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黒陽黙示録アベル ― RE:NEHEMOS  作者: 鉄川零


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最後の、平穏-2

 「あ、神父さん!」


 声に振り返ると、リシェルが、いた。籠を抱えて。


 「今日も、パン、買う?」


 「昨日、買った」


 「もう、食べちゃった?」


 「まだだ。大事に、食べている」


 少女は、満足そうに、笑った。


 「じいちゃんがね、あんたのこと、気に入ってるみたい。『あの神父、面白い顔して、パン齧ってたな』って」


 「面白い、顔」


 「うん。なんか、こう」


 リシェルは、頬を両手で押さえて、しかめっ面を作ってみせた。何を真似ているのか、私にはわからなかった。


 「そんな顔を、していたか」


 「してたしてた。じいちゃんが、笑ってた」


 窯の老人の笑い声を、想像してみた。歯のほとんどない、あの笑い方を。


 悪くない、と思った。


 「明日も、いる?」


 リシェルが、訊いた。


 「たぶん」


 「じゃあ、また、パン、持ってくる。今度は、もっと、大きいの」


 少女は、駆けていった。籠を揺らしながら。


 その背中を、私はしばらく見送った。



 昼、市場でルキウスと合流した。


 「おい、見ろよ、これ」


 彼は、変な木彫りの置物を掲げて見せた。


 「露店の爺さんが、くれたんだ。『景気づけだ』とか言って」


 人の形をした、稚拙な置物だった。誰かを模しているのだろうが、誰なのかは、わからない。頭が大きすぎて、腕が不釣り合いに細い。彫った者の技術の拙さが、そのまま出ていた。


 「なんの神様だ、それは」


 「知らねえ。爺さんも、忘れたって言ってた」


 「忘れた?」


 「代々、伝わってる彫り物らしいんだけどよ。誰を彫ったのか、いつからか、わからなくなったんだと。でも、捨てるのも忍びなくて、飾ってる、って」


 誰かが、覚えていた、誰か。


 その誰かの名前が失われて、なお。像だけが、残っている。


 あの石の村の外れで見た、古い遺構を思い出した。読めない文字が刻まれていた、あの台座。


 あれも、これも。


 同じことの繰り返しなのかもしれない。


 誰かが、何かを大切に思う。だが、時が経ち、その誰かもいなくなり、思いの中身だけが抜け落ちて。残るのは、形だけになる。


 台座も。この木彫りの置物も。


 いつか、私の腕に刻まれた名前たちも。


 同じ道を、辿るのだろうか。


 私が歩き続ける限り、名は私と共に留まる――そう、思っていた。だが、私自身の記憶さえ、こんなにもあやふやなのだ。私が、いなくなれば。あるいは、私が、私でなくなれば。


 あの名前たちも。この置物と同じように。


 誰かの大切だった何か、という輪郭だけを残して。中身を失っていくのかもしれない。


 背筋が、微かに、冷えた。


 ルキウスは、そんな私の考えなど知る由もなく。置物を鞄にしまい込んでいた。


 「捨てろ」


 「なんでだよ! 記念に、持って帰るんだよ!」


 「荷物が、増える」


 「けちくせえこと、言うなよ。それに――」


 彼は、置物をもう一度取り出して、眺めた。


 「なんか、こいつ、憎めねえだろ。誰かも、わかんねえのに、誰かに、大事にされてた、って顔、してる」


 妙なことを言う男だと、思った。


 だが――案外、それが正しいのかもしれなかった。名を忘れられても。誰かに大事にされていた、という事実だけは。形の中に残るのかもしれない。


 いつものやり取りだった。


 こんな、他愛のない時間が。


 私には、貴重に、思えた。



 夕方。


 街を歩いていると。あちこちで、明日の話が聞こえてきた。


 「明日は、市が、大きいらしいぞ」


 「祭りの準備も、そろそろ始めないとな」


 「あんた、今夜、うちに来るかい。子供らが待ってるよ」


 誰も、彼も。明日を、当たり前のように語っていた。


 その一つ一つの声が。


 私の耳の奥に、残った。


 家々の窓に。一つ、また一つと、灯りが点いていく。夕餉の匂いが、あちこちから漂ってきた。誰かの家族の笑い声。誰かの、子を叱る声。


 私には、無縁の光景だった。


 だが――無縁だからこそ、なのか。


 その一つ一つが、やけに鮮明に、目に焼きついた。


 なぜか、わからないが。


 それらを、一つ、また一つと、覚えておきたいと思った。


 弔い人の業とは、別の理由で。



 宿に、戻ると。


 リネットが、先に、いた。


 窓辺に、座っている。昨夜と、同じ、場所に。同じ、姿勢で。


 ルキウスは、いなかった。酒場だろう。犬も、連れていったらしい。


 私は、寝台の端に腰を下ろした。


 窓の下から、まだ、人の声がしていた。誰かが笑い、誰かがそれをたしなめている。灯りが、壁に揺れていた。


 ――言えばいい。言って、断られればいい。何度でも。


 老女の声が。耳の奥に、残っていた。


 私が聞いてはならなかった、声だ。


 「……神父さま」


 リネットが、言った。


 「なんだ」


 少女が、こちらを向いた。


 その左手が。布の上から、石の右腕を握っていた。


 私は、息を、止めた。


 癖だ。何かを、言おうとするときの。


 ――知っている。


 今朝、知ったばかりだ。盗み聞いて、知った。


 少女の唇が、開いた。


 開いて。


 「……あの」


 閉じた。


 「なんでも、ないです」


 握っていた、手が、離れた。


 私は、それを、見ていた。


 見ていて、何も、言わなかった。


 言えなかった、のでは、ない。言わなかったのだ。


 もう一度、「なんだ」と訊けばよかった。それだけで、よかったはずだ。


 だが、訊けば。


 私が、あの場にいたことが、知れる。


 あの子が、老女にだけ預けたものを。私が、戸口で拾って、懐に入れていたことが。


 それを、知られるのが。


 怖かった。


 弔い人が。


 街ひとつ分の名を、腕に抱えて歩いてきた男が。


 この、痩せた少女に嫌われることを、怖がっている。


 笑うべき、ところだ。


 だが、笑えなかった。


 私も、口を、開いた。


 何が、望みだ、と。


 そう、訊こうと、した。


 ――したのだと、思う。


 だが、実際に口から出たのは。


 「脚は、痛むか」


 「……いえ。痛みは、もう、ありません」


 「そうか」


 「はい」


 それきり、だった。


 二人で、黙って、窓の外を見ていた。


 灯りが、一つ、消えた。また、一つ。


 誰かが、眠りについていく。明日が来ることを、疑いもせずに。


 窓枠に、ルキウスの、あの木彫りが置いてあった。持ち歩くのが面倒になったのだろう。誰とも知れない、顔の潰れた像が。街の灯りを背にして、こちらを向いている。


 誰かに大事にされていた、という顔で。


 ――断られることと、拒まれることは、違う。


 あの言葉は。


 あの子にだけ向けられたものだったろうか。


 訊けばいい。訊いて、答えを聞けばいい。断られたら、そのときに断られればいい。何度でも。


 明日でいい、と。


 二度目に、私は、思った。


 窓の外で、誰かが、笑っていた。


 明日の市の話を、していた。


(九章 了)

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