石の街道-2
日が、傾いた。
「そろそろ、火だな」
ルキウスが言って、周囲を見回した。慣れた動きだった。乾いた、燃えそうな枯れ枝を、目で探している。
「わたし、集めます」
リネットが、言った。
「いや、脚が」
「大丈夫です。ゆっくりなら」
彼女は、そう言って、石の脚を引きずりながら、灰の中へ。左手だけで枝を拾い集めていく。時間は、かかった。だが、誰も、急かさなかった。
ルキウスは、火口用の乾いた苔を探していた。舌打ちしながら。「湿気てやがる」と文句を言いながら。それでも、二度、三度と試すうちに、小さな火花が散った。
私は、何もしなかった。
いや、できなかった、というのが正しい。焚き火の熾し方など、知らない。物心ついた時から、この二人のような当たり前の暮らし方を学ぶ機会が、なかった。
その代わりに、私は周囲を見張っていた。灰の向こうに、何か揺らぐものはいないか。それだけが、私にできることだった。
役割は、自然に分かれていた。誰も、決めたわけでは、ないのに。
火が、点いた。
小さな、炎が、闇の中に、灯る。
その、傍らに。
犬が、寄ってきた。前脚を揃えて座り、火を見つめている。
「そういえば」
ルキウスが、その頭を撫でながら、言った。
「こいつ、名前、ないよな」
リネットが、顔を上げた。
「……そうですね」
二人の視線が、私に向いた。
「神父さんが、つければ」
「いい、案だ」とは、思わなかった。
私は、名を扱う者だ。だが、それは、死者に対してだ。生きているものに名を与えたことは――一度も、ない。
名を与えるとは、確定させることだ。その者を、それ以外の何かになれなくすることだ。
この犬が、この先、どんな運命を辿るか。私には、わからない。ならば。
「……私には、無理だ」
「は?」
「弔い人が、つける名は、終わらせるための名だ。この犬には、まだ、早い」
ルキウスが、呆れた顔をした。
「屁理屈、こねやがって」
だが、それ以上は、追及しなかった。
結局、犬に、名は、つかなかった。
三人と一匹の旅は、そのまま、続いた。
*
夜。
火を囲んで眠る三人(と、一匹)を、私は見ていた。
ルキウスは、大の字でいびきをかいている。リネットは、体を丸めて。石になった右半身を下にして。そうすると楽なのだと言っていた。感覚のない側を、地面に預けるのだと。
犬が、リネットの足元で丸くなっている。
静かな、夜だった。
と。
火明かりの中で、ひとつだけ、閉じていない目が、あった。
リネットだ。
丸めた体の、下にならなかった側。生きている左の、その瞳が。炎を映して、こちらを見ていた。眠っていなかったのだ。あるいは――眠れ、なかったのか。
私は、何も、言わなかった。
少女も、しばらく、何も、言わなかった。
薪が、爆ぜた。火の粉が、ひとつ、闇へ、昇って、消えた。
「……神父、さま」
声は、小さかった。ルキウスを起こさぬように。あるいは、自分の声に、自分で怯えるように。
「なんだ」
「昼間の、あの」
言葉が、途切れる。
「祈骸の、隊列に、いた。石に、なった、大きな……あれを」
あの化け物のことだ。祈骸に喰われ、半ば石と化して、それでも、悲鳴だけを上げ続けていた、元・人間。私が名を呼んで鎮めた、あれ。
半ば、石と化した、体。
石に、なりかけて。なお、終われなかった、もの。
――それは。
この少女が、いずれ、辿る、姿だ。
彼女は、あのとき。自分の行く末を見たのだ。
「あなたは」
少女の、左手が。ぼろ布の下の、石の右腕を、そっと、握った。
握って、いるのに。きっと、その手には、何の感覚も、ない。
「あなたは、あれを。終わらせて、あげて、いました」
「苦しんで、いたのに。もう、動けなくて。死ぬことも、できなくて。それでも、あなたが、名前を、呼んだら」
少女の、喉が、鳴った。
「静かに、なりました。楽に、なった、みたいに」
――ああ。
そういう、ことか。
この少女が、なぜ私についてくるのか。行く当てがないから、ではない。頼れる者がいないから、でも、ない。
もっと、単純で。もっと、切実な願いだ。
「あなたなら」
少女が、言った。
左の瞳から、炎の色が、揺れて、こぼれた。
「わたしの、ことも――」
そこで。
言葉は、途切れた。
最後まで、言わなかった。言え、なかったのか。それとも――言葉にしてしまえば確定してしまうと、どこかで知っていたのか。
