石の街道-1
道を、間違えた。
三度目だ。
同じ岩が、ある。
黒く、いびつな岩だ。人の背丈の倍ほどもある、それが、街道の分かれ目に、まるで道標のように立っている。だが、道標にしては、形が悪すぎた。表面が、波打っている。まるで、何かが内側から押し出されて、そのまま固まったように。
近づいて、見れば。
岩の側面に、幾つもの窪みがあった。
指の跡に、似ている。
誰かが、必死に、この岩に爪を立てた跡のように。
「……おい、神父さんよ」
背後で、ルキウスが、呆れた声を出した。
「あんた、さっきの分かれ道、右って言ったよな。で、その前は左。で、最初は、まっすぐ。……これ、同じ岩の周りを、ぐるぐる、回ってねえか?」
私は、答えなかった。
答えられなかった、というのが、正しい。
灰に埋もれた石標を、もう一度、見る。文字は、とうに風化している。どちらが南か。私の中の方角の感覚は、昔から、あてにならない。百年、歩いていて、この体たらくだ。
いや。
――百年?
また、その数字だ。なぜ、私は、事あるごとに、百年、などと思うのか。
「私は」
口を、開いた。
「方向には、明るくない」
「知ってるよ! もう、嫌ってほど、知った!」
ルキウスが、天を、仰いだ。
「弔いの神父様が、これほどの方向音痴とはな。化け物は名前一つで鎮められるくせに、道は、標識がなきゃ迷子か。世界ってのは、うまくできてねえ」
減らず口だ。
だが――悪い、気は、しなかった。
この男が、こうして軽口を叩けるようになったのは、つい昨日からだ。出会った時、こいつは、仲間を全員失って、心を半分殺していた。それが今は、私の方向音痴を笑っている。
人は、存外、丈夫にできている。
少なくとも――私よりは。
*
リネットが、足を、止めた。
その左手が、懐に伸びかけて――止まった。
迷っているのだろう。何かを握りしめるように、布の上から、その懐を押さえて。俯いて。
しばらく、そうしていた。
私とルキウスが道を間違え続けるのを、黙って見ていた、その間。彼女はずっと、この迷いを抱えていたのかもしれない。
やがて。
小さく、息を、吸う音が、した。
「地図なら、あります」
小さな声が、した。
リネット、と名乗った、あの少女だ。祈骸の隊列で拾って以来、私たちについてくる。難民の群れは、南で散り散りになり、彼女は、行く当てをなくしていた。
右半身を、ぼろ布で幾重にも隠した少女。
その巻き方は、異様に、丁寧だった。
肩から、指先まで。首筋から、頬の半ばまで。布は、隙間なく、幾重にも重ねられている。端は、内側へ几帳面に折り込まれ、ほつれた糸の一本すら、外へ出ていない。毎朝、火を熾す前に、彼女はこの布をすべて解いて、巻き直す。誰にも見られない場所で。長い時間を、かけて。
隠すためだけに、これほどの手間を。
――いや。
違うのかも、しれない。
あれは、包帯を、巻いているのだ。
治らない傷に。治るはずのない傷に。それでも、毎朝、新しく。
その布の上から、外套を羽織っている。
外套は、黒だった。
もとは、と言うべきかもしれない。いまは灰を吸って、鼠色に近い。だが、襟の裏や、袖の折り返しの、灰の届かなかった場所だけが、まだ、はっきりと黒い。仕立ては、悪くない。少なくとも、旅装ではなかった。裾に、細い黒糸で、蔓草の縁取りが縫い込まれている。街道を歩くための衣に、そんな手間をかける者はいない。
喪服だ。
しかも、この少女の体には、丈が長すぎた。裾を折り上げて、内側で縫い留めてある。肩幅も、余っている。誰か、もっと背の高い女のために仕立てられたものを、無理やり詰めたのだ。
誰の、とは、訊かなかった。
訊く必要が、なかった。
母を看取った少女が、母の喪服を着て歩いている。喪に服す相手は、とうに石になって、あの家の寝台に残されたままだろう。それでも、この子は、その黒を脱がない。
脱げないのだ。
喪が、終わっていないからだ。
顔は、見たことが、ない。
深く被った、フードの奥。そこに落ちた影が、彼女の顔をいつも覆っている。時折、火明かりが、その影の奥へ届くことがある。そういうとき、辛うじて見える。左の顎の線が。伏せた睫毛の影が。そして、その隣に、灰白色のなめらかな面が、わずかに光を返すのが。
それだけだ。
右手にだけ、手袋を、している。
左手は、素手だ。感覚のある方の手で、この子は火を熾し、荷を担ぎ、犬を撫でる。感覚のない方の手には、布を巻き、その上から、さらに手袋を被せる。指の、形を、隠すために。
それ以上を、彼女は、見せない。
歩みは、遅い。石になった右脚を引きずるように進む。それでも、決して遅れまいと、必死についてくる。
その左手が。懐から、折り畳んだ一枚の紙を差し出した。
その指先が。一瞬、紙を離すのを惜しむように、強く握った。それから、諦めたように開いた。
