読めない名-1
名は、朝までに、浮かび終えていた。
左の前腕。ヨナの名の、すぐ下。
六つ目。
私が、呼んでいない、名。
私は、それを、読もうと、した。
読め、なかった。
文字は、そこにある。輪郭も、はっきりしている。皮膚の下から押し上げられた、いつもと同じ白い隆起。指でなぞれば、確かに凹凸を感じる。目を近づける。灰の朝の薄い光の下で、それは、確かに、私の腕に、在る。
なのに。
目が、滑る。
見ようとした瞬間、視線が、その一行の上を通り過ぎてしまう。読み取る手前で、意識が逸れる。まるで、そこだけ、私の中の何かが、頑なに拒んでいるように。
――どこかで、これと、同じ感覚を。
黒陽の、裂け目だ。
あの、色のない内側。目が映すことを拒んだ、あの一点。
同じだ。
私の腕に、いま、あの裂け目と同じものが彫られている。
左手を、伸ばした。
指の腹で、最初の一文字をなぞる。
――そこだけが。
熱かった。
刻まれたばかりの名は、しばらく熱を持つ。それは、知っている。飽きるほど経験してきた。だが、これは、違った。刻まれた熱では、ない。
もっと、古い。
何十年も前に灼かれた場所が、いまごろになって、思い出したように疼き始めた。そういう熱だった。
私は、腕を、押さえた。
それから、外套の袖を下ろした。
深く。手首まで。指の付け根が、隠れるまで。
誰にも、見せては、ならない。
――なぜ?
自分に問うた。答えは、返ってこなかった。ただ、腹の底で、何かがそう命じた。命令の理由を、私は知らない。知らないまま、私はそれに従った。
ずっと、そうやって、生きてきた気がした。
*
「なあ、神父さんよ」
ルキウスが、隣に並んだ。
「あんた、さっきから、左腕、庇ってねえか」
鋭い。この男は、こういうところが、鋭い。
「気のせいだ」
「昨日も、そう言ってたな」
ルキウスが、笑った。だが、目は、笑って、いなかった。
「あんたの『気のせいだ』は、だいたい、いちばん、気にしなきゃならんことだ。……三日で、覚えた」
私は、答えなかった。
答えれば、次の問いが来る。「何が、刻まれた」と。そして私は、「読めない」と答えねばならない。
自分の躯に刻まれた名を、読めない弔い人。
それを、口に出してしまえば――確定して、しまう。
男は、それ以上、追及しなかった。しばらく、黙って歩いていた。灰を踏む足音だけが、二人のあいだを埋めていた。
朝の光は、弱かった。それでも、灰色の街道に、わずかな陰影を作っていた。ルキウスの影が、私の影と並んで伸びている。
彼は、ふと足を止めた。
かわりに、右の掌を開いて、日にかざした。
円い、火傷。
昨日、私の棺に触れて、灼かれた痕だ。
「なあ、これさ」
こともなげに、言う。
「ちっとも、痛くねえんだ。触っても、押しても、何も感じねえ。なのに、消えねえ。ずっと、そこに、ある」
私は、その掌を見た。
痛みが、ない。感覚が、ない。だが、消えない。
――誰かが、それを、言っていた。
つい、昨日。
少し、後ろを振り返る。
リネットが、いた。石の脚を引きずって。遅れながら、それでも必死についてくる。
同じだ、と思った。
この男の掌の火傷と、あの少女の右半身は。
規模が違うだけで、まったく、同じものだ。
固定されて、しまったもの。もう、二度と、揺らげないもの。
そして――私の腕の、あの読めない一行も。
私は、袖の上から、そこを押さえた。
*
昼を過ぎた頃。
街道が、途切れた。
正確には――街道の先に、村が、あった。
石造りの、小さな村だ。二十戸ほど。麦を作っていたのだろう。村の外れに、痩せた畑の跡が、灰に埋もれて残っている。
村の入り口に、小さな祠が、あった。
石を積んだだけの、簡素なものだ。中に、木彫りの像が一体。風雨に晒されて、顔の造作は、もう、判然としない。それでも、その像は、両手を合わせるような姿勢をしていた。
誰を、祀っていたのか。
もう、誰も、答えられない。
その祠の裏手に。
もっと、古いものが、あった。
半ば土に埋もれた、石の台座。祠の石とは、明らかに質が違う。もっと緻密に削られ、もっと硬い石だった。表面に、文字が刻まれている。
だが――読めなかった。
弔い人の書とも、この街道で見かける、どの標識とも違う文字だった。角張った、幾何学的な記号の連なり。何度も目で辿ってみたが、意味を成さなかった。
この村より、明らかに、古い。
この村が、まだ建っていなかった頃から。あるいは――この村を築いた者たちが生まれるより、ずっと前から。ここに、あったのかもしれない。
誰が、これを、作ったのか。
何のために。
