弔い人-2
なぜ、私にだけ、これが読めるのか。
誰にも読めない。どんな術師にも、どんな聖職者にも、祈骸の中身は読めない。ただ、恐ろしい化け物として、そこにあるだけだ。
なのに、私にだけ、読める。
なぜだ。
答えは、たぶん――一つしか、ない。
揺らぎは、揺らぎにしか、読めないのだとしたら。
こんなにも簡単に、私の境界が、他人の泥と混ざり合うのだとしたら。
それは、私が。
――こいつらと、同じもの、だからではないのか。
私も、固定されて、いないのではないか。
誰にも、正しく観測されず。どこにも、確かに記録されず。「そうだったかもしれない」の泥の中で、宙吊りになった――そういう、存在なのではないか。
祈骸と、私の違いは。
ただ、まだ、歩いている、という一点だけ。
いつか、私も。
名を呼ばれ、固定されて、安らかに、灰へ還る日が――
「……よせ」
声に、出していた。
いつも、ここで思考を断ち切る。答えの出ない問いは、泥と同じだ。踏み込めば、沈む。
私は、私の名を、もう一度、腹の底で唱える。
アベル=レギス。世界最後の、弔い人。
それで、いい。それだけで、いい。
だから、私は、名を刻む。
濁流の中から、たった一つの人生を、選び取る。
これは、読むこと、ではない。選ぶこと、だ。
無数の「あり得た」の中から、「これが、お前だ」と決めること。誰も証明できない。誰も否定できない。私が選んだ一行が、その者の唯一の真実になる。
傲慢だ。これ以上ないほど、傲慢な行いだ。
私は、神ではない。神を信じてすらいない。なのに、死者の人生を、勝手に決めている。「お前は、畑に帰りたかった」と。本当は、路地で野垂れ死にたかったのかもしれないのに。
だが。誰かが、やらねば。
こいつは、泥のまま、消える。「そうだったかもしれない」の霧の中で、永遠に、彷徨い続ける。宛先のない手紙のまま。
だったら。傲慢でも、暴力でも。
私が、宛先を、書いてやる。
「お前は、ここにいた」と。
嘘でも、いい。その嘘が、こいつを安らかにするなら。
選ぶ基準は、一つだけ。濁流の中で、いちばん強く光っているもの。その者が、生涯で、いちばん強く握りしめていたもの。
ヨナスなら――麦の匂いだった。刈り入れの、あの、乾いた金色の匂い。無数の泥の中で、それだけが、消えずに光っていた。
他の記憶は、絶えず姿を変えていた。妻の名も、子の有無も、死に方さえも。だが、あの、麦の匂いだけは。何度覗いても、同じ強さで、そこに、あった。
だから、私は選んだ。「お前は、畑に、帰りたかった」と。
クラウスなら――安酒と、四人の笑い声。
マルクなら――故郷の、病んだ母。
その、たった一つの「いちばん」を掬い上げて、名と共に、この躯に刻む。
*
なぜ、躯に刻むのか。
これも、かつて、訊かれたことがある。帳面に書けばいい、石に彫ればいい、と。
できない。試したことは、ある。だが――紙に書いた名は、消える。風化し、燃え、失われる。石に彫った名も、砕ける。この世界のあらゆる「記録媒体」は、いずれ、黒陽に啜られる。
だが、私の躯だけは。
――消えない。
なぜなら、私自身が、まだ固定されていないから。揺らぐ躯には、無限の余白がある。いくらでも、刻める。そして、私が歩き続ける限り、その名は、私と共に、この世界に留まり続ける。
私は、器なのだ。
死者の名を、容れるための。
……器?
