生き残り-1
歩き出して、十歩で、それは、現れた。
灰の向こうから。ぬ、と。
人影が、三つ。
輪郭が、最初、はっきりしなかった。灰の粒子が、まとわりついているのか。それとも、輪郭そのものが、揺れているのか。
近づくにつれ、それは、明らかになった。
一体は、女だった。長い髪が、力なく、垂れている。歩くたび、その髪の先が、地面を、掃く。もう一体は、老人だった。腰が、大きく、傾いでいる。歩幅は、小さいのに、速度は、変わらなかった。まるで、傾いだまま、滑るように、進んでいるかのように。
最後の一体は――子供だった。
背丈は、ルキウスