最後の、平穏-1
朝が、来た。
二日目の、朝だった。
空気が、昨日より少しだけ暖かい気がした。気のせいかもしれない。だが、この街に着いてから、そう感じることが増えていた。
窓から差し込む光が、白かった。灰の混じらない、光。街道では、めったに見られないものだった。
ルキウスは朝から、市場へ出かけていった。「腹が減った」とだけ言って。私は、止めなかった。あの男には、あの男の休み方が要る。街道での、あの夜、あいつが何を考えていたのかを、私は知らない。だが、昨日からは、いつもの軽口が戻っていた。それで、十分だった。
リネットは。
いつのまにか、いなかった。
私は、宿の外に出た。
朝のセドナは、昨日よりさらに賑わっていた。商人たちが荷を並べ直している。子供たちが路地を駆け回っている。誰かが井戸端で洗濯をしながら、鼻歌を歌っていた。
この街は、生きていた。
当たり前のことを、当たり前にしていた。それが、私には、ひどく、まぶしく見えた。
宿屋の主人が、店先を掃いていた。老いた、寡黙な男だった。私に気づくと、軽く頭を下げた。
「よく、眠れましたかな」
「ああ」
「そりゃ、良かった。この街は、平穏ですからな。長く、そうであってほしいもんです」
彼は、そう言って、また箒を動かした。
平穏。
その言葉を、私は口の中でなぞってみた。ここ数日、何度も聞いた言葉だ。誰もが、当たり前のように口にする。
私には、その言葉が、まだ、よくわからなかった。歩き続けることしか知らない身には。
*
礼拝堂に、リネットが、いた。
石の脚を引きずりながら、祭壇の前に。モイラと向かい合って、座っていた。
私は、入り口で足を止めた。
邪魔を、するつもりは、なかった。
「――だから」
モイラの声が、聞こえた。
「あんたの右手も、同じさ。石になっていようが、なっていまいが、あんたの手には変わりない」
「でも、感じないんです」
リネットの声。小さいが、はっきりと届いた。
「感じないから、無いのと、同じですか。それとも」
「難しいこと、言うね」
モイラが、笑った。乾いた、笑い方だった。
「わたしにも、わからないよ。ただ――」
彼女は、リネットの右手を、そっと取った。両手で包むように。
「わたしには、これが、見える。ここに、ある。それが、確かなことだ。感じるか、感じないかは、二の次だ」
リネットは、何も、言わなかった。
だが、その肩が。微かに震えているのが、私にも見えた。
「あんたは」
モイラが、続けた。
「終わりたいと、思ってるんだろう」
私は、息を、呑んだ。
リネットが答えるまでの間が。ひどく長く、感じられた。
「……はい」
小さな、声だった。だが、確かに、認めた。
初めて、聞いた。
この少女が、自分の口で、はっきりと、それを認めるのを。
「なら」
モイラは、静かに、言った。
「それは、恥じることじゃない。終わりたいと、願うことは、罪じゃない。ただ――」
「ただ?」
「終わらせてもらえないことと、終わらせてもらえるべきだということは、別の話だ。わたしには、その境目が、まだ、わからない」
リネットは、頷いた。
「わたしにも、わかりません」
「だろうね」
モイラが、また、笑った。
「答えの出ない問いを、二人で抱えるのも。悪くない、もんだよ」
少女は、しばらく、黙っていた。
それから、小さく、言った。
「……あの人には、言えないんです」
私の心臓が、一度、大きく鳴った。
「神父さんかい」
「はい」
「なぜ」
リネットの指が、布の上から、石の右腕を握った。いつもの癖だ。何かを言おうとするとき、あの子は必ず、そうする。
「あの人は、わたしを、終わらせられない。それは、もう、わかってるんです。だから――もう、言っちゃいけないって、思ってて」
「言えば、困らせるからかい」
「……はい」
「優しいね、あんたは」
モイラの声が、少し変わった。
「だが、それは、優しさじゃない。遠慮だよ」
リネットが、顔を上げた。
「遠慮は、いつか、恨みに変わる。言えなかったことは、腹の底で腐っていく。わたしは、そういう人を何人も見てきた」
「……でも」
「言えばいい。言って、断られればいい。何度でも」
老女は、そう言って、リネットの頬に手を伸ばした。石になっている側の、頬に。
「断られることと、拒まれることは、違う。それを、覚えておきなさい」
リネットは、答えなかった。
