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黒陽黙示録アベル ― RE:NEHEMOS  作者: 鉄川零


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19/27

空、裂ける-1

朝が、来た。


 三日目の、朝だった。


 街が、いつもより、早く、起きていた。


 まだ、陽が、低いうちから。荷車の、軋む音が、幾つも、通りを、行き交っていた。市が、立つ日だと、聞いていた。街道沿いの、村々からも、売り手が、集まってくるのだという。


 通りの、上を。


 色の、ついた、布が、渡されていた。


 赤。黄。褪せた、緑。ほとんどが、継ぎ接ぎだった。古着を、裂いて、繋ぎ合わせたものだ。それが、家々の、屋根から、屋根へ。幾筋も、張り渡されて、風に、鳴っていた。


 「祭りかよ」


 ルキウスが、上を、見上げながら、言った。


 「まだ、準備だと、聞いた」


 「これで、準備か」


 梯子の上で、男が、一人、布を、結んでいた。下から、子供が、次の一本を、投げて、渡している。何度か、失敗した。そのたびに、下の、女たちが、笑った。


 私は、それを、見上げていた。


 布の、色は、褪せていた。何年も、しまい込まれ、何年も、出されてきたのだろう。去年も、その前も、同じ、布が、同じ、屋根の間に、渡されたのだ。


 そして、来年も。


 誰も、疑って、いなかった。



 市場は、歩けないほどだった。


 干し魚の、匂い。香草の、束。蝋燭を、山にして、積んだ店。繋がれた山羊が、鳴いている。鍛冶屋の、槌が、いつもより、速く、鳴っていた。祭りまでに、片づけたい、注文が、あるのだろう。


 塩を、売る店が、あった。


 白い、山が、いくつも、並んでいた。灰を、被っていない、白だ。南の、涸れた湖から、掘り出されるのだと、売り手が、誰にともなく、喋り続けていた。街道では、めったに、手に入らない代物だ。


