欠陥品
夜だった。
石の村を出て、二日。街道の途中、崩れた石壁の陰で、俺は一人、火の番をしていた。
アベルは眠っていなかった。少し離れた場所で、自分の左腕をじっと見つめている。あの「また来た」の一件から、ずっとあの調子だ。何を考えているのか、俺にはわからない。訊いても答えないだろう。
リネットは眠っていた。犬も。
俺だけが、どちらでもなく、真ん中で火の番をしていた。
外套の前を、掻き合わせた。
支給品の、灰緑の軍外套だ。除隊の手続きなんぞ踏んでいないから、これは俺のものじゃない。盗品だ。裾は、膝の下で切り落としてある。長いままだと灰を吸って重くなる。切り口は、ほつれ放題だ。縫う道具も、縫う気も、なかった。
左の胸に、色の濃い部分が、四角く残っている。
階級章を、毟り取った跡だ。三年、そこに縫いつけられていたぶんだけ、その四角だけが、陽に灼けていない。第七街道警備隊。俺たちの、正式な名。その名を示すものを、俺は、あの日、指で引き千切って、灰の中へ捨てた。
なのに、跡だけが残る。
この世界は、そういうふうにできている。捨てたものほど、形が残る。
襟の内側に、手をやった。
鉄札が、十二枚。
紐を通して、首から下げている。歩くたび、微かに鳴る。かちり、かちり、と。乾いた、小さな音。最初の頃は、その音が耳障りで、布を挟んで黙らせようとした。やめた。
鳴らないと、いないみたいだからだ。
一枚ずつ、名が彫ってある。ヴェルナー。クラウス。マルク。他の九人も。軍が支給したものじゃない。あんなものに、名を彫る規則はない。俺が、あの戦場から拾い集めた、あいつらの装具の留め金だ。焼け残った金具を、削って、平らにして、釘の先で、一文字ずつ。
彫るのに、ひと月かかった。
字は、下手くそだ。線が曲がっている。「ヴェ」の字が、どうしても収まらなくて、最後だけ小さくなっている。
それでも、彫った。
あの神父の腕を見て、思ったのだ。あいつは、名を、躯に刻む。俺には、そんな真似はできない。だが、鉄になら、彫れる。
*
「なあ」
俺は口を開いた。沈黙が重すぎたからだ。
「あの婆さんが言ってた話。七天使とか、なんとか」
アベルが顔を上げた。
「聞いていたのか」
「聞こえちまったんだよ、たまたま」
俺は火に薪をくべながら、言った。
「俺も軍にいた頃、似たような話は聞かされた。天使ってのは秩序を守る番人だと。悪魔ってのは原罪の具現だと。だから、悪魔を見たら迷わず殺せ、と」
「殺せるのか」
「知らねえよ。実際に見たこと、ねえもん。訓練でそう教え込まれただけだ。上の連中がそう言ってたから、そういうもんだと思ってた」
俺は火を見つめた。
「だが――今日、あの婆さんの話を聞いてよ。七天使が都で秩序を守ってる、とか。悪魔は原罪の化身だとか。似たようなことを言ってた。ただ――」
「ただ?」
「もっと複雑そうだった。単純な敵と味方の話じゃなさそうだった」
アベルはしばらく黙っていた。
それから、言った。
「私も、同じことを思った」
「だろ?」
「軍の教えと。あの老女の言葉と。同じ存在について語っているはずなのに――まるで違う顔をしている」
俺は頷いた。
「どっちが本当なんだ」
「わからない。おそらく――どちらも、一部だけが本当なのだろう」
アベルの声は静かだった。
「大きすぎるものは、誰も全体を見られない。見た者は、自分の見えた分だけを語る。だから、語られるたびに違う顔を見せる」
「じゃあ、黒陽は」
俺は思わず訊いた。
「あれもそうなのか。誰かが知ってて、隠してるとか」
アベルが初めて、少し笑った。乾いた笑い方だった。
「知っていたら、苦労はしない」
「だよな」
俺は笑い返した。それから、ふと思い出したことを口にした。
「俺の田舎じゃ、こんな話があった。昔、神々が喧嘩したんだと。その傷跡が黒陽になったって」
「神々が」
「まあ、子供だましの昔話さ。誰も本気にはしてねえ。だが――」
