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【毎日更新中】黒陽黙示録アベル ― RE:NEHEMOS  作者: 鉄川零


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わたしの、終われなさ-2

石になった、おじいさんを見た。


 瓦礫の下から現れた、あの老人。白化が肩から首筋へ登っていくのを、わたしは少し離れた場所から見ていた。近づく勇気が、なかった。


 名を、聞けないまま、逝った。


 神父さまの顔を見た。あの人があれほど狼狽するのを、初めて見た。いつも凪いでいる、あの目が。あのときだけは揺れていた。指先が震えているのが、遠目にもわかった。


 ――ああ。


 この人も。


 わたしと、同じだ。


 終わらせられなかったことに。こんなにも、傷つく。


 弔い人は、弔えないとき、傷つく。


 なら。


 弔われない、わたしは。


 わたしは、何に傷つけばいいのだろう。


 誰も、わたしのために狼狽してくれない。誰も、わたしを終わらせられなかったことに震えてはくれない。ただ、わたしだけが、わたし自身の終われなさに、静かに朽ちていく。


 それが、いちばん寂しいことなのかもしれない、と。


 初めて、思った。


 母の最期を、思い出す。


 母は笑おうとして、笑えないまま、止まった。わたしの名を呼びかけたまま。


 あのとき、わたしはまだ子供だった。母の終われなさを、ただ見ていることしかできなかった。何もできない、ということが、あんなにも恐ろしいのだと、あの日、初めて知った。


 いま。


 わたしは、あのおじいさんの終われなさを、見ている。


 同じ、無力さで。同じ、距離で。


 何も、変わっていない。


 あの日から何年も経ったのに。わたしは、あの日と同じ場所に立ち尽くしている。


 違うのは、ただ一つ。


 あの日は、母を見ていた。今日は、赤の他人を見ていた。


 それだけの違いしか、ない。



 「……起きてんのか」


 ルキウスの掠れた声が、した。


 目は、まだ閉じたままだった。半分、寝言のような声だった。


 「眠れないのか」


 「……はい」


 「そうか」


 それだけだった。彼はそれ以上、何も訊かなかった。ただ、寝返りを打って、また目を閉じた。


 だが、少し経って。


 「あんたも今日、いろいろ見ただろ」


 目を閉じたまま、言った。


 「見ました」


 「……忘れなくて、いいからな」


 「え?」


 「見たもんは、忘れなくていい。無理に忘れようとすると、あとで、もっとしんどくなる。俺も、昔、そうだった」


 彼の小隊の話だ。全員を失った、あの戦場の。


 わたしは何も言えなかった。ただ、頷いた。彼には見えていないはずだったが、それでも、頷いた。


 しばらくして。


 規則正しい寝息が、また、聞こえ始めた。


 わたしは、その寝息を、しばらく聞いていた。


 この人も。


 弔い人ほどでは、なくとも。何かを背負って、歩いている。


 この一行の誰もが。


 何かを、失って、それでも、歩いている。


 わたしだけが、違う。


 わたしは、失ったのではない。


 まだ、失えていないのだ。



 崩壊の最中。


 神父さまが礼拝堂の瓦礫から、あの老女を助け出すのを、わたしは遠くから見ていた。


 迷わなかった。一瞬の迷いもなく。彼は真っ直ぐに、瓦礫へ駆け寄っていった。


 あの人はいつも、そうだ。名を呼ぶときは、あれほど慎重で、迷いに満ちているのに。誰かを助けるときの体の動きだけは、迷わない。


 矛盾している、と思う。


 だが、その矛盾が。きっと、あの人のいちばん本当の部分なのだろう。



 目を、開けた。


 窓の外、月明かりの下に。神父さまの背中が、見えた。


 白い塵の丘の前に、座っている。


 あの丘の下に、あのおじいさんが、いる。


 神父さまが何か言っているのが見えた。声は届かない。だが、その口の動きから――名前を、想像で補っているのだと、わかった。


 弔えないなら、弔えないなりに。


 あの人は、何かをしようとしている。


 わたしは、それを見ながら。


 自分の右手を、見た。


 石になった、感覚のない、右手を。


 この手は、何もできない。何かを想像で補うこともできない。ただ、終われないまま、ここにある。石の指を動かそうとしてみる。わずかに動く。だが、その動きの感触は、わたしには届かない。他人の手が動いているのを見ているような気分だった。


 ――終われないことと、弔えないこと。


 似ているようで、違う。


 弔えない者は、まだ何かをできる。想像で補うことができる。祈ることができる。次に名を呼ぶ機会を探すことができる。


 終われない者は。


 ただ、待つことしか、できない。


 いつか、誰かが。この、感覚のない、右手を。この、揺らがない、半身を。


 終わらせて、くれる日を。


 それは、いつ来るのだろう。


 来る日は、あるのだろうか。



 その、日は。


 まだ、来ない。


 少なくとも、今夜は。


 わたしは、窓辺を離れた。


 ルキウスの隣に横になった。石になった右半身を下にして。感覚のない側から、地面の硬さを感じないように。


 犬が、そっと身を寄せてきた。温かかった。感覚のある左半身で、その温もりを感じた。


 この温もりだけは、確かに、わたしのものだ。石にもなっていない。誰にも奪われていない。


 それが、少しだけ、救いだった。


 いつか。


 この旅が、終わるとき。


 わたしは、どうなっているのだろう。


 終わっているのか。それとも、まだ終われないまま、歩き続けているのか。


 わからなかった。


 だが。


 一つだけ、思うことがあった。


 もし、いつか。この右手が動かなくなる、その日が来たとしても。


 わたしは、この犬の温もりのような、小さなものを。この一行と過ごした時間のようなものを。忘れずに、いたい。


 終われないことは、変わらない。


 だが、終われないまま、何かを見て、何かを感じることは、できる。


 それは、あの老女の祈りと。少し似ているのかもしれない。


 届いているか、いないか、わからないまま。それでも、続けること。


 わたしにも、それはできるのかもしれない。


 わからないまま。


 わたしは、目を閉じた。



 朝が、来て。


 神父さまが、あの老人の最後のパンを、受け取った。


 リシェルから。


 わたしは、それを少し離れた場所から見ていた。


 リシェルの顔は、まだ泣いていなかった。だが、その目の奥に、何かが溜まっているのが、わかった。堰き止められた、大きな何かが。いつか決壊する日が来るのだろう。今日では、ないのかもしれない。明日でも、ないのかもしれない。だが、必ず、来る。


 わたしは、それを羨ましいとは、思わなかった。


 ただ、痛ましいと、思った。


 そして、見た。


 パンを噛んで。神父さまの目の縁が。微かに、熱くなるのを。


 あの人が、泣きそうになっている。


 理由も、わからないまま。


 わたしは、その横顔に近づいた。


 何も、言わなかった。


 ただ、隣に、立った。


 石になった右手を。いつものように、袖の下に隠したまま。


 神父さまは、何も、訊かなかった。


 わたしも、何も、言わなかった。


 ただ、二人で。


 同じ空を、見上げていた。


 黒陽が、そこに、あった。


 いつもと、同じ、姿で。


 だが。


 わたしには、わかった。


 この人が、その黒い輪郭のどこかに。何かを探していることが。


 わたしにも、わからない、何かを。


 わたしは、思った。


 いつか。


 この人の探しているものが、わかる日が来るのだろうか。


 そして、その日に。


 わたしは、まだ。


 この人の隣に、いるのだろうか。


 答えは、なかった。


 ただ、灰が、降り続けていた。


 いつものように。


 静かに。


(十二章 了)

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