わたしの、終われなさ-1
夜が、来た。
わたしは、崩れた宿の隅に座っていた。
石になった右半身に、瓦礫の埃が積もっている。払う気になれなかった。払ったところで、また積もる。この街のすべてが、いま、白い埃を纏っている。屋根の隙間から、その埃が月明かりにきらきらと舞い落ちてくるのが見えた。
美しい、と。
一瞬、思ってしまって。
すぐに、その自分の感覚を恥じた。
これは、死んだ人たちの名残りだ。美しいと思うことなど、許されるはずがない。
ルキウスは疲れ果てて眠っていた。壁にもたれ、腕を組んだまま、頭を垂れて。今日一日、何十人もの名を叫び続けた喉が、時折、うわ言のように掠れた声を漏らす。犬が、その傍らで丸くなっている。
神父さまは。
窓辺に、いなかった。
外にいることは、わかっていた。あの人はこういう夜、いつも一人で、何かと向き合っている。今夜は、何と向き合っているのだろう。
わたしは、立ち上がった。
石の脚を引きずって。窓の外を見ようとして――やめた。
代わりに、目を閉じた。
今日、見たものを、もう一度、思い出すために。
*
最初に、見たのは。
あの、市場の少女だった。
リシェル、という名前だと聞いた。窯のパン屋の孫。人懐こくて、押しが強くて、わたしの右半身を見ても怯まなかった。
あんな子供が、いるのか。
この街に。
わたしはあの子と、少しだけ言葉を交わしたことを思い出した。市場の隅で荷物を整理していたとき。彼女がパンの籠を抱えたまま、隣に座り込んできたのだ。
「その、布」
リシェルは遠慮なく、わたしの右腕を指さした。
「なんで、そんなにぐるぐる巻いてるの」
わたしは答えを探して、迷った。難民の群れでは、誰もそんなことは訊かなかった。訊けば答えを聞かねばならず、聞けば離れねばならなかったから。
「……見せたく、ないから」
「見せたくないって、怪我?」
「怪我とは、少し違う」
「へえ」
それだけだった。リシェルはそれ以上、訊かなかった。ただ隣に座って、自分の籠のパンを数え始めた。まるで、わたしの右腕のことなど、もう忘れたかのように。
わたしの育った街にも、あんな子供がいたのだろうか。石になる前のわたしを、こんなふうに怯まずに見てくれる子供が。
思い出せなかった。
あの頃の記憶は、母の顔と一緒に、灰色に霞んでいく。
最期の母の顔だけは鮮明なのに。それより前の記憶は、どんどん薄れていく。まるで、あの石になった瞬間だけが、母のすべてを塗り替えてしまったかのように。
市場を歩いていたときのことを、思い出す。
三日間、この街で過ごした。パンの焼ける匂い。井戸端の笑い声。子供たちの追いかけっこ。夜には酒場から、下手な歌声が聞こえてきた。
あんなに賑やかな街を、久しぶりに見た。
いや――もしかしたら、初めて、だったのかもしれない。
わたしの記憶にある故郷の街は、いつも、どこか静かだった。母が病んでからは、特に。父は早くにいなくなっていた。母と二人きりの暮らしだった。誰かが笑う声を、あの家で聞いた記憶がない。
この街では。
わたしも、少しだけ、笑った。
あの、干し肉の話のときに。
あんなふうに声を出して笑ったのは、本当に久しぶりだった。笑いながら、少し驚いた。まだ自分に、そんな感覚が残っていたことに。
だから――余計に。
この街が崩れていくのを見るのが、辛かった。
やっと見つけた賑やかさが。やっと思い出した笑い方が。目の前で、白い塵に変わっていくのを、見るのが。
*
礼拝堂の老女とも。
わたしは、遠くから見ていた。
神父さまがあの人と話しているのを。何を話していたのかは聞こえなかった。だが、あの老女の目つきで、わかった。
あれは、対等な対話だった。
この一行に加わってから、わたしは何度も見てきた。人々が神父さまを見る、目つきを。怯える目。すがる目。感謝する目。訝しむ目。
だが、あの老女の目は、そのどれとも違った。
同じ地平に立って。同じ重さの問いを投げている、目だった。
風向きが変わった、瞬間。
「あんたのやっていることは、傲慢だよ」
その一言だけが、はっきりと届いた。
わたしは、驚かなかった。
むしろ――少し、嬉しかった。
神父さまに、そう言える人がいることが。
わたしには、言えない言葉だったから。
わたしはあの人を責めることができない。責める資格がない。だって、わたしはあの人に期待して、ついてきたのだから。終わらせてくれるかもしれないと。あの傲慢な業が、いつか、わたしにも向けられるかもしれないと。
傲慢を責める者に、傲慢を望んだ者は。
何を、言えるだろう。
だから、あの老女の言葉は、わたしの代わりに言われた言葉のように聞こえた。
わたしがずっと、心の底で思っていて、口にできなかった、言葉。
*
白い指が、降りてきたとき。
わたしは、恐ろしかった。だが――同時に。
どこかで、思って、しまった。
これで、終わるかもしれない、と。
街ごと。わたしごと。何もかも、一緒に。
その想像は、ほんの一瞬だった。だが、確かにあった。頭の隅で、火花のように光った。
考えた、瞬間。自分の浅ましさに、吐き気がした。
この街の人々は、みな、生きたいと願っている。市場でパンを売り、水を汲み、子供を育てて。ただ、明日を望んでいる。
リシェルも。彼女の祖父も。ガルドという名の麦売りの男も。あの、モイラという老女も。みな、明日を信じていた。
その明日が崩れようとしている、まさに、その瞬間に。
わたしは、自分の終わりだけを考えていた。
最低だ。
自分で、そう、思う。
だが、思ってしまったことは、消えない。
どれだけ恥じても。どれだけ悔いても。あの一瞬の光は、確かに、わたしの中にあった。




