届かない距離-2
――これは。
これは、あの、白い指と。
何が、違う?
あれは、人を、白く崩す。
これは、人を、永遠に、隔てる。
どちらが、優しい?
どちらが、まし、だ?
私は、槍を、見た。
宙に浮いた、黒い一条を。
「やめろ」
言った。
「やめろ、と、言っている」
槍は、聞かなかった。
黒い穂先が、ゆっくりと。
向きを、変えた。
白い指では、なく。
――私の方へ。
なぜ。
その問いが、頭を、貫いた。
なぜ、こいつは、私を狙う。
私は、こいつの、持ち主だ。物心ついた時から、この棺と共に、歩いてきた。
なのに、なぜ。
――違う。
狙って、いるのでは、ない。
これは、敵意では、ない。
これは。
この槍が、生涯ただ一つ、憑かれたように求め続けている、あの衝動だ。
固定したい。
揺らぐものを、見つけて、縫い止めて、静止させたい。
そして、いま。
この槍の、目の前に。
この世で、いちばん、揺らいでいるものが、立っている。
――私だ。
自分が何者かも、知らない男。
いつから歩いているかも、思い出せない男。
腕に刻まれた名の数を、数えることすら、できずにいる男。
名前は、ある。アベル=レギス。
だが、その名の下にある「かたち」が、定まって、いない。
槍は、気づいて、いた。
最初から。
自分を担いでいる男こそが、固定されるべき「揺らぎ」そのものだと。
穂先が、迫った。
私は、動けなかった。
――ああ。
そうか。
もし、ここで、固定されたら。
私は、私に、なるのか。
ずっと、わからなかった自分が。たった一突きで、確定するのか。
それは。
――それは、少し。
楽に、なることでは、ないか。
その考えが、頭を掠めた、瞬間。
背中を。
どん、と。
押された。
私の体が、前へ、つんのめる。
黒い穂先が、私の、いた場所を、貫いた。
空間が、そこで、固まる音がした。
押したのは、ルキウスだった。
「行け、神父!」
叫んでいた。
あの夜と、同じ言葉で。
だが、あのときとは、違った。
あのときは、敵の腕から、私を、逃がすために。
今度は。
――私自身の、槍から。
私を、引き剥がすために。
「立ち止まるな! あんたが止まったら、誰が、あいつらの名前、呼ぶんだ!」
私は、たたらを踏んだ。
振り返る。
ルキウスの、目が。
一瞬、私の、足元より、下へ、逸れた。
何かを、見ている。私の、外套の、裾のあたり。だが、次の瞬間には、その視線は、また、私の顔へ、戻っていた。
何を、見たのか。
訊く、余裕は、なかった。
ルキウスが、そこに、立っていた。
右の掌を、こちらへ、向けて。突き飛ばした、その手を。
円い火傷の痕が、あった。
あの宿場町の夜、この棺に触れて、灼かれた痕。
――こいつは。
二度も。
同じ手で。
私を。
「何、ぼけっとしてんだ!」
ルキウスが、怒鳴った。
「あんたの荷物だろうが! なんとかしろ!」
私の、荷物。
――そうだ。
私の、荷物だ。
ずっと、背負ってきた。開け方も知らず、中身も知らず、それでも、背負ってきた。
だったら。
「――戻れ」
私は、言った。
声が、掠れた。
槍は、動かない。
「戻れと、言っている」
穂先が、微かに、震えた。
私は、手を、伸ばした。
その、黒い柄へ。
掴んだ。
――熱い。
いや、冷たい。
わからない。ただ、掌が、灼けるようだった。ルキウスの掌の、あの円い痕が、頭を掠めた。
構わなかった。
だが。
掴んだ、その、瞬間に。
肘から先が、動かなく、なった。
痛みでは、ない。痺れでも、ない。
――決まって、いく。
この腕が、「柄を握っている腕」として、固定されていく。他の、どんな形にも、なれなくなっていく。指を、開こうとした。開かない。開くという、可能性そのものが、この腕から、静かに、抜き取られていくのが、わかった。
肩まで、来た。
次は、首だ。
その次は。
