名のないもの-1
黒陽が、裂けた。
音は、なかった。
ただ、地平の彼方に浮かぶ、あの黒い円盤の縁が。ゆっくりと、開いていくのが、見えた。
あれは、光を、放たない。放たないどころか、周囲の光を、吸う。だから縁だけが、薄く、紫がかって、滲む。腐りかけた葡萄の、あの色だ。鉛色の雲の腹に、その輪郭が、じわりと、影を落としている。
太陽ではない。
誰が、あれを、陽と呼び始めたのか。
裂け目の内側は――黒く、なかった。
白でも、なかった。
色が、ない。目が、そこを、映すことを、拒む。見つめていると、眼の奥に、鈍い痛みが、生まれる。見えているはずのものを、見たと、認められずにいる。そういう痛みだ。
そして。
なぜか。
――泣きたく、なった。
自分でも、意味が、わからなかった。
恐ろしいものを、見ている。世界が裂けて、何かが、生まれ落ちようとしている。恐怖なら、わかる。戦慄なら、当然だ。
だが、これは。
喉の、奥が、詰まる。目の縁が、熱くなる。あの、色のない一点を、見つめていると――胸の、いちばん深いところが、疼く。
この感覚を、私は、知っている。
夜ごと、思い出せる、たった一つの名前。あれを、胸の中で唱えるときと。
――まったく、同じ疼き方だ。
なぜ。
なぜ、あの裂け目と、あの名前が。
私の中で、同じ場所を、押すのだ。
私は、目を、逸らした。
考えては、ならない気が、した。
ぬめり、と。
裂け目の縁が、蠕動した。
瞼のように。あるいは、産道のように。何かを、押し出そうと、するように。
――弔い人の書に、こうある。
黒陽とは、天に空いた、傷である。かつて、この世界が、あまりに強く観測されたとき。あまりに強く、誰かに、そうであれと、決めつけられたとき。世界は、その決めつけに、耐えきれず、裂けた。裂け目からは、決めつけられなかったものが、こぼれ落ちる。定まらなかったもの。名づけられなかったもの。ありえたかもしれないが、ついに、ありえなかったもの。それらは、黒陽の腹の中で、幾千年も、揺らぎ続け、腐り、発酵し、やがて――形を、持つ。持ってしまう。世界が、うっかり、それを、見てしまったときに。
見られたものは、定まる。
定まったものは、生まれる。
それが、この世界の、たった一つの、理だった。
そして今。
私は、それを、見てしまっていた。
「……神父さんよ」
ルキウスの声が、掠れていた。
「あれ、なんだ」
黒陽の裂け目から、それは、落ちてきた。
流れ星のように。だが、光では、なく。落ちてくる軌跡そのものが、黒く、抜けていた。空が、そこだけ、描き忘れられたように。
そして、街道の、二里ばかり先。
石造りの、小さな宿場町の、真上に。
それは、落ちた。
音が、遅れて、届いた。
どう、と。
腹に、響く。地面が、波打った。リネットが、よろけて、私の外套を、掴んだ。石の右手では、掴めない。左手だけで、必死に。
犬が、吠えた。
狂ったように、南へ向かって、吠え続けた。
やがて――
宿場町の方角から、悲鳴が、上がり始めた。
遠い。
だが、確かに、人の声だった。
*
走った。
「あんた、正気か!」
ルキウスが、後ろから、叫ぶ。
「今、逃げる方向、逆だぞ! みんな、こっちに逃げてくる!」
その通りだった。街道を、人が、こちらへ流れてくる。荷を捨て、履物を落とし、口を開けたまま、声も出さずに。ただ、走ってくる。
すれ違う、その、一人一人の、顔を。私は、見た。
子供を、抱えた、女。腕から、水桶が、転がり落ちても、拾おうとしなかった。老いた、男が、杖も、捨てて、転げるように、走っていた。まだ、幼い、少年が、一人。誰の手も、握らずに。ただ、必死に、足を、動かしていた。
誰も、私を、見なかった。
逆方向へ、走る、黒衣の男のことなど、目に、入る、余裕が、ないのだろう。
その流れに、逆らって。
私は、走った。
「弔い人だからだ」
息の合間に、答えた。
「死んだ者が、いる。呼ばねば、ならない」
「――くそったれ!」
ルキウスが、追いついてきた。剣を、抜いていた。
「あんた、そういうとこだよ! そういうとこが、いちばん、たちが悪い!」
リネットは、遅れた。当然だ。石の脚では、走れない。
私は、振り返らなかった。
振り返れば、置いていけなく、なる。
*
宿場町は、半分が、消えていた。
建物が、崩れたのでは、ない。
消えて、いた。
石壁の、断面が。そこだけ、綺麗に、なくなっている。切断でも、破壊でもない。存在が、途中で、途切れている。まるで、そこから先は、はじめから、描かれていなかったかのように。
私は、その断面に、近づいた。
