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黒陽黙示録アベル ― RE:NEHEMOS  作者: 鉄川零


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9/13

石の街道-2

日が、傾いた。


 「そろそろ、火だな」


 ルキウスが言って、周囲を見回した。慣れた動きだった。乾いた、燃えそうな枯れ枝を、目で探している。


 「わたし、集めます」


 リネットが、言った。


 「いや、脚が」


 「大丈夫です。ゆっくりなら」


 彼女は、そう言って、石の脚を引きずりながら、灰の中へ。左手だけで枝を拾い集めていく。時間は、かかった。だが、誰も、急かさなかった。


 ルキウスは、火口用の乾いた苔を探していた。舌打ちしながら。「湿気てやがる」と文句を言いながら。それでも、二度、三度と試すうちに、小さな火花が散った。


 私は、何もしなかった。


 いや、できなかった、というのが正しい。焚き火の熾し方など、知らない。物心ついた時から、この二人のような当たり前の暮らし方を学ぶ機会が、なかった。


 その代わりに、私は周囲を見張っていた。灰の向こうに、何か揺らぐものはいないか。それだけが、私にできることだった。


 役割は、自然に分かれていた。誰も、決めたわけでは、ないのに。


 火が、点いた。


 小さな、炎が、闇の中に、灯る。


 その、傍らに。


 犬が、寄ってきた。前脚を揃えて座り、火を見つめている。


 「そういえば」


 ルキウスが、その頭を撫でながら、言った。


 「こいつ、名前、ないよな」


 リネットが、顔を上げた。


 「……そうですね」


 二人の視線が、私に向いた。


 「神父さんが、つければ」


 「いい、案だ」とは、思わなかった。


 私は、名を扱う者だ。だが、それは、死者に対してだ。生きているものに名を与えたことは――一度も、ない。


 名を与えるとは、確定させることだ。その者を、それ以外の何かになれなくすることだ。


 この犬が、この先、どんな運命を辿るか。私には、わからない。ならば。


 「……私には、無理だ」


 「は?」


 「弔い人が、つける名は、終わらせるための名だ。この犬には、まだ、早い」


 ルキウスが、呆れた顔をした。


 「屁理屈、こねやがって」


 だが、それ以上は、追及しなかった。


 結局、犬に、名は、つかなかった。


 三人と一匹の旅は、そのまま、続いた。



 夜。


 火を囲んで眠る三人(と、一匹)を、私は見ていた。


 ルキウスは、大の字でいびきをかいている。リネットは、体を丸めて。石になった右半身を下にして。そうすると楽なのだと言っていた。感覚のない側を、地面に預けるのだと。


 犬が、リネットの足元で丸くなっている。


 静かな、夜だった。


 と。


 火明かりの中で、ひとつだけ、閉じていない目が、あった。


 リネットだ。


 丸めた体の、下にならなかった側。生きている左の、その瞳が。炎を映して、こちらを見ていた。眠っていなかったのだ。あるいは――眠れ、なかったのか。


 私は、何も、言わなかった。


 少女も、しばらく、何も、言わなかった。


 薪が、爆ぜた。火の粉が、ひとつ、闇へ、昇って、消えた。


 「……神父、さま」


 声は、小さかった。ルキウスを起こさぬように。あるいは、自分の声に、自分で怯えるように。


 「なんだ」


 「昼間の、あの」


 言葉が、途切れる。


 「祈骸の、隊列に、いた。石に、なった、大きな……あれを」


 あの化け物のことだ。祈骸に喰われ、半ば石と化して、それでも、悲鳴だけを上げ続けていた、元・人間。私が名を呼んで鎮めた、あれ。


 半ば、石と化した、体。


 石に、なりかけて。なお、終われなかった、もの。


 ――それは。


 この少女が、いずれ、辿る、姿だ。


 彼女は、あのとき。自分の行く末を見たのだ。


 「あなたは」


 少女の、左手が。ぼろ布の下の、石の右腕を、そっと、握った。


 握って、いるのに。きっと、その手には、何の感覚も、ない。


 「あなたは、あれを。終わらせて、あげて、いました」


 「苦しんで、いたのに。もう、動けなくて。死ぬことも、できなくて。それでも、あなたが、名前を、呼んだら」


 少女の、喉が、鳴った。


 「静かに、なりました。楽に、なった、みたいに」


 ――ああ。


 そういう、ことか。


 この少女が、なぜ私についてくるのか。行く当てがないから、ではない。頼れる者がいないから、でも、ない。


 もっと、単純で。もっと、切実な願いだ。


 「あなたなら」


 少女が、言った。


 左の瞳から、炎の色が、揺れて、こぼれた。


 「わたしの、ことも――」


 そこで。


 言葉は、途切れた。


 最後まで、言わなかった。言え、なかったのか。それとも――言葉にしてしまえば確定してしまうと、どこかで知っていたのか。


 私は、答えなかった。


 答えられなかった、のではない。


 答えては、ならなかった。


 弔いは――死者にしか、できない。


 すでに終わった者の名を呼び。その終わりを確定させる。それだけが、私の業だ。まだ生きている者を終わらせる術を、私は持たない。持っては、ならない。もし、それをしてしまえば――そのとき私は、弔い人ではなく、別の何かになる。


