一月も持つかもしれぬ。北条の兵を百人、あるいは二百人、討ち取れるかもしれない」


綱景は家臣たちを見回した。


「その後はどうなる」


檜原城が落ちれば、城兵だけでは済まない。


麓の村々も焼かれる。


兵糧を出した者。


道を案内した者。


武器を手に取った者。


北条に抗したというだけで、民まで罰を受ける可能性があった。


田畑は荒らされ、家は壊され、女や子供たちは山中をさまようことになる。


主君の誇りと引き換えにするには、あまりにも重い代償だった。


「殿は、北条へ降るおつもりか」


主水正が尋ねた。


綱景は目を閉じた。


脳裏に、勝沼の炎が浮かぶ。


三田家の使者。


ともに小田原へ向かった兵たち。


赤く染まった東の空。


箱の中で眠る、かつての戦友。


滅びゆく主家に殉じることは、武士として美しいのかもしれない。


後の世の者は、忠義に生きたと称えるだろう。


だが、その美しさのために、檜原の民を道連れにしてよいのか。


平山家は、何のためにこの山を治めてきたのか。


己の名を残すためか。


名誉ある最期を迎えるためか。


違う。


山を守り、民を守り、次の代へ土地を渡すためだ。


綱景は目を開いた。


「軍使を出せ」


家臣たちの間に、わずかなどよめきが起こった。


「滝山の北条氏照殿へ申し上げよ」


綱景は一言ずつ、噛み締めるように告げた。


「平山家は北条へ従う」


若い家臣が俯いた。


主水正も、苦しげに目を伏せる。


誰にとっても、誇らしい決断ではなかった。


勝者へ頭を垂れる。


昨日までの敵を主君と仰ぐ。


泥を啜るような屈辱である。


それでも綱景は続けた。


「我らは檜原の道を守る。甲斐国境を押さえ、北条の西の盾となる」


言葉にするたび、自らの内側で何かが軋んだ。


三田氏との年月。


山内上杉氏へ連なる家の誇り。


小田原で掲げた旗。


そのすべてを、自らの手で折っているようだった。


「平山はこれより、相模の虎の爪牙となる」


広間は静まり返っていた。


誰も「御意」とは言わなかった。


言えなかった。


綱景の背を、冷たい汗が流れた。


北条へ降れば、必ず生き残れるわけではない。


氏照が平山家を許す保証もない。


人質を求められるかもしれない。


領地を削られるかもしれない。


綱景自身の首を差し出せと言われることさえあり得る。


それでも、わずかな可能性に賭けるしかなかった。


滅びることは、いつでもできる。


だが、生き残るために頭を下げられる機会は、今しかない。


綱景は箱の中の首へ向き直った。


そして誰にも気づかれぬほど小さく、頭を下げた。


「お許しくだされ」


それが、滅びた三田氏への別れだった。


夕刻。


平山家の軍使が、檜原城を発った。


白旗を掲げ、秋川沿いの山道を東へ下っていく。


その背を、綱景は物見櫓から見送っていた。


山の端には、赤い夕日が沈もうとしている。


空は勝沼が燃えた夜と同じ色に染まっていた。


だが、その赤は、滅びの炎ではない。


明日を迎えるために呑み込まねばならぬ、屈辱の色だった。


「殿」


背後に立った主水正が、静かに尋ねた。


「これで、平山は生き残れましょうか」


綱景は沈む夕日を見つめたまま答えた。


「分からぬ」


「では、なぜ」


「生き残ろうとした者だけが、生き残る機会を得る」


夕日が山の向こうへ消えた。


谷を満たす影が、檜原城を包み込む。


その日、平山綱景は一人の主君を失った。


そして新たな主君を選んだ。


それは忠義を捨てた日ではない。


守るべきもののために、忠義の形を変えた日だった。

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