だが、その、目が。
微かに揺れたのが、私にも見えた。
*
私は、その場を、離れた。
足音を、殺していた。
自分でも、気づかぬうちに。爪先から、石畳に置いていた。誰にも聞かれないように。誰にも見られないように。
癖だ。長く歩いていると、こういう癖がつく。
だが。
いま、私が殺したのは。足音だけ、だったろうか。
市場へ戻る道すがら。私は、考えていた。
リネットがモイラに、あれほど素直に話せたのは。なぜだろう。
私には決して見せない弱さを。あの老女には、見せることができた。
答えは、すぐに、出た。
出てしまった、と言った方が、近い。
あの老女には、できないからだ。
モイラには、あの子を終わらせる手立てがない。祈ることしか、できない。だから、あの子は言えた。言っても、何も起きないと知っていたからだ。
願いは、叶わないと、わかっている相手にだけ、口にできる。
叶えられるかもしれない相手に、それを言うことは。
――ねだることに、なる。
あの子は、私に、ねだりたく、なかったのだ。
「断られることと、拒まれることは、違う」
老女の言葉が。足の裏に貼りついて、剥がれなかった。
あれは、リネットに向けられた言葉だ。
だが。
どちらを、私は、していた。
弔いとは名を呼んで確定させることであり確定とは揺らぎを終わらせることであり生者とはまだ揺らいでいる者のことをいうのだから生きている人間の名を呼んで刻んでしまえばそれは弔いではなくただの殺しになる――私は、そう教わったのではない。誰にも教わっていない。気がつけば、そう知っていた。その知り方の出所を思い出そうとすると。決まって、頭のどこかが白くなる。白くなったまま、私は歩いてきた。
だから、私はあの子に言った。
弔いは、死者にしか、できない、と。
それは、理だ。私が、決めたことでは、ない。
――本当に、そうか。
理には、顔がない。だが、それを口にするのは、いつも、私の口だ。あの子が断られたのは、世界の理から、ではない。
私から、だ。
ならば。
あの子にとって、それは。拒まれたのと、どこが違う。
昨日、あの老女は私に言った。
決めつけることが、役目じゃない、と。
あのときは、弔いの話だと思って聞いた。腹も、少し立った。
違ったのかも、しれない。
私はいつから、リネットを「終われない少女」として見ていた。
石になった右半身。母の死。終わらせてほしいという願い。その三つだけで、あの子を一つの輪郭に収めていた。収めて、そこに置いて、それきり動かさなかった。
括るな、と。
私は、自分に課してきたはずだ。十二人、と束ねてしまえば、それは弔いではなく、後始末になる。ヴェルナーと、クラウスと、マルクがいるだけだ――そう、あの男に言ったのは、私だ。
なのに。
生きている、隣の一人を。私は、束ねていた。
たった、一人を、たった、一人で、括る。
そんなことが、できるとは、思っていなかった。
弔い人としての私は。あの子に、何もしてやれない。
それは、変わらない。
では。
ただの、隣人としての私は。
……わからなかった。
やり方を、知らない。
名を呼ぶ手順なら、体が覚えている。灰のどこに指を当てるか。どの順で呼べば、崩れが静まるか。何度繰り返したかは、数えたことがない。
だが、隣に黙って座っているやり方を。私は、教わっていない。
いつから、そう、だったのか。
思い出そうとして、また、頭のどこかが白くなった。
ただ、少しだけ。羨ましいと、思った自分に、気づいた。
弔い人として、ではなく。ただの、隣人として。彼女の話を聞ける誰かが、いることが。
路地の途中で、私は足を止めた。
左の腕に、掌を当てる。法衣の布越しに。
その下に、名がある。数えきれない、名が。
どれも、私が聞き取った名だ。
死んだ、後に。
――生きているうちに、あの子の口から、私が聞いたものが。何か、あったか。
名は、聞いた。
それだけだ。
訊けばいい、と、思った。
何が、望みだ、と。終わりたい、以外に、何かあるか、と。訊いて、答えを聞けばいい。断るなら、そのときに断ればいい。
難しいことでは、ない。ただ、口を開けばいい。
路地の向こうから、パンの匂いが流れてきた。
子供の笑い声。荷車の軋み。井戸の滑車の、鳴る音。
この街は、静かだった。
時間は、まだ、あった。
明日でいい、と、私は、思った。




