読めない名-2
背後で、音が、した。
石を、引きずる音。
振り返った。
リネットが、村へ入ってきていた。
少女は、広場の真ん中で止まった。
フードを被っていない。昨日、外れたまま、被り直すのを忘れているのか。それとも――もう、隠す意味がないと思ったのか。
その、灰白色の右半面が。
石の人々の、灰白色と。
まったく、同じ色を、していた。
少女は、動かなかった。
石の女を見ていた。子を抱き上げようと両腕を差し出した、その姿勢のまま止まった、若い母親を。母の顔は、笑っていた。子に向ける、あの、なんでもない日常の笑みで。永遠に。
リネットの、左の手が。
ゆっくりと、持ち上がった。
石の母の、頬に。
触れた。
指が、頬の稜線を、辿る。
少女の、肩が。
跳ねた。
「――っ」
息を、呑む音。
手を、引こうとして。引けずに。指が、石の頬に、貼りついたまま、震えている。
「……つめたい」
呟いた。
「ちがう」
自分で、否定した。
「つめたく、ない。あたたかくも、なくて、それで」
言葉が、途切れる。
「それで、なんにも、なくて」
喉が、鳴った。
「これ」
少女の声が、掠れた。
「これ、しってる」
その声が、私の、腹の底を、灼いた。
この少女は、知っているのだ。この温度を。母の頬で、一度、触れている。
「神父さま」
振り返った、その顔を。
私は、見た。
左の目が、濡れていた。右の目は、乾いたままだった。石は、涙を流せない。
「この人たちを」
少女は、言った。
「終わらせて、あげて、ください」
――来た。
昨夜、途切れた言葉の続きだ。
自分のことは、言えなかった。だから、他人を口実にした。この少女は、そういう回り道でしか願えない。
「できない」
私は、答えた。
「なぜ」
「揺らいで、いないからだ」
「……揺らいで」
「弔いは、揺らぐものにしか、届かない。この者たちは、もう、固定されている。私の鎖は、絡まない。名を呼んでも、何も、起きない」
「じゃあ」
少女の、声が。
初めて、震えた。
「じゃあ、この人たちは。ずっと、このまま、なんですか」
「……ああ」
「灰が積もっても。何十年、経っても。誰も、来なくなっても」
「ああ」
「ずっと」
「ずっとだ」
私は、言った。
言わねば、ならなかった。
嘘をつくことも、できた。「いつか方法が見つかる」と。「私が探している」と。実際、探してはいる。だが、それは、慰めであって、事実では、ない。
この少女に、慰めを渡してはならない。
慰めは、いずれ裏切る。裏切られたとき、この少女は、もう、誰も信じない。
だから、私は、事実だけを渡した。
残酷な、事実だけを。
リネットは、しばらく、黙っていた。
それから――笑った。
石の右頬は、動かない。左の口角だけが、歪に、持ち上がる。ひどい、笑い方だった。
「わたしも」
少女は、言った。
「そう、なるんですね」
私は、答えなかった。
答えれば、確定して、しまう。
この少女は、まだ、揺らいでいる。半分は。まだ、半分は。
だから、私は、答えて、ならない。
風が、吹いた。
石の人々のあいだを抜けていく。物干しの縄が、また、きしり、と、鳴った。
犬が、リネットの足元に寄ってきた。
鼻先で、少女の生きている側の左手を突いた。
少女は、その頭を、撫でた。
撫でながら――泣いた。
声を、上げずに。左の目からだけ。
私は、それを、見ていることしか、できなかった。
*
村を出たのは、日が傾く頃だった。
出る前に、私は、一つだけ、した。
石の人々の、一人ずつに。
手を、当てた。
名は、流れてこない。当然だ。彼らは、揺らいでいない。読むべき濁流が、そこには、ない。ただ、静かな石の手応えが、あるだけだ。
冷たくも、温かくも、ない。あの、なんでもない温度。掌に伝わってくるのは、ただ、硬く、滑らかな感触だけだった。
水を汲もうとした、女の腰の屈み方。子を抱き上げようとした、母の腕の伸ばし方。それぞれの最後の動きが、そのまま、石の中に閉じ込められている。
それでも、私は全員に触れた。十七人。一人ずつ。
弔えは、しない。
だが、触れることは、できる。
誰かが、ここに来たと。あなたたちを見た者が、いたと。それだけは、この村に残せる。
観測されなかったものは、揺らぎ、崩れていく。
ならば――観測することにも、意味は、あるはずだ。
弔えなくとも。
見ることは、できる。
最後の一人から、手を離したとき、ルキウスが、言った。
「……あんた、それ、意味あんのか」
「ない」
私は、答えた。
「たぶん、何の意味も、ない」
「じゃあ、なんで」
「私が、そうしたかったからだ」
ルキウスは、しばらく、私を見ていた。
それから、火傷のある掌で、頭を掻いた。
「……そうかよ」
そして、彼は井戸へ歩いていった。
石になった男の手から、そっと桶を取り上げ。
水を、汲んだ。
汲んで、その水を、石の人々の足元に撒いた。
乾いた石が、水を吸って、色を濃くした。
「花なんざ、ねえからな」
男は、そう言って、桶を元の場所へ戻した。石の手が、ずっと掴んでいた、その位置へ。ぴたりと、収まるように。
私は、その背中を、見ていた。
この男は。
私が、百年かけて、たどり着いた場所へ。
三日で、来た。
*
夜が、来た。
村から半里ほど離れた、崩れた石壁の陰で、火を焚いた。
