届かない距離-1
空が、近づいてきた。
そうとしか、言いようが、なかった。
白い指が、落ちてくる。伸びてくるのでは、ない。落下している。山脈が、そのまま、真下へ。
影が、街を、覆った。
昼が、消えた。
最初、誰も、それが、何を、意味するのか、理解できていなかった。子供が、指をさして、笑っていた。大人が、まだ、呆けたように、空を、見上げていた。
理解が、追いついたのは、影の、輪郭が、街を、完全に、覆い尽くした、その、瞬間だった。
悲鳴が、上がった。一つ、また一つ。波紋のように、広がって。
太陽など、この世界には、とうにない。それでも、灰の空には、わずかな明るさが、あった。その、わずかな明るさが、いま、白いものの巨体に、遮られた。
――暗い。
この街が、地上から消えるまで。
あと、いくつ、数えるあいだか。
「走れ!」
私は、叫んだ。
「北へ! 城壁の、北へ!」
誰も、走らなかった。
跪いて、いた。
両手を、天へ。落ちてくるものへ向かって。祈りながら。歓喜しながら。
その、顔を、私は、見た。
涙が、伝っていた。だが、悲しみの、涙では、なかった。頬を、紅潮させ、口の端を、限界まで、吊り上げて。まるで、生涯で、最も、幸福な、瞬間を、迎えているかのように。
瞳孔が、開ききっていた。光が、そこに、あるはずなのに。何も、映していないように、見えた。
「来てくださった」
「ああ、来てくださった!」
声が、震えていた。歓喜で。恐怖では、なかった。少なくとも、彼ら自身は、そう、感じているはずだった。
彼らは、待って、いた。
潰されることを。
乾いた音が、連続した。
振り返る。
ルキウスが、撃っていた。
両脚を、開いて。天を、仰いで。あの、五つの環の連なる銃を、真上へ、突き上げて。
赤い。
赤熱した灰が、噴き上がっていく。散弾のように広がりながら、白い指の、腹へ。
「あ゛ああああああッ!」
吼えながら、撃つ。
撃つ。撃つ。撃つ。
赤い光条が、幾条も、空へ。この街で、ただ一人、あれに逆らっている男の、怒りが、そのまま、火になって。
届いた。
白い表面に、赤い花が、咲いた。
そして。
――白く、なった。
赤熱した灰が、触れた先から、色を失っていく。熱が、抜ける。赤が、抜ける。乾いて、砕けて、白い粉になって、こぼれ落ちる。
残ったのは、白い、点の痕。
それだけだった。
「……嘘、だろ」
ルキウスの声が、掠れた。
「効かねえのか」
効かない。
当然だった。
あの銃が撃つのは、感情だ。「そうでなければ承知しない」という、人の意志が、灰を炎に変えている。
だが、白い指もまた、意志で、できている。
数千の人間が「あれは天使だ」と決めつけた、その総意で。
一人の怒りが、数千の祈りに、勝てるはずが、なかった。
*
私は、走った。
人の流れに、逆らって――いや、流れなど、なかった。誰も、動いていない。跪いた人々の間を、縫うようにして、私は、走った。
あれを、止める方法。
考えろ。
名を、呼ぶ。私の業は、それだけだ。
だが。
――呼べない。
あれは、死者では、ない。
祈骸なら、呼べる。死んだ想いだからだ。名のないものなら、名を与えれば、いずれ呼べたかもしれない。石化した者は、もう終わっているから、呼んでも届かない。
白い指は、そのどれでも、なかった。
あれは、生まれかけて、いる。
いま、この瞬間も、数千の観測によって、形を与えられ続けている。まだ完成していない。まだ固まりきっていない。だが確実に、天使という形へ、収束しつつある。
――生まれる途中のものに、弔いは、届かない。
死んでいないからだ。
いや。
生きてすら、いない。
まだ、何者にも、なっていないものを。
どうやって、名で、縛れというのか。
私は、走りながら、歯を、噛んだ。
また、これだ。
名がないから、呼べなかった。
揺らいでいないから、届かなかった。
そして今度は――まだ、存在していないから、掴めない。
百年、歩いてきた。
その百年が、何ひとつ、役に立たない。
*
瓦礫の音が、した。
落下の余波だ。まだ指は届いていない。それでも、空気が押しつぶされ、風圧だけで、古い建物が、傾き始めていた。
市場の、東側。
石壁が、崩れた。
その下から――声が、した。
「じいちゃん!」
リシェルだった。
崩れた瓦礫の、山。その手前で、少女が、必死に、石を、どかそうとしている。細い腕で。一人で。
瓦礫の下から、腕が、一本、覗いていた。
太い腕だ。何十年も、生地を捏ねてきた腕。
「じいちゃん! じいちゃん!」
私は、走った。
速度を、上げた。
あと、二十歩。
――間に合う。
そう、思った。
思った、瞬間。
白い指が。
視界の、全部に、なった。
届かない。
二十歩が、届かない。
空気が、壁になっていた。落下する巨体が押しのけた大気が、地表を、水平に、走っている。私の体が、後ろへ、押される。足が、地面から、離れかける。
少女の姿が、遠ざかる。
いや、私が、遠ざかっている。
「――リシェル!」
叫んだ。
声が、届かない。風圧が、音を、後ろへ、吹き飛ばしていく。
あと、二十歩。
たった、二十歩だ。
なのに。
――間に合わない。
その言葉が、頭の中で、鳴った。
間に合わない。
いつも、そうだ。いつも、間に合わない。名を呼ぶのに、時間がかかる。一人ずつしか、呼べない。速く還せば救えた者がいる、と言われたことがある。たぶん、事実だ。
だが、私は、変えなかった。
変えられなかった。
そして今日も。
