わたしの、終われなさ-2
石になった、おじいさんを見た。
瓦礫の下から現れた、あの老人。白化が肩から首筋へ登っていくのを、わたしは少し離れた場所から見ていた。近づく勇気が、なかった。
名を、聞けないまま、逝った。
神父さまの顔を見た。あの人があれほど狼狽するのを、初めて見た。いつも凪いでいる、あの目が。あのときだけは揺れていた。指先が震えているのが、遠目にもわかった。
――ああ。
この人も。
わたしと、同じだ。
終わらせられなかったことに。こんなにも、傷つく。
弔い人は、弔えないとき、傷つく。
なら。
弔われない、わたしは。
わたしは、何に傷つけばいいのだろう。
誰も、わたしのために狼狽してくれない。誰も、わたしを終わらせられなかったことに震えてはくれない。ただ、わたしだけが、わたし自身の終われなさに、静かに朽ちていく。
それが、いちばん寂しいことなのかもしれない、と。
初めて、思った。
母の最期を、思い出す。
母は笑おうとして、笑えないまま、止まった。わたしの名を呼びかけたまま。
あのとき、わたしはまだ子供だった。母の終われなさを、ただ見ていることしかできなかった。何もできない、ということが、あんなにも恐ろしいのだと、あの日、初めて知った。
いま。
わたしは、あのおじいさんの終われなさを、見ている。
同じ、無力さで。同じ、距離で。
何も、変わっていない。
あの日から何年も経ったのに。わたしは、あの日と同じ場所に立ち尽くしている。
違うのは、ただ一つ。
あの日は、母を見ていた。今日は、赤の他人を見ていた。
それだけの違いしか、ない。
*
「……起きてんのか」
ルキウスの掠れた声が、した。
目は、まだ閉じたままだった。半分、寝言のような声だった。
「眠れないのか」
「……はい」
「そうか」
それだけだった。彼はそれ以上、何も訊かなかった。ただ、寝返りを打って、また目を閉じた。
だが、少し経って。
「あんたも今日、いろいろ見ただろ」
目を閉じたまま、言った。
「見ました」
「……忘れなくて、いいからな」
「え?」
「見たもんは、忘れなくていい。無理に忘れようとすると、あとで、もっとしんどくなる。俺も、昔、そうだった」
彼の小隊の話だ。全員を失った、あの戦場の。
わたしは何も言えなかった。ただ、頷いた。彼には見えていないはずだったが、それでも、頷いた。
しばらくして。
規則正しい寝息が、また、聞こえ始めた。
わたしは、その寝息を、しばらく聞いていた。
この人も。
弔い人ほどでは、なくとも。何かを背負って、歩いている。
この一行の誰もが。
何かを、失って、それでも、歩いている。
わたしだけが、違う。
わたしは、失ったのではない。
まだ、失えていないのだ。
*
崩壊の最中。
神父さまが礼拝堂の瓦礫から、あの老女を助け出すのを、わたしは遠くから見ていた。
迷わなかった。一瞬の迷いもなく。彼は真っ直ぐに、瓦礫へ駆け寄っていった。
あの人はいつも、そうだ。名を呼ぶときは、あれほど慎重で、迷いに満ちているのに。誰かを助けるときの体の動きだけは、迷わない。
矛盾している、と思う。
だが、その矛盾が。きっと、あの人のいちばん本当の部分なのだろう。
*
目を、開けた。
窓の外、月明かりの下に。神父さまの背中が、見えた。
白い塵の丘の前に、座っている。
あの丘の下に、あのおじいさんが、いる。
神父さまが何か言っているのが見えた。声は届かない。だが、その口の動きから――名前を、想像で補っているのだと、わかった。
弔えないなら、弔えないなりに。
あの人は、何かをしようとしている。
わたしは、それを見ながら。
自分の右手を、見た。
石になった、感覚のない、右手を。
この手は、何もできない。何かを想像で補うこともできない。ただ、終われないまま、ここにある。石の指を動かそうとしてみる。わずかに動く。だが、その動きの感触は、わたしには届かない。他人の手が動いているのを見ているような気分だった。
――終われないことと、弔えないこと。
似ているようで、違う。
弔えない者は、まだ何かをできる。想像で補うことができる。祈ることができる。次に名を呼ぶ機会を探すことができる。
終われない者は。
ただ、待つことしか、できない。
いつか、誰かが。この、感覚のない、右手を。この、揺らがない、半身を。
終わらせて、くれる日を。
それは、いつ来るのだろう。
来る日は、あるのだろうか。
*
その、日は。
まだ、来ない。
少なくとも、今夜は。
わたしは、窓辺を離れた。
ルキウスの隣に横になった。石になった右半身を下にして。感覚のない側から、地面の硬さを感じないように。
犬が、そっと身を寄せてきた。温かかった。感覚のある左半身で、その温もりを感じた。
この温もりだけは、確かに、わたしのものだ。石にもなっていない。誰にも奪われていない。
それが、少しだけ、救いだった。
いつか。
この旅が、終わるとき。
わたしは、どうなっているのだろう。
終わっているのか。それとも、まだ終われないまま、歩き続けているのか。
わからなかった。
だが。
一つだけ、思うことがあった。
もし、いつか。この右手が動かなくなる、その日が来たとしても。
わたしは、この犬の温もりのような、小さなものを。この一行と過ごした時間のようなものを。忘れずに、いたい。
終われないことは、変わらない。
だが、終われないまま、何かを見て、何かを感じることは、できる。
それは、あの老女の祈りと。少し似ているのかもしれない。
届いているか、いないか、わからないまま。それでも、続けること。
わたしにも、それはできるのかもしれない。
わからないまま。
わたしは、目を閉じた。
*
朝が、来て。
神父さまが、あの老人の最後のパンを、受け取った。
リシェルから。
わたしは、それを少し離れた場所から見ていた。
リシェルの顔は、まだ泣いていなかった。だが、その目の奥に、何かが溜まっているのが、わかった。堰き止められた、大きな何かが。いつか決壊する日が来るのだろう。今日では、ないのかもしれない。明日でも、ないのかもしれない。だが、必ず、来る。
わたしは、それを羨ましいとは、思わなかった。
ただ、痛ましいと、思った。
そして、見た。
パンを噛んで。神父さまの目の縁が。微かに、熱くなるのを。
あの人が、泣きそうになっている。
理由も、わからないまま。
わたしは、その横顔に近づいた。
何も、言わなかった。
ただ、隣に、立った。
石になった右手を。いつものように、袖の下に隠したまま。
神父さまは、何も、訊かなかった。
わたしも、何も、言わなかった。
ただ、二人で。
同じ空を、見上げていた。
黒陽が、そこに、あった。
いつもと、同じ、姿で。
だが。
わたしには、わかった。
この人が、その黒い輪郭のどこかに。何かを探していることが。
わたしにも、わからない、何かを。
わたしは、思った。
いつか。
この人の探しているものが、わかる日が来るのだろうか。
そして、その日に。
わたしは、まだ。
この人の隣に、いるのだろうか。
答えは、なかった。
ただ、灰が、降り続けていた。
いつものように。
静かに。
(十二章 了)




