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黒陽黙示録アベル ― RE:NEHEMOS  作者: 鉄川零


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13/16

読めない名-2

背後で、音が、した。


 石を、引きずる音。


 振り返った。


 リネットが、村へ入ってきていた。


 少女は、広場の真ん中で止まった。


 フードを被っていない。昨日、外れたまま、被り直すのを忘れているのか。それとも――もう、隠す意味がないと思ったのか。


 その、灰白色の右半面が。


 石の人々の、灰白色と。


 まったく、同じ色を、していた。


 少女は、動かなかった。


 石の女を見ていた。子を抱き上げようと両腕を差し出した、その姿勢のまま止まった、若い母親を。母の顔は、笑っていた。子に向ける、あの、なんでもない日常の笑みで。永遠に。


 リネットの、左の手が。


 ゆっくりと、持ち上がった。


 石の母の、頬に。


 触れた。


 指が、頬の稜線を、辿る。


 少女の、肩が。


 跳ねた。


 「――っ」


 息を、呑む音。


 手を、引こうとして。引けずに。指が、石の頬に、貼りついたまま、震えている。


 「……つめたい」


 呟いた。


 「ちがう」


 自分で、否定した。


 「つめたく、ない。あたたかくも、なくて、それで」


 言葉が、途切れる。


 「それで、なんにも、なくて」


 喉が、鳴った。


 「これ」


 少女の声が、掠れた。


 「これ、しってる」


 その声が、私の、腹の底を、灼いた。


 この少女は、知っているのだ。この温度を。母の頬で、一度、触れている。


 「神父さま」


 振り返った、その顔を。


 私は、見た。


 左の目が、濡れていた。右の目は、乾いたままだった。石は、涙を流せない。


 「この人たちを」


 少女は、言った。


 「終わらせて、あげて、ください」


 ――来た。


 昨夜、途切れた言葉の続きだ。


 自分のことは、言えなかった。だから、他人を口実にした。この少女は、そういう回り道でしか願えない。


 「できない」


 私は、答えた。


 「なぜ」


 「揺らいで、いないからだ」


 「……揺らいで」


 「弔いは、揺らぐものにしか、届かない。この者たちは、もう、固定されている。私の鎖は、絡まない。名を呼んでも、何も、起きない」


 「じゃあ」


 少女の、声が。


 初めて、震えた。


 「じゃあ、この人たちは。ずっと、このまま、なんですか」


 「……ああ」


 「灰が積もっても。何十年、経っても。誰も、来なくなっても」


 「ああ」


 「ずっと」


 「ずっとだ」


 私は、言った。


 言わねば、ならなかった。


 嘘をつくことも、できた。「いつか方法が見つかる」と。「私が探している」と。実際、探してはいる。だが、それは、慰めであって、事実では、ない。


 この少女に、慰めを渡してはならない。


 慰めは、いずれ裏切る。裏切られたとき、この少女は、もう、誰も信じない。


 だから、私は、事実だけを渡した。


 残酷な、事実だけを。


 リネットは、しばらく、黙っていた。


 それから――笑った。


 石の右頬は、動かない。左の口角だけが、歪に、持ち上がる。ひどい、笑い方だった。


 「わたしも」


 少女は、言った。


 「そう、なるんですね」


 私は、答えなかった。


 答えれば、確定して、しまう。


 この少女は、まだ、揺らいでいる。半分は。まだ、半分は。


 だから、私は、答えて、ならない。


 風が、吹いた。


 石の人々のあいだを抜けていく。物干しの縄が、また、きしり、と、鳴った。


 犬が、リネットの足元に寄ってきた。


 鼻先で、少女の生きている側の左手を突いた。


 少女は、その頭を、撫でた。


 撫でながら――泣いた。


 声を、上げずに。左の目からだけ。


