名のないもの-2
次。
瓦礫の、向こう。女が、倒れている。腹に、梁が。
膝を、つく。額に、掌。
「――ミレイ」
鎖。定着。
次。
石段の下に、老人。
「――ガレト」
鎖。定着。
次。
次。
次――
私は、名を、呼び続けた。
一人ずつ。
必ず、一人ずつ。
「ヨナ」「ミレイ」「ガレト」「サシャ」「トビアス」――
まとめて、呼ぶことは、しない。できないのでは、ない。しないのだ。八人などという者は、この世に、いない。ヨナと、ミレイと、ガレトと、サシャと、トビアスが、いるだけだ。一人一人、違う顔をして、違う声で、違う誰かに、呼ばれてきた。それを、数字に、まとめた瞬間。私は、弔い人ではなく、ただの、処理人に、なる。
だから、一人ずつ。
時間が、かかっても。
背後で、悲鳴が、聞こえても。
一人、ずつ。
「アベル、後ろ!」
振り向いた。
それが、目の前に、いた。
揺らぐ輪郭。定まらない、腕のようなもの。それが、振り下ろされる。
――間に合わない。
そう、思った瞬間。
背中を。
どん、と。
押された。
私の体が、前へ、つんのめる。振り下ろされたものが、背後を、通過した。私が、さっきまで、いた場所が――消えた。
押したのは、ルキウスだった。
「行け、神父!」
叫んでいた。
「立ち止まるな! あんたが止まったら、誰が、あいつらの名前、呼ぶんだ!」
私は、たたらを踏んで、体勢を、立て直した。
振り返る。
ルキウスが、剣を、構えていた。
指の関節が、白い。当たり前だ。あれに、剣は、意味がない。斬れるものが、そこに、ないのだから。それを、この男は、わかっている。わかっていて、なお、退かない。
「ルキウス、下がれ!」
「わかってる! わかってるけど――」
それが、こちらへ、向き直った。
揺らぐ腕が、持ち上がる。
ルキウスの、方へ。
私は、駆けた。
槍を、投げた。
黒い一条が、宙を、裂き――それの、胴を、貫いた。
貫いて。
通り抜けた。
何も、起きなかった。
当然だ。名を呼ばずに放った槍は、ただの、棒きれだ。確定させる言葉を、伴わない観測は、何ものをも、定めない。
「――くそっ」
私は、走った。ルキウスと、それの、あいだへ。
割って、入る。
揺らぐ腕が、振り下ろされる。
そして。
私の、口が。
勝手に。
動いた。
――その名が。
零れた。
声には、しなかった。しなかったはずだ。ただ、唇が、その形に、動いただけ。
一度も、刻まなかった名。
誰の名かも、わからない名。
唱えると、泣きたくなる、たった一つの名。
それが。
この、絶体絶命の刹那に。私の、意思を、無視して。まるで、そうすることが、この体の、いちばん古い習慣であったかのように。
零れ落ちた。
そして――
揺らぐ腕が。
止まった。
私の、頭上、数寸のところで。ぴたり、と。
静止した。
黒雪が、降っている。
誰も、動かない。ルキウスも。それも。私も。
やがて。
名のないものが。
輪郭を、震わせた。
それは、こちらへ、向き直り――ぐにゃり、と、歪んだ。歪んで、伸びて、縮んで。何かの形を、取ろうと、した。
人の、形を。
その、揺らぐ面に。
目のような、二つの窪みが、生まれた。
窪みは、私を、見た。
見て。
それから。
――笑った。
声は、なかった。
だが、確かに、笑ったのだ。懐かしいものに、再会したときの、あの、顔で。
そして、それは、身を、翻した。
黒陽の方角へ。
跳んだ。過程は、なかった。ただ、いなく、なった。
残されたのは。
半分消えた町と。
降り続ける、黒雪と。
膝から、崩れ落ちる、私だった。
*
「……おい」
ルキウスの声が、遠い。
「おい、アベル。何した、今」
私は、答えられなかった。
答えられるはずが、なかった。
私は――何も、していない。ただ、名前が、勝手に、口から、落ちただけだ。
なのに。
あれは。
あの、名のないものは。
私の呼んだ名に、応えた。
応えて――笑った。
それは、つまり。
あの名は、あれの、名前なのか?
いや。ちがう。もし、そうなら、あれは、確定して、動けなくなったはずだ。だが、あれは、去った。自分の意思で。まるで、これ以上、ここにいる必要が、なくなった、とでも、いうように。
――では。
あれが、待っていたのは。
私が、あの名を、思い出すこと、だったのか?