俺は空を見上げた。灰の向こうに、あの黒い円盤がいつものように浮かんでいる。
「案外、そういう単純な話の方が真実に近かったりするんじゃねえかって。たまに、思う」
アベルは答えなかった。
ただ、その目が。一瞬、揺れたように見えた。
俺には、その理由がわからなかった。
膝の上に、あの銃を置いていた。灰火術式銃。五つの環が連なる、あのいかれた代物。
三年、握ってきた。
握りの部分は、もう、俺の手の形に凹んでいる。支給されたときは、四角い角が立っていたはずだ。それが、掌の付け根の当たる場所だけなだらかに窪み、指のかかる位置に浅い溝が四本、順に刻まれている。金属が俺の手を覚えたのではない。俺の手が、この金属を削ったのだ。三年かけて。少しずつ。自分でも気づかないうちに。
環は、五つとも、縁が欠けていた。
いちばん外の環は、ぶつけた傷がひとつ。二枚目は、二つ。奥へいくほど傷は増え、いちばん内側の――銃口にあたる、指を通すのがやっとの小さな環は、縁のほとんどが虫喰いのように欠け落ちていた。撃つたびに、内側から灼かれるのだろう。そして、その環の内側に彫り込まれた渦の、溝という溝に。黒いものが詰まっている。灰だ。灰と、たぶん、それ以外のもの。何度布で拭っても取れない。針の先で掻き出そうとしたことがある。掻き出した端から、溝の底に、また同じ黒がある。もう、渦の彫りがどこまで続いているのか、この目ではわからない。埋まっている。俺が撃った分だけ、この銃は、内側から埋まってきた。
鼻を、近づけてみる。
鉄と、焦げた灰。それに、微かに、甘い。
――肉の、焦げる匂いだ。
あの日、俺が撃った赤い灰が。誰の、何を、灼いたのか。
祈骸だけだったと、言い切れる自信は、ない。
撃鉄だけが、不釣り合いに大きい。ここだけは、傷ひとつなかった。誰が作ったのかは知らないが、そいつは、この部分だけは絶対に壊れないように作った。何度指をかけても、へこたれないように。
撃鉄に指をかけてみる。
かちり、と。乾いた音。
撃たない。ただ、その感触を確かめただけだ。
この銃を初めて渡されたのは。三年前だった。
*
「これが、あんたの支給品だ」
補給係の老兵が、投げるように渡してきた。旧式の感情弾銃。誰も欲しがらない代物だと聞いていた。
「使えるんですか、これ」
「さあな。使ったことあるやつに、会ったことがない」
それが最初の印象だった。
欠陥品。誰も使いこなせない、旧式の遺物。俺はそれを腰の後ろに差して、一度も抜くことなく三年を過ごした。
抜く機会がなかったのだ。
あるいは――抜く勇気がなかったのかもしれない。
部隊の誰も、この銃の使い方を知らなかった。訓練所でも教わらなかった。ただ「持っていろ」とだけ言われた。まるでお守りのように。役に立たない、お守り。
俺はそれを信じたことは、一度もなかった。
*
小隊の仲間たちの顔を思い出す。
ヴェルナー。真面目な男だった。娘の話をするときだけ、顔が緩んだ。「とうさん、って、初めて言ったんだ」――その話を三日続けた。三日目にはみんなうんざりして、聞き流していた。それでもヴェルナーは、飽きずに話し続けた。
クラウス。博打好き。俺の金もいくらか借りたままだった。返す気なんてなかったんだろう。それでも、憎めない奴だった。
マルク。十九の若造。そばかすが浮いていて、いつも俺の後ろにくっついていた。「先輩、先輩」と。うるさかった。だが今では、そのうるささが恋しい。
十二人。
全員、覚えている。名前も、顔も、癖も。それぞれが何を笑い、何を恐れ、何を望んでいたか。
あの日、全員、失った。
俺だけが、生き残った。
*
なぜ、俺だけが。
その問いに、答えはない。
運が良かっただけだ。あるいは、悪かっただけかもしれない。生き残ることが良いことなのか、悪いことなのか、俺にはいまだにわからない。
あの戦場で。祈骸が群れをなして湧いて出た。俺たちは次々に囲まれ、囲まれた者から順に、笑いながら崩れていった。