 その先を、私は、考えなかった。


 「……リネット」


 私は、ただ、その名を、呼んだ。


 鎮めるためでは、ない。終わらせるためでも、ない。ただ、そこに、生きて、いる者として。呼んだ。


 少女は、答えなかった。


 石になった右頬を、地面に押し当てて。生きている左の目を、そっと閉じた。拒まれたことを悟った、その顔で。


 それでいて――どこか、安堵したような。


 この人は、簡単には、終わらせてくれない。ならば、まだ、しばらくは。この旅は、続くのだと。


 そんな、矛盾した顔で。


 少女は、眠りに、落ちていった。


 いつか。


 この少女が、私に頼ることをやめる日が、来る気がした。


 なぜ、そう思ったのかは、わからない。


 ただ、その予感だけが。遠い、鐘の音のように。


 この夜の底で、微かに、鳴っていた。


 何の鐘かは、わからなかった。


 弔いの鐘か。それとも――もっと、別の、何かの。


 私は、火の傍で目を閉じた。


 こういう夜、時々――ひとつだけ、思い出せる記憶がある。


 名前だ。


 ただ、一つの、名前。


 私が、まだ、何も忘れていなかった頃の――そう思える、遠い記憶の底に。たった一つ、沈んで、消えずにいる名前。


 誰の名かは、わからない。


 男か、女かも。どんな顔だったかも。ただ、その名を、胸の中で、唱えると。


 なぜか、泣きたく、なる。


 私は、口の中で、そっと、その名を、転がしてみた。


 ――……。


 声には、出さない。出せば、この静かな夜が壊れる気がした。


 その名を、唱えるときだけ。


 私の中の、擦り切れた何かが。ほんの少し、疼く。まだ、私にも人間だった頃があったのだと。誰かを、こんなにも想っていた頃があったのだと。


 その名前を、私は、この腕には、刻んでいない。


 刻めば、確定してしまう。この、曖昧な、揺らぐ想いが。たった一行の事実になってしまう。


 だから、刻まない。


 この一つだけは。


 私の中で、揺らいだまま、置いておく。


 ――弔い人が、たった一つ、弔えずにいる名前。


 それが、私を、まだ人間に繋ぎとめている。



 目を、開けた。


 何かが、頬に、触れた。


 冷たい。


 ――雪だ。


 黒い、雪。


 いつのまにか、空から黒雪が降り始めていた。それも、尋常でない密度で。ひらひらと、灰の中に黒い結晶が混じって落ちてくる。


 私は、身を、起こした。


 黒雪は、黒陽から降る。近くで、何かが起きている。黒陽の活動が強まっている。こういう時、決まって――良くないことが、起きる。


 立ち上がり、南の空を、見た。


 地平の、彼方。


 黒陽の、輪郭が。


 いつもより、大きく見えた。脈打つように明滅している。まるで、何かを生み出す前触れのように。


 足元で、犬が、低く、唸った。


 リネットが、目を覚ました。私の視線を追って、南の空を見る。その顔が、強張った。石になった右頬は、動かない。だが、生きている左半分が、はっきりと怯えていた。


 「……あれ」


 彼女が、掠れた声で、言った。


 「あれ、なに」


 私は、答えられなかった。


 わからなかった、からだ。


 いや――正確には。


 わかりたく、なかった。


 なぜなら、あの、黒陽の明滅を。


 私は――知っている、気がしたのだ。


 前にも。何度も。これと同じ、黒雪の夜を。これと同じ、脈打つ黒陽を。私は、見てきた気がした。そして、そのたびに、何か、取り返しのつかないことが――


 黒雪が、降りしきる。


 その冷たさの中で。ふと、私の視線が、隣へ落ちた。


 リネットが、南の空を見上げている。怯えた、左の目で。石になった右頬に、黒雪が積もっていく。感覚のない側にだけ、雪は、溶けずに残る。


 ――この子を。


 いつか、私は。


 その先を、思いかけて。


 私は、目を逸らした。逸らすしかなかった。さきほど答えなかったことの意味を、まだ、私自身が決めかねている。決めては、ならないと思っている。


 なのに。


 黒陽は、待って、くれない。


 どく、と。


 背の棺が、脈打った。


 まるで、来たるべきものを、待ちわびるように。


(四章 了)

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