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黒陽黙示録アベル ― RE:NEHEMOS  作者: 鉄川零


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空、裂ける-2

――弔い人の書に、こうある。


 名を与えることは、殺すことである、と。


 この一行を、初めて読んだとき、私は、意味がわからなかった。名を呼ぶことは、私にとって、鎮めることであり、還すことであり、安らかにすることだったからだ。


 だが、幾度も歩くうちに、わかってきた。


 名を与えるとは、その者から、他のすべてのあり方を、奪うことなのだ。


 「お前は、ヨナだ」と呼んだ瞬間、その者は、ヨナ以外の何者にも、なれなくなる。ヨナでなかったかもしれない可能性が、すべて、殺される。無数のあり得た人生を屠って、たった一つを、生き残らせる。それが、名を呼ぶという行いの、本当の意味だ。


 弔いにおいては、それが、救いになる。すでに死んだ者には、可能性など、苦痛でしかないからだ。


 だが。


 まだ、何者でもないものに。


 名を、与えたら?


 まだ生まれていない、形も定まらぬ、ただの揺らぎに向かって。数千の人間が、一斉に。


 「あれは、天使だ」と。


 ――そう、呼んだら。


 この世界の理は、たったひとつ。


 観測が、現実を、決める。


 見られたものが、在る。語られたものが、形を持つ。呼ばれたものが、そのものに、なる。


 いま、この街の数千の人間は。


 空から降りてくる、正体不明の何かに向かって。


 声を揃えて、名を、与えていた。


 彼らは、祈っているつもりだった。


 救いを、待っているつもりだった。


 だが、実際に彼らがしていたのは。


 ――作ることだった。


 自分たちの手で。神を。


 白い指が。


 輪郭を、変えた。


 いや、変えたのでは、ない。


 定まったのだ。


 さっきまで、それは、ただの白い柱だった。曖昧で、いくらでも、他の何かになれたはずのものだった。


 いま。


 指に、なった。


 完全な。疑いようのない。天使の、指に。


 空気が、変わった。


 肌が、粟立った。


 法則が、書き換わる音が、した。実際には、音など、しなかった。だが、確かに、聞こえた気が、した。


 「……ルキウス」


 私は、言った。


 自分でも、驚くほど、低い声だった。


 「人を、集めろ。城壁の、北へ。走れる者から、順に」


 「おい、あれ、まさか」


 「走れ」


 ルキウスが、走った。


 私は、空を、見上げたまま、動けずにいた。


 止められない。


 私の業は、名を呼ぶことだ。


 だが、いま、名を呼んでいるのは、数千の人間の方だった。


 一人の否定が、数千の観測に、勝てるはずが、ない。



 羽根が、降り始めた。


 白い。


 柔らかい。


 ひらひらと、灰の中を、舞い落ちてくる。まるで、この世でいちばん、清らかなもののように。


 黒雪の街に、白い羽根が、降る。


 美しかった。


 悍ましいほどに。


 人々が、歓喜した。


 「救済だ!」


 「黒陽が、開いた!」


 「終わりの日だ!」


 手を、伸ばす者が、いた。


 空へ。降る羽根へ。


 ――触れるな。


 私は、走った。


 間に合わなかった。


 男の、掌に。


 羽根が、一枚。


 触れた。


 男が、泣き崩れた。


 膝から、地面へ。両手で、顔を、覆って。


 「……母さん」


 その声が。


 あまりに、幸福そうで。


 私は、足を、止めてしまった。


 「母さん。……ああ、母さん。ずっと、会いたかった」


 男は、笑っていた。泣きながら。心の底から、笑っていた。


 そして。


 彼の、掌が。


 白く、なった。


 塩を、まぶしたように。指先から、手首へ、腕へ。皮膚の色が、抜けていく。抜けた場所が、乾いて、ひび割れて――


 崩れた。


 粉になって。


 風に、散った。


 血は、出なかった。


 骨も、残らなかった。


 白い塵だけが、灰の上に、積もった。


 最後まで。


 男は、笑っていた。


 伝染した。


 羽根に触れた者から、順に。


 女が。子供が。老人が。兵士が。


 次々に、白く、崩れていった。


 誰も、悲鳴を、上げなかった。


 そこが、いちばん、恐ろしかった。


 「やっと、会えた」


 「帰れる」


 「ああ――もう、痛くない」


 みな、それぞれの、いちばん愛した者の名を、呼んでいた。そして、それぞれの、いちばん幸福だった顔で、崩れていった。


 祈り。


 歓喜。


 崩壊。


 そして、街そのものが。


 軋み始めた。


 中央塔の、いちばん高い場所。そこに、罅が、走った。石と石の継ぎ目から、細く、白い粉が、噴き出す。まるで、塔自体が、あの白化を、内側から、患っているように。


 罅は、瞬く間に、広がった。


 塔が、傾いだ。


 ゆっくりと。あまりにも、ゆっくりと。まるで、老いた巨人が、膝を、折るように。


 崩れ落ちる、石の、音。


 いや――音では、なかった。


 塔が崩れる、その瞬間、私は、見た。落ちてくる、石の、一つ一つが。着地する、寸前に。白く、変わって、いくのを。


 石畳を、打つ音は、しなかった。


 ただ、白い、粉塵が、噴き上がっただけだった。


 尖った、屋根々々が。次々に、傾いていく。ある家は、屋根から。ある家は、土台から。崩れ方に、規則性が、なかった。まるで、この街の、あらゆる建材が、いっせいに、自分を支える理由を、見失ったかのように。


