最後の、平穏-2
「あ、神父さん!」
声に振り返ると、リシェルが、いた。籠を抱えて。
「今日も、パン、買う?」
「昨日、買った」
「もう、食べちゃった?」
「まだだ。大事に、食べている」
少女は、満足そうに、笑った。
「じいちゃんがね、あんたのこと、気に入ってるみたい。『あの神父、面白い顔して、パン齧ってたな』って」
「面白い、顔」
「うん。なんか、こう」
リシェルは、頬を両手で押さえて、しかめっ面を作ってみせた。何を真似ているのか、私にはわからなかった。
「そんな顔を、していたか」
「してたしてた。じいちゃんが、笑ってた」
窯の老人の笑い声を、想像してみた。歯のほとんどない、あの笑い方を。
悪くない、と思った。
「明日も、いる?」
リシェルが、訊いた。
「たぶん」
「じゃあ、また、パン、持ってくる。今度は、もっと、大きいの」
少女は、駆けていった。籠を揺らしながら。
その背中を、私はしばらく見送った。
*
昼、市場でルキウスと合流した。
「おい、見ろよ、これ」
彼は、変な木彫りの置物を掲げて見せた。
「露店の爺さんが、くれたんだ。『景気づけだ』とか言って」
人の形をした、稚拙な置物だった。誰かを模しているのだろうが、誰なのかは、わからない。頭が大きすぎて、腕が不釣り合いに細い。彫った者の技術の拙さが、そのまま出ていた。
「なんの神様だ、それは」
「知らねえ。爺さんも、忘れたって言ってた」
「忘れた?」
「代々、伝わってる彫り物らしいんだけどよ。誰を彫ったのか、いつからか、わからなくなったんだと。でも、捨てるのも忍びなくて、飾ってる、って」
誰かが、覚えていた、誰か。
その誰かの名前が失われて、なお。像だけが、残っている。
あの石の村の外れで見た、古い遺構を思い出した。読めない文字が刻まれていた、あの台座。
あれも、これも。
同じことの繰り返しなのかもしれない。
誰かが、何かを大切に思う。だが、時が経ち、その誰かもいなくなり、思いの中身だけが抜け落ちて。残るのは、形だけになる。
台座も。この木彫りの置物も。
いつか、私の腕に刻まれた名前たちも。
同じ道を、辿るのだろうか。
私が歩き続ける限り、名は私と共に留まる――そう、思っていた。だが、私自身の記憶さえ、こんなにもあやふやなのだ。私が、いなくなれば。あるいは、私が、私でなくなれば。
あの名前たちも。この置物と同じように。
誰かの大切だった何か、という輪郭だけを残して。中身を失っていくのかもしれない。
背筋が、微かに、冷えた。
ルキウスは、そんな私の考えなど知る由もなく。置物を鞄にしまい込んでいた。
「捨てろ」
「なんでだよ! 記念に、持って帰るんだよ!」
「荷物が、増える」
「けちくせえこと、言うなよ。それに――」
彼は、置物をもう一度取り出して、眺めた。
「なんか、こいつ、憎めねえだろ。誰かも、わかんねえのに、誰かに、大事にされてた、って顔、してる」
妙なことを言う男だと、思った。
だが――案外、それが正しいのかもしれなかった。名を忘れられても。誰かに大事にされていた、という事実だけは。形の中に残るのかもしれない。
いつものやり取りだった。
こんな、他愛のない時間が。
私には、貴重に、思えた。
*
夕方。
街を歩いていると。あちこちで、明日の話が聞こえてきた。
「明日は、市が、大きいらしいぞ」
「祭りの準備も、そろそろ始めないとな」
「あんた、今夜、うちに来るかい。子供らが待ってるよ」
誰も、彼も。明日を、当たり前のように語っていた。
その一つ一つの声が。
私の耳の奥に、残った。
家々の窓に。一つ、また一つと、灯りが点いていく。夕餉の匂いが、あちこちから漂ってきた。誰かの家族の笑い声。誰かの、子を叱る声。
私には、無縁の光景だった。
だが――無縁だからこそ、なのか。
その一つ一つが、やけに鮮明に、目に焼きついた。
なぜか、わからないが。
それらを、一つ、また一つと、覚えておきたいと思った。
弔い人の業とは、別の理由で。
*
宿に、戻ると。
リネットが、先に、いた。
窓辺に、座っている。昨夜と、同じ、場所に。同じ、姿勢で。
ルキウスは、いなかった。酒場だろう。犬も、連れていったらしい。
私は、寝台の端に腰を下ろした。
窓の下から、まだ、人の声がしていた。誰かが笑い、誰かがそれをたしなめている。灯りが、壁に揺れていた。
――言えばいい。言って、断られればいい。何度でも。
老女の声が。耳の奥に、残っていた。
私が聞いてはならなかった、声だ。
「……神父さま」
リネットが、言った。
「なんだ」
少女が、こちらを向いた。
その左手が。布の上から、石の右腕を握っていた。
私は、息を、止めた。
癖だ。何かを、言おうとするときの。
――知っている。
今朝、知ったばかりだ。盗み聞いて、知った。
少女の唇が、開いた。
開いて。
「……あの」
閉じた。
「なんでも、ないです」
握っていた、手が、離れた。
私は、それを、見ていた。
見ていて、何も、言わなかった。
言えなかった、のでは、ない。言わなかったのだ。
もう一度、「なんだ」と訊けばよかった。それだけで、よかったはずだ。
だが、訊けば。
私が、あの場にいたことが、知れる。
あの子が、老女にだけ預けたものを。私が、戸口で拾って、懐に入れていたことが。
それを、知られるのが。
怖かった。
弔い人が。
街ひとつ分の名を、腕に抱えて歩いてきた男が。
この、痩せた少女に嫌われることを、怖がっている。
笑うべき、ところだ。
だが、笑えなかった。
私も、口を、開いた。
何が、望みだ、と。
そう、訊こうと、した。
――したのだと、思う。
だが、実際に口から出たのは。
「脚は、痛むか」
「……いえ。痛みは、もう、ありません」
「そうか」
「はい」
それきり、だった。
二人で、黙って、窓の外を見ていた。
灯りが、一つ、消えた。また、一つ。
誰かが、眠りについていく。明日が来ることを、疑いもせずに。
窓枠に、ルキウスの、あの木彫りが置いてあった。持ち歩くのが面倒になったのだろう。誰とも知れない、顔の潰れた像が。街の灯りを背にして、こちらを向いている。
誰かに大事にされていた、という顔で。
――断られることと、拒まれることは、違う。
あの言葉は。
あの子にだけ向けられたものだったろうか。
訊けばいい。訊いて、答えを聞けばいい。断られたら、そのときに断られればいい。何度でも。
明日でいい、と。
二度目に、私は、思った。
窓の外で、誰かが、笑っていた。
明日の市の話を、していた。
(九章 了)