――私という、輪郭の、全部だ。
「お前が、固定したいのは、私か」
私は、槍に、言った。
「いいだろう。いつか、そうなるかもしれん」
力を、込める。
込める、というのが、正しいのかは、わからない。動かない腕で、動かそうとすることに、意味が、あるのかも。
――揺らげ。
私は、自分に、言った。
定まるな。決まるな。まだ、何者にも、なるな。
この、わからないままの、みっともない、輪郭のまま。
もう少しだけ、いろ。
穂先を、押し戻す。
「だが、今日じゃない」
ぐ、と。
向きが、変わった。
私から、離れて。天へ。
白い指へ。
「今日は、あっちだ」
拡散が、止まった。
母親の腕が、子の背に、届いた。女が、悲鳴のような声を上げて、子を、抱きしめた。
男の足が、地面を、踏んだ。
老人の唇が、椀に、触れた。
兵士の手が、倒れた者の肩を、掴んだ。
街に、音が、戻った。
そして――白い指との距離だけが、固定されたまま、残った。
落ち続けている。
永遠に。
届かないまま。
私は、槍を、握ったまま、それを、見上げていた。
――終わった。
そう、思った。
思った、その、直後だった。
足元が、揺れた。
地震では、ない。
石畳が、軋んでいる。私の踏んでいる、この地面が。ぎち、ぎち、と、内側から捻じれるような音を立てて。
そして。
――浮いた。
瓦礫が。荷車が。倒れた天幕が。
ゆっくりと、地面を離れて、宙へ。
白い羽根が、逆向きに、昇り始めた。
降っていたものが。舞い上がって、天へ。あの、届かないはずの、指へ向かって。
「……何だ、これ」
ルキウスの声が、掠れた。
私は、理解した。
理解して――全身が、冷えた。
届かないなら。
届くように、世界の方が、書き換わろうとしている。
指は、落ちてこられない。距離が固定されているからだ。
ならば。
――街が、昇ればいい。
誰が、そんなことを、決めた?
決めたのは。
跪いている、数千の人間だ。
彼らは、まだ、祈っていた。
街が半分白く崩れ、隣人が塵になり、それでも、両手を天へ掲げて。
「来てくださる」
「必ず、来てくださる」
――そうだ。
そうやって、あれは、生まれたのだ。
数千の口が「天使だ」と呼び、数千の目が「救済だ」と見た。だから、あれは天使になり、救済になった。
いま、私が、距離を固定した。
だが、固定したのは、私一人だ。
数千の観測が、それを、上書きしようとしている。
「届かないはずがない」と。
「救いは、必ず来る」と。
――そう決めつけている、数千の意志が。
世界の方を、捻じ曲げている。
私は、槍を、見た。
黒い一条は、なおも、距離を固定し続けている。忠実に。頑なに。だが、それは、たった一本の杭にすぎない。
数千の手が、その杭を、抜こうとしている。
「アベル!」
ルキウスが、叫んだ。
「地面が、浮くぞ! これ、街ごと、持っていかれる!」
私は、答えなかった。
答える代わりに――走り出していた。
だが、真っ直ぐには、走らなかった。
途中、崩れた、礼拝堂の、前を、通った。
石壁の、半分が、瓦礫に、なっていた。色硝子は、粉々に、砕けて、その、破片が、光を受けて、赤や、青に、瞬いていた。
その、瓦礫の、隙間に。
白髪が、見えた。
私は、足を、止めた。
――迷う、時間は、なかった。
だが、体は、既に、そちらへ、向いていた。
瓦礫を、掴んだ。石が、重い。指が、軋む。それでも、一つ、また一つと、どけていく。
「……おい」
声が、した。掠れて、いたが、確かに、生きている、声だった。
「あんた、こんな、時に」
「動くな。すぐ、出す」
最後の、石を、どけた。
瓦礫の、下から。あの、老女が、現れた。額に、血が、滲んでいた。だが、腕も、脚も、動いている。
私は、その、体を、引き上げた。
「立てるか」
「立てる、さ」
彼女は、私の、手を、借りて、立ち上がった。よろけながら、それでも、自分の、足で。
