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黒陽黙示録アベル ― RE:NEHEMOS  作者: 鉄川零


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石の街道-1

道を、間違えた。


 三度目だ。


 同じ岩が、ある。


 黒く、いびつな岩だ。人の背丈の倍ほどもある、それが、街道の分かれ目に、まるで道標のように立っている。だが、道標にしては、形が悪すぎた。表面が、波打っている。まるで、何かが内側から押し出されて、そのまま固まったように。


 近づいて、見れば。


 岩の側面に、幾つもの窪みがあった。


 指の跡に、似ている。


 誰かが、必死に、この岩に爪を立てた跡のように。


 「……おい、神父さんよ」


 背後で、ルキウスが、呆れた声を出した。


 「あんた、さっきの分かれ道、右って言ったよな。で、その前は左。で、最初は、まっすぐ。……これ、同じ岩の周りを、ぐるぐる、回ってねえか?」


 私は、答えなかった。


 答えられなかった、というのが、正しい。


 灰に埋もれた石標を、もう一度、見る。文字は、とうに風化している。どちらが南か。私の中の方角の感覚は、昔から、あてにならない。百年、歩いていて、この体たらくだ。


 いや。


 ――百年?


 また、その数字だ。なぜ、私は、事あるごとに、百年、などと思うのか。


 「私は」


 口を、開いた。


 「方向には、明るくない」


 「知ってるよ! もう、嫌ってほど、知った!」


 ルキウスが、天を、仰いだ。


 「弔いの神父様が、これほどの方向音痴とはな。化け物は名前一つで鎮められるくせに、道は、標識がなきゃ迷子か。世界ってのは、うまくできてねえ」


 減らず口だ。


 だが――悪い、気は、しなかった。


 この男が、こうして軽口を叩けるようになったのは、つい昨日からだ。出会った時、こいつは、仲間を全員失って、心を半分殺していた。それが今は、私の方向音痴を笑っている。


 人は、存外、丈夫にできている。


 少なくとも――私よりは。



 リネットが、足を、止めた。


 その左手が、懐に伸びかけて――止まった。


 迷っているのだろう。何かを握りしめるように、布の上から、その懐を押さえて。俯いて。


 しばらく、そうしていた。


 私とルキウスが道を間違え続けるのを、黙って見ていた、その間。彼女はずっと、この迷いを抱えていたのかもしれない。


 やがて。


 小さく、息を、吸う音が、した。


 「地図なら、あります」


 小さな声が、した。


 リネット、と名乗った、あの少女だ。祈骸の隊列で拾って以来、私たちについてくる。難民の群れは、南で散り散りになり、彼女は、行く当てをなくしていた。


 右半身を、ぼろ布で幾重にも隠した少女。


 その巻き方は、異様に、丁寧だった。


 肩から、指先まで。首筋から、頬の半ばまで。布は、隙間なく、幾重にも重ねられている。端は、内側へ几帳面に折り込まれ、ほつれた糸の一本すら、外へ出ていない。毎朝、火を熾す前に、彼女はこの布をすべて解いて、巻き直す。誰にも見られない場所で。長い時間を、かけて。


 隠すためだけに、これほどの手間を。


 ――いや。


 違うのかも、しれない。


 あれは、包帯を、巻いているのだ。


 治らない傷に。治るはずのない傷に。それでも、毎朝、新しく。


 その布の上から、外套を羽織っている。


 外套は、黒だった。


 もとは、と言うべきかもしれない。いまは灰を吸って、鼠色に近い。だが、襟の裏や、袖の折り返しの、灰の届かなかった場所だけが、まだ、はっきりと黒い。仕立ては、悪くない。少なくとも、旅装ではなかった。裾に、細い黒糸で、蔓草の縁取りが縫い込まれている。街道を歩くための衣に、そんな手間をかける者はいない。


 喪服だ。


 しかも、この少女の体には、丈が長すぎた。裾を折り上げて、内側で縫い留めてある。肩幅も、余っている。誰か、もっと背の高い女のために仕立てられたものを、無理やり詰めたのだ。


 誰の、とは、訊かなかった。


 訊く必要が、なかった。


 母を看取った少女が、母の喪服を着て歩いている。喪に服す相手は、とうに石になって、あの家の寝台に残されたままだろう。それでも、この子は、その黒を脱がない。


 脱げないのだ。


 喪が、終わっていないからだ。


 顔は、見たことが、ない。


 深く被った、フードの奥。そこに落ちた影が、彼女の顔をいつも覆っている。時折、火明かりが、その影の奥へ届くことがある。そういうとき、辛うじて見える。左の顎の線が。伏せた睫毛の影が。そして、その隣に、灰白色のなめらかな面が、わずかに光を返すのが。


 それだけだ。


 右手にだけ、手袋を、している。


 左手は、素手だ。感覚のある方の手で、この子は火を熾し、荷を担ぎ、犬を撫でる。感覚のない方の手には、布を巻き、その上から、さらに手袋を被せる。指の、形を、隠すために。


