02.痕跡
暫くして看板のない、鉄筋コンクリートの建造物の前に車が停車した。黒色のセダンは如何せんこの住宅街のど真ん中に走っているだけで目立つ。深夜とはいえ、もし通りがかるような人間がいればこの光景は脳裏に焼き付くだろう。
車のヘッドライトが照らしている無機質なシャッターが、ゆっくりと開いていく。どうやらこの車をこのシャッターの奥にしまえということらしい。部下の男は何も言わずそのままシャッターの中に車を進めていく。雨脚は強くなっていた。まるで車のボンネットに突き刺さるように雨が降っている。
車が完全に停車すると、助手席から聖が後部座席から唯がそれぞれ降りてくる。聖は唯が話を付けに行く方が早いことを完全に理解していたため、何も言わずに後部座席に乗り込み金髪の女の様子を見る。
「おい、お前。単価でも車いすでもいいから探してこい」運転席で何もせずに固まっていた部下にまるで地鳴りがするような唸るような低い声で指示を出せば、部下は飛び上がるように驚き「ひゃい」と裏返った返事をするとそのまま小走りでガレージの奥の方に捜索に行った。
聖はそのまま何も言わずに金髪の女の方に視線をやる。触れる訳でもない。視線を送るだけだ。なんとなく安易に触れれば壊れてしまうような危うさを感じていた。体も大きく力の強い聖にとっては、彼女の体に触れる行為はまるでガラス細工に触れるようなそんな感覚だった。きっと思い切り掴んでしまえば簡単に彼女の手首、いや体の骨は折れてしまうだろう。
「兄貴、見つかりました」遠くから車輪の音とともに部下が近寄ってくる。車椅子を見つけてきたらしい。部下はそのまま車椅子を後部座席のドアの横に着けると、小さく礼をした。聖は何も言わずに部下の持ってきた車椅子に優しく金髪の女を持ち上げて、そっと下した。車椅子の座面はあまり沈むことはなくかすかに軋む音がした。
丁度その時、建物の中から医者とみられる老人と唯が出てくる。老人はかすかに闇夜で何かの光を反射するように白光している金髪の女を見ると、目を見開いた。細い手足、鎖骨や肋骨の浮いた胸元。まるで棒のような、いやこれを正しく表現するならば歩く骸骨のようだった。
老人は何も言わずに車椅子の押し手を手にすると聖にアイコンタクトをした。安心しろとでも言いたいのか、それともこの患者は救えないとでも言いたいのか。聖には分からなかった。聖も何も言わず、何も聞くことはせずその老人を目で追った。車椅子の車輪の音が遠のいていく。唯と老人はまた暗い建物の中に消えていってしまった。聖と部下はその場に置いてけぼりになった形になり、聖が何も言わずに車の後部座席に乗り込むと、部下も何も言わずに運転席に座った。
後部座席に腰を下ろすとそこはまだ少し熱を持っていた。先ほどまでここで横になっていた女の体熱を車のシート越しに感じていた。聖は少し背中を丸めて小さなため息をついた。聖の小さなため息は運転席の部下にも届いていたようで、部下はルームミラー越しに聖の表情や様子をうかがおうとしたが、聖と目が合った気がして焦って視線を外した。
言葉を発することが出来ないような重苦しい空気が車内に滞留していた。部下は気まずさから、運転席に座ったまま空を仰いだ。もちろんシャッターは固く閉ざされているので、空はおろか外の景色すら見ることが出来ない。ただ音からして、外の雨は激しさをさらに増しているようでシャッターに強く叩きつけていた。どうやら風も強くなってきたようで、雨音の他に風に揺れて金属音を立てている。その金属音が耳に刺さり、余計に気持ちを焦らせてくる。
暫く車の中で待っていた。どのくらい待っていたのか、聖は時間感覚を失っていた。予定を狂わされるのが嫌いで、時間に厳格な男が今静かに文句を言わずに待っている。普段の彼であればもうすでに乗り込んでいたかもしれない。彼がなぜこんなにもじっとしているのか、部下はもちろん彼自身にも分からなかった。少なくともいえるのは彼にとって人生で経験したことのない体験であるということだ。
窓ガラスを誰かが叩く。コンコンッ。少し骨ばった手で叩いたのか骨と窓ガラスがぶつかるような特徴的な音がした。聖が窓ガラスの方に視線を向けると、老人、いや柊が立っていた。どうやら用が済んだらしい。聖は柊にぶつけないようにそっと車のドアを開くと、車から降りた。柊は聖が車から降りたのを確認すると無言で歩を進めた。部下はそのまま何も言わずに3歩後ろからついていった。
暫く薄暗い廊下を柊と聖、部下の3人は歩みを進めていった。暫くして、1つの扉の前で柊が歩みを止めて、茶色い木製の扉を開いた。扉の奥にはベッドがぽつんと置いてある。殺風景な部屋だが医療機器は揃っているようだ。よく医療ドラマの集中治療室で見るような機械まで立ち並んでいる。
「…彼女は」聖がぶっきらぼうに柊に聞く。白髪の彼女は布団に包まれて静かに眠っているようだった。たまに小さな寝息が聞こえるし、心電図モニターが規則正しく心拍を表示していた。「ただの栄養失調、と言えばウソになりますが、結局最初にそれを解決しない限りは衰弱死、でしょうね」
衰弱死、死。想定してはいたし、立場上聞く頻度の多い言葉。普段なら絶対怯まないその言葉が今日は聖の心になぜか重くのしかかる。こんな気持ちになったのは自分の両親と、妹を失ったとき以来だろう。聖は眉間にしわを寄せてベッドの傍へ歩を進める。白い髪に負けないぐらい白い肌が、まるで真っ白な布団と同化するように溶け込んでいる。
「綺麗…」
聖はつぶやいた。