 市場の、外れ。


 あの、礼拝堂の、方角からも、崩れる音が、した。


 色硝子の、割れる、甲高い音。それに、続いて、石壁の、崩落する、鈍い音。


 ――あの、老女は。


 まだ、あそこに、いる。


 いまは、行けない。


 目の前の、崩壊が、あまりに、大きすぎた。


 鐘楼の、鐘が。


 最後に、一度だけ、鳴った。


 誰も、鳴らしていないのに。


 その、澄んだ音の、余韻が、消えぬうちに。鐘楼ごと、崩れ落ちた。


 地面を、見た。


 白い。


 一面が、白かった。


 灰色の石畳が、もう、見えない。降り積もった羽根と、崩れ落ちた人の塵とが、混じり合って、ひとつの層に、なっていた。


 私は、屈み込んだ。


 掌で、掬った。


 軽い。


 指の間から、さらさらと、こぼれていく。


 ――どちらが、どちらだ。


 わからなかった。


 白い羽根の、砕けた欠片。白い、人の、粉。粒の大きさも、色も、乾き方も、まるで、同じだった。区別が、つかない。


 ついさっきまで、母を呼んでいた男が。


 いま、私の掌の中で。


 あの指から剥がれ落ちたものと、混ざり合って、見分けが、つかなくなっている。


 風が、吹いた。


 白い層が、さあ、と、波打った。


 街路を、渡っていく。低く。滑らかに。ひとつづきの、生き物のように。


 その上を、まだ、羽根が、降っている。


 積もる。


 人が崩れる。


 積もる。


 また、人が崩れる。


 積もる。


 ――やがて、この街は。


 どこまでが人で、どこからが羽根なのか、誰にも、わからなくなるだろう。


 弔いなど、できるはずが、ない。


 名を呼ぼうにも。


 誰の、どの一片かを、選ぶことすら、できないのだから。


 私は、舌打ちした。


 「……記憶汚染型」


 羽根は、毒では、ない。


 毒なら、防げる。避けられる。中和できる。


 これは――救済だ。


 その者が、生涯でいちばん強く握りしめていた、たった一つの願いを。掌に載せて、差し出してくる。


 母に会いたかった。家に帰りたかった。もう、痛くなくなりたかった。


 心が、受け入れてしまう。


 拒めるはずが、ない。


 私が、祈骸から、名を選び取るとき。私は、その者の、いちばん強く光っているものを、掬い上げる。


 この、白い指は。


 まったく、同じことを、している。


 生きている人間に。



 「助けないの?」


 声が、した。


 振り返ると――リシェルが、いた。


 いつのまに。籠を、抱えたまま。震えて、いた。


 「ねえ、助けないの? あの人たち」


 「無理だ」


 私は、即答した。


 自分でも、驚くほど、冷たい声が、出た。


 少女の顔が、歪んだ。傷ついた、子供の顔だった。


 「なんで」


 「触れた時点で、あいつらは、もう、向こう側だ」


 私は、言った。


 言いながら、それが、自分自身への、言い聞かせであることに、気づいていた。


 助けられない。


 弔えもしない。


 白化は、確定だ。石化と、同じだ。もう、揺らいでいない。私の鎖は、絡まない。名を呼んでも、何も、起きない。


 ――また、これだ。


 名がないから、呼べなかった。


 揺らいでいないから、届かなかった。


 そして今度は。


 生きているうちに、確定させられていく。


 私が、間に合う余地すら、ない。


 「でも」


 リシェルが、空を、見上げた。


 白い指を。


 降り続ける、羽根を。


 そして。


 小さく、呟いた。


 「……泣いてる」


 私は、振り返った。


 「何?」


 少女は、空を、見たままだった。


 「苦しいんだ、あれ」


 ――なぜ。


 なぜ、この子供が、そんなことを。


 問おうとした、その瞬間。


 流れ込んで、きた。


 視界が、白く、飛んだ。


 市場が、消えた。悲鳴が、消えた。羽根の降る音が、消えた。


 ――白い、空間。


 どこまでも。上も下も、わからない。


 重さも、なかった。私の体は、そこに、在るのか、無いのか、それすら、判然としない。


 その、中心に。


 巨大な、繭が、あった。


 白い糸で、幾重にも、幾重にも、巻かれている。糸の、一本一本が、私の腕ほどの、太さがあった。それでいて、透けている。透けた、その奥に。


 何かが、いる。