ここからでも、村の輪郭が、見えた。
月明かりの下で、灰色の影の集まりのように。屋根の稜線。傾いだ煙突。そして、広場に点々と立ち並ぶ、人の形をした影。
風が、その方角から、吹くたび。
微かに、軋むような、音が、した。
物干しの縄が、鳴っているのだろう。そう、自分に言い聞かせた。
ルキウスは、早々に寝入った。犬も、その傍らで丸くなっている。
リネットは、眠らなかった。
火の向こうで、膝を抱えて座っている。石になった右半身を、火に向けて。そうすると暖かいのだと、いつか言っていた。感覚のない側を、火に預けるのだと。
――嘘だ。
感覚のない側が、暖かいはずが、ない。
この少女は、たぶん、生きている側を火から遠ざけているのだ。
温もりを、感じないように。
それが、心地よいと、思ってしまわないように。
生きていることの快さを。ひとつずつ、自分から遠ざけている。
私は、何も、言わなかった。
火が、爆ぜた。
私は、左腕の袖をまくった。
あの一行を、もう一度、読もうと、した。
やはり、読めない。
目が、滑る。文字の上を、視線が、通り過ぎる。腹立たしいほど、そこに、在るのに。
「……神父さま」
顔を、上げた。
リネットが、こちらを見ていた。
いや。
私の、腕を。
「それ」
少女が、言った。
「新しい、名前ですか」
私は、袖を、下ろそうとした。
が。
少女の、言葉の方が、速かった。
「――ミリア」
時間が、止まった。
火の爆ぜる音が、消えた。風の音も。犬の寝息も。
何も、聞こえなく、なった。
ミリア。
ミリア。
ミリア、ミリア、ミリア――
その音が、私の、頭蓋の内側で、反響した。何重にも。何百重にも。まるで、井戸の底へ、石を、落としたように。落ちて、落ちて、いつまでも、底に、届かない。
知って、いる。
知っている。この名を。
百年、思い出せなかった、あの名だ。唱えると、泣きたくなる、あの、たった一つの――
「し、んぷ、さま?」
リネットの声が、遠い。
「あの、どうか、しましたか。わたし、何か」
私は、自分の、右手を、見た。
震えて、いた。
いや、震えているのは、右手だけでは、なかった。膝が。肩が。顎が。全身が、がたがたと、鳴っていた。歯の根が、合わない。
寒くは、ない。
これは、恐怖だ。
だが――何に対する、恐怖だ?
名を、思い出したことか。
違う。
私が、恐れているのは。
この名を、他人が、読み上げたことだ。
声に、出されたことだ。
――観測された。
――確定して、しまった。
背の棺が。
どく、と。
鳴った。
一度では、なかった。
どく。
どく、どく、どく、どく――
早鐘のように。喜悦のように。まるで、ずっと、待っていたものが、ついに、来たとでも、いうように。
棺の封印が。
ぴしり、と。
罅割れる音が、した。
「……アベル?」
いつのまにか、ルキウスが、起き上がっていた。
「おい、あんた、なんだ、その音」
私は、答えられなかった。
答える、どころではなかった。
なぜなら――
私の、左腕の。
あの、読めなかった一行が。
いま、はっきりと。
読めて、しまっていた。
ミリア。
その、五文字の、下に。
いつのまにか、もう一行、浮かび上がって、いた。
さっきまでは、なかった。
断じて、なかった。
私は、それを、読んだ。
ミリア。
ただ、それだけだった。
他には、何も、増えて、いない。
――ならば、なぜ。
棺は、これほど、喜んでいる。
私は、腕を、見た。
手首から、肘へ。肘から、二の腕へ。名は、下から上へ、順に、積まれていく。新しいものほど、上に。古いものほど、下に。
ならば。
いちばん古い名は。
手首の、いちばん、端に。
私は、そこへ、目を、落とした。
――見たことが、なかった。
ずっと、この腕を、見てきた。毎日のように、名をなぞり、数えるのをやめ、それでも、見てきた。なのに、いちばん端の、その一行だけは。
一度も、読んだことが、なかった。
なぜ。
答えは、すぐに、わかった。
目が、滑るからだ。
ミリアと、同じだ。読もうとすると、視線が、逸れる。私は、そこを、読み飛ばしてきた。読み飛ばしていることにすら、気づかずに。
だが。
いまは。
「――アベル=レギス」
声に、出して、いた。
自分の名が、自分の腕の、いちばん古い場所に。
弔われた者として、刻まれていた。
その隣に。
もう一つ、あった。
名では、ない。
文字だ。三文字。私の刻印とは、まるで違う。私の名は、皮膚の下から押し上げられた、白い隆起だ。だが、それは――彫られていた。外から。刃物か、爪か、何かで。乱暴に。深く。
誰かが。
私の腕に。
書き込んだのだ。
私が、眠っているあいだにか。それとも、私が、私でなかったあいだにか。
三文字は、こう、読めた。
――また来た。
風が、吹いた。
火が、消えかけた。
「アベル」
ルキウスの声が、遠い。
「おい。なんだよ、その顔」
私は、答えられなかった。
答える言葉を、持って、いなかった。
この腕は、私の躯だ。ずっと、私だけのものだった。
だが、いま、わかった。
――誰かが。
私を、外から、見ている。
私が名を刻み、歩き、忘れ、また刻む。その、すべてを。
そして、そいつは、面倒くさそうに、こう、書いたのだ。
また来た、と。
まるで。
――何度目かも、数えて、いないような顔で。
(六章 了)