なぜ、いま、そんな言葉が、浮かんだ。
私は、頭を振る。また、危ういところへ踏み込みかけた。
火が、爆ぜた。
夜だった。
崩れた石壁の陰で、私たちは火を焚いていた。
この壁は、かつて、何かの外周だったのだろう。積まれた石の下半分だけが、辛うじて形を保っている。上半分は、どこかへ崩れ落ちて、いまはもう、どこにあるのかもわからない。
壁の表面に、文字が、あった。
風化しかけた、彫り込みだ。誰かの名だったのかもしれない。祈りの言葉だったのかもしれない。読み取れるのは、断片だけで、意味は、もう繋がらない。
村の跡地の、あちこちに。
同じような断片が、転がっていた。半分だけの扉。傾いだ井戸の縁。誰も汲まなくなった、水瓶。
黒雪は、まだ、薄く、降っていた。積もった灰の上に。音もなく。
その崩れた壁の陰で、私は、今日刻んだ名を指でなぞっていた。
今日は、多かった。数えるのをやめるほどに。腕の余白は、もう、ほとんど残っていない。
その、いちばん新しい三つ。
ヴェルナー。クラウス。マルク。
新しい名は、まだ、皮膚の下で微かに熱を持っている。刻まれたばかりの名は、しばらく、こうして疼く。まるで、その者たちが、私の躯の中で、まだ寝つけずにいるかのように。
大丈夫だ。私は、心の中で話しかける。
もう、揺らがなくて、いい。お前たちの居場所は、ここだ。私が、覚えている。私が、歩き続ける限り、お前たちは、確かに、いた。
やがて、熱が引いていく。名が、私の一部になじんでいく。
また、三人、増えた。私が背負う死者が。
視線を、感じた。顔を、上げる。
あの、若い兵士――ルキウスが、火の向こうで私を見ていた。慌てて、目を逸らす。だが、その顔には、隠しきれない問いが浮かんでいた。
火が、二人のあいだで爆ぜた。
ルキウスが、また、こちらを見た。今度は、逸らさなかった。ただ、口を開きかけて――閉じた。何度か、それを繰り返した。言葉を探しては諦める、その様子が、火明かりの中で、はっきりと見えた。
私は、待った。
急かすつもりは、なかった。この男が何を訊きたいのか。私には、わかっていた。だから、待った。彼が、自分で、その問いに辿り着くのを。あるいは、辿り着かずに諦めるのを。
どちらでも、よかった。
訊きたいのだろう。この腕の名前のことを。
昼間、こいつは、訊いた。「その腕の名前は、全部、あんたが弔った奴らか」と。私は、答えなかった。
答えれば、次の問いが来る。「何人いるんだ」と。「何年、やってるんだ」と。そして、その問いは、いずれ、私自身が答えを恐れている場所へと辿り着く。
――お前は、何者だ、と。
私にも、わからない。
物心ついた時には、もう、歩いていた。背に、この棺を負って。腕に、すでに、いくつかの名を刻んで。自分が、どこで生まれ、誰の子で、なぜ、こんなことをしているのか。何一つ、思い出せない。
ただ、歩いていた。名を、読み、選び、刻みながら。
いつからか。どれほどの、間か。わからない。
時々――ひどく長い時間を歩いてきた気がする。百年、いや、それより、ずっと。だが、そんなはずは、ない。人は、百年も生きない。
なのに、なぜ、私は。
この灰の匂いを。この、降りしきる灰の一片、一片までを。
――こんなにも、よく、知っているのだろう。
まるで、何度も、何度も、同じ戦場を、歩いてきたかのように。
*
「なあ」
ルキウスの声が、私の思考を断ち切った。
助かった、と思った。あのまま考え続けていたら、また、危ういところへ沈んでいた。
槍のことを、訊かれた。
私は、「わからない」と、答えた。
嘘では、なかった。物心ついた時から、背負っていた。開け方も知らない。中身が何本あるのかも知らない。今日、初めて、一本、出た。私が呼んだのでは、ない。あれは、勝手に出てきた。「間に合わない」と思った、あの瞬間に。
だが――すべてでも、なかった。
言わなかったことが、一つ、ある。
あのとき。
槍は。
一瞬、私の方を、向いた。
祈骸ではなく。私を。
まるで――いちばん揺らいでいるものを、いちばん先に固定しようとするように。
ぞっと、した。
言えるはずが、なかった。あの男には。誰にも。
ルキウスが、眠ったあと。私は、一人、火を見つめていた。
この男を連れて行くべきでは、なかったかもしれない。
弔い人の旅は、孤独なものだ。孤独であるべきものだ。なぜなら――私の傍にいる者は、いずれ、死ぬ。例外なく。そして私は、その者の名を、この腕に刻むことになる。
何人、そうしてきたか。覚えて、いない。
いや――覚えて、いる。全員、覚えている。腕の名の一つ一つが、かつて、私の傍で笑い、喋り、そして、死んでいった者たちだ。私は、その全員を看取り、その全員を選び、その全員を刻んだ。
それが、弔い人の業だ。傍にいる者を、いずれ、腕の中の一行に変えてしまう。
だから――ルキウス。お前も、いつか。
私は、眠る男の寝顔を見た。
まだ、若い。目の下の隈も、灰にまみれた頬も、生きている者のものだ。温かく、揺らぎのない、確かな輪郭。
この輪郭が、いつか崩れる。そして私は、この男のいちばん強く握りしめていたものを選び、名と共に、この腕に――
私は、無意識に、腕の、まだ余白のある場所に指を当てていた。
ルキウスの、名を、刻む場所を。探すように。
「……よせ」
自分の手を、払いのけた。
まだ、生きている。こいつは、まだ、生きているんだ。
なのに、なぜ、私は。
まるで、こいつが、いつか死ぬのを――いや。
まるで、こいつが、いつか死ぬのを、もう、知っているかのように。
指が、震えていた。
火が、小さく、なっていく。
灰は、まだ、降っていた。夜の底に、静かに。
私は、この夜を知っている気がした。この火を。この、眠る男の寝息を。
――幾度、越えてきたのだろう。
問うても、答えは、白い霧の向こうだ。
ただ、指先の震えだけが、いつまでも、止まらなかった。
(二章 了)




