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檜原の霧、武蔵の嵐 ――甲斐国境・平山氏の選択  作者: 水川仁


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第一章 境目の主従

永禄の初め――。


武蔵国の西端、秋川の流れをどこまでも遡った先に、檜原の谷はあった。


四方を深い山々に閉ざされ、朝になれば霧が谷底を満たす。


霧は川面から湧き上がり、杉の梢を濡らし、山の斜面にへばりつくようにして築かれた家々を白く覆い隠した。


道と呼べるものは細い獣道に近い。


ひとたび雨が降れば土は崩れ、谷川は牙を剥き、冬になれば雪と氷が人の往来を拒んだ。


平地の者たちは、この地を辺境と呼んだ。


武蔵の果て。


人の世の終わる場所。


だが、檜原を治める平山綱景は、そうは考えていなかった。


「果てではない」


綱景は、物見櫓の上で一人呟いた。


「ここは境目だ」


眼前には、幾重にも重なる山並みが広がっている。


東へ下れば秋川沿いに五日市、さらに進めば武蔵野の平地へ至る。


南には小仏や高尾の山々が連なり、その先には北条氏の勢力圏が広がっていた。


そして西へ険しい峠を越えれば、そこは甲斐国である。


武蔵と甲斐。


山内上杉と後北条。


そして、やがて甲斐から押し寄せることになる武田。


檜原は、いくつもの勢力が触れ合う境目に位置していた。


人も、兵も、荷も、噂も、この山を越えて流れてくる。


平地で戦が起きれば、敗兵が山へ逃げ込む。


甲斐で飢饉が起きれば、食を求める者が峠を越える。


密使も、間者も、山伏も、商人も、同じ細道を歩いた。


ここを治める者には、剣の強さだけでは足りない。


聞く耳と、疑う目。


何より、風向きを読む力が必要だった。


平山伊賀守綱景。


齢は三十をいくつか越えたばかり。


鋭く切れ上がった目と、無駄な肉のない頬を持つ男だった。


豪放な武将ではない。


大声で家臣を従えることもなければ、己の武勇を誇ることもない。


だが、一度決めたことは容易に曲げなかった。


岩に根を張った松のような男だと、古参の家臣たちは評している。


檜原城は、城と呼ぶにはあまりに小さかった。


尾根を削ってつくられた曲輪。


木柵。


土塁。


山肌に刻まれた堀切。


天守などはなく、最も高い場所に粗末な物見櫓が建つのみである。


それでも、谷を見下ろすその姿は、檜原の民にとって確かな守りであった。


綱景は櫓の手すりに手を置き、谷の奥を見つめた。


霧の向こうから、水の音が聞こえる。


秋川の源流。


その流れは細くとも、いずれ多摩川へ入り、武蔵の平野を潤す。


小さな流れが大河となるように、小さな選択が国の行く末を変えることもある。


綱景は、それを知っていた。


「殿」


背後から声がかかった。


綱景が振り返ると、重臣の平山主水正が櫓の梯子を上ってくるところだった。


年は五十に近い。


父の代から平山家に仕える古参で、山道を歩かせれば若者にも劣らない。


だが、この朝ばかりは、その呼吸がわずかに乱れていた。


「急使にございます」


「どこからだ」


「勝沼城より」


その一言で、綱景の目つきが変わった。


勝沼城。


多摩川上流域に勢力を張る三田氏の本拠である。


檜原の平山家は、古くは山内上杉氏に従ってきた。


だが、関東の勢力図はすでに大きく変わりつつある。


上杉家の力は衰え、相模の北条氏が武蔵へ勢力を伸ばしていた。


平山家は今、三田氏と深く結びついている。


完全な家臣ではない。


かといって、対等な盟友とも言い切れない。


戦となれば兵を出し、危急の際には互いに助け合う。


それでいて、檜原の山々に対する支配は平山家が守ってきた。


同盟者にして配下。


配下にして、独立した領主。


それが平山家の立場だった。


境目に生きる者には、曖昧さもまた武器となる。


「使者は」


「麓の屋敷にて待たせております。馬を替えずに山を登ってきた様子。よほど急いでおりますな」


「勝沼で何かあったか」


主水正は周囲を見回し、声を落とした。


「越後の長尾景虎が、再び関東へ兵を進めたとのことにございます」


綱景は答えなかった。


霧を含んだ風が、櫓の上を吹き抜けた。


長尾景虎。


越後の龍と恐れられる男。


のちに上杉謙信の名で知られることになる稀代の武将である。


景虎は、関東管領上杉憲政を奉じ、北条氏の勢力を関東から追い払うことを掲げていた。


その呼びかけに、北条の膨張を恐れる国衆たちが次々と呼応している。


三田氏もまた、その一つだった。


三田氏は北条を嫌っている。


いや、嫌うという言葉では足りない。


祖先から受け継いだ土地を守るため、北条とは決して相いれぬという覚悟を固めていた。


「ついに来たか」


綱景は低く呟いた。


主水正が顔を上げる。


「では、使者の用向きも……」


「参陣の求めだろう」


「北条を討つために」


「そうだ」


綱景は櫓を下りた。


城内には、すでに異変を察した家臣たちが集まり始めていた。


鍛冶場から槌の音が響く。


馬屋では馬の嘶きが上がり、若い兵が鞍を運んでいる。


誰も命令を受けていない。


だが、勝沼から急使が来たと聞けば、何が起こるかは分かっていた。


この時代、使者は戦を連れてくる。