崩れた、祭壇を、見た。蝋燭は、とうに、消えていた。
「祈っていた、途中、だったのに」
彼女は、そう、呟いて、それから、私を、見た。
「あんたが、来るとは、思わなかった」
「そばに、いた」
「それだけ、かい」
私は、答えなかった。理由は、自分にも、わからなかった。
「モイラだ」
老女が、言った。
「わたしの、名は、モイラ」
初めて、聞く、名だった。
「アベル」
私も、名乗った。
モイラは、微かに、笑った。血の滲む、額のまま。
「弔い人に、助けられる、祈りの、番人か。皮肉なもんだね」
「祈りは、まだ、届いていないのか」
「わからないよ」
だが、その、声には。さっきまでの、迷いのない、確信は、なかった。ほんの少し、揺れているのが、私には、わかった。
「行きな」
彼女は、言った。
「あんたの、業が、要る、場所が、ある。わたしは、ここで、大丈夫だ」
私は、頷いた。
そして、また、走り出した。
跪いている、人々の方へ。
祈っている、生きた人間たちの方へ。
私の業は、名を呼ぶことだ。
あれには、名がない。まだ何者でもないものに、名は、与えられない。
だが。
跪いている、こいつらには。
――名が、ある。
最初の一人の前に、立った。
中年の男だった。市場で、私に麦を売ろうとした男だ。四倍の値をつけて、それでも申し訳なさそうに笑っていた男。
その男が、目を潤ませて、空を見上げている。
「母さんが、迎えに来てくれる」
私は、その肩を、掴んだ。
「違う」
「え……?」
「あれは、お前の母親じゃない」
男の目が、私を、見た。焦点が、合っていない。
私は、言った。
「お前の名は」
考える。市場で、隣の店の女が、この男を、何と呼んでいた。
「――ガルド」
男の、瞼が、震えた。
「お前は、ガルドだ。東の市場で、麦を売っている。値をつけすぎたと、気に病んでいた。三日前、私に、四倍で売った。売りながら、済まないと、言った」
「……おれ、は」
「お前の母親は、どこにいる」
男の口が、開いた。
閉じた。
そして――目の、焦点が、合った。
「……三年前に、死んだ」
「そうだ」
「じゃあ、あれは」
男が、空を、見上げた。
白い指を。
その顔から、恍惚が、剥がれ落ちた。
残ったのは、素の、恐怖だった。
「……なんだ、あれ」
「わからない」
私は、答えた。
「だが、天使では、ない」
男が、悲鳴を、上げた。
立ち上がり、転びながら、北へ、走り出した。
――一人。
私は、次へ、走った。
――名を呼ぶことは、殺すことである。
弔い人の書の、あの一行が、頭の中で、鳴っていた。
名を与えるとは、他のすべてのあり方を、奪うことだ。「お前はヨナだ」と呼んだ瞬間、その者はヨナ以外の何者にも、なれなくなる。
ならば。
逆も、また、成り立つはずだ。
生きている人間の、名を、呼ぶ。
「お前は、ガルドだ。麦売りのガルドだ」
そう決めつけた瞬間。
その男は、「救われようとしている者」では、なくなる。「母に迎えに来てもらう者」でも、なくなる。
ただの、ガルドに、戻る。
――観測を、引き剥がす。
一人ずつ。
数千の視線が、あれを天使にしている。ならば、その視線を、一つずつ、剥がしていけばいい。
一人減らせば、確定が、一つ緩む。
十人減らせば、十。
百人なら、百。
それが、私に、できる唯一のことだった。
「マレン!」
女の肩を、掴んだ。
「パン屋の隣に住んでいる。娘が二人いる。上の子は、リシェルと同い年だ」
女の目が、揺れた。
「……娘」
「どこにいる」
「あ、……ああ! リタ! リタ!」
女が、走り去った。
「――ヨルグ!」
「靴を、直していた。左足が悪い。杖を突いている。その杖は、どこだ」
「テオ! 井戸の水を汲んでいた男だ!」
「セラ! 洗濯物を干していた!」
名を。
次から次へ。
覚えている限りの、名を。
