届かない距離-3
最後の一人を、私は、覚えている。
老婆だった。
誰も、彼女の名を、知らなかった。難民の一人だったのだろう。この街の者ではなかった。
跪いて、両手を組んで、笑っていた。
私は、その前に、膝をついた。
「名を、教えてくれ」
老婆は、答えなかった。
もう、聞こえていない。恍惚の、奥まで、沈んでいる。
羽根が、その掌に、載っていた。
白化が、始まっていた。指先から、手首へ。
――間に合わない。
だが。
私は、その手を、取った。
白くなりかけた手を。
そして、覗き込んだ。
この老婆の、揺らぎを。
流れ込んで、きた。
――麦畑では、ない。海だ。魚の匂い。網を繕う手。息子が三人。いや、二人。一人は、幼くして。夫の背中。喧嘩ばかりしていた。だが、最後の日には、手を握った。
いちばん強く、光っているもの。
それを、私は、掬い上げた。
「――ミナ=ヴァルト」
名が、私の口から、出た。
私が、選んだ。
老婆の、瞼が、震えた。
目が、開いた。
私を、見た。
「……あんた」
「ミナ。あんたは、ミナだ」
「……ああ」
老婆が、笑った。
今度は、恍惚では、ない。
ただの、疲れた老婆の、笑みだった。
「そうだった。……ミナだ、あたしゃ」
そして。
崩れた。
白い塵になって。
私の掌の中で。
だが。
――笑って、いなかった。
あれの、与える幸福では、なく。
自分の名を、思い出した顔で。
逝った。
私は、腕を、まくった。
皮膚の下から、名が、押し上がってきた。
ミナ=ヴァルト。
この街で、ただ一人。
私が、弔えた、人間だった。
白い指が。
崩れ始めた。
輪郭が、保てなくなっていた。指の形が、溶けて、また別の形になりかけ、そのどれにもなりきれずに、歪んでいく。
支えていた観測が、足りない。
あれは、生まれる前に、生まれ損なった。
最後に。
指先が、こちらへ、伸ばされた。
落下では、なかった。もっと、緩慢で、もっと――縋るような、動きだった。
そして、私の、頭の、いちばん奥へ。また、あの声が、流れ込んだ。
『さびしい』
『なまえ』
『――なまえを』
私は、それを、見上げていた。
名を、呼べば。
この、生まれかけの何かにも、名を与えて、確定させて、そして、弔うことが――
「アベル! 逃げろ!」
ルキウスの声が、私を、引き戻した。
私は、口を、閉じた。
閉じたまま、何も、言わなかった。
白い指は、崩れながら、天へ、退いていった。
黒陽の裂け目へ。
吸い込まれるように。
裂け目が、閉じた。
地平の黒い円盤は、何事もなかったように、そこに、浮かんでいた。
羽根が、降り止んだ。
*
静寂が、落ちた。
私は、槍を、下ろした。
黒い一条が、掌の中で、光を失い――解けた。煙のように。棺の中へ、戻っていく。
背中に、重みが、返ってきた。
どく、と。
棺が、一度だけ、脈打った。
満足げに。
私は、それに、応えなかった。
膝が、笑っていた。立っているのが、やっとだった。
周囲を、見た。
――白い。
街が、白かった。
降り積もった羽根と、崩れた人の塵が、一面を、覆っている。石畳も、屋根も、荷車も、すべて。
その白の中に、点々と、色のあるものが、立っていた。
生きている人間だ。
呆然と、立ち尽くしている。
多くはない。
あまりにも、少ない。
どのくらいが、崩れたのか。数える気に、ならなかった。数えたところで、区別が、つかないのだから。誰が、どの一片なのかを、選ぶことすら、できないのだから。
弔えない。
この街の死者を、私は、一人も、弔えない。
初めてでは、ないはずだ。
だが。
これほどの、規模で。
これほど、完全に。
私が、無力だったことは。
*
「じいちゃん」
声が、した。
瓦礫の、方から。
私は、顔を、上げた。
リシェルが、瓦礫に、取り付いていた。
届いていた。もう、距離は、固定されていない。少女の手が、石を、掴んで、必死に、動かしている。爪の先が、割れて、血が、滲んでいた。それでも、止めなかった。
「じいちゃん、返事して」
声が、掠れていた。何度も、何度も、同じ言葉を、繰り返しているのだろう。
「じいちゃん。じいちゃん。お願い、返事して」
私は、走った。
今度は、届いた。
二十歩を、走り、瓦礫に、手を、かけた。ルキウスが、追いついてきた。
「くそ、重てえな……!」
二人で、石を、どかしていく。
窯の、石壁だった。老人が、何十年も、そこで、パンを焼いてきた壁。崩れた石は、まだ、微かに、熱を、持っていた。今日の朝、焼いたパンの、余熱かもしれない。それとも、崩れ落ちる瞬間の、摩擦の熱かもしれない。
わからなかった。
考える、余裕が、なかった。
石を、一つ、どける。また、一つ。
指の皮が、剥ける。構わなかった。
「もう少し、もう少しだ」
私は、自分に、言い聞かせるように、呟いた。
瓦礫の隙間から。
布の、切れ端が、覗いた。
パン屋の、前掛けだ。リシェルが、朝、彼が着けているのを、見た。同じ、生地の色。
「見つけた!」
ルキウスが、叫んだ。
最後の、大きな石を。二人がかりで、押しのける。
やがて。
老人の姿が、現れた。
――生きていた。
目を、開けていた。
胸が、微かに、上下していた。上下する、そのたびに、喉の奥から、微かな、音が、洩れる。呼吸というより、軋みに、近い音だった。
瓦礫の下で、体を、丸めていたのだろう。腕を、頭の上に、庇うように、掲げたまま。石を、その腕で、受け止めていたのだろう。腰の曲がった、老いた体で。
自分の、命ではなく。
誰かの、命を。
守ろうとしたかのような、姿勢で。
「じいちゃん!」
リシェルが、飛びついた。抱きしめようとして――手が、途中で、止まった。
「じいちゃん、動かないで。いま、助けるから」
老人の、瞼が、震えた。彼女の、声を、聞いているのだろう。
私は、その、老人の体を、見た。
見て。
――息が、止まった。
右の、肩から、腕にかけて。
白く、なって、いた。
塩を、まぶしたような、あの、質感。関節の皺が、乾き、ひび割れて、粉を、噴いている。
羽根に、触れたのだ。
瓦礫の下で。あるいは、崩れる、直前に。おそらくは――孫を、庇おうとした、その、腕で。
白化は、まだ、腕までだった。
だが、止まって、いなかった。
じわり、と。
肩から、首筋へ。
――ゆっくりと、確実に。
登って、いた。
私は、その、白い腕を、見つめた。
止める、方法は、ない。石化と、同じだ。一度、始まった確定は、覆せない。私の鎖は、絡まない。
ただ、見ていることしか、できなかった。
白が、鎖骨のあたりまで、達していた。
まだ、ゆっくりだ。だが、確実に。
残された、時間は。
多く、なかった。
(十一章 了)