「故郷を、出るときに。父の、形見で」
古い、交易路の地図だった。手描きの、稚拙なものだが――この一帯の街道が記されている。
「……助かる」
私は、それを、受け取った。
「ずっと、隠して、持っていたのか」
「地図を持ってると、わかると。取られるかも、しれないから」
なるほど。難民の群れでは、地図一枚が命綱だ。この少女は、それを何ヶ月も隠し通してきた。誰にも、頼らず。誰も、頼れず。
「なんで、俺たちには、出すんだ?」
ルキウスが、無遠慮に訊いた。
リネットは、少し俯いた。フードの奥で、その顔が迷うように揺れた。
「……この人なら」
ぽつり、と。私を、見て。
「取ったり、しないと、思ったので」
理由に、なっていない。
だが――私にはわかった。この少女が、何を感じ取ったのか。
同類は、同類が、わかる。
終われない者は、終われない者の匂いがわかる。
厄介なことに、なった、と思った。
この少女は、私に近づきすぎる。近づいた者は、いずれ――いや。
その考えを、私は、押しやった。今は、いい。今は。
*
地図のおかげで、道は、正された。
街道を、南へ。三人で、歩く。
道の両側には、何もなかった。
いや――何も育たない、灰色の平原が、地平の果てまで続いていた。時折、黒く枯れた木が、一本だけ立っている。枝は、どれも、天へ向かって伸びるのではなく、地を這うように横へ曲がっていた。まるで、空から何かに押さえつけられているかのように。
街道の脇に、時々、石標が、あった。
もとは、方角を示すためのものだったのだろう。だが、いまは、そのほとんどが傾ぎ、あるいは割れ、文字は風化して読めない。
中に一つ、まだ比較的はっきりと、文字の残るものが、あった。
「――ここより、先」
私は、それだけを、読んだ。
その先は、欠けて、いた。
私と、ルキウスと、リネットと。それから、道中で拾った、痩せた野良犬が一匹。ルキウスが勝手にパンくずをやった。ついてくるようになった。
妙な、一行だった。
弔い人の旅は、孤独なものだと思っていた。孤独であるべきものだと。なのに、いつのまにか、三人と、一匹。
犬は、最初、リネットに、近づかなかった。
石になった右半身に怯えているのか。それとも、他の理由があるのか。私には、わからなかった。だが、犬はいつも、彼女から少し距離を取って歩いていた。
それが変わったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
リネットが、躓いた。石の脚が小石に引っかかったのだろう。よろけて、片膝をついた。
その、瞬間。
犬が、駆け寄った。
彼女の傍らに。鼻先で、その左手を、そっと突いた。まるで、大丈夫か、と問うように。
リネットは、驚いた顔で犬を見た。
それから、少しだけ、その頭を撫でた。左手で。
犬は、逃げなかった。
リネットの口元が微かに緩んだのを、私は見た。すぐに、俯いて隠したが。
誰かに――何かにでも――怖がられずに触れられる。それが、彼女にとって、どれほど久しぶりのことだったのか。私には、想像することしかできなかった。
それから、犬は、リネットの傍を離れなくなった。
昼、携行食を、齧った。
硬い。石のように硬い干し肉だ。塩気ばかりが強くて、味は、ほとんどしない。
「……これは」
私は、思わず、呟いた。
「ひどいな」
「あんたが、それを選んで買ったんだろうが」
ルキウスが、噴き出した。
「三日前の、あの街で。俺が『もっとましなのにしろ』って言ったのに、あんた、『日持ちする』の一点張りで、これを、山ほど」
「日持ちは、する」
「味が、しねえだろ!」
リネットが、隣で、小さく、笑った。
初めて、聞く、笑い声だった。
慌てて、口を押さえて。笑ったことを恥じるように、俯いて。それでも、肩が微かに揺れていた。
――ああ。
こういう時間は、悪くない。
そう思ってしまう自分に、私は、微かな警戒を覚えた。
情が、湧く。情が湧けば、失うときが、つらくなる。そして――私の傍にいる者は、いずれ、失われる。例外なく。
わかっている。
わかっていて、なお。
この灰色の世界に灯った、小さな火を。私は、しばらく消したくない、と思ってしまった。
弔い人としては、失格の感傷だ。
その後も、歩きながら、他愛のないやり取りが続いた。
ルキウスが、昔の戦友の話をした。下手な冗談を交えながら。リネットが、時折、相槌を打った。まだ、遠慮がちに。だが、確かに、声を出して。
犬が、その周りを行ったり来たりしていた。時々、リネットの左手に鼻先を擦り寄せながら。
誰も、口には出さなかった。だが、この一行の空気が少しずつ変わっていくのを、私は感じていた。
寄せ集めの、旅だった。目的も、事情も、ばらばらの。
それでも。




