↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒陽黙示録アベル ― RE:NEHEMOS  作者: 鉄川零


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/12

弔い人-1

村の輪郭は、もう、ほとんど残っていなかった。


 石造りの家々が、傾ぎ、崩れ、灰に半ば埋もれている。屋根は、落ちたものが多い。落ちなかったものは、逆に、痩せた梁を剥き出しにして、あばらのように空へ突き出していた。


 教会だったのだろう、建物が。村の中央に。


 尖塔は、根元から折れていた。折れた先端が、地面に突き刺さり、鐘楼の鐘だけが、瓦礫の上に転がっている。錆びた表面に、灰が薄く積もっている。誰も、鳴らさない鐘。


 窓は、ひとつも残っていなかった。硝子は割れ、木枠は焼け落ち、四角い、暗い穴だけが、壁にいくつも並んでいる。その穴の奥から、時折、風が抜ける。抜けるたびに、低く唸るような音がした。


 まるで、建物そのものが、まだ、呼吸しているかのように。


 私は、その崩れた教会の裏手へ回った。


 墓地が、あった。


 墓標が、傾いでいる。ほとんどが、灰に半ば埋もれ、埋もれきらなかった上半分だけを、地面から突き出していた。刻まれた名は、どれも読めない。風が、灰を運び、灰が、石を削る。この世界で名前を石に彫るということは、削られるまでの猶予を買うことでしかない。


 それでも、彫った者たちがいた。


 墓標のいくつかには、意匠が残っていた。縁を巡る蔓草の彫り。頂の、鳥とも花ともつかない浮彫。ひとつだけ、まだ形を保っているものがあって、それは掌を組み合わせた形をしていた。指の関節の皺まで彫ってある。彫った者は、これを、何日かけて彫ったのだろう。誰のために。


 その掌の窪みに、灰が溜まっていた。


 掬うように。受けるように。


 だが、そこへ注がれるものは、もう、灰しかない。


 土は、あちこちで、抉れていた。


 誰かが掘り返したのだろう。あるいは、下から出てきたのか。土の下から、朽ちた板の端が覗いている場所があった。棺の側板だ。中は、見なかった。見る必要が、なかった。


 そこに、それが、いた。


 昼間の男。ヨナス、と私が名づけた、あの祈骸。折れた墓標のあいだに、蹲るようにして。黒い光を、眼窩に灯して。


 動いては、いなかった。


 だが、静止しても、いなかった。


 輪郭が、絶えず、微かに震えている。呼吸のように。だが、肺は、とうにない。ならば、あれは、何の律動なのか。揺らぎそのものが脈打っているのか。


 私が近づいても、それは逃げなかった。襲ってもこなかった。ただ、待っていた。


 誰かが、来るのを。誰かが、自分を、見つけてくれるのを。


 その待ち方が、いちばん恐ろしい。祈骸には、悪意がない。ただ、渇望だけが、ある。満たされることのない、渇望だけが。


 私は、その傍らに膝をついた。


 黒い光の奥を、覗き込む。


 名を、読むとき。


 私は、いつも、少しだけ、死ぬ。


 誰にも、話したことはない。話したところで、伝わるとも思えない。この躯に刻んだ名の数だけ、私という人間が薄れていくのだとしたら。その、薄れていく分を、数えている者は、どこにもいない。


 誰かに、覚えていてほしいのか。


 ――誰に。


 次の、私に、とでも言えばいいのか。


 いや。その言い方は、正しくない。私には、次などない。私は、ただ、歩き続けているだけだ。始まりも、終わりも、思い出せないまま。


 宛先のない、手紙のようなものだ。


 彷徨う祈骸と、同じように。


 その、黒い光を覗き込んだ瞬間に、何が起きるのか。


 まず――流れ込んでくる。


 濁流のように。


 だが、それは、一本の川ではない。無数の支流だ。互いに矛盾し、ぶつかり合い、渦を巻く、可能性の氾濫だ。


 たとえば、昼間の男。ヨナス、と私が名づけた、あの祈骸。


 覗き込んだ瞬間、私の中に流れ込んできたのは――


 麦畑。


 いや、違う。石畳の路地裏だ。


 赤ん坊の、泣き声。


 いや、あれは、痩せた犬の鳴き声だった。


 女が、笑っている。名は、ハンナ。いや、エルサ。いや――そもそも、女など、いなかったのかもしれない。


 結婚した。していない。逃げられた。逃げた。子を、抱いた。子など、なかった。畑を、耕した。畑など、持っていなかった。飢えて、死んだ。満たされて、死んだ。誰かに、看取られた。独りで、朽ちた。


 ぜんぶ、同時に、流れ込んでくる。


 ぜんぶが、「本当」の顔をして。



 なぜ、こんなことになるのか。


 長い時間をかけて、私は、一つの理解に辿り着いた。


 ――こいつらは、まだ、固定されていないのだ。


 この世界では、観測が、現実を決める。見られたものが、在る。語られたものが、形を持つ。記録されたものが、確定する。


 では、逆は。


 誰にも見られず、誰にも語られず、どこにも記録されなかった者は――どうなる。


 その者の人生は、確定を、失う。


 「そうだった」が、「そうだったかもしれない」に崩れていく。事実が、可能性の泥に溶けていく。生きたのか、死んだのか。愛したのか、憎んだのか。すべてが、宙吊りのまま、揺らぎ始める。


 これが、祈骸の正体だ。


 死んだ、想い。


 だが、その想いが、どんな人生から生まれたのかは――もう、誰も覚えていない。本人すら。だから、あらゆる「あり得た人生」が、その一つの想いの周りに、亡霊のように群がっている。


 私が覗き込むと、その亡霊たちが一斉に押し寄せてくる。


 「これが、私の人生だ」


 「いや、こっちだ」


 「違う、こうだったはずだ」


 無数の、あり得た誰かが。叫びながら。


 そして、ここからが――いちばん、危うい。


 揺らいでいるものを、読むには。


 こちらも、揺らがねば、ならない。


 鍵と、鍵穴のように。震える弦が、同じ高さの音にだけ共鳴するように。相手の揺らぎに、こちらの揺らぎを合わせる。そうして初めて、あの泥は読める。


 だが。揺らいだまま、他人の泥に触れれば。


 ――境界が、溶ける。


 どこまでが、私で。


 どこからが、こいつなのか。


 わからなく、なる。


 麦畑を、耕していた気がする。路地で、博打を打っていた気もする。女に、逃げられた。女を、抱いた。飢えて、死んだ。


 私の名は。


 ヨナス。


 いや。クラウス。


 いや。


 ――アベル。


 そうだ。私は、アベルだ。アベル=レギスだ。


 毎回、そう自分に言い聞かせる。溺れる者が、水面の光に手を伸ばすように。私は、私だ。この、無数の泥の中で、たった一つ、確かなもの。私の、名前。


 だが――ここで、いつも、恐ろしい問いが頭をもたげる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。