「アベル」
肩を、掴まれた。
ルキウスの手だ。
「おい、しっかりしろ。あんた、真っ白だぞ」
私は、顔を、上げた。
こうして正面から見るのは、はじめてかも、しれない。傭兵くずれの、体だ。背は高く、肩は、幾度も骨を折られたのか、歪に盛り上がっている。革鎧の下から覗く腕には、古い刀傷が、幾筋も。日に灼けた肌に、無精髭。右の眉を断つように、白い傷痕が、一本、走っている。
整った顔では、ない。
だが、荒野に削られて、余計なものが、そぎ落ちた末の――獣に近い、鋭さが、あった。
その男が、今は。
心配そうに、私を、覗き込んで、いる。
仲間を、全員、失った男だ。
もう、誰も、失いたくないのだろう。
たとえ、昨日会ったばかりの、迷子の神父、一人でも。
私は、その手を、見た。
見て――息を、呑んだ。
ルキウスの、右の掌。
そこに。
火傷が、あった。
円い。硬貨ほどの、大きさ。ちょうど、私を、突き飛ばしたときに、背中の――棺に、触れた、位置。
「……ああ、これか」
ルキウスが、こともなげに、掌を、開いた。
「あんたの棺に、手え、ついちまってな。熱くはなかったんだ。冷たくもねえ。ただ、触った瞬間に、もう、こうなってた」
私は、それを、見つめた。
聖具に、灼かれた傷は。
確定する。
揺らがない。だから――治らない。二度と。
「治すぞ」
私は、言った。
「いや、治らない。だが、痛みは」
「いいって」
ルキウスが、手を、引っ込めた。
「勲章みてえなもんだろ。あんたを、一回、助けた証拠だ」
笑って、いた。
なんでもない、ことのように。
その、円い火傷を。
私は、しばらく、見ていた。
治らないものが、また、一つ、増えた。
*
リネットが、追いついてきたのは、それから、しばらく後だった。
石の脚を、引きずって。息を、切らして。フードが、外れているのにも、気づかずに。
――はじめて、私は、この少女の顔を、正面から、見た。
左半分は。
まだ、少女だった。
十六、というところか。灰と埃に汚れてはいるが、肌は、若い。癖のある亜麻色の髪が、汗で、こめかみに貼りついている。睫毛は長く、その下の、榛色の瞳は、驚くほど、澄んでいた。泣きすぎて、涸れた者の目だ。それでも、まだ、何かを、見ようとしている。
右半分は。
石だった。
だが――醜くは、なかった。
それが、残酷だった。呪いは、この少女を、崩さなかった。壊しもしなかった。ただ、玲瓏と、凍らせた。頬の稜線も、鼻梁も、唇の輪郭も、そのままに。生きていた頃の造作を、寸分たがわず、留めたまま。灰白色の、石英じみた質感に、置き換えている。
黒陽の光を、その半面が、鈍く、返した。
美しい、と。
思ってしまった自分を、私は、恥じた。
墓標だ。
これは、生きたまま立てられた、墓標だ。彫像に彫られた聖女のように整ったこの半面は、彼女が、もう二度と、笑うことも、泣くことも、老いることもできない側の、証明でしかない。
左の目が、瞬いた。
右の目は、瞬かない。
半分だけ、生きている。
半分だけ、終わっている。
そして、そのどちらにも、なりきれずに、この少女は、立って、いた。
半分、消えた町を、見た。
そして、地面に、並べられた、八つの、亡骸を。
私は、その傍らに、座って、いた。
少女は、何も、言わなかった。
ただ、私の、隣に。ゆっくりと、腰を、下ろした。
黒雪が、降っている。
少女の、石になった右頬に、積もっていく。溶けない側に、だけ。
「……神父、さま」
「なんだ」
「この人たちは」
少女が、亡骸を、見つめた。
「もう、終われた、のですか」
私は、答えた。
「ああ」
「……そう、ですか」
それきり、少女は、黙った。
その横顔を、私は、見なかった。
見ては、いけない気が、した。
*
夜が、明けた。
黒雪は、やんでいた。
黒陽の裂け目も、いつのまにか、閉じている。何事も、なかったかのように、あの黒い円盤は、地平に、浮かんでいた。
私は、荷を、まとめた。
南へ。
あれが、跳んでいった方角へ。
「行くのか」
ルキウスが、訊いた。火傷のある掌で、剣の柄を、握りながら。
「行く」
「あれ、追って?」
「ああ」
「勝てんのかよ」
私は、答えなかった。
勝てない。名前がなければ、私の業は、届かない。
だが。
あれは、私の呼んだ名に、応えた。
ならば、あれは、知っている。
あの名が、誰の名か。
私が、ずっと、思い出せずにいた、たった一つの――
「神父さま」
リネットが、立ち上がった。
外れたフードを、被り直しながら。
「わたしも、行きます」
「遅れるぞ」
「遅れます」
少女は、はっきりと、言った。
「遅れても、行きます」
私は、少女を、見た。
それから――頷いた。
三人と、一匹。
妙な、一行が。
灰の街道を、南へ、歩き出す。
歩きながら。
私は、左の前腕を、めくって、見た。
昨夜、刻まれた名が、並んでいる。
ヨナ。ミレイ。ガレト。サシャ。トビアス。
そして――
私は、動きを、止めた。
六つ目に。
見覚えのない文字が、浮き上がっていた。
昨夜、私は、五人しか、呼んでいない。八つの亡骸のうち、三人は、名が、流れ込んでこなかった。だから、呼べなかった。呼べていない。
なのに。
六つ目の名が、ある。
私の、皮膚の下から。押し出されるように。ゆっくりと、時間をかけて、今まさに、浮かび上がりつつある。
まだ、途中だ。文字は、半分しか、見えない。
だが、その、最初の一文字を。
私は、知っていた。
思い出せずにいた、あの名の。
最初の、一文字だった。
――刻まれて、しまう。
この名が、確定して、しまう。
私は、腕を、押さえた。爪を、立てた。血が、滲んだ。
止まらなかった。
文字は、ゆっくりと、確実に。
浮かび、続けていた。
(五章 了)




