第二章 赤き落日(前編)
永禄四年。
相模国、小田原。
海を背にした巨大な城を、越後の長尾景虎が率いる関東諸将の大軍が取り囲んでいた。
山には陣幕が連なり、平地には無数の旗が翻る。
遠目には、城そのものが兵の海に沈んでいるように見えたという。
越後の「毘」の旗。
関東管領上杉氏の「竹に雀」。
そして、その軍勢に馳せ参じた武蔵、上野、下野、下総の国衆たち。
その中には、勝沼の三田氏もいた。
檜原の平山綱景も、少数ながら兵を率いて参陣していた。
「これほどの兵を集めてなお、落ちぬ城があるのか」
小田原城を望む丘の上で、平山主水正が呟いた。
綱景は答えなかった。
眼下では、上杉方の兵が城下へ火を放っている。
黒煙が幾筋も空へ立ち上り、海から吹く風に流されていた。
小田原の町は焼けている。
田畑は踏み荒らされ、家々は壊され、逃げ遅れた民の泣き声が風に混じった。
だが、城は落ちない。
北条氏康は城門を固く閉ざし、兵を無理に打って出させなかった。
堀と土塁と曲輪を幾重にも巡らせた小田原城は、攻め手の焦りを嘲笑うように沈黙を続けていた。
長尾景虎の軍勢は強い。
野戦で正面からぶつかれば、北条とて容易には勝てない。
だが、城攻めは別だった。
大軍は多くの兵糧を食う。
兵が十万いれば、十万の腹を満たさねばならない。
越後から遠く離れた相模で、それを支え続けることは難しい。
関東の国衆たちも、皆が同じ目的で集まっているわけではなかった。
北条に奪われた土地を取り戻したい者。
景虎の威勢に従った者。
宿敵を滅ぼしたい者。
自家だけは生き残りたい者。
大軍でありながら、その心は一つではない。
日が過ぎるほど、陣中には倦怠と不満が広がっていった。
「いずれ景虎殿は兵を退く」
綱景は、燃える城下を見ながら言った。
主水正が顔を向ける。
「まだ一度も総攻めをしておりませぬ」
「総攻めをしても落ちぬ」
「では、この戦は……」
「北条を滅ぼす戦ではない」
綱景は目を細めた。
「北条が、どれほど深く関東へ根を張っているか。それを確かめる戦になった」
やがて、上杉軍は小田原から兵を引いた。
敗れたわけではない。
だが、勝ったとも言えなかった。
北条氏康は城を守り抜いた。
そして、北条に敵対した国衆たちの名を、一人残らず覚えていた。
長尾景虎の大軍が去れば、残されるのは北条と、北条へ弓を引いた者たちである。
綱景が最も恐れていた風が、現実となった。
攻守は逆転した。
小田原から撤退した平山勢が檜原へ戻った時、山々は春の色を帯び始めていた。
谷には若葉が芽吹き、雪解け水が秋川へ流れ込んでいた。
だが、檜原城には重苦しい空気が漂っていた。
物見櫓には常に番兵が立ち、五日市へ下る道と勝沼へ通じる道を見張っている。
村人たちも、山へ入る時には弓や鉈を手放さなかった。
誰もが分かっていた。
北条が来る。
それも、遠くないうちに。
その先頭に立ったのは、北条氏康の三男、北条氏照だった。
氏照は武蔵国の由井領を与えられ、滝山城を拠点として西武蔵への支配を広げていた。
若い。
だが、決して軽い男ではない。
戦場では大胆に兵を動かしながら、降伏する者には土地や身分を与え、従わぬ者には徹底した刃を向ける。
武蔵の国衆たちは、氏照が北条家の中でもとりわけ西国境の経営に長けた人物であることを、身をもって知ることになる。
その氏照が、三田氏へ牙を剥いた。
「三田を、一兵たりとも生かして返すな」
北条勢は多摩川沿いを進み、勝沼の領域へ押し寄せた。
三田氏は抗戦した。
上杉方として戦った誇りもあった。
山内上杉氏に連なる名門として、北条の軍門へ下ることを潔しとしない意地もあった。
だが、兵の数が違いすぎた。
上杉軍は、もういない。
越後の軍神は遠く三国峠の向こうにあり、救援を求めても間に合わない。
周囲の国衆たちは北条の勢いを恐れ、次々と口を閉ざした。
昨日まで三田と杯を交わした者さえ、兵を出そうとはしなかった。
勝沼城へ最初の火の手が上がったのは、風の強い日の夕刻だった。
乾いた風が炎を煽り、城下の屋根から屋根へと火を運んだ。
炎は土塁を越え、木柵を包み、櫓を赤く染めた。
遠く檜原の山からも、東の空が赤く焼けているのが見えたという。
「勝沼が燃えております」
物見櫓から駆け下りてきた兵が叫んだ。
綱景は館を出た。
城内にいた者たちが、皆、東の空を見上げている。
暮れかけた空の一角が、夕焼けとは違う赤に染まっていた。
低い雲の底に炎が映り、血を流しているように見えた。
綱景は長い間、何も言わなかった。
隣に立つ主水正が、唇を噛み締めている。
「援軍を出されますか」
若い家臣が問うた。