三日間、この街にいた。市場を歩いた。パンを買った。宿を取った。すれ違った。聞こえてきた。
その全部を。
私は、掻き集めていた。
だが、足りない。
圧倒的に、足りない。
数千だ。跪いている人間は、数千いる。私が名を知っているのは、そのうちの、何十人か。
街が、軋んでいる。石畳が、剥がれ始めている。建物の基礎が、地面から、引き抜かれようとしている。
時間が、ない。
――まとめて、呼べば。
その考えが、頭を、掠めた。
「跪いている者たちよ」と。「セドナの民よ」と。一息に、括ってしまえば。
速い。
圧倒的に、速い。
私は、口を、開きかけた。
開きかけて――
閉じた。
「……できるか」
自分に、言った。
名を呼ぶとは、確定させることだ。「セドナの民」と括った瞬間、こいつらは、セドナの民になる。ガルドでも、マレンでも、ヨルグでもなくなる。ただの、数千に、なる。
それは、あの白い指が、やっていることと、同じだ。
あれは、一人ひとりの、いちばん愛したものを、掌に載せて差し出してくる。だが、誰の名も、呼ばない。誰が誰かを、区別しない。全員を、等しく、白い塵に変えていく。
まとめて呼べば、私は。
――あれと、同じに、なる。
「……ふざけるな」
私は、走った。
次の一人の、前へ。
「お前の名を、言え」
名を、知らない男だった。
だから、訊いた。
「言え。お前の名だ」
男は、答えなかった。恍惚のまま、天を見上げている。
私は、その頬を、張った。
「名を言え!」
「……っ」
男が、瞬きした。
「……ハンス」
「ハンス」
私は、繰り返した。
「お前は、ハンスだ」
男の目に、焦点が、戻った。
一人。
まだ、足りない。
だが、これが、方法だと。私は、確信した。
「――手ぇ貸せってことだろ、それ!」
背後で、ルキウスが、怒鳴った。
振り返ると、男は、もう走っていた。跪いた人々の間へ。片端から、襟を掴み、揺さぶりながら。
「おい! 名前を言え! 自分の名前だ!」
「聞こえてんのか! 名を言え!」
効いていた。
声を掛けられた者が、我に返り、自分の名を口にし、そして――空を見上げて、悲鳴を上げる。
逃げていく。
一人。二人。十人。
リネットも、動いていた。
石の脚を引きずりながら。倒れた老人の傍へ屈み込み、その耳元へ、何かを囁いている。名を、訊いているのだ。
――生きている人間の、名を。
あの子が、いま、訊いて回っている。
その意味を、私は、考えなかった。
考える、余裕が、なかった。
リシェルまでもが、走り回っていた。
「おじさん、パン買ってくれたよね! 名前、名前!」
この街の子供だ。私より、遥かに多くの名を、知っている。
「エミール! セラのおばさん! ヨナスさん!」
次々に。
名が、呼ばれていく。
街のあちこちで。
一人ずつ。
もはや、誰が誰を呼んでいるのか、わからなかった。
崩れた壁の陰から。傾いだ屋根の下から。道に倒れ伏したまま、それでも、隣の者の肩を、揺さぶりながら。
声が。声が。声が。
「アンナ!」
「デリク! お前、デリクだろう!」
「起きて。あんたの、名前を、言って」
名を、呼ぶ声だけが、この街の、唯一の、音になっていた。
白い指が。
揺らいだ。
輪郭が、微かに、ぶれた。
あれほど正確だった関節の皺が、一瞬、曖昧になった。爪の根元の白い半月が、位置を、ずらした。指紋の渦が、別の模様に、なりかけた。
――確定が、緩んでいる。
観測が、減っているのだ。
跪いて祈る者が減れば、それだけ、あれを「天使」として見つめる目が減る。
あれは、まだ、生まれ切っていなかった。
完成する前に、支えを、失いつつある。
街を持ち上げようとしていた力が、弱まった。
浮いていた瓦礫が、落ちた。
石畳が、地面へ、戻った。
「もっとだ!」
私は、叫んだ。
「名を呼べ! 一人ずつ、名を!」