 それ以上を、彼女は、見せない。


 歩みは、遅い。石になった右脚を引きずるように進む。それでも、決して遅れまいと、必死についてくる。


 その左手が。懐から、折り畳んだ一枚の紙を差し出した。


 その指先が。一瞬、紙を離すのを惜しむように、強く握った。それから、諦めたように開いた。


 「故郷を、出るときに。父の、形見で」


 古い、交易路の地図だった。手描きの、稚拙なものだが――この一帯の街道が記されている。


 「……助かる」


 私は、それを、受け取った。


 「ずっと、隠して、持っていたのか」


 「地図を持ってると、わかると。取られるかも、しれないから」


 なるほど。難民の群れでは、地図一枚が命綱だ。この少女は、それを何ヶ月も隠し通してきた。誰にも、頼らず。誰も、頼れず。


 「なんで、俺たちには、出すんだ?」


 ルキウスが、無遠慮に訊いた。


 リネットは、少し俯いた。フードの奥で、その顔が迷うように揺れた。


 「……この人なら」


 ぽつり、と。私を、見て。


 「取ったり、しないと、思ったので」


 理由に、なっていない。


 だが――私にはわかった。この少女が、何を感じ取ったのか。


 同類は、同類が、わかる。


 終われない者は、終われない者の匂いがわかる。


 厄介なことに、なった、と思った。


 この少女は、私に近づきすぎる。近づいた者は、いずれ――いや。


 その考えを、私は、押しやった。今は、いい。今は。



 地図のおかげで、道は、正された。


 街道を、南へ。三人で、歩く。


 道の両側には、何もなかった。


 いや――何も育たない、灰色の平原が、地平の果てまで続いていた。時折、黒く枯れた木が、一本だけ立っている。枝は、どれも、天へ向かって伸びるのではなく、地を這うように横へ曲がっていた。まるで、空から何かに押さえつけられているかのように。


 街道の脇に、時々、石標が、あった。


 もとは、方角を示すためのものだったのだろう。だが、いまは、そのほとんどが傾ぎ、あるいは割れ、文字は風化して読めない。


 中に一つ、まだ比較的はっきりと、文字の残るものが、あった。


 「――ここより、先」


 私は、それだけを、読んだ。


 その先は、欠けて、いた。


 私と、ルキウスと、リネットと。それから、道中で拾った、痩せた野良犬が一匹。ルキウスが勝手にパンくずをやった。ついてくるようになった。


 妙な、一行だった。


 弔い人の旅は、孤独なものだと思っていた。孤独であるべきものだと。なのに、いつのまにか、三人と、一匹。


 犬は、最初、リネットに、近づかなかった。


 石になった右半身に怯えているのか。それとも、他の理由があるのか。私には、わからなかった。だが、犬はいつも、彼女から少し距離を取って歩いていた。


 それが変わったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 リネットが、躓いた。石の脚が小石に引っかかったのだろう。よろけて、片膝をついた。


 その、瞬間。


 犬が、駆け寄った。


 彼女の傍らに。鼻先で、その左手を、そっと突いた。まるで、大丈夫か、と問うように。


 リネットは、驚いた顔で犬を見た。


 それから、少しだけ、その頭を撫でた。左手で。


 犬は、逃げなかった。


 リネットの口元が微かに緩んだのを、私は見た。すぐに、俯いて隠したが。


 誰かに――何かにでも――怖がられずに触れられる。それが、彼女にとって、どれほど久しぶりのことだったのか。私には、想像することしかできなかった。


 それから、犬は、リネットの傍を離れなくなった。


 昼、携行食を、齧った。


 硬い。石のように硬い干し肉だ。塩気ばかりが強くて、味は、ほとんどしない。


 「……これは」


 私は、思わず、呟いた。


 「ひどいな」


 「あんたが、それを選んで買ったんだろうが」


 ルキウスが、噴き出した。


 「三日前の、あの街で。俺が『もっとましなのにしろ』って言ったのに、あんた、『日持ちする』の一点張りで、これを、山ほど」


 「日持ちは、する」


 「味が、しねえだろ!」


 リネットが、隣で、小さく、笑った。


 初めて、聞く、笑い声だった。


 慌てて、口を押さえて。笑ったことを恥じるように、俯いて。それでも、肩が微かに揺れていた。


 ――ああ。


 こういう時間は、悪くない。


 そう思ってしまう自分に、私は、微かな警戒を覚えた。


 情が、湧く。情が湧けば、失うときが、つらくなる。そして――私の傍にいる者は、いずれ、失われる。例外なく。


 わかっている。


 わかっていて、なお。


 この灰色の世界に灯った、小さな火を。私は、しばらく消したくない、と思ってしまった。


 弔い人としては、失格の感傷だ。


 その後も、歩きながら、他愛のないやり取りが続いた。


 ルキウスが、昔の戦友の話をした。下手な冗談を交えながら。リネットが、時折、相槌を打った。まだ、遠慮がちに。だが、確かに、声を出して。


 犬が、その周りを行ったり来たりしていた。時々、リネットの左手に鼻先を擦り寄せながら。


 誰も、口には出さなかった。だが、この一行の空気が少しずつ変わっていくのを、私は感じていた。


 寄せ集めの、旅だった。目的も、事情も、ばらばらの。


 それでも。

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