鐘楼が、あったのだろう。石積みの塔が、地上二階ほどの高さで、断たれている。断面には、瓦礫が、ない。粉塵も、舞っていない。壁の内側の構造――梁の断面、漆喰の層、鼠の巣の跡までが、標本のように、露わになって、そこで、終わっている。
終わった、その先に。
何も、ない。
空が、見えるのでは、ない。向こう側の景色が、見えるのでも、ない。ただ、視線が、そこで、行き場を、失う。壁の縁を、指でなぞろうとして――私は、手を、止めた。
なぞる縁が、ない。
厚みが、ない。
紙を、真横から見たときのように。存在が、線に、なっている。
半分だけ残された家々の、断面が。
街道の両側に、ずらりと、並んでいた。
寝台の、半分。食卓の、半分。壁に掛かったままの、外套の、半分。誰かが、昨夜、飲みかけて置いた、酒杯の、半分。中の葡萄酒が、こぼれもせずに、断面のところで、垂直に、切り立って、静止している。
生活が。
真っ二つに、されて。
残された側だけが、まだ、律儀に、そこに、あった。
黒雪が、その断面に、降り積もっていく。
積もった雪もまた、断面から先へは、こぼれ落ちずに。ふつり、と。そこで、消えた。
その、消失の中心に。
それは、いた。
――形容が、できない。
人の背丈の、三倍ほど。輪郭は、常に、揺らいでいる。定まらない。獣のようにも、人のようにも、樹木のようにも、見えた。見るたびに、違う。目を離すと、記憶から、抜け落ちる。
いや。
順に、辿り直す。この目が、何を、拾ったのかを。
それは、まず、無数の、腕に、見えた。
人のものではない。関節の位置が、違う。数が、違う。それらが、一つの幹から、放射状に、生えている。生えていると思った瞬間には、もう、腕ではなくなっている。それは、鹿の角の群れであり、次には、水に沈んだ長い髪であり、次には、燃えていない炎の形をしていた。
形が、決まらない。
この世界の、あらゆる形を、順番に、試している。試して、どれも、しっくりこず、次へ移る。産着を選びかねている、赤子のように。
表面は、濡れて、いた。
濡れているように、見えた。黒陽の縁と同じ、あの腐りかけた葡萄の色が、その表層を、油膜のように、滑っては、消える。滑るたびに、微かな音が、した。
しゃら、と。
珠を、振るような。
あるいは――幼子が、笑うような。
それが、いちばん、恐ろしかった。
匂いも、あった。
血でも、腐肉でもない。雨の降りだしに、乾いた石畳から立ちのぼる、あの匂い。土でも水でもない、何かが、始まる直前の匂い。
それが、この世で、いちばん、悍ましい匂いに、思えた。
私は、それを、見つめた。
見つめて――背筋が、凍った。
こいつには。
輪郭が、ない。
揺らぐ者、ではない。まだ、揺らぎ、そのものだ。何にも、なっていない。何にも、なりきれていない。生まれたばかりの、未定義。
だから――
「……名前が」
私は、呟いた。
「ない」
*
弔い人の業は、単純だ。
名を、呼ぶ。
名を呼ぶとは、確定させることだ。この世界において、あらゆるものは、揺らいでいる。人も、獣も、石も、水も。すべては、確率の靄の中で、あったかもしれない自分と、なかったかもしれない自分の、あいだを、絶えず、行き来している。それを、一つに、定めるのが、観測であり――観測の中でも、もっとも強く、もっとも古く、もっとも残酷なものが、「名を、呼ぶ」という行為だ。
名を、呼ばれたものは、それ以外のものに、なれない。
だから、死者は、名を呼ばれて、はじめて、死者になる。呼ばれるまで、彼らは、死んだかもしれない自分と、生きているかもしれない自分の、あいだで、揺れ続ける。その、揺れが。彼らを、終われなくする。彼らを、悲鳴に、変える。
私は、それを、終わらせる者だ。
腕に。胸に。背に。腹に。私の全身には、これまで呼んだ、すべての名が、刻まれている。彫ったのでは、ない。呼ぶたびに、勝手に、浮き上がる。皮膚の下から、押し出されるように。両腕を、埋め尽くし。胸を、覆い。背を、這い上がり。腿の裏にまで、及んでいる。びっしりと。隙間なく。もはや、地肌の色を、思い出せないほどに。
数えたことは、ない。
数えようと、思ったことすら、ない。
なぜだ、と自問して――そこで、いつも、思考が、途切れる。まるで、その先に、行かせまいとする、何かが、あるように。指を折りかけて、やめる。目で追いかけて、逸らす。そうやって、百年。私は、この腕の意味を、見ないまま、歩いてきた。
ただ、時折。
ふと、思うことが、ある。
人が、百年で、これほど、死ぬだろうか、と。
――よせ。
いつもの、ように。私は、その問いを、押しやる。
だが。
名のないものは。
呼べない。
呼べないものは――終わらせられない。
それが、動いた。
速い。
