空、裂ける-1
朝が、来た。
三日目の、朝だった。
街が、いつもより、早く、起きていた。
まだ、陽が、低いうちから。荷車の、軋む音が、幾つも、通りを、行き交っていた。市が、立つ日だと、聞いていた。街道沿いの、村々からも、売り手が、集まってくるのだという。
通りの、上を。
色の、ついた、布が、渡されていた。
赤。黄。褪せた、緑。ほとんどが、継ぎ接ぎだった。古着を、裂いて、繋ぎ合わせたものだ。それが、家々の、屋根から、屋根へ。幾筋も、張り渡されて、風に、鳴っていた。
「祭りかよ」
ルキウスが、上を、見上げながら、言った。
「まだ、準備だと、聞いた」
「これで、準備か」
梯子の上で、男が、一人、布を、結んでいた。下から、子供が、次の一本を、投げて、渡している。何度か、失敗した。そのたびに、下の、女たちが、笑った。
私は、それを、見上げていた。
布の、色は、褪せていた。何年も、しまい込まれ、何年も、出されてきたのだろう。去年も、その前も、同じ、布が、同じ、屋根の間に、渡されたのだ。
そして、来年も。
誰も、疑って、いなかった。
*
市場は、歩けないほどだった。
干し魚の、匂い。香草の、束。蝋燭を、山にして、積んだ店。繋がれた山羊が、鳴いている。鍛冶屋の、槌が、いつもより、速く、鳴っていた。祭りまでに、片づけたい、注文が、あるのだろう。
塩を、売る店が、あった。
白い、山が、いくつも、並んでいた。灰を、被っていない、白だ。南の、涸れた湖から、掘り出されるのだと、売り手が、誰にともなく、喋り続けていた。街道では、めったに、手に入らない代物だ。
私は、その、白さを、しばらく、見ていた。
悪くない、と、思った。
ルキウスは、干し肉の、値を、値切っていた。例の、木彫りを、懐から、出して、店主に、見せながら。
「これ、つけるから、負けろよ」
「いらねえよ、そんなもん」
「なんでだよ。縁起物だぞ」
「どこの、神様か、言ってみろ」
「……知らねえ」
「じゃあ、いらねえ」
周りで、笑い声が、上がった。ルキウスは、憤慨した顔で、置物を、懐へ、戻した。だが、その、口元は、笑っていた。
リネットは、私の、少し後ろを、歩いていた。
フードを、深く、被って。人混みを、避けるように。
だが、この日の、市場に、避ける隙間は、なかった。誰かの、肩が、当たる。荷車が、掠める。そのたびに、少女は、身を、竦めた。
乾物屋の、女が、彼女を、呼び止めた。
私は、身構えた。石になった、右頬が、見えたのだと、思った。
だが、女は。
「これ、持っておいき」
と、干した果実を、一つ、少女の、左手に、握らせた。
「痩せすぎだよ、あんた」
リネットは、しばらく、それを、見ていた。
それから、小さく、頭を、下げた。
「……ありがとう、ございます」
声が、掠れていた。
女は、もう、次の客に、向き直っていた。自分が、何を、したのかにも、気づいていない顔で。
少女は、その果実を、食べなかった。
ただ、左手の、中に、握っていた。歩いている間、ずっと。
*
「神父さん!」
声が、した。
振り向くと、リシェルが、駆けてくる。両腕で、抱えていた。籠では、ない。布に、包まれた、塊だった。
「約束の、大きいやつ」
差し出された、それは。
私の、両手に、余った。
「……大きいな」
「でしょ」
少女が、胸を、張った。
「じいちゃんがね、祭りの日は、これを、焼くの。ずーっと前から。あたしが、生まれる前から」
布越しに、熱が、伝わってきた。
まだ、温かい。
「そんなに、前からか」
「うん。じいちゃんの、じいちゃんの、代から、って」
名も、知らぬ、誰かの、代から。
同じ、窯で、同じ、日に、同じ、大きさの、パンが、焼かれ続けてきた。黒陽が、空に、貼りついたまま、動かない、この、百年の、下で。
それは、私の、歩き方より、よほど、確かなもののように、思えた。
私は、名を、刻んで、歩く。
この、街は、パンを、焼いて、留まる。
どちらが、正しいのかは、わからない。
だが、少なくとも。
この街の、やり方の方が、暖かかった。
*
窯の前を、通りかかった。
戸口が、開いていた。
老人が、いた。
背を、向けて。腰を、曲げたまま。生地を、捏ねている。太い、腕が、規則正しく、上下していた。粉が、朝の光の中で、白く、舞っていた。
この、老人の、名を。
私は、まだ、知らない。
訊こう、と、思った。
昨夜、あの子には、訊けなかった。せめて、これくらいは。
私は、戸口へ、一歩、踏み出した。
「じいちゃん! 神父さん、来たよ!」
リシェルの、声が、割り込んだ。
老人は、手を、止めなかった。捏ねながら、何か、答えた。粉に、まみれた、しゃがれ声だった。生地を、打つ、音に、紛れて、聞き取れなかった。
「もう少しかかるって。あとで、来て、だって」