私は、答えなかった。
答えられなかった、のではない。
答えては、ならなかった。
弔いは――死者にしか、できない。
すでに終わった者の名を呼び。その終わりを確定させる。それだけが、私の業だ。まだ生きている者を終わらせる術を、私は持たない。持っては、ならない。もし、それをしてしまえば――そのとき私は、弔い人ではなく、別の何かになる。
その先を、私は、考えなかった。
「……リネット」
私は、ただ、その名を、呼んだ。
鎮めるためでは、ない。終わらせるためでも、ない。ただ、そこに、生きて、いる者として。呼んだ。
少女は、答えなかった。
石になった右頬を、地面に押し当てて。生きている左の目を、そっと閉じた。拒まれたことを悟った、その顔で。
それでいて――どこか、安堵したような。
この人は、簡単には、終わらせてくれない。ならば、まだ、しばらくは。この旅は、続くのだと。
そんな、矛盾した顔で。
少女は、眠りに、落ちていった。
いつか。
この少女が、私に頼ることをやめる日が、来る気がした。
なぜ、そう思ったのかは、わからない。
ただ、その予感だけが。遠い、鐘の音のように。
この夜の底で、微かに、鳴っていた。
何の鐘かは、わからなかった。
弔いの鐘か。それとも――もっと、別の、何かの。
私は、火の傍で目を閉じた。
こういう夜、時々――ひとつだけ、思い出せる記憶がある。
名前だ。
ただ、一つの、名前。
私が、まだ、何も忘れていなかった頃の――そう思える、遠い記憶の底に。たった一つ、沈んで、消えずにいる名前。
誰の名かは、わからない。
男か、女かも。どんな顔だったかも。ただ、その名を、胸の中で、唱えると。
なぜか、泣きたく、なる。
私は、口の中で、そっと、その名を、転がしてみた。
――……。
声には、出さない。出せば、この静かな夜が壊れる気がした。
その名を、唱えるときだけ。
私の中の、擦り切れた何かが。ほんの少し、疼く。まだ、私にも人間だった頃があったのだと。誰かを、こんなにも想っていた頃があったのだと。
その名前を、私は、この腕には、刻んでいない。
刻めば、確定してしまう。この、曖昧な、揺らぐ想いが。たった一行の事実になってしまう。
だから、刻まない。
この一つだけは。
私の中で、揺らいだまま、置いておく。
――弔い人が、たった一つ、弔えずにいる名前。
それが、私を、まだ人間に繋ぎとめている。
*
目を、開けた。
何かが、頬に、触れた。
冷たい。
――雪だ。
黒い、雪。
いつのまにか、空から黒雪が降り始めていた。それも、尋常でない密度で。ひらひらと、灰の中に黒い結晶が混じって落ちてくる。
私は、身を、起こした。
黒雪は、黒陽から降る。近くで、何かが起きている。黒陽の活動が強まっている。こういう時、決まって――良くないことが、起きる。
立ち上がり、南の空を、見た。
地平の、彼方。
黒陽の、輪郭が。
いつもより、大きく見えた。脈打つように明滅している。まるで、何かを生み出す前触れのように。
足元で、犬が、低く、唸った。
リネットが、目を覚ました。私の視線を追って、南の空を見る。その顔が、強張った。石になった右頬は、動かない。だが、生きている左半分が、はっきりと怯えていた。
「……あれ」
彼女が、掠れた声で、言った。
「あれ、なに」
私は、答えられなかった。
わからなかった、からだ。
いや――正確には。
わかりたく、なかった。
なぜなら、あの、黒陽の明滅を。
私は――知っている、気がしたのだ。
前にも。何度も。これと同じ、黒雪の夜を。これと同じ、脈打つ黒陽を。私は、見てきた気がした。そして、そのたびに、何か、取り返しのつかないことが――
黒雪が、降りしきる。
その冷たさの中で。ふと、私の視線が、隣へ落ちた。
リネットが、南の空を見上げている。怯えた、左の目で。石になった右頬に、黒雪が積もっていく。感覚のない側にだけ、雪は、溶けずに残る。
――この子を。
いつか、私は。
その先を、思いかけて。
私は、目を逸らした。逸らすしかなかった。さきほど答えなかったことの意味を、まだ、私自身が決めかねている。決めては、ならないと思っている。
なのに。
黒陽は、待って、くれない。
どく、と。
背の棺が、脈打った。
まるで、来たるべきものを、待ちわびるように。
(四章 了)