答える者は、もう、いない。この台座を覚えている者すら、もう、いない。村人たちでさえ、これをどう扱えばいいのか、忘れてしまっていたのだろう。祠を、その傍らに建てながら。まるで、意味のわからないものに、意味を後から取り繕うように。
私は、その文字を指でなぞってみた。
何も、起きなかった。
当然だ。これは、死者の名では、ない。
だが――何者かの痕跡には、違いなかった。この世界には、私の知らない、遥かに古い時代が。何層にも積み重なって埋もれているのかもしれない。
弔い人の書を、誰が私に教えたのかも。
この文字を、誰が刻んだのかも。
同じように、わからないままだ。
建物は、無事だった。
崩れても、消えても、いない。屋根も、壁も、扉も、そのままだ。井戸の縁に、桶が置かれている。物干しの縄には、洗濯物が、まだ垂れ下がっていた。灰に汚れきって、もとの色がわからなくなった、誰かの下着。
開いたままの、扉が、あった。
私は、その奥を覗いた。
暖炉に、薪が組まれたままだった。火は、点けられていない。食卓に、皿が三枚。まだ湯気を上げていそうな椀が、ひとつ。
誰も、食べなかった。
誰も、これから、食べるはずだった。
人が、いた。
村の、広場に。
十数人。
立って、いた。
座っている者も、いた。井戸の傍で、水を汲もうと腰を屈めた姿勢のまま。子供を抱き上げようと、両腕を差し出した形のまま。二人が向かい合って、何かを話していた途中の、口の形のまま。
全員が。
灰白色の、石に、なっていた。
「……なんだ、こりゃ」
ルキウスの声が、掠れた。
私は、答えなかった。
答えられ、なかった。
風が、吹いた。灰が、石の人々の肩を撫でて、通り過ぎていく。誰も、身じろぎしない。誰も、瞬きしない。物干しの縄だけが、きしり、と、鳴った。
石の村だった。
黒雪病が、この村を通ったのだ。おそらく、一晩で。逃げる暇も、なく。ある者は水を汲み、ある者は子を抱き、ある者は隣人と喋りながら――そのまま、止まった。
彫像ではない。
彫像なら、彫った者の意図がある。美化があり、省略があり、誇張がある。
これには、それが、ない。
顔の皺の一本まで。爪の割れ目まで。子供の鼻の下に垂れかけた、鼻水の一滴まで。すべてが、そのまま灰白色に置き換わっている。あまりに正確すぎて――かえって、恐ろしかった。
世界が、この村を、そのまま、写し取った。
そして、写し取ったまま、手を、離した。
石の人々の、目は。
みな、開いて、いた。
「……アベル」
ルキウスが、私の袖を掴んだ。
「なあ。この人ら、まさか」
「ああ」
私は、頷いた。
「死んでは、いない」
*
弔い人の書に、こうある。
――石化した者を、弔ってはならない。
誰から、教わったのか。
思い出せない。師の顔も、声も、名も。だが、この一行だけは。まるで、生まれる前から、この頭のいちばん深いところに刻まれていたかのように。迷わず、出てくる。
記憶は、失っている。なのに、なぜ、これだけは。
考えても、答えは出ない。いつものことだ。
私がこの業を始めてから幾度この一行を呪ったか、わからない。
理屈は単純だ。単純すぎて、残酷だ。
弔いとは揺らいでいるものを確定させる行為である。死んだかもしれない自分と生きているかもしれない自分のあいだで永遠に震え続けている者に、「お前は死んだ」と名を呼んで定めてやる。揺れを止めてやる。宙吊りの一生に、たった一行の決着をつけてやる。それが私の業だ。
だが、石化した者は。
もう、揺らいで、いない。
黒雪病とは確定の病である。侵した場所から順に、その者を、動かぬものへと定めていく。指を。腕を。頬を。そして最後に、心の臓を。確定した肉は二度と揺らがない。傷つかず、朽ちず、老いず、腐りもせず、ただそのままの姿で、世界が終わるまでそこに在り続ける。
完璧に固定されてしまっている。
では、彼らは、死んでいるのか。
――違う。
死とは揺らぎが止むことだ。生から死へと状態が移ることだ。移るためには、まず揺らがねばならない。生きているかもしれず死んでいるかもしれぬあの震えを通り抜けて、初めて人は死者になる。
だが、この者たちは、揺らぐ前に固定された。
生から死へ移る、その一歩を。踏み出す前に、足を、石に、されたのだ。
だから、彼らは。
生きても、いない。
死んでも、いない。
その、どちらでもない場所で。永遠に。
名を呼んでも無駄だ。すでに確定しているものをさらに確定させることはできない。私の光の鎖は揺らぎにしか絡まぬのだから、この者たちに投げたところで、石の表面をするりと滑って虚空へ抜けていくだけだろう。
彼らを終わらせる方法は、この世界に存在しない。
少なくとも――私は、知らない。
ずっと、探してきて。
まだ、知らない。