「……ああ」
あとで。
私は、頷いた。
窯の、熱気が、戸口から、流れ出していた。
陽は、まだ、高くなり切っていなかった。
*
空が、裂けたのは。
その、昼だった。
最初に、気づいたのは、犬だった。
市場の真ん中で、突然、足を止め、南の空へ向かって、狂ったように、吠え始めた。毛が、逆立っていた。尾が、腹に、巻き込まれていた。
「おい、どうした」
ルキウスが、屈み込む。
私は、空を、見上げた。
――黒陽が。
裂けて、いた。
だが。
あの夜の、あれとは、違う。
あのときは、縁が、縦に、指の幅ほど、開いただけだった。
今度は。
地平の、端から、端まで。
黒い円盤が、真っ二つに、割れていた。
裂け目の内側には、あの、色のない何かが、覗いている。目が映すことを拒む、あの一点。それが、いま、空の半分を、占めている。
喉の奥が、詰まった。
目の縁が、熱くなった。
――また、これだ。
なぜ。
なぜ、あれを見ると、私は。
「アベル」
ルキウスの声が、掠れていた。
「あれ、何か、出てくるぞ」
裂け目から。
白いものが。
降りて、きた。
最初、私は、それを、雲だと、思った。
次に、山だと、思った。
だが、動いていた。
ゆっくりと。しかし、確実に。天から、地へ向かって。
白く、なめらかで、細長い。先端は、わずかに、丸い。その根元は、裂け目の奥へ、消えている。どこまで続いているのか、わからない。
雲を、裂いていた。
いや――雲が、避けていた。それに触れることを、恐れるように、渦を巻いて、逃げていた。
私は、それの、輪郭を、目で、辿った。
辿って。
理解した。
理解して――膝の力が、抜けそうに、なった。
――指だ。
人の、指の形を、している。
だが、その長さは。山脈ほども、あった。
そして、細部が。
あまりに、正しかった。
関節の、皺が、見えた。三本。人差し指の、第二関節にあるのと、同じ数だけ。爪の、丸みが、見えた。爪の根元の、あの白い半月まで、あった。指紋の渦さえ、山の稜線ほどの大きさで、そこに、刻まれていた。
――誰の、指だ。
なぜ、そう思ったのか、わからない。
だが、そう、思ってしまった。
あれは「指のようなもの」では、ない。
誰かの、指だ。
人間の指を、寸分たがわず写し取って、ただ、大きさだけを、山脈まで、引き伸ばしたもの。
もし、あれに、掌があるなら。
もし、あれに、腕があるなら。
――その先には、何が、ついている。
考えた瞬間、口の中が、乾いた。
指は、まだ、伸び続けていた。
ゆっくりと、たわむように。第一関節が、微かに、曲がった。
曲がった。
それは、生きていた。
卵の殻を、内側から、割ろうとする、雛のように。
この世界の、外側から。
白い指が、こちらへ、伸びて、きていた。
そして――
皮膚が、蠕動していた。
遠目には、なめらかに見えた表面が。近づいてくるにつれ、細かく、波打っているのが、わかった。
毛穴だ。
山肌ほどの大きさの、無数の毛穴が。
開いたり、閉じたり、していた。
呼吸するように。
その、ひとつひとつから。
白いものが、生えて、いた。
押し出されるように。次々と。抜け落ちては、また、生えて。
――ああ。
あれは、羽根を、降らせているのでは、ない。
剥がれ、落ちているのだ。
あの巨大な指から。生え、伸び、役目を終えて、乾いて、剥落していくもの。それが、風に乗って、街へ、届いているだけだ。
鳥が羽根を降らせるのでは、ないように。
蛇が鱗を降らせるのでは、ないように。
あれは、贈り物では、ない。落屑だ。
なのに。
地上では。
数千の人間が、両手を、天へ、掲げていた。
「羽根だ」
「天使の、羽根だ」
「救いが、降ってくる」
そう、呼んでいた。
――そして、その瞬間には。
もう、羽根に、なっていた。
私は、それを、理解した。理解して、吐き気が、した。
何から剥がれ落ちたものであろうと、関係が、ない。数千の口が羽根と呼び、数千の目が羽根と見た。ならば、それは羽根だ。この世界において、それ以上に確かなものは、何もない。
白く。
柔らかく。
聖なるものとして。
落屑が、聖遺物に、成り上がった。
それが、いま、人の街へ。
降り注いで、いる。
*
市場が、静まり返った。
誰も、逃げなかった。
逃げるという発想が、湧かなかったのだ。あまりに大きすぎるものを見たとき、人は、まず、動けなくなる。逃げるべき方向が、わからないからだ。
数千の人間が、同じ空を、見上げていた。
そして。
誰かが。
呟いた。
「……天使だ」
――やめろ。
私は、そう、叫ぼうとした。
叫べなかった。声が、間に合わなかった。
なぜなら、その言葉は。
すでに、広がっていた。
「天使だ」
「天使だぞ」
「天使が、降りてくる」
波紋のように。数千の口が、同じ言葉を、繰り返した。




