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生き残り-1

歩き出して、十歩で、それは、現れた。


 灰の向こうから。ぬ、と。


 人影が、三つ。


 輪郭が、最初、はっきりしなかった。灰の粒子が、まとわりついているのか。それとも、輪郭そのものが、揺れているのか。


 近づくにつれ、それは、明らかになった。


 一体は、女だった。長い髪が、力なく、垂れている。歩くたび、その髪の先が、地面を、掃く。もう一体は、老人だった。腰が、大きく、傾いでいる。歩幅は、小さいのに、速度は、変わらなかった。まるで、傾いだまま、滑るように、進んでいるかのように。


 最後の一体は――子供だった。


 背丈は、ルキウスの腰にも、届かない。だが、その足取りだけは、他の二体と、まったく、同じ律動を、刻んでいた。


 「――ッ!」


 ルキウスは、反射的に、腰へ手を伸ばした。


 空だ。


 銃は、さっき、投げ捨てた。クラウスの頬に叩きつけて、そのまま、置いてきた。


 武器が、ない。


 「下がってろ」


 アベルの声。その男は、もう、腕を、まくっていた。無数の名を刻んだ、あの腕を。


 「――冗談だろ」


 自分でも驚くほど、乾いた笑いが、漏れた。


 「あんた、さっき、あれだけ還したばかりだろうが。まだ、立ってられんのか」


 アベルは、答えない。


 答える必要が、なかった。


 答えは、目の前に、あった。


 三体の祈骸が、三方から、じわりと、間合いを詰めてくる。折れた膝で。傾いだ首で。それぞれの口が、それぞれの祈りを、囁いている。


 女の、涙の跡だけが、頬に、乾いて、残っていた。老人の、指の爪が、割れて、剥がれかけていた。子供は――笑って、いた。ずっと。


 「あいたい」


 「かえりたい」


 「らくに、なりたい」


 アベルの指が、一体目の黒い光を、覗き込む。


 その、背後。


 二体目が、手を、伸ばした。


 ――間に合わない。


 そう思った。思って。


 気づけば、走り出していた。



 なぜ、走ったのか。


 わからない。何度、問い直しても、わからなかった。


 あの男は、赤の他人だった。名を聞いたばかりの、得体の知れない神父だ。灰の中を平然と歩き、化け物を名前で鎮める、明らかに、まともじゃない男。


 助ける義理など、微塵も、なかった。


 だが。


 あのとき、頭にあったのは、たった一つの映像だった。


 ――クラウスの、最後の顔。


 目尻を、微かに下げた、あの表情。


 「わりぃ。金、返せなかったわ」


 そう言っているみたいだった、あの、一瞬。


 あれを、見せてくれた男が。


 背中から化け物に触られて、笑いながら石になる?


 ――ふざけるな。


 そんなことが、あってたまるか。


 肩から、ぶつかった。


 二体目。その、伸ばされた腕を、体ごと、押しのける。


 軽い。


 驚くほど、軽かった。


 肉の感触が、ない。骨の手応えも、ない。まるで、着ぐるみの中身が、空っぽみたいに。


 ――そうか。


 これは、肉じゃ、ないんだ。


 人一人の、たった一つの、願いだ。


 それは、こんなにも、軽い。


 祈骸が、よろめいた。


 黒い光が、こちらを、見た。


 「……いっしょに」


 手が、伸びる。今度は、俺へ。


 「祈ろう」


 ――しまった。


 押しのけるので、精一杯だった。次は、ない。あの指が、頬に触れれば、終わりだ。笑って、石になる。


 誰も、名前を、刻んでくれない。


 いや。


 ――刻んで、もらえる、のか。


 あの男が、いる。


 あの男なら、俺が石になっても、あの腕に、俺の名を、刻んでくれる。「ルキウス=レイン。第七街道警備隊、第三小隊。仲間を全員失って、それでも、まだ、歩こうとしていた男」と。そう、刻んでくれる。


