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黒陽黙示録アベル ― RE:NEHEMOS  作者: 鉄川零


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終われない少女-2

異変は、隊列の前方から来た。


 最初は、ざわめき。次に、悲鳴。そして――あの、囁きが、聞こえた。


 「一緒に……祈ろう」


 祈骸だ。


 隊列の先頭あたりに湧いて出たらしい。何体か。灰の中から、折れ曲がった手足で這い出てきて、人々に手を伸ばしている。


 「らくに、なろう」


 「もう、いいんだ」


 列が、崩れた。人々が、逃げ惑う。折り重なるように、倒れていく。子供が、泣き叫ぶ。誰かが、転ぶ。踏まれる。悲鳴が、悲鳴を、呼ぶ。


 わたしの、すぐ前で。さっきの老婆が、転んだ。


 そして、その、目の前に。一体の、祈骸が、いた。黒い光の、眼窩を、老婆に、向けて。手を、伸ばして。


 「祈ろう」


 老婆は、腰を抜かして動けない。誰も、助けない。皆、自分が逃げるだけで精一杯だ。


 わたしは。――なぜ、だろう。


 考えるより、先に、動いていた。萎えた右脚を、引きずり、もつれる足で、たたらを踏みながら。うまく走れない体を、それでも、無理やり、前へ。


 そして、老婆と祈骸の間に。倒れ込むように割って入り、石の右腕を、盾のように突き出していた。


 祈骸の手が、わたしの、右腕に、触れた。


 「一緒に、祈――」


 途切れた。祈骸の、囁きが。途切れた。


 黒い光が、揺れた。まるで、戸惑うように。伸ばした手が、わたしの右腕に触れたまま、そこから先へ進めずにいる。


 なぜ?


 祈骸に触れられた者は、幸福な幻を見て、石になる。そのはずだ。なのに。わたしには、何も、起きない。幻も、見えない。囁きも、届かない。


 まるで――わたしの、石になった右半身が。祈骸の力を弾いているかのように。


 いや。弾いている、のではない。もっと正確に言うなら。


 ――わたしは、すでに、半分、石だから。


 祈骸は、揺らいでいる者に囁く。生きて、迷って、揺らいでいる心の、いちばん柔らかいところに、「楽になれ」と忍び込む。


 だが、わたしの右半身は、もう、揺らいでいない。固定されて、いる。石になって、確定して、しまっている。


 だから――祈骸の、囁きが。入る、隙が、ない。


 「……どうして」


 わたしは、呟いていた。


 祈骸は、まだ、わたしの右腕に触れたまま、戸惑っている。その、黒い光の眼窩を、じっと見つめる。


 この中に。この化け物の中にも。かつて、人だった、誰かが、いる。名前が、あって。誰かを、愛して。何かを、願って。そして、終われずに、こんな姿に、なってしまった、誰かが。


 ――わたしと、同じ。終われなかった、者。


 「あなたも」


 わたしは、その黒い光に、話しかけていた。


 「あなたも、終わりたかったの?」



 そのとき。


 「離れろ!」


 声が、飛んだ。同時に、赤い、熱が、わたしの、横をかすめた。


 赤熱した、灰。それが、祈骸を、正面から、撃った。祈骸が、のけぞり、わたしの右腕から、手を、離す。


 振り向くと。若い男が、いた。灰まみれの、傭兵風の男。奇妙な形の銃を構えている。銃口から、まだ、赤い火の粉がこぼれている。


 「嬢ちゃん、無事か! なんで、化け物に、突っ込んでんだ!」


 男が、駆け寄って、くる。


 そして、その、後ろから。もう一人。


 黒い神父服の男が、歩いてきた。


 いや――神父服、と呼んでいいものなのか。


 わたしの故郷の教会にいた司祭も、黒い衣を着ていた。だが、あれは、もっと短くて、もっと簡素で、袖から手首が出ていた。


 この男の衣は、踝まである。


 立襟が、喉を、完全に塞いでいた。顎の下で、皮の締め具が留めてある。首の肌が、指一本ぶんも見えない。前立てには、留め具が、縦一列に並んでいた。数えきれない。上から下まで、びっしりと。黒く、小さく、一つ一つ、形が違う。骨を削ったもののように見えた。


 袖は、異様に長かった。指の付け根まで覆っている。手首のところで、細い革帯が二重に巻かれ、袖口を、きつく締め上げていた。腕を、一分たりとも出したくないのだ、と思った。