 私は、その、白さを、しばらく、見ていた。


 悪くない、と、思った。


 ルキウスは、干し肉の、値を、値切っていた。例の、木彫りを、懐から、出して、店主に、見せながら。


 「これ、つけるから、負けろよ」


 「いらねえよ、そんなもん」


 「なんでだよ。縁起物だぞ」


 「どこの、神様か、言ってみろ」


 「……知らねえ」


 「じゃあ、いらねえ」


 周りで、笑い声が、上がった。ルキウスは、憤慨した顔で、置物を、懐へ、戻した。だが、その、口元は、笑っていた。


 リネットは、私の、少し後ろを、歩いていた。


 フードを、深く、被って。人混みを、避けるように。


 だが、この日の、市場に、避ける隙間は、なかった。誰かの、肩が、当たる。荷車が、掠める。そのたびに、少女は、身を、竦めた。


 乾物屋の、女が、彼女を、呼び止めた。


 私は、身構えた。石になった、右頬が、見えたのだと、思った。


 だが、女は。


 「これ、持っておいき」


 と、干した果実を、一つ、少女の、左手に、握らせた。


 「痩せすぎだよ、あんた」


 リネットは、しばらく、それを、見ていた。


 それから、小さく、頭を、下げた。


 「……ありがとう、ございます」


 声が、掠れていた。


 女は、もう、次の客に、向き直っていた。自分が、何を、したのかにも、気づいていない顔で。


 少女は、その果実を、食べなかった。


 ただ、左手の、中に、握っていた。歩いている間、ずっと。



 「神父さん!」


 声が、した。


 振り向くと、リシェルが、駆けてくる。両腕で、抱えていた。籠では、ない。布に、包まれた、塊だった。


 「約束の、大きいやつ」


 差し出された、それは。


 私の、両手に、余った。


 「……大きいな」


 「でしょ」


 少女が、胸を、張った。


 「じいちゃんがね、祭りの日は、これを、焼くの。ずーっと前から。あたしが、生まれる前から」


 布越しに、熱が、伝わってきた。


 まだ、温かい。


 「そんなに、前からか」


 「うん。じいちゃんの、じいちゃんの、代から、って」


 名も、知らぬ、誰かの、代から。


 同じ、窯で、同じ、日に、同じ、大きさの、パンが、焼かれ続けてきた。黒陽が、空に、貼りついたまま、動かない、この、百年の、下で。


 それは、私の、歩き方より、よほど、確かなもののように、思えた。


 私は、名を、刻んで、歩く。


 この、街は、パンを、焼いて、留まる。


 どちらが、正しいのかは、わからない。


 だが、少なくとも。


 この街の、やり方の方が、暖かかった。



 窯の前を、通りかかった。


 戸口が、開いていた。


 老人が、いた。


 背を、向けて。腰を、曲げたまま。生地を、捏ねている。太い、腕が、規則正しく、上下していた。粉が、朝の光の中で、白く、舞っていた。


 この、老人の、名を。


 私は、まだ、知らない。


 訊こう、と、思った。


 昨夜、あの子には、訊けなかった。せめて、これくらいは。


 私は、戸口へ、一歩、踏み出した。


 「じいちゃん! 神父さん、来たよ!」


 リシェルの、声が、割り込んだ。


 老人は、手を、止めなかった。捏ねながら、何か、答えた。粉に、まみれた、しゃがれ声だった。生地を、打つ、音に、紛れて、聞き取れなかった。


 「もう少しかかるって。あとで、来て、だって」


 「……ああ」


 あとで。


 私は、頷いた。


 窯の、熱気が、戸口から、流れ出していた。


 陽は、まだ、高くなり切っていなかった。



 空が、裂けたのは。


 その、昼だった。


 最初に、気づいたのは、犬だった。


 市場の真ん中で、突然、足を止め、南の空へ向かって、狂ったように、吠え始めた。毛が、逆立っていた。尾が、腹に、巻き込まれていた。


 「おい、どうした」


 ルキウスが、屈み込む。


 私は、空を、見上げた。


 ――黒陽が。


 裂けて、いた。


 だが。


 あの夜の、あれとは、違う。


 あのときは、縁が、縦に、指の幅ほど、開いただけだった。


 今度は。


 地平の、端から、端まで。


 黒い円盤が、真っ二つに、割れていた。


 裂け目の内側には、あの、色のない何かが、覗いている。目が映すことを拒む、あの一点。それが、いま、空の半分を、占めている。


 喉の奥が、詰まった。


 目の縁が、熱くなった。


 ――また、これだ。


 なぜ。


 なぜ、あれを見ると、私は。


 「アベル」


 ルキウスの声が、掠れていた。


 「あれ、何か、出てくるぞ」


 裂け目から。


 白いものが。


 降りて、きた。


 最初、私は、それを、雲だと、思った。


 次に、山だと、思った。


 だが、動いていた。


 ゆっくりと。しかし、確実に。天から、地へ向かって。


 白く、なめらかで、細長い。先端は、わずかに、丸い。その根元は、裂け目の奥へ、消えている。どこまで続いているのか、わからない。


 雲を、裂いていた。


 いや――雲が、避けていた。それに触れることを、恐れるように、渦を巻いて、逃げていた。


 私は、それの、輪郭を、目で、辿った。


 辿って。


 理解した。


 理解して――膝の力が、抜けそうに、なった。


 ――指だ。


 人の、指の形を、している。


 だが、その長さは。山脈ほども、あった。


 そして、細部が。


 あまりに、正しかった。


 関節の、皺が、見えた。三本。人差し指の、第二関節にあるのと、同じ数だけ。爪の、丸みが、見えた。爪の根元の、あの白い半月まで、あった。指紋の渦さえ、山の稜線ほどの大きさで、そこに、刻まれていた。


 ――誰の、指だ。


 なぜ、そう思ったのか、わからない。


 だが、そう、思ってしまった。


 あれは「指のようなもの」では、ない。


 誰かの、指だ。


 人間の指を、寸分たがわず写し取って、ただ、大きさだけを、山脈まで、引き伸ばしたもの。


 もし、あれに、掌があるなら。


 もし、あれに、腕があるなら。


 ――その先には、何が、ついている。


 考えた瞬間、口の中が、乾いた。


 指は、まだ、伸び続けていた。


 ゆっくりと、たわむように。第一関節が、微かに、曲がった。


 曲がった。


 それは、生きていた。


 卵の殻を、内側から、割ろうとする、雛のように。


 この世界の、外側から。


 白い指が、こちらへ、伸びて、きていた。


 そして――


 皮膚が、蠕動していた。


 遠目には、なめらかに見えた表面が。近づいてくるにつれ、細かく、波打っているのが、わかった。


 毛穴だ。


 山肌ほどの大きさの、無数の毛穴が。


 開いたり、閉じたり、していた。


 呼吸するように。


 その、ひとつひとつから。


 白いものが、生えて、いた。


 押し出されるように。次々と。抜け落ちては、また、生えて。


 ――ああ。


 あれは、羽根を、降らせているのでは、ない。


 剥がれ、落ちているのだ。


 あの巨大な指から。生え、伸び、役目を終えて、乾いて、剥落していくもの。それが、風に乗って、街へ、届いているだけだ。


 鳥が羽根を降らせるのでは、ないように。


 蛇が鱗を降らせるのでは、ないように。


 あれは、贈り物では、ない。落屑だ。


 なのに。


 地上では。


 数千の人間が、両手を、天へ、掲げていた。


 「羽根だ」


 「天使の、羽根だ」


 「救いが、降ってくる」


 そう、呼んでいた。


 ――そして、その瞬間には。


 もう、羽根に、なっていた。


 私は、それを、理解した。理解して、吐き気が、した。


 何から剥がれ落ちたものであろうと、関係が、ない。数千の口が羽根と呼び、数千の目が羽根と見た。ならば、それは羽根だ。この世界において、それ以上に確かなものは、何もない。


 白く。


 柔らかく。


 聖なるものとして。


 落屑が、聖遺物に、成り上がった。


 それが、いま、人の街へ。


 降り注いで、いる。



 市場が、静まり返った。


 誰も、逃げなかった。


 逃げるという発想が、湧かなかったのだ。あまりに大きすぎるものを見たとき、人は、まず、動けなくなる。逃げるべき方向が、わからないからだ。


 数千の人間が、同じ空を、見上げていた。


 そして。


 誰かが。


 呟いた。


 「……天使だ」


 ――やめろ。


 私は、そう、叫ぼうとした。


 叫べなかった。声が、間に合わなかった。


 なぜなら、その言葉は。


 すでに、広がっていた。


 「天使だ」


 「天使だぞ」


 「天使が、降りてくる」


 波紋のように。数千の口が、同じ言葉を、繰り返した。

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