 私は、それを、見ていることしか、できなかった。



 村を出たのは、日が傾く頃だった。


 出る前に、私は、一つだけ、した。


 石の人々の、一人ずつに。


 手を、当てた。


 名は、流れてこない。当然だ。彼らは、揺らいでいない。読むべき濁流が、そこには、ない。ただ、静かな石の手応えが、あるだけだ。


 冷たくも、温かくも、ない。あの、なんでもない温度。掌に伝わってくるのは、ただ、硬く、滑らかな感触だけだった。


 水を汲もうとした、女の腰の屈み方。子を抱き上げようとした、母の腕の伸ばし方。それぞれの最後の動きが、そのまま、石の中に閉じ込められている。


 それでも、私は全員に触れた。十七人。一人ずつ。


 弔えは、しない。


 だが、触れることは、できる。


 誰かが、ここに来たと。あなたたちを見た者が、いたと。それだけは、この村に残せる。


 観測されなかったものは、揺らぎ、崩れていく。


 ならば――観測することにも、意味は、あるはずだ。


 弔えなくとも。


 見ることは、できる。


 最後の一人から、手を離したとき、ルキウスが、言った。


 「……あんた、それ、意味あんのか」


 「ない」


 私は、答えた。


 「たぶん、何の意味も、ない」


 「じゃあ、なんで」


 「私が、そうしたかったからだ」


 ルキウスは、しばらく、私を見ていた。


 それから、火傷のある掌で、頭を掻いた。


 「……そうかよ」


 そして、彼は井戸へ歩いていった。


 石になった男の手から、そっと桶を取り上げ。


 水を、汲んだ。


 汲んで、その水を、石の人々の足元に撒いた。


 乾いた石が、水を吸って、色を濃くした。


 「花なんざ、ねえからな」


 男は、そう言って、桶を元の場所へ戻した。石の手が、ずっと掴んでいた、その位置へ。ぴたりと、収まるように。


 私は、その背中を、見ていた。


 この男は。


 私が、百年かけて、たどり着いた場所へ。


 三日で、来た。



 夜が、来た。


 村から半里ほど離れた、崩れた石壁の陰で、火を焚いた。


 ここからでも、村の輪郭が、見えた。


 月明かりの下で、灰色の影の集まりのように。屋根の稜線。傾いだ煙突。そして、広場に点々と立ち並ぶ、人の形をした影。


 風が、その方角から、吹くたび。


 微かに、軋むような、音が、した。


 物干しの縄が、鳴っているのだろう。そう、自分に言い聞かせた。


 ルキウスは、早々に寝入った。犬も、その傍らで丸くなっている。


 リネットは、眠らなかった。


 火の向こうで、膝を抱えて座っている。石になった右半身を、火に向けて。そうすると暖かいのだと、いつか言っていた。感覚のない側を、火に預けるのだと。


 ――嘘だ。


 感覚のない側が、暖かいはずが、ない。


 この少女は、たぶん、生きている側を火から遠ざけているのだ。


 温もりを、感じないように。


 それが、心地よいと、思ってしまわないように。


 生きていることの快さを。ひとつずつ、自分から遠ざけている。


 私は、何も、言わなかった。


 火が、爆ぜた。


 私は、左腕の袖をまくった。


 あの一行を、もう一度、読もうと、した。


 やはり、読めない。


 目が、滑る。文字の上を、視線が、通り過ぎる。腹立たしいほど、そこに、在るのに。


 「……神父さま」


 顔を、上げた。


 リネットが、こちらを見ていた。


 いや。


 私の、腕を。


 「それ」


 少女が、言った。


 「新しい、名前ですか」


 私は、袖を、下ろそうとした。


 が。


 少女の、言葉の方が、速かった。


 「――ミリア」


 時間が、止まった。


 火の爆ぜる音が、消えた。風の音も。犬の寝息も。


 何も、聞こえなく、なった。


 ミリア。


 ミリア。


 ミリア、ミリア、ミリア――


 その音が、私の、頭蓋の内側で、反響した。何重にも。何百重にも。まるで、井戸の底へ、石を、落としたように。落ちて、落ちて、いつまでも、底に、届かない。


 知って、いる。


