終われない少女-1
痛くないのが、いちばん痛い。
この矛盾を、誰かにわかってもらえたことは、一度もない。
右手を、火にかざしてみる。橙色の焚き火の炎。指の腹が、炎に触れる。
じゅ、と。肉の焦げる音がした。
だが、熱くない。痛くもない。においだけが、鼻に届く。自分の肉が焼けるにおいだ。香ばしい、と思ってしまう自分に、少しだけ、吐き気がする。
わたしは、右手を火から引いた。人差し指の先が、黒く焦げている。だが、血は、出ない。焼けた場所が、ぽろりと欠けて、灰になって落ちた。
石だ。
わたしの右半身は、石になっている。
黒雪病、と人は呼ぶ。黒陽から降る雪――黒雪に長く晒された者が罹る病。侵された場所から、少しずつ石になっていく。感覚を失い、色を失い、やがて、灰色の像になって止まる。
母は、それで、死んだ。
いや。――死んだ、という言葉は、正しくない。
母は、止まったのだ。全身が石になって。まだ、そこに、いる。生まれ育った家の、寝台の上に。灰色の像になって。目を、開けたまま。わたしを、見つめたまま。
あの部屋のことを、わたしはたぶん、死ぬまで忘れない。
窓から、白い光が差していた。黒雪のやんだ朝だった。皮肉なほど、静かで、綺麗な朝。その光が、寝台の上の母を照らしていた。
石になった母は――美しかった。
病んで、痩せて、髪も抜けて。最後の半年、母は、見るのもつらいほどやつれていた。なのに、石は、それを隠した。落ち窪んだ頬の影も、青黒い隈も、灰白色のなめらかな面に置き換わって。皺の一本一本が、彫刻刀で丁寧に彫られたように整った。
どこかの寺院に立っていても、おかしくない。
そう、思ってしまった。
母の亡骸を見て。
わたしは、母に、触れた。頬に。手のひらを、当てて。
冷たい。
いや――冷たくすら、なかった。石は、部屋の温度と同じだった。温かくもなく、冷たくもない。ただ、そこに在るだけの温度。人の体が決して持たない温度。
その、なんでもない温さが。
いちばん、怖かった。
最期に、母は笑おうとした。石になりかけた顔で。強張った、ひび割れた笑みで。「リネット」と言おうとして。その口が、途中で固まった。
わたしの名を、呼びかけたまま。永遠に。
あの顔を、わたしは忘れられない。忘れられるものか。あれは、笑顔じゃなかった。あれは――終わらせてもらえなかった者の、顔だ。
わたしの右半身が、石になり始めたのは、母を看取った、その夜からだ。
母の冷たくなっていく手を、握っていた。握っていたはずだった。だが、途中から、その冷たさがわからなくなった。
自分の右手が、母より先に感覚を失っていたのだ。
最初は、指先。次に、手のひら。手首、肘、肩。じわじわと、石の領域が広がっていった。右の頬。右の首筋。右の、胸のあたりまで。
右腕は、もう、だめだ。すっかり、石になった。火に焼いても、痛みひとつない、冷たい石。
右の脚は、まだ、途中だった。膝から下が、痺れて、力が入らない。
病は、気まぐれだった。均一には進まない。腕を食い尽くしたと思えば、次は、脚を少しずつ。今日も、寝て起きるたび、確かめる。動く場所が、昨日より減っていないかを。
――終わりは、こうやって、少しずつ、来る。
一息に、ではなく。わたしから、ひとかけら、ずつ。
だから、わたしは右脚を引きずって歩く。杖のように、突いて。健やかな左脚で、体を運ぶようにして。遅い。ひどく、遅い。隊列のいちばん後ろを、置いていかれないよう、必死についていくのが精一杯だ。
医者は、匙を投げた。「進行を止める方法は、ない」と。「いずれ、全身が」と。言いにくそうに、言葉を濁して。
わかっている。言われなくても、わかっている。
わたしは、母のようになる。石の像になって、止まる。誰かに看取られながら、あるいは、独りで。目を、開けたまま。何かを、言いかけたまま。
――永遠に。
それが、怖くて。だから、わたしは。一度、終わらせようと、した。
その夜のことは、あまり思い出したくない。
決めたのは、その数日前だった。医者の「進行を止める方法はない」という言葉を聞いた、あの日から。
わたしは、静かに準備を始めていた。誰にも気づかれないように。母を看取った後片付けを済ませ、家の中のわずかな金目のものを、必要な人に譲り、身の回りを整えた。
まるで、旅の支度をするように。
ただし、その旅の行き先は。
誰にも言えない場所だった。
崖の縁に、立った。黒雪の降る夜だった。
風が、強かった。崖下から吹き上げる、冷たい風。それが、頬を切るように当たった。感覚のある左半身にだけ。右半身は、何も感じなかった。
眼下は、暗くて、底が見えなかった。ここから、落ちれば。石になる前に。母のようになる前に。自分の意志で、終われる。そう、思った。
これで、いい。
これで、やっと、終われる。
右足を、踏み出そうと、した。
だが。右脚は、動かなかった。
