パンの匂い-1
匂いが、した。
風の中に。
私は、足を、止めた。
「どうした、神父さん」
ルキウスが、振り返る。
私は、答えなかった。答えるより先に、鼻が勝手に動いていた。
灰の匂いでは、ない。
石の匂いでも、血の匂いでも、黒雪の、あの冷たい無臭でもない。
もっと、暖かい。もっと、丸い。
――パンだ。
焼けている。
「……ああ」
ルキウスが、大きく、息を吸った。
「そうか。着いたのか」
街道の、緩やかな下り坂。その先に。
都市が、あった。
セドナ。
街道の終点。黒雪の薄い南の土地。
なぜ、この土地だけ黒雪が薄いのか。誰も、正確には知らない。ある者は、地形のせいだと言う。ある者は、古い加護が、まだこの土地に残っているのだと言う。理由は様々だが、事実は一つだ。
ここでなら、生きられる。
だから、人々は南を目指す。地図も持たず、当てもなく、ただ、噂を頼りに。
難民の隊列が、何ヶ月も歩き続けて辿り着こうとしていた街だ。南で散り散りになった彼らの多くが、ここへ流れ込んだのだろう。
その城壁を、私は見上げた。
高い。
これまで通ってきた、どの町の壁より高かった。石を幾重にも積み上げて築かれている。表面には、長い年月の風雨の跡が幾筋も走っていた。それでいて、崩れた箇所は一つもない。ところどころに、修復の跡がある。新しい石が、古い石の隙間に、丁寧に埋め込まれている。
誰かが、この壁を絶えず守ってきたのだ。
黒雪が薄いとはいえ、この土地も無傷では、ない。それでも、この街は崩れなかった。積み直し、埋め直し、そうやって、幾代も立ち続けてきたのだろう。
塔が、ある。
街の中央に、一際、高く。石造りの鐘楼が。その頂に、風見の代わりなのか、古い鉄の紋章が掲げられている。何を象っているのかは、遠すぎてわからなかった。
だが、それは、確かに、そこに、あった。
揺るぎなく。
この世界のあらゆるものが揺らいでいるというのに。あの塔だけは、この百年、変わらず、そこに立ち続けてきたように見えた。
リネットも、本来なら。
あの隊列の中で、この城壁を見上げるはずだった。
城壁の外まで、天幕が溢れていた。
人が、いた。
灰にまみれて、痩せて、疲れきってはいる。だが――生きていた。子供が走っていた。老婆が洗濯物を干していた。男が荷を担いで、怒鳴っていた。
音が、あった。
この数日、私が聞いてきたのは、風の音と、足音と、石の沈黙だけだった。
ここには、声が、ある。
「……人だ」
リネットが、呟いた。
フードの奥で。石になった右頬を隠すように、俯きながら。
「たくさん、生きてます」
その声が、微かに、震えていた。
この少女は、石の村を見たばかりだ。十七人が、笑ったまま、水を汲んだまま、子を抱き上げようとしたまま、止まっている村を。
その直後に、これを見た。
喜んでいるのか。それとも――
私は、それ以上考えるのを、やめた。
*
市場は、混雑していた。
露店が、隙間なく並んでいた。麦を売る店。乾物を売る店。継ぎ接ぎだらけの古着を積み上げた店。どの店の主も、声を張り上げている。値切る声。値切られて渋る声。それらが幾重にも重なって、街全体が、ひとつの大きな唸りのように聞こえた。
鍛冶屋の槌の音が、規則正しく響いていた。かん、かん、と。何を打っているのかは見えなかったが、その音だけで、この街に金属を扱う技術がまだ生き残っていることが、わかった。
井戸の周りには、女たちが列を作っていた。桶を提げて、順番を待ちながら、隣の女と何か話している。時折、笑い声が上がった。何がおかしいのか、私にはわからなかった。だが、笑えるということ自体が、この街の余裕を物語っていた。
洗濯物が、家々の軒先に揺れていた。灰にまみれて、それでも、干されている。誰かが、明日もそれを着るつもりでいる。
麦の値が、三日前の街の四倍だった。難民が流れ込みすぎて、供給が追いついていない。それでも、売っている。それでも、買っている。人は、そうやって生きていく。
「おい、神父さん。今度は、俺が選ぶからな」
ルキウスが、私の前に立ちはだかった。
「あんたに任せたら、また、あの石みてえな干し肉を山ほど買うだろ」
「日持ちする」
「日持ちの話は、もう、しねえ!」
そのときだった。
「うちの、硬くないよ」
声が、した。
下から。
見ると――少女が、いた。
十二か、三か。籠を抱えている。中に、パンが。
癖の強い、赤茶けた巻き毛だった。窯の熱に炙られ続けてきたのだろう。ところどころ、色が抜けかけている。
左の手の甲に。小さな、白い痕があった。火傷の痕だ。古い。もう何年も、そこにあるような痕。窯の仕事を手伝い始めた、最初の頃にできたのかもしれない。
「今、焼きたて。ほんとに、硬くないから」
真っ直ぐな目だった。
商売の目では、ない。もっと、無邪気で、押しが強い。この街の子供だ。難民の顔ではない。飢えを知らない顔だ。
ルキウスが、噴き出した。
「聞いたか、神父さん。硬くないんだと」
「……買おう」
私は、言った。
少女が、ぱっと顔を輝かせた。
そして――私の背を、見た。
棺を。
普通、人はこれを見ると、目を逸らす。あるいは、遠巻きに囁く。黒い棺を背負って歩く神父など、まともな人間には見えないからだ。
だが、この少女は。
「うわ。おっきいカバン」
と、言った。
私は、少し、驚いた。
「……カバン」
「ちがうの?」
「いや」
私は、答えた。
「カバンだ」
少女が、笑った。
「変な人。あたし、リシェル」
この少女は、毎朝、この籠を抱えて市場を歩き回るのだろう。祖父が焼いたパンを売り歩きながら。声をかける相手を見定める、その目つきに、迷いがなかった。何年も繰り返してきた動きだ。
市場の、他の商人たちが、彼女に声をかけていた。
「リシェル、今日も、精が出るね」 「おじいちゃんの腰は、どうだい」
彼女は、そのひとつひとつに律儀に答えていた。「元気だよ」「まあまあかな」。慣れた受け答えだった。この街の誰もが、彼女を知っている。
難民の子供たちとも、違った。彼らは、遠慮がちに大人の陰に隠れている。だが、リシェルは堂々と、この街を自分の庭のように歩いていた。
生まれたときから、ここにいる者の歩き方だった。