 知っている。この名を。


 百年、思い出せなかった、あの名だ。唱えると、泣きたくなる、あの、たった一つの――


 「し、んぷ、さま?」


 リネットの声が、遠い。


 「あの、どうか、しましたか。わたし、何か」


 私は、自分の、右手を、見た。


 震えて、いた。


 いや、震えているのは、右手だけでは、なかった。膝が。肩が。顎が。全身が、がたがたと、鳴っていた。歯の根が、合わない。


 寒くは、ない。


 これは、恐怖だ。


 だが――何に対する、恐怖だ?


 名を、思い出したことか。


 違う。


 私が、恐れているのは。


 この名を、他人が、読み上げたことだ。


 声に、出されたことだ。


 ――観測された。


 ――確定して、しまった。


 背の棺が。


 どく、と。


 鳴った。


 一度では、なかった。


 どく。


 どく、どく、どく、どく――


 早鐘のように。喜悦のように。まるで、ずっと、待っていたものが、ついに、来たとでも、いうように。


 棺の封印が。


 ぴしり、と。


 罅割れる音が、した。


 「……アベル?」


 いつのまにか、ルキウスが、起き上がっていた。


 「おい、あんた、なんだ、その音」


 私は、答えられなかった。


 答える、どころではなかった。


 なぜなら――


 私の、左腕の。


 あの、読めなかった一行が。


 いま、はっきりと。


 読めて、しまっていた。


 ミリア。


 その、五文字の、下に。


 いつのまにか、もう一行、浮かび上がって、いた。


 さっきまでは、なかった。


 断じて、なかった。


 私は、それを、読んだ。


 ミリア。


 ただ、それだけだった。


 他には、何も、増えて、いない。


 ――ならば、なぜ。


 棺は、これほど、喜んでいる。


 私は、腕を、見た。


 手首から、肘へ。肘から、二の腕へ。名は、下から上へ、順に、積まれていく。新しいものほど、上に。古いものほど、下に。


 ならば。


 いちばん古い名は。


 手首の、いちばん、端に。


 私は、そこへ、目を、落とした。


 ――見たことが、なかった。


 ずっと、この腕を、見てきた。毎日のように、名をなぞり、数えるのをやめ、それでも、見てきた。なのに、いちばん端の、その一行だけは。


 一度も、読んだことが、なかった。


 なぜ。


 答えは、すぐに、わかった。


 目が、滑るからだ。


 ミリアと、同じだ。読もうとすると、視線が、逸れる。私は、そこを、読み飛ばしてきた。読み飛ばしていることにすら、気づかずに。


 だが。


 いまは。


 「――アベル=レギス」


 声に、出して、いた。


 自分の名が、自分の腕の、いちばん古い場所に。


 弔われた者として、刻まれていた。


 その隣に。


 もう一つ、あった。


 名では、ない。


 文字だ。三文字。私の刻印とは、まるで違う。私の名は、皮膚の下から押し上げられた、白い隆起だ。だが、それは――彫られていた。外から。刃物か、爪か、何かで。乱暴に。深く。


 誰かが。


 私の腕に。


 書き込んだのだ。


 私が、眠っているあいだにか。それとも、私が、私でなかったあいだにか。


 三文字は、こう、読めた。


 ――また来た。


 風が、吹いた。


 火が、消えかけた。


 「アベル」


 ルキウスの声が、遠い。


 「おい。なんだよ、その顔」


 私は、答えられなかった。


 答える言葉を、持って、いなかった。


 この腕は、私の躯だ。ずっと、私だけのものだった。


 だが、いま、わかった。


 ――誰かが。


 私を、外から、見ている。


 私が名を刻み、歩き、忘れ、また刻む。その、すべてを。


 そして、そいつは、面倒くさそうに、こう、書いたのだ。


 また来た、と。


 まるで。


 ――何度目かも、数えて、いないような顔で。


(六章 了)

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