石になりかけた、その脚に力が入らなかったのだ。膝が痺れて、萎えて、崖の縁を踏みしめることができなかった。まるで、石になりゆく半身が、最後の一歩を拒むように。
よろけた。左脚だけで、辛うじて、踏みとどまる。
そして、わたしの右手が。感覚のない、あの右手が。崖のふちの岩を掴んでいた。わたしの意志と関係なく。まるで、石になった半身だけが、「まだ、終わるな」と言っているみたいに。
わたしは、その場に座り込んで泣いた。声を、上げて。
終わりたいのに。終わらせて、ほしいのに。この、感覚のない右手さえ、わたしが終わることを、許してくれない。
――なんて、皮肉。
石になる病が、わたしを殺すのに。その同じ石が、わたしを死なせてもくれない。
わたしは、終われない。
生きたいわけじゃ、ない。ただ、終われないだけ。この二つは、まるで、違う。
*
「ねえ、あんた。大丈夫かい」
声をかけられて、我に返った。
難民の隊列。わたしは今、その中にいる。故郷の街を捨て、黒雪の薄い土地を求めて、南へ、南へと歩く人々の群れ。何百人。灰にまみれ、疲れきった、顔、顔、顔。
わたしの故郷は。北の街道沿いにあった。決して、大きな街では、なかった。だが、市場があり、教会があり、季節ごとの祭りも、あった。子供の頃は、それが当たり前だと思っていた。
いまは、もう、ない。
街ごと、放棄された。黒雪が濃くなりすぎて。住み続けることができなくなって。
わたしたちは、その最後の住人の一部だった。
列は、地平まで、続いていた。
誰も、喋らない。喋る体力を、とうに使い果たしている。聞こえるのは、足音だけだ。何百という足が、積もった灰を擦る音。しゃり、しゃり、と。それが途切れず重なって、ひとつの大きな呼吸のように鳴り続けている。
みな、色を、失っていた。
もとは、赤い外套だったのだろう布。青い頭巾だったはずの布。それらが、降り積もった灰に均一に覆われて。全員が、同じ鼠色をしている。老人も、女も、子供も。遠くから見れば、区別がつかない。
灰の街道を、灰色の人間が、列を成して、歩いていく。
荷を抱えている者。荷を、とうに捨てた者。子を背負った女。その子が、まだ生きているのかどうか――誰も、確かめない。確かめてしまえば、確定してしまうから。
それでも。
この隊列にも、まだ、暮らしの名残りがあった。
前を歩く男が、干からびたパンの欠片を、隣の子供に分けていた。声もかけずに。子供も、礼を言わなかった。ただ、当たり前のように受け取って、齧った。何度も繰り返されてきた、やり取りなのだろう。
少し先で、老人が一人、足を引きずっていた。その腕を、若い女が、そっと支えていた。血の繋がりがあるのかは、わからない。ただ、隣を歩いていた者同士が、いつのまにか支え合うようになっていた。
誰かが、小さな歌を口ずさんでいた。声にはならない、掠れた、旋律だけの歌。子守唄、なのかもしれない。それとも、故郷でよく歌われていた、何かの歌なのかもしれない。
わたしには、わからなかった。
ただ、その掠れた旋律が。灰を擦る足音と重なって。この隊列の、もう一つの呼吸のように聞こえた。
時折、列から、ひとり、脱落する。
道の脇に、座り込んで。動かなく、なる。
誰も、立ち止まらない。振り返る者すら、いない。ただ、列が、その者を避けて流れていく。水が、石を避けるように。
やがて、その背に、灰が、積もり始める。
半日もすれば、街道脇の、ただの小さな丘になるのだろう。
わたしは、その丘をいくつも追い越してきた。
声をかけてきたのは、隣を歩く老婆だった。
「手、焼けてるよ。血も出さずに。あんた、まさか」
わたしは、右手を袖で隠した。
「……なんでも、ないです」
黒雪病は、嫌われる。伝染ると信じている者も、多い。実際には伝染りはしないのだが、そんな理屈は、恐怖の前では無力だ。石になりかけた者は、隊列から追われる。
だから、わたしは右半身を、いつも隠している。ぼろ布を幾重にも巻いて。手袋をして。フードを目深に被って。
「そうかい」
老婆は、それ以上、追及しなかった。ただ、少しだけ、わたしから距離を取った。半歩、二歩。隊列の流れに紛れるように。それでも、完全には離れなかった。
この老婆にも、事情があるのだろう。誰かを連れて、この隊列に加わったのかもしれない。あるいは、独りで。誰にも訊かなかった。訊く権利は、なかった。
わかっている。責める気は、ない。誰だって、怖い。終わりたくない者にとって、石になる病ほど恐ろしいものは、ないのだから。
――終わりたくない者にとって。
そう、皆、終わりたくないのだ。この隊列の誰もが。石になりたくない。死にたくない。だから、こうして必死で、南を目指して歩いている。
その中で、わたし一人だけが。「終わりたい」と、願っている。
そして、その、たった一つの願いすら。叶えてもらえずに、いる。




