↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【毎日更新中】黒陽黙示録アベル ― RE:NEHEMOS  作者: 鉄川零


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/35

わたしの、終われなさ-1

夜が、来た。


 わたしは、崩れた宿の隅に座っていた。


 石になった右半身に、瓦礫の埃が積もっている。払う気になれなかった。払ったところで、また積もる。この街のすべてが、いま、白い埃を纏っている。屋根の隙間から、その埃が月明かりにきらきらと舞い落ちてくるのが見えた。


 美しい、と。


 一瞬、思ってしまって。


 すぐに、その自分の感覚を恥じた。


 これは、死んだ人たちの名残りだ。美しいと思うことなど、許されるはずがない。


 ルキウスは疲れ果てて眠っていた。壁にもたれ、腕を組んだまま、頭を垂れて。今日一日、何十人もの名を叫び続けた喉が、時折、うわ言のように掠れた声を漏らす。犬が、その傍らで丸くなっている。


 神父さまは。


 窓辺に、いなかった。


 外にいることは、わかっていた。あの人はこういう夜、いつも一人で、何かと向き合っている。今夜は、何と向き合っているのだろう。


 わたしは、立ち上がった。


 石の脚を引きずって。窓の外を見ようとして――やめた。


 代わりに、目を閉じた。


 今日、見たものを、もう一度、思い出すために。



 最初に、見たのは。


 あの、市場の少女だった。


 リシェル、という名前だと聞いた。窯のパン屋の孫。人懐こくて、押しが強くて、わたしの右半身を見ても怯まなかった。


 あんな子供が、いるのか。


 この街に。


 わたしはあの子と、少しだけ言葉を交わしたことを思い出した。市場の隅で荷物を整理していたとき。彼女がパンの籠を抱えたまま、隣に座り込んできたのだ。


 「その、布」


 リシェルは遠慮なく、わたしの右腕を指さした。


 「なんで、そんなにぐるぐる巻いてるの」


 わたしは答えを探して、迷った。難民の群れでは、誰もそんなことは訊かなかった。訊けば答えを聞かねばならず、聞けば離れねばならなかったから。


 「……見せたく、ないから」


 「見せたくないって、怪我?」


 「怪我とは、少し違う」


 「へえ」


 それだけだった。リシェルはそれ以上、訊かなかった。ただ隣に座って、自分の籠のパンを数え始めた。まるで、わたしの右腕のことなど、もう忘れたかのように。


 わたしの育った街にも、あんな子供がいたのだろうか。石になる前のわたしを、こんなふうに怯まずに見てくれる子供が。


 思い出せなかった。


 あの頃の記憶は、母の顔と一緒に、灰色に霞んでいく。


 最期の母の顔だけは鮮明なのに。それより前の記憶は、どんどん薄れていく。まるで、あの石になった瞬間だけが、母のすべてを塗り替えてしまったかのように。


 市場を歩いていたときのことを、思い出す。


 三日間、この街で過ごした。パンの焼ける匂い。井戸端の笑い声。子供たちの追いかけっこ。夜には酒場から、下手な歌声が聞こえてきた。


 あんなに賑やかな街を、久しぶりに見た。


 いや――もしかしたら、初めて、だったのかもしれない。


 わたしの記憶にある故郷の街は、いつも、どこか静かだった。母が病んでからは、特に。父は早くにいなくなっていた。母と二人きりの暮らしだった。誰かが笑う声を、あの家で聞いた記憶がない。


 この街では。


 わたしも、少しだけ、笑った。


 あの、干し肉の話のときに。


 あんなふうに声を出して笑ったのは、本当に久しぶりだった。笑いながら、少し驚いた。まだ自分に、そんな感覚が残っていたことに。


 だから――余計に。


 この街が崩れていくのを見るのが、辛かった。


 やっと見つけた賑やかさが。やっと思い出した笑い方が。目の前で、白い塵に変わっていくのを、見るのが。



 礼拝堂の老女とも。


 わたしは、遠くから見ていた。


 神父さまがあの人と話しているのを。何を話していたのかは聞こえなかった。だが、あの老女の目つきで、わかった。


 あれは、対等な対話だった。


 この一行に加わってから、わたしは何度も見てきた。人々が神父さまを見る、目つきを。怯える目。すがる目。感謝する目。訝しむ目。


 だが、あの老女の目は、そのどれとも違った。


 同じ地平に立って。同じ重さの問いを投げている、目だった。


 風向きが変わった、瞬間。


 「あんたのやっていることは、傲慢だよ」


 その一言だけが、はっきりと届いた。


 わたしは、驚かなかった。


 むしろ――少し、嬉しかった。


 神父さまに、そう言える人がいることが。


 わたしには、言えない言葉だったから。


 わたしはあの人を責めることができない。責める資格がない。だって、わたしはあの人に期待して、ついてきたのだから。終わらせてくれるかもしれないと。あの傲慢な業が、いつか、わたしにも向けられるかもしれないと。


 傲慢を責める者に、傲慢を望んだ者は。


 何を、言えるだろう。


 だから、あの老女の言葉は、わたしの代わりに言われた言葉のように聞こえた。


 わたしがずっと、心の底で思っていて、口にできなかった、言葉。



 白い指が、降りてきたとき。


 わたしは、恐ろしかった。だが――同時に。


 どこかで、思って、しまった。


 これで、終わるかもしれない、と。


 街ごと。わたしごと。何もかも、一緒に。


 その想像は、ほんの一瞬だった。だが、確かにあった。頭の隅で、火花のように光った。


 考えた、瞬間。自分の浅ましさに、吐き気がした。


 この街の人々は、みな、生きたいと願っている。市場でパンを売り、水を汲み、子供を育てて。ただ、明日を望んでいる。


 リシェルも。彼女の祖父も。ガルドという名の麦売りの男も。あの、モイラという老女も。みな、明日を信じていた。


 その明日が崩れようとしている、まさに、その瞬間に。


 わたしは、自分の終わりだけを考えていた。


 最低だ。


 自分で、そう、思う。


 だが、思ってしまったことは、消えない。


 どれだけ恥じても。どれだけ悔いても。あの一瞬の光は、確かに、わたしの中にあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。