弔い人-1
村の輪郭は、もう、ほとんど残っていなかった。
石造りの家々が、傾ぎ、崩れ、灰に半ば埋もれている。屋根は、落ちたものが多い。落ちなかったものは、逆に、痩せた梁を剥き出しにして、あばらのように空へ突き出していた。
教会だったのだろう、建物が。村の中央に。
尖塔は、根元から折れていた。折れた先端が、地面に突き刺さり、鐘楼の鐘だけが、瓦礫の上に転がっている。錆びた表面に、灰が薄く積もっている。誰も、鳴らさない鐘。
窓は、ひとつも残っていなかった。硝子は割れ、木枠は焼け落ち、四角い、暗い穴だけが、壁にいくつも並んでいる。その穴の奥から、時折、風が抜ける。抜けるたびに、低く唸るような音がした。
まるで、建物そのものが、まだ、呼吸しているかのように。
私は、その崩れた教会の裏手へ回った。
墓地が、あった。
墓標が、傾いでいる。ほとんどが、灰に半ば埋もれ、埋もれきらなかった上半分だけを、地面から突き出していた。刻まれた名は、どれも読めない。風が、灰を運び、灰が、石を削る。この世界で名前を石に彫るということは、削られるまでの猶予を買うことでしかない。
それでも、彫った者たちがいた。
墓標のいくつかには、意匠が残っていた。縁を巡る蔓草の彫り。頂の、鳥とも花ともつかない浮彫。ひとつだけ、まだ形を保っているものがあって、それは掌を組み合わせた形をしていた。指の関節の皺まで彫ってある。彫った者は、これを、何日かけて彫ったのだろう。誰のために。
その掌の窪みに、灰が溜まっていた。
掬うように。受けるように。
だが、そこへ注がれるものは、もう、灰しかない。
土は、あちこちで、抉れていた。
誰かが掘り返したのだろう。あるいは、下から出てきたのか。土の下から、朽ちた板の端が覗いている場所があった。棺の側板だ。中は、見なかった。見る必要が、なかった。
そこに、それが、いた。
昼間の男。ヨナス、と私が名づけた、あの祈骸。折れた墓標のあいだに、蹲るようにして。黒い光を、眼窩に灯して。
動いては、いなかった。
だが、静止しても、いなかった。
輪郭が、絶えず、微かに震えている。呼吸のように。だが、肺は、とうにない。ならば、あれは、何の律動なのか。揺らぎそのものが脈打っているのか。
私が近づいても、それは逃げなかった。襲ってもこなかった。ただ、待っていた。
誰かが、来るのを。誰かが、自分を、見つけてくれるのを。
その待ち方が、いちばん恐ろしい。祈骸には、悪意がない。ただ、渇望だけが、ある。満たされることのない、渇望だけが。
私は、その傍らに膝をついた。
黒い光の奥を、覗き込む。
名を、読むとき。
私は、いつも、少しだけ、死ぬ。
誰にも、話したことはない。話したところで、伝わるとも思えない。この躯に刻んだ名の数だけ、私という人間が薄れていくのだとしたら。その、薄れていく分を、数えている者は、どこにもいない。
誰かに、覚えていてほしいのか。
――誰に。
次の、私に、とでも言えばいいのか。
いや。その言い方は、正しくない。私には、次などない。私は、ただ、歩き続けているだけだ。始まりも、終わりも、思い出せないまま。
宛先のない、手紙のようなものだ。
彷徨う祈骸と、同じように。
その、黒い光を覗き込んだ瞬間に、何が起きるのか。
まず――流れ込んでくる。
濁流のように。
だが、それは、一本の川ではない。無数の支流だ。互いに矛盾し、ぶつかり合い、渦を巻く、可能性の氾濫だ。
たとえば、昼間の男。ヨナス、と私が名づけた、あの祈骸。
覗き込んだ瞬間、私の中に流れ込んできたのは――
麦畑。
いや、違う。石畳の路地裏だ。
赤ん坊の、泣き声。
いや、あれは、痩せた犬の鳴き声だった。
女が、笑っている。名は、ハンナ。いや、エルサ。いや――そもそも、女など、いなかったのかもしれない。
結婚した。していない。逃げられた。逃げた。子を、抱いた。子など、なかった。畑を、耕した。畑など、持っていなかった。飢えて、死んだ。満たされて、死んだ。誰かに、看取られた。独りで、朽ちた。
ぜんぶ、同時に、流れ込んでくる。
ぜんぶが、「本当」の顔をして。
*
なぜ、こんなことになるのか。
長い時間をかけて、私は、一つの理解に辿り着いた。
――こいつらは、まだ、固定されていないのだ。
この世界では、観測が、現実を決める。見られたものが、在る。語られたものが、形を持つ。記録されたものが、確定する。
では、逆は。
誰にも見られず、誰にも語られず、どこにも記録されなかった者は――どうなる。
その者の人生は、確定を、失う。
「そうだった」が、「そうだったかもしれない」に崩れていく。事実が、可能性の泥に溶けていく。生きたのか、死んだのか。愛したのか、憎んだのか。すべてが、宙吊りのまま、揺らぎ始める。
これが、祈骸の正体だ。
死んだ、想い。
だが、その想いが、どんな人生から生まれたのかは――もう、誰も覚えていない。本人すら。だから、あらゆる「あり得た人生」が、その一つの想いの周りに、亡霊のように群がっている。
私が覗き込むと、その亡霊たちが一斉に押し寄せてくる。
「これが、私の人生だ」
「いや、こっちだ」
「違う、こうだったはずだ」
無数の、あり得た誰かが。叫びながら。
そして、ここからが――いちばん、危うい。
揺らいでいるものを、読むには。
こちらも、揺らがねば、ならない。
鍵と、鍵穴のように。震える弦が、同じ高さの音にだけ共鳴するように。相手の揺らぎに、こちらの揺らぎを合わせる。そうして初めて、あの泥は読める。
だが。揺らいだまま、他人の泥に触れれば。
――境界が、溶ける。
どこまでが、私で。
どこからが、こいつなのか。
わからなく、なる。
麦畑を、耕していた気がする。路地で、博打を打っていた気もする。女に、逃げられた。女を、抱いた。飢えて、死んだ。
私の名は。
ヨナス。
いや。クラウス。
いや。
――アベル。
そうだ。私は、アベルだ。アベル=レギスだ。
毎回、そう自分に言い聞かせる。溺れる者が、水面の光に手を伸ばすように。私は、私だ。この、無数の泥の中で、たった一つ、確かなもの。私の、名前。
だが――ここで、いつも、恐ろしい問いが頭をもたげる。




