第7話:最後の渡り
#ヤンデレ #執着 #ダークロマンス #ホラー #創作
その夜、雨は静かに降り注いでいた。まるで東京の空さえもが、息を潜めているかのように。
エドは自宅のドアの前に立っていた。きれいに洗濯された制服に身を包み、身なりを整えている。肌が理石のような色をしておらず、瞳があれほどまでに淀んでいなければ、どこにでもいる普通の少年役に見えただろう。
「エド? こんな夜中にどこへ行くの?」
台所の方から、母親の声が静寂を破った。
エドの足が止まった。近づいてくる母の手には、小さな皿に盛られたナシゴレンがあった。彼がまだジャカルタにいた頃の大好物だ。母親はエドの前に跪き、その瞳を潤ませた。彼女には分かっていた。何かが決定的に、狂ってしまっていることに。
「少しだけでも食べなさい、エド。ずいぶん痩せてしまったわ。……お母さんを、許してね」母は氷のように冷たいエドの頬を撫でながら、声を詰まらせた。「ここで辛い思いをさせていたこと、分かっていたの。お父さんもお母さんも、忙しすぎたわね。……インドネシアに帰りましょう。明日。こんな場所、もう捨ててしまいましょう」
エドは母の目を見つめた。一瞬だけ、その瞳に人間らしい光が宿った。彼はあの温かい抱擁を恋しく思った。しかし、その耳の奥で、花子の過去から響く爆鳴が唸りを上げ、独占欲に満ちた囁きが追い討ちをかけた。
『――あいつらはまた、あなたを置いていくわ。私だけが、永遠なのよ』
エドは母の手をゆっくりと離した。「お母さん……向こう側なら、もう寒い思いをしなくて済むんだ。今まで、ありがとう」
母が止める間もなく、エドは雨の中へと走り去った。疲労も、息苦しさも感じない。体は軽く、まるでこの世界の重力から解き放たれたかのようだった。
【旧校舎・午後11時55分】
三階のトイレに辿り着くと、そこには山田先生と、神主の装束を纏った老人が待ち構えていた。彼らは提灯を掲げ、手には守護の御札を握りしめている。
「エド! 止まれ! それ以上進むんじゃない!」山田先生が叫んだ。
エドは彼らを無視し、今や濃密な赤い霧で満たされたトイレの中へと足を踏み入れた。山田先生と神主が後を追おうとしたが、入り口を跨いだ瞬間、見えない力によって弾き飛ばされた。
トイレの個室全体が激しく震動し、何千人もの子供たちの泣き声が共鳴して、神主の唱える祝詞をかき消した。
エドは三番目の個室の前に立った。ドアは大きく開かれ、そこには底知れぬ闇が広がっていた。花子がそこに立っていた。しかし今回は、鏡の向こうではない。現実の世界に――半透明の姿で、美しくも恐ろしい紅い光を放ちながら。
「時が来たわ、エドくん」花子が手を差し出した。彼女の赤い手首が、今は眩いほどに輝いている。「その重たい体を脱ぎ捨てて。時間が止まった場所で、一緒に踊りましょう」
エドは最後にもう一度だけ、背後を振り返った。遠くの廊下から、掠れた声で彼の名を呼びながら走ってくる母親の姿が見えた。
「愛してるよ、花子ちゃん」エドが囁いた。
エドが花子の手を取った。二人の指先が触れ合った瞬間、目を射るような冷たい光が爆発した。山田先生と母親の目には、エドの影がゆっくりと花子の姿に溶け合っていくのが見えた。
その光景は詩的でありながら、あまりにも冒涜的だった。エドの肉体はゆっくりと床に崩れ落ち、安らかな微笑みを浮かべて眠っているように見えた。しかし、倒れたその体から、もう一人の「エド」が立ち上がった。花子と同じ、赤い手首を持つ霊体としての姿だ。
エドの魂は花子を抱きしめた。今は同じ漆黒に染まった二人の瞳に、もはや恐怖はない。そこにあるのは、永遠に終わることのない純粋な執着だけだった。
「これで、私たちは一つよ」花子はエドの額に接吻し、愛おしそうに囁いた。
二人はそのまま、三番目の個室の闇の中へと後ずさった。母親がその場所に辿り着いた瞬間、ドアは激しい音を立てて閉ざされた。
再びドアが開かれたとき……個室は空っぽだった。漂う埃の匂いと、乾いた床の上に残された、佐藤の消しゴムが一つ。エドは消えた。いじめも、異国の言葉もない世界へ――ただ永遠に続く、甘美で致命的な愛の中へと渡ったのだ。