 そうしたら、俺は。


 あのクラウスみたいに。


 安らかに、灰に、なれるのか。


 ――楽に、なれるのか。


 その考えが、頭を掠めた、瞬間。


 全身の毛が、逆立った。


 これだ。


 これが、こいつらの、本当の武器だ。


 触れて、殺すんじゃ、ない。


 こいつらを、見ているだけで。


 「楽になりたい」という、自分の中の、いちばん柔らかいところが。


 ――勝手に、疼き始める。


 「ふ、ざけるな」


 吼えた。自分自身に。


 「ふざけるなよ、俺ァ、まだ――」


 右手が、勝手に、動いていた。


 腰の、後ろ。銃を差す場所とは、逆側。


 そこに、ずっと、あった。抜いたことなど、一度も、なかった。


 支給されて、三年。撃ち方すら、まともに教わっていない。


 ――灰火術式銃(かいかじゅつしきじゅう)


 軍が「実用に耐えん」と匙を投げた、旧式の、欠陥品。


 銃、と呼ぶには、あまりに、歪だった。


 銃身が、異様に、短い。掌に収まるほどしか、ない。そのかわり、その先へ――五枚の、薄い鉄環が、径を細めながら、宙に、連なっている。環と環のあいだは、空だ。指を、通せる。覗けば、向こう側の景色が、そのまま、見える。いちばん先の、いちばん小さな環。それが、この銃の、銃口だった。


 環の内側にだけ、びっしりと、術式が、彫り込まれている。


 文字では、ない。図でも、ない。ひとつながりの、渦だ。外周から中心へ向かって、無限に、細かくなっていく。肉眼で追える限界を超えて、なお、続いているのが、わかる。彫った者は、どこで、やめたのか。


 ――あるいは、やめられなかったのか。


 撃鉄だけが、不釣り合いに、大きい。


 そして、この銃の、いちばん、いかれたところは。


 薬室が、ない。


 弾を、装填する場所が、どこにも、ないのだ。


 術理は、こうだ。


 この世界の、あらゆる存在は、揺らいでいる。灰もまた、例外では、ない。降り積もったこの灰は、かつて何かであったものの、なれの果て――「何かであったかもしれない」の、残滓だ。だから、灰は、まだ、決まっていない。石にも、なれる。水にも、なれる。炎にも。ただ、そう決めてやる者が、いないだけだ。


 決めるには、観測が、要る。


 そして、観測には――強度が、要る。


 人の感情ほど、強く、偏った観測は、ない。怒り。憎悪。渇望。それらは、世界を、歪める。「そうであってほしい」と願うのでは、ない。「そうでなければ、承知しない」と、世界の首を、掴んで、揺さぶる。


 五つの環は、その歪みを、集めるための、漏斗だ。


 撃つ者の腹の底から、感情を、吸い上げ。環から環へ、送り、圧縮し、絞り込み。最後の環で、針の先ほどの一点にまで、煮詰める。そして、その一点の「意志」を、周囲の灰へ、叩きつける。


 灰は、逆らえない。


 あまりに強く、そう決めつけられたものは、そう、なるしかない。


 だから――燃える。


 弾では、ない。炎でも、ない。「燃えろ」と、決めつけられた、灰だ。


 美しい理屈だ、と思う。書き付けの上では。


 だが、実戦では、こうなる。


 ――感情が、切れる。


 人の腹に、無尽蔵の怒りなど、ない。撃てば、減る。撃ち続ければ、尽きる。尽きれば、環は、空回りし、灰は、ただの灰のまま、足元に、積もっている。


 しかも、質が、要る。生半可な苛立ちでは、環を、通らない。臓腑を灼くような、本物だけが、通る。


 つまり、この銃を撃ち続けられる兵とは。


 ――怒り続けられる兵、ということだ。


 軍は、そんなものを、量産できなかった。


 当然だ。人は、そんなふうには、できていない。


 だから、匙を、投げた。


 ――だが。


 ひとつだけ、誰にも、説明できないことが、ある。


 この銃を、誰が、作ったのか。


 軍の記録に、開発者の名が、ない。制式番号も、ない。ある日、倉庫に、数百挺、積まれていた。記録に残っているのは、それだけだ。


 五つの環に、あの渦を彫った者が、どこかに、いたはずだ。


 なのに――その名を、誰も、知らない。

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