 動いている。もがいている。


 輪郭は、見えなかった。だが、確かに、そこに、在った。長い、長い、時間を、その中で、過ごしてきたことだけが、わかった。


 繭の表面が、内側から、押されて、歪んだ。


 指の形に。


 ――ああ。


 あれは、出ようとしているのか。


 それとも、出られずにいるのか。


 私は、その、糸の一本に、触れてみたく、なった。触れれば、何か、わかる気が、した。


 だが、手が、届かなかった。近づいたつもりが、遠ざかっている。ここにも、届かない距離が、あるのかもしれない。


 そして。


 声が、した。


 子供のような、声だった。


 『さびしい』


 私は、息を、呑んだ。


 『さびしい。さびしい。さびしい』


 繰り返して、いた。


 幾千年も、そうしてきたように。


 声には、抑揚が、なかった。泣いているのでは、ない。ただ、事実を、述べているだけのような、平坦さだった。それが、かえって、恐ろしかった。


 感情が、擦り切れるほど、長く、その言葉だけを、繰り返してきた者の、声だった。


 『だれか』


 『――だれか、なまえを』


 その、たった一言のために。


 どれほどの、時間を、費やしてきたのだろう。


 私は。


 手を、伸ばしかけた。


 伸ばして――


 「――アベル!」


 頬を、殴られた。


 視界が、戻った。


 ルキウスの顔が、目の前に、あった。血相を、変えている。


 「何、突っ立ってんだ! 死ぬぞ!」


 私は、自分の足元を、見た。


 白い羽根が。


 私の、爪先の、数寸のところに。


 落ちていた。


 「……いま」


 声が、掠れた。


 「私は、何を」


 「知るか! いきなり動かなくなって、空に手ぇ伸ばして、笑ってたぞ、あんた!」


 笑って。


 私が。


 背筋が、凍った。


 あれは、幻視では、なかった。


 もっと、深い。


 ――接続だ。


 あれと。黒陽と。


 なぜ、私が。


 いや。


 ――なぜ、あれの声を聞いて、私は。


 泣きたく、なったのだ?



 都市結界が、軋んだ。


 中央塔の頂から、光が、走った。


 一条。二条。十条。


 対神話迎撃術式。この都市が、最後に持つ、切り札だ。無数の光の槍が、天へ向かって、撃ち上がっていく。


 白い指へ。


 届いた。


 そして。


 ――白化した。


 光そのものが。


 撃ち上がった術式の、光の柱が。触れた先端から、根元へ向かって、白く、乾いて、崩れていった。塩の柱になって、砕けて、地上へ、降り注いだ。


 私は、それを、見上げていた。


 術式が、侵食されている。


 現実法則への、上書きだ。


 あれは、もはや「そういうもの」に、なっている。触れたものを白化させる存在として、数千の観測によって、完全に、確定されて、しまっている。


 高位神話存在。


 教団最悪等級。


 ――《天使級》。


 誰が、この、等級を、定めたのか。私は、知らない。だが、その、名がついている、ということは。過去に、同じような、何かが。この世界の、どこか、別の場所でも――起きた、ということだ。


 この街だけが、初めてでは、ない。


 通信機が、絶叫していた。


 『全域封鎖! 全域封鎖!』


 『中央第七層、崩壊――』


 『白化現象、拡大中! 東区、放棄!』


 雑音。悲鳴。そして、祈り。


 まだ、祈っている者が、いた。


 崩れていく街の中で、跪いて、両手を組んで、空を見上げて。


 笑いながら。


 街全体が。


 狂い、始めていた。


 背の棺が。


 どく、と。


 鳴った。


 私は、それに、手を、かけた。


 かけて――躊躇った。


 この棺が、いつ、私の言うことを、聞いたことが、ある?


 あの宿場町のときも、勝手に、開いた。勝手に、槍を、出した。私が呼んだのでは、なかった。


 いま、開けば。


 何が、出る?


 「アベル!」


 ルキウスが、叫んだ。


 私は、顔を、上げた。


 白い指が。


 落ちて、きた。


 ゆっくりと、伸びてくるのでは、なく。


 ――落下、していた。


 山が、落ちてくる。


 この、街へ。


(十章 了)

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