石畳を、蹴った。いや、蹴っていない。距離が、縮まった。それだけだ。過程が、ない。
「――アベル!」
ルキウスが、私の名を、呼んだ。
押し倒された。
直後、頭上を、何かが、通過した。風では、ない。空気が、動かない。ただ、通ったところが、消えていた。私の外套の、肩から先が。断面も、焦げ跡もなく。ただ、ない。
「なんだ、今の!」
「触れられたら、終わりだ」
私は、身を、起こした。
「消える。死ぬのでは、ない。はじめから、なかったことに、される」
「もっと、怖いこと言うなよ!」
立ち上がる。
背の棺が、鳴った。
どく。
どく、どく。
脈が、速い。棺は――喜んで、いた。あれと、同じものの、匂いを、嗅ぎつけて。
私は、棺の蓋に、手を、かけた。
「ルキウス」
「なんだよ」
「町の者を、逃がせ。生きている者を、優先しろ」
「あんたは」
「死んだ者を、呼ぶ」
ルキウスが、一瞬、黙った。
それから――笑った。
乾いた、ひどい笑い方だった。
「わかったよ、神父様。あんたの仕事は、あんたがやれ」
棺が、開く。
中に、遺体は、ない。
あるのは――光だ。
白い。だが、暖かくは、ない。凍った星の、芯のような光。それが、棺の内側で、渦を巻いている。
私は、その中へ、手を、差し入れた。
「……借りる」
呟く。誰に、ともなく。この躯に眠る、無数の死者たちに。
「お前たちの名を、借りる」
腕の名が、光った。
胸の名が。背の、無数の名が。刻んできたすべての死者の名が、皮膚の下で、一斉に、灼熱する。
墓地が、燃え上がる。
渦が、応えた。伸び上がり、私の掌の中で、収束し――
槍に、なった。
黒い。
光の渦から生まれたはずのものが、光を、一切、返さない。墨を、そのまま棒状に固めたような。触れている掌の感覚だけが、そこに在ると告げていて、目は、その存在を、拒みかける。長さは、私の背丈の、ほぼ倍。重さは、ない。重さがない、という事実そのものが、掌に、重く、のしかかる。
黒い穂先だけが。
わずかに、白い燐光を、纏っていた。
その燐光が、私を、下から、照らした。
蝋を流したような、白い頬。黒雪に濡れて貼りついた、銀とも灰ともつかない髪。黒の法衣が、光を吸って、いっそう、黒く、沈む。胸元に縦に走る、たった一条の白い刺繍だけが、闇の中で、墓標のように、際立った。
私は、それを、構えた。
瓦礫の、あいだ。
崩れた石壁の、下に。腕が、一本、覗いていた。指が、まだ、動いていた。動くはずが、ない。とうに、こと切れている。
揺らいでいるのだ。
死んだかもしれない自分と、生きているかもしれない自分の、あいだで。
私は、そこへ、歩いた。
瓦礫を、どけた。
少年だった。十二か、三か。宿の、給仕の前掛けを、していた。目は、開いたまま。だが、その輪郭が、水面に、映った影のように、ぶれている。
私は、膝を、ついた。
その額に、掌を、当てる。
流れ込んでくる。名が。この子が、生まれたときに、誰かが、喜んで、つけた、その音が。
「――ヨナ」
私は、呼んだ。
光が、走った。
黒い穂先から、白い燐光が、迸る。それは宙で、文字に、なった。
名だ。
この躯に刻んできた、死者たちの名。ヴェルナーが。クラウスが。マルクが。名も告げられなかった、無数の誰かが。宙に、白く、書き起こされていく。あまりに速く、あまりに細かく、読むことは、できない。
名が、名を、呼ぶ。
一つの名の終わりが、次の名の始まりへ。数珠つなぎに、繋がって――
鎖に、なった。
髪より細い。だが、目を灼くほどに、白い。それが、蜘蛛の糸を吐き出すように、幾重にも、枝分かれし、少年の体へ、降りていく。触れた先から、鎖は、皮膚に、沈んだ。傷は、つかない。血も、出ない。ただ、水面に落ちた墨のように、少年の輪郭の内側へ、白が、染み渡っていく。
死者の名が。
この少年の名を、迎えに来ている。
輪郭が。
定まった。
――ぱき、と。
硝子に、罅が入るような音が、鳴った。少年を包んでいた、あの水面じみたぶれが、その一音で、砕けて、剥落した。剥がれた揺らぎは、黒雪の中へ、散り、溶けて、消えた。
あとに、残ったのは。
輪郭の、はっきりした。
ただの、少年の、亡骸だった。
もう、動かない。ぶれもしない。給仕の前掛けが、月明かりに、静かに、濡れていた。眠っているように、穏やかな顔だった。さっきまで、あれほど、揺らいでいたことが、嘘のように。
ぶれが、止まった。指が、動かなく、なった。少年は、確定した。死者に、なった。
「ヨナ」
もう一度、呼ぶ。
「安らかに」
私の左の前腕に。皮膚の下から、新しい文字が、浮き上がってきた。
ヨナ。
数えることを、やめて、久しい。それでも、確かに、増えた。また一つ、この体に、名が、増えた。