 胸に、白い一条が、縦に走っていた。


 刺繍だ。装飾らしい装飾は、それだけだった。細い、真っ直ぐな、たった一本の白線。首元から、腹のあたりまで。


 ――墓標に、見えた。


 それ以外は、全部、黒だった。灰にまみれて、擦り切れて、裾は、ほつれかけている。それでも、黒かった。この世界のあらゆるものが灰色に褪せていくのに、その衣だけが、光を返さずに、黒く沈んでいる。


 歩くたび、裾が、灰を掃いた。


 裾の内側だけが、白く、縁取られている。何年ぶんの灰が擦り込まれたら、布はそうなるのだろう。


 背に、大きな黒い棺を負って。


 灰の中を、まるで、そこだけ時間が止まっているみたいに、静かに、歩いてくる。


 その男を、見た瞬間。わたしの、心臓が。


 ――ど、く、ん、と。鳴った。


 なぜ?


 会ったことも、ない。知っている、はずも、ない。なのに。その男の、纏う、空気。その、静けさ。その、どうしようもない――終われなさ。


 わたしには、わかった。ひと目で、わかって、しまった。


 ああ。この人も。わたしと、同じだ。


 この人も――終われない人だ。


 神父が、祈骸の前に立った。わたしを庇うように。いや、違う。祈骸の黒い光を覗き込んでいる。まるで、その中に誰がいるのかを確かめるように。


 そして、腕を、まくった。


 その腕を見て、わたしは、また、息を、呑んだ。


 名前だった。


 無数の名前。びっしりと、その腕に刻まれた、人の名。


 彫ったのでは、なかった。墨を入れたのでも、焼いたのでもない。文字は、皮膚の下から、押し上げられていた。生きた肉の裏側で骨が育つように、白い隆起となって、内側から表へ滲み出している。手首の内側から、肘へ。肘から、二の腕へ。腕の丸みに沿って回り込み、裏側へ、脇の下の見えない場所へまで続いていて、どこまで刻まれているのか、袖の中の闇では、もう見当がつかなかった。文字と文字のあいだに、余白は、ほとんどない。古いものほど下にあり、隆起が沈み、色が抜け、皮膚の色に呑まれかけていて、なぞらなければ読めない。新しいものほど上にあり、まだ生々しく、縁が赤く腫れて、触れれば熱を持っていそうに見えた。それらが幾層にも重なって、腕の輪郭そのものが、わずかに歪んでいる。人の腕の形をしていながら、人の腕の表面ではなかった。


 ――名簿だ。


 いや、違う。名簿なら、失くせる。燃やせる。


 この人の腕にあるものは、そうじゃない。


 誰にも渡せない場所に。誰にも奪えない場所に。ひとつ残らず、抱え込んで。


 この人は、自分の躯を、墓地にしている。


 わたしが終わらせてほしいと願い続けた、その「終わり」を。この人は、いくつも、いくつも、その身に背負って歩いている。


 神父の指が、祈骸の名を探る。その横顔が、微かに歪んだ。何か、つらいものをこらえるように。


 わたしは、その横顔から目を離せなかった。


 この人は、誰なんだろう。なぜ、こんなにも。わたしの、いちばん、痛いところに。触れて、くるんだろう。



 「あの……」


 気づけば、声が出ていた。何ヶ月も、誰にもかけなかった声が。


 神父が、こちらを見た。灰色の、静かな目。底に、何か深いものを沈めた目。


 わたしは、それ以上、言葉が続かなかった。何を訊きたいのか、自分でもわからない。ただ――この人になら、通じる気がした。それだけ。


 神父は、しばらく、わたしを見ていた。


 いや。正確には――巻いた布の隙間から覗く、わたしの、石になった右手を。


 「……痛むか」


 短い、問いだった。低い、掠れた声で。


 わたしは、笑った。何ヶ月ぶりかの笑みだった。たぶん、ひどく歪んだ笑みだったと思う。


 「痛くないのが……いちばん、痛いんです」


 やっと、それだけ言えた。あとは、言葉にならなかった。


 神父は、頷きも、慰めも、しなかった。ただ、その目の奥が。ほんの少し、揺れた。


 その揺れを、わたしは見逃さなかった。


 ああ。この人にも、届いた。


 この言葉の、意味が。この、矛盾が。誰にも、わかってもらえなかった、この痛みが。


 初めて。


 たった一人。


 わかって、くれる人が、いた。


 それが――嬉しかったのか。哀しかったのか。


 自分でも、わからなかった。


 ただ、感覚のない右手の、その手のひらの下で。石になりきらない、わたしの心臓だけが。


 ――とく、とく、と。


 まだ、揺らいで。脈を、打っていた。


 まるで、この出会いが。


 わたしの「終わり」を、また、少しだけ、遠くへ、押しやったことを。


 知っているかのように。


(三章 了)

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