パンの匂い-2
パンは、確かに、硬くなかった。
柔らかく、まだ温かった。噛むと、湯気が口の中に広がった。塩気が控えめで、麦の甘みが、後から来る。
私は、それをしばらく噛んでいた。
噛みながら――なぜか、動きが、止まった。
「……おい」
ルキウスが、私を見ている。
「どうした。まずいのか」
「いや」
「じゃあ、なんで、そんな顔してる」
どんな顔を、していたのだろう。
わからなかった。ただ、胸の奥の方が。
少し、疼いた。
「……なんでもない」
私は、残りを口へ入れた。
リネットが、隣で小さくパンを齧っていた。左手だけで。石の右手は、いつものように、布の下に隠したまま。
その、口元が。
ほんの少し、緩んでいるのが、見えた。
*
窯は、市場の奥にあった。
石造りの、古い小さな店だ。看板の文字は、半分、剥げている。リシェルが駆けていって、中へ叫んだ。
「じいちゃん! 三つ売れた!」
奥から、返事が、あった。
しゃがれた、低い声。
やがて、老人が、出てきた。
腰が、曲がっている。上体が、地面と水平になるほどに。前を見るには、首を無理やり上へ起こさねばならない。そうやって私を見上げる姿勢は、覗き込むようでもあり、下から睨むようでもあった。
腕だけが、異様に太かった。何十年も生地を捏ねてきた腕だ。
その老人が、私を見た。
じろじろとは、見なかった。棺のことも、訊かなかった。ただ、ひと目、見て。
「あんた」
と、言った。
「ずいぶん遠くから来たね」
私は、頷いた。
「ああ」
「どのくらい」
「……わからない」
老人が、少し笑った。歯が、ほとんどなかった。
「そうかい。そういう歩き方も、あるわな」
それだけだった。
老人は、また奥へ戻っていった。窯の前へ。私が見ている間、彼は一度も、そこから離れなかった。
名を、訊かなかった。
訊く必要がなかったからだ。
この街は、平穏だった。今日も、明日も、明後日も、この老人はここでパンを焼くのだろう。私たちは、数日、留まるつもりだった。
――また、会える。
そう、思った。
そう、思ったのだ。
*
市場の、外れに。
小さな、礼拝堂が、あった。
石造りの、簡素な建物だ。窓に、色硝子が嵌まっている。だが、そのいくつかは割れ、あるいは失われて、代わりに木の板が打ちつけられていた。それでも、残った硝子の欠片が、傾いた陽を受けて、床に赤や青の光の染みを作っていた。
中を、覗いた。
外から見たより、ずっと、天井が高かった。
石の梁が、左右の壁から立ち上がり、頭上の高みで交わっている。肋骨のような組み方だった。何かの生き物の胸郭の内側に立っているような気分になる。梁と梁のあいだの、いちばん暗い場所に、煤が溜まっていた。何十年ぶんの蝋燭の煙が、そこまで昇って、そこで行き場を失い、貼りついたのだろう。
壁沿いに、人の形をした石が、いくつも並んでいた。
聖人像だったのだろう。だが、どれも、顔がなかった。削られたのではない。撫でられたのだ。何代もの人間が、祈るたびに同じ場所へ手を伸ばし、同じ場所へ額を寄せ、そうやって百年か二百年かをかけて、鼻を、頬を、瞼を、少しずつ持ち去っていった。いちばん手前の像は、顔があったはずの場所が、掌ほどの深さの窪みになっている。窪みの底だけが、周囲より、なめらかに光っていた。
誰を象った像なのかは、もう、わからない。
わからないまま、撫でられ続けている。
床の一角に、石板が嵌め込まれていた。他の敷石より、わずかに新しい。縁に、指のかかる窪みがある。持ち上げるためのものだ。その下に何があるのかは、訊かなくてもわかった。
この街の人間は、床の下に眠っている。
祈る者は、その上に立つ。
祭壇の前に。一人の老女が、立っていた。
白髪を後ろで束ねて。灰色の、質素な衣を纏って。私に気づくと、その皺だらけの顔が、こちらを向いた。
「珍しい、お客だね」
声は、しゃがれていたが、はっきりとしていた。
「あんたの、その、棺。見えるよ、ここからでも」
私は、答えなかった。
老女は、祭壇の蝋燭を一本、灯した。灯りが揺れて、その顔に深い陰影を作った。
「弔い人、だろう」
「そうだ」
「知っているよ。名を呼んで、死者を鎮める者のことは。噂は、聞く」
彼女の目に宿ったのは、恐怖では、なかった。もっと、静かな何かだった。
「あんたのやっていることは、傲慢だよ」
はっきりと、そう、言った。
私は、驚かなかった。同じことを、私自身、幾度も思ってきた。
「死者は、神の元へ還るべきものだ。この世に留めておくべきものじゃない。あんたは、自分の腕に名を刻む。まるで、死者の行き先を、自分が決められるかのように」
「そうかもしれない」
私は、答えた。
「だが、誰も決めなければ。その者は、決して還れない。揺らいだまま、消えていく。それでも、いいと、あんたは言うのか」
老女は、しばらく、黙っていた。
それから、蝋燭の炎を見つめながら、言った。