館に入ると、囲炉裏の前に一人の男が座っていた。


三田家の使者である。


裾は泥にまみれ、肩で息をしている。


綱景の姿を見るなり、男は深く頭を下げた。


「平山伊賀守様に申し上げます」


「楽にせよ。まず水を飲め」


「はっ」


使者は差し出された椀を両手で受け取り、一息に飲み干した。


それから懐より書状を取り出し、恭しく差し出す。


封には、三田氏の印が押されていた。


綱景は書状を開いた。


短い文面だった。


越後の長尾景虎が関東の諸将を糾合し、北条討伐の兵を起こした。


三田氏もこれに呼応する。


平山家は直ちに兵を整え、勝沼へ参陣されたし。


言葉は丁寧だった。


だが、断る余地はない。


綱景が書状を畳むと、使者は床に額がつくほど頭を下げた。


「三田弾正少弼様より、平山殿の御力なくして西の備えは成り立たぬとの仰せにございます」


綱景は使者を見た。


疲れ切った顔に、焦りが浮かんでいる。


三田氏は長尾景虎の威勢に賭けたのだ。


越後の軍勢が北条を打ち破り、かつての秩序を関東へ取り戻す。


その可能性は、確かにある。


だが、綱景には別のものも見えていた。


北条は一度の敗北で滅びる相手ではない。


小田原の城は堅く、家臣団の結束も強い。


戦に敗れれば退き、機を見て再び攻めてくる。


山へ逃げ込む獣のように、容易には息の根を止められない。


「殿」


使者を休ませた後、主水正が口を開いた。


「いかがいたします」


広間には十人ほどの家臣が集まっていた。


誰もが綱景の言葉を待っている。


「三田家に従うべきにございます」


若い家臣が真っ先に言った。


「我らは長く三田殿とともに北条に備えてまいりました。今さら背を向ければ、武門の恥にございます」


「だが、北条が勝てばどうなる」


別の者が反論した。


「勝沼はともかく、我ら檜原は真っ先に甲斐への道を断たれる。村々も焼かれましょう」


「ならば北条へ降るか」


「そうは申しておらぬ。されど、越後の軍勢がいつまで関東に留まるのか、それが分からぬ」


広間に重い沈黙が落ちた。


それこそが問題だった。


長尾景虎は強い。


戦えば勝つ。


だが、越後を本国とする景虎が、いつまでも武蔵に留まれるわけではない。


景虎が去った後も、北条は残る。


北条と戦う国衆たちは、常にその恐怖を抱えていた。


勝っても終わらない。


負ければ滅びる。


綱景は皆の顔を見回した。


「北条は、いずれこの山へ来る」


家臣たちが静かになった。


「我らが三田とともに戦おうが、戦うまいが、北条は西へ勢力を伸ばす。五日市を押さえ、多摩川を押さえ、やがて甲斐への道を求めるだろう」


「では……」


「逃げ道など、初めからない」


綱景は立ち上がった。


背後の板戸が風で鳴った。


「我らは小さな家だ。兵も少なく、米も少ない。平地の大名のように、城を失えば別の城へ移ることもできぬ」


誰も言葉を挟まない。


「この山を捨てれば、平山家は終わる。ならば、ここで生き残る道を選ぶしかない」


主水正が尋ねた。


「三田殿に従う、と」


綱景は頷いた。


「我らは三田とともにある」


それは、忠義だけで選んだ答えではなかった。


三田氏に背けば、檜原の平山家は孤立する。


北条へ降ったとしても、すぐに信を置かれる保証はない。


むしろ昨日までの敵として、兵も土地も取り上げられるかもしれない。


今は三田氏と結び、長尾景虎の勢いに乗るほかに道はなかった。


「それ以外の道は、この山奥には残されていない」


綱景は、自らに言い聞かせるように呟いた。


やがて、家臣たちが一斉に頭を下げた。


「御意」


その日のうちに、檜原の村々へ触れが出された。


各家は兵糧を供出すること。


弓を扱える者は城へ集まること。


猟師は鉄砲と火薬を持参すること。


峠道を知る者は道案内として召し抱えること。


山の民にとって、戦は遠い平地の出来事ではない。


畑を耕していた手で槍を握り、獣を撃っていた鉄砲を人へ向ける。


それが境目に生きるということだった。


夕刻。


霧が晴れ、山々の稜線が赤く染まった。


綱景は館の一室で、黒塗りの胴を身につけていた。


妻が無言で背後に回り、甲冑の紐を締める。


「長い戦になりますか」


その声は静かだった。


「分からぬ」


「お戻りになりますか」


綱景は、すぐには答えなかった。


妻の手が一瞬止まる。


「戻る」


やがて綱景は言った。


「この山を、誰にも渡すつもりはない」


妻は何も言わず、再び紐を締めた。


外では、兵たちが松明を掲げている。


その炎が一つ、また一つと増えていく。


霧の谷に、赤い光が浮かんだ。


翌朝。


平山勢は檜原城を発った。


数は決して多くない。


槍を持つ者。


弓を背負う者。


猟師上がりの鉄砲衆。


荷駄を引く百姓たち。


皆、檜原の山で生まれ、この山の水を飲んで育った者たちだった。


綱景は列の先頭で馬を進めた。


振り返れば、霧の中に檜原城が霞んでいる。


粗末な山城。


小さな領地。


それでも、彼にとっては守るべきすべてだった。


山道を下るにつれ、秋川の流れが太くなっていく。


やがて川は武蔵の平地へと向かい、戦乱の渦へ注ぎ込む。

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