目の前の、たった二十歩を。
――届かせ、られない。
その、瞬間。
背中が、熱くなった。
棺が。
軋んだ。
きし、と。
きし、きし、と。
内側から、爪を、立てるように。
「……やめろ」
私は、言った。
風の中で。掠れた声で。
「まだ、お前を――」
棺が、割れた。
音は、聞こえなかった。ただ、背中の重さが、消えた。
そして。
一本の槍が。
黒い、影のような槍が。
私の意志を、無視して。
飛び、出した。
――槍が、宙で、静止した。
黒い一条。
柄も、鍔も、装飾も、何もない。ただ、まっすぐな、影のような棒。それが、私の背丈の倍ほどの長さで、虚空に、浮いている。
――何もない、ということが。
恐ろしかった。
この世界のものは、みな、彫られている。墓標の縁には蔓草が巡り、聖堂の柱は獣の背骨を模し、市場で売られる粗末な木匙にすら、持ち主を示す傷が三本入れてある。人は、大事なものを、必ず飾る。飾ることでしか、それが大事だと示せないからだ。名を与え、意匠を与え、そうやって「これは、こういうものだ」と決めてきた。飾るとは、決めつけることの、いちばん優しい形だ。
この槍には、それが、ない。
一条の黒が、あるだけだ。表面に、継ぎ目がない。鋳型の跡も、研いだ筋も、握られてできた擦れもない。穂先がどこから始まり、柄がどこで終わるのかも、わからない。太さは端から端まで変わらず、先端だけが、見ていると目の奥が痛くなるほど、細い。光を返さない。返さないというより、そこにだけ光が届いていないように見える。虚空に浮いた、細長い、欠落。
背の棺と、同じだった。
あの箱にも、継ぎ目がない。蓋も、蝶番もない。違うのは、棺が過剰なまでに彫り込まれていて、こちらが何ひとつ彫られていないことだけだ。
封じる側と、封じられていた側。
――誰も、こいつを、飾らなかった。
名前を、私は、知らない。
こいつが何なのか、何本あるうちの一本なのか、なぜ出てきたのか。何ひとつ、知らない。
ただ、穂先が、天を、向いた。
白い指へ。
そして。
――世界が、遠のいた。
言葉にすれば、それだけだ。
だが、実際に起きたことは、もっと、静かで、もっと、悍ましかった。
落下していた指が。
止まった。
いや。止まっては、いない。落ち続けている。確かに、落ち続けている。
なのに――近づいて、こない。
一歩ぶん、落ちるたびに。
一歩ぶん、遠ざかる。
距離が、固定されていた。
――この世界における「距離」とは、何か。
私は、それを、知らなかった。
だが、槍は、知っていた。
距離とは、絶対的なものでは、ない。二点のあいだに横たわる、揺らぎの一種にすぎない。一歩と、一里。その差は、そう認識されているというだけのことだ。近いと観測されたものが近くにあり、遠いと観測されたものが遠くにある。それだけの、ことだ。
ならば。
固定して、しまえばいい。
「この二点は、永遠に、届かない」と。
決めつけて、しまえばいい。
殺さない。
壊さない。
傷つけも、しない。
ただ、永遠に、隔てる。
白い指は、いま、この街を潰そうとして、落ち続けている。永遠に。世界が終わるまで、落ち続けるだろう。
そして、決して、届かない。
――これが、あの槍の、答えだった。
戦わない。
戦う必要のない状況を、作る。
私は、それを、見上げていた。
見上げながら、背筋が、冷えていくのを、感じていた。
美しい、と思ってしまったからだ。
こんなにも、静かで。こんなにも、暴力的で。こんなにも――残酷な解決を。
美しい、と。
*
「……アベル」
ルキウスの声が、震えていた。
「あんた、今、何を」
私は、答えられなかった。
私が、したのでは、ない。
そう、言おうとした。
言えなかった。
なぜなら。
槍が、まだ、止まらなかったからだ。
最初に、気づいたのは、リシェルの声だった。
「――じいちゃん!」
少女が、瓦礫に、手を、伸ばしている。
届いていない。
あと、指、二本ぶんの距離。そこで、彼女の手が、止まっている。
いや、止まっているのでは、ない。
伸ばしている。必死に。全身を、投げ出すように。
なのに、届かない。
伸ばした分だけ、瓦礫が、遠ざかる。
「なんで」
少女が、叫んだ。
「なんで、届かないの!」
私は、その光景を、見た。
見て――理解した。
理解して、血の気が、引いた。
拡散している。
槍の固定が。
私と白い指のあいだだけでは、なかった。それを起点にして、周囲へ。街へ。あらゆる二点のあいだへ。
「届かない」という決めつけが。
広がって、いる。
母親が、子を、抱こうとしていた。
腕の中に、いる。
抱いている。確かに、抱いているのに――抱けていない。
子の背に回した手が、子の背に、触れない。密着しているように見えるのに、二人のあいだに、決して埋まらない隙間が、生まれている。
女が、狂ったように、腕に力を込める。
抱きしめる。
抱きしめられない。
子が、泣いた。母を求めて、手を伸ばす。届かない。
二人は、抱き合った姿勢のまま、永遠に、離れていた。
男が、逃げようとして、走り出す。
足が、地面に、着かない。
浮いているのでは、ない。地面はそこにある。踏んでいるように見える。だが、足の裏と、石畳のあいだに、届かない距離が、挟まっている。
男は、走る姿勢のまま、その場で、宙を、掻いた。
水を飲もうとした老人の唇が、椀に、届かない。
倒れた者に手を貸そうとした兵士の手が、その肩に、届かない。
誰も。
誰にも。
届かなく、なっていた。