「わたしは、この街の死者を、ずっと祈ってきた。あんたのように、名を刻んだりは、しない。ただ、祈るだけだ。届いているのか、いないのか、わたしには、わからない」
「それで、いいのか」
「いいさ」
迷いなく、答えた。
「わからないまま、祈ることが、わたしの役目だ。あんたのように、決めつけることが、役目じゃない」
二人の間に、沈黙が落ちた。
どちらも、間違っては、いなかった。
どちらも、正しいとも、言い切れなかった。
「あんたは」
私は、訊いた。
「この教えを、どこで学んだ」
老女の目に、遠い光が宿った。
「若い頃、東の修道院にいたことがある。もっと大きな街の。ここより、ずっと賑やかな」
「東」
その単語が、私の中で奇妙に響いた。
この街より大きな街。私は、それを想像しようとして――できなかった。私の知る世界は、灰の街道と、点在するいくつかの村や町だけだ。それより先に、何があるのか。私は、知らない。
「もっと、東には、何が」
「知らないよ」
老女が、笑った。歯の隙間から息が洩れる、乾いた笑い方だった。
「わたしも、ここに来て、もう何十年だ。噂は、聞くよ。海の向こうに、大きな国があるとか。天使が、まだ七柱、揃って秩序を守っている都があるとか。本当かどうかは、わからない」
「教団は」
「あるさ。ここには、その末端しか届いていないがね」
彼女は、祭壇の粗末な造りを見た。
「本物の教団の聖堂は、もっと荘厳らしいよ。行ったことは、ないがね」
彼女の目に、微かな憧れと諦めが、同時にあった。
この灰色の世界にも。まだ見たことのない、遠い場所が、あるのだ。
私にも、彼女にも。
「あんたのやり方は」
老女が、また口を開いた。
「速い。確かに、速い。だが、速さが、正しさとは、限らない」
「わかっている」
私は、答えた。
「わかっていて、それでも、私は名を刻む。他に、やり方を知らないからだ」
老女が、私を見た。
長く。
それから、初めて、微かに、笑った。
「正直な、男だね」
「そうか」
「せめて、この街の誰かを弔うなら」
彼女は、言った。
「祈らせておくれ。あんたが名を刻む、その傍らで。わたしのやり方でも」
私は、頷いた。
「好きにしろ」
礼拝堂を出るとき。
振り返らずとも、背中に、色硝子の赤や青の光の染みが、まだ揺れているのが感じられた。蝋燭の炎が揺れるたびに。
背中に、老女の声が届いた。
「また、いつか、続きを話そう。あんたの業と。わたしの祈りと。どちらが、死者にとって優しいのか」
私は、振り返らなかった。
答えを、持っていなかったからだ。
戸口を、くぐるとき。
もう一度、声が届いた。
「モイラだ」
足が、止まった。
「あんたは、名を刻むんだろう。なら、覚えておおき」
振り返ると、老女は、こちらを見ていなかった。蝋燭の芯を指で摘まんで、傾きを直している。それきり、彼女は祈りの姿勢へ戻った。
私は、その名を、口の中で一度だけ転がした。
刻みは、しなかった。
まだ、生きている者の名は、刻まない。
*
その夜は、宿を取った。
窓の外に、街が、広がっていた。
昼間の喧騒は、消えていた。だが、街は眠っていなかった。あちこちの窓に、灯りが点いている。橙色の、小さな灯り。蝋燭か、あるいは、油を灯したランプか。
遠くで、酒場の歌声が聞こえた。誰かが酔って、調子外れに歌っている。それに、笑い声が重なる。
もっと近く。すぐ下の路地から、子供の泣き声がした。すぐに、宥める母親らしき声が続いた。
鐘楼の影が、月明かりに黒く浮かんでいた。動かず、静かに。この街のあらゆる音を、見下ろすように。
久しぶりの、屋根の下だった。ルキウスは、寝台に倒れ込むなり、いびきをかき始めた。犬は、その足元に、丸くなった。
リネットは、窓辺に座っていた。
外を、見ている。
街の、灯りを。
「……眠らないのか」
私は、訊いた。
少女は、答えなかった。しばらく、窓の外を見ていた。
それから。
「あかりが、たくさん」
と、言った。
「あの、ひとつひとつに、人が、いるんですよね」
「そうだ」
「ごはんを、食べて。明日の話を、して。眠るんですよね」
「そうだ」
少女は、そこで、黙った。
石になった右頬が、窓の灯りを、鈍く、返していた。
私は、その横顔を、見ていた。
リネットは、いま、何を考えているのだろう。
羨んでいるのか。それとも――
「神父さま」
「なんだ」
「あの人たちは」
少女が、言った。
「終われますか」
私は、答えられなかった。
答えを、持って、いなかったからだ。
いま、この街の無数の灯りの下で、人々は明日の話をしている。誰も、自分が石になるとは思っていない。誰も、自分が終われなくなるとは思っていない。
だが。
黒雪は、南にも、降る。
薄いだけだ。降らないわけでは、ない。
「……眠れ」
私は、そう、言うしか、なかった。
リネットは、頷いた。
そして、窓から、離れなかった。
(八章 了)