クラウスが最初だった。
俺はあいつを助けようとして。間に合わなかった。
目の前で、あいつの体が崩れていくのを見た。灰になりながら、それでも笑っていた。「わりぃ、金、返せなかったわ」――そう聞こえた気がした。
次はヴェルナーだった。
娘の話をしていた、あの男が。名前を呼ぶ暇もなかった。ただ、視界の隅で、もう一つ灰の山が増えていくのを感じただけだった。
止まっている暇は、なかった。
あの銃を抜いたのは。あのときが、初めてだった。
撃ち方も知らなかった。ただ、腰の後ろにあったそれを無我夢中で引き抜いて。撃鉄を起こして。
撃った。
何が起きたのか、正直、よく覚えていない。ただ、赤い灰が噴き出して。目の前の祈骸を飲み込んで。
――効いた。
その事実だけが、頭に残った。
それから、俺は撃ち続けた。撃って、撃って、撃ち続けた。喉が嗄れるまで、叫びながら。誰の名を呼んでいたのかも覚えていない。たぶん、全員の名だったと思う。
だが、間に合わなかった。
一人。また一人。俺の目の前で。崩れていった。
マルクが最後だった。
「先輩」――いつもの、あのうるさい呼び方で。俺の名前を呼んだ。振り向いた、その瞬間には、もう。
最後まで残ったのは、俺一人だった。
*
火が爆ぜた。
俺は膝の上の銃を見た。
感情を喰う、欠陥品。
あの日、使えたのは怒りだけだった。赤い弾。他にもあるらしい、とは聞いたことがある。誰かを守りたいという想いで撃つ、白い弾。誰かを失った悲しみで撃つ、黒い弾。
だが、俺には、まだ赤しか出せない。
守りたい、なんて綺麗な想いは。あの日、俺の中にはなかった。ただ、怒りだけがあった。何もかもへの怒り。自分自身への怒り。
いつか、白い弾が出せる日が来るのだろうか。
わからない。
あの日、俺はこれで、何人救えたのか。
答えは簡単だ。一人も救えなかった。
全員、死んだ。この銃が赤熱した灰をいくら撃ち出しても。間に合わなかった。速さが足りなかった。あるいは、俺の覚悟が足りなかったのかもしれない。
それでも。
俺は、この銃を捨てなかった。
捨てられなかった、というのが正しい。
これはあいつらの、最期の証人だ。この銃が赤い光を噴いた、その記憶が。あいつらが確かにそこにいて、戦って、そして消えていった、その証拠だ。
捨てれば。
あいつらの最期を証言する者が、いなくなる。
だから、俺はこれを握り続ける。
撃てなくなっても。感情が尽きても。それでも、この鉄の塊を放さない。
*
アベルの横顔を見た。
いつのまにか目を閉じていた。眠っているのか、そうでないのか、俺にはわからない。あの男はそういう区別を、他人に悟らせない。
あの男は俺と違う。あいつは腕に名を刻む。忘れないための方法を持っている。俺にはそれがない。ただ、記憶とこの銃だけが、あいつらの証だ。
いつか。
俺も、死ぬだろう。
そのとき。あいつは俺の名も、腕に刻むのだろうか。
「ルキウス=レイン。灰火術式銃を握って死んだ男。仲間を守れなかった男」
そんな一行になるのだろうか。
悪くない気がした。
少なくとも、忘れられるよりはましだ。
俺は火に薪をくべた。
炎が大きくなる。
あいつらの顔が、その炎の中に、一瞬、浮かんで消えた気がした。
気のせいだろう。
だが、俺はそれを否定しなかった。
「……見てるか、お前ら」
誰にも聞こえないように、小さく呟いた。
「まだ、俺は歩いてるぞ。あの変な神父と、一緒に」
返事はなかった。
当たり前だ。
それでも、俺は少しだけ笑った。
*
夜が更けていく。
俺は銃を腰に戻した。
明日も歩く。あの神父の後ろで。誰かの名前が呼ばれるのを、見届けながら。
それが俺の役目だ。
時間を稼ぐこと。あいつが名を呼び終わるまで。
俺の感情弾が尽きるまで。
あるいは――俺自身が、尽きるまで。
どちらが先に来るのかは。
俺にも、わからない。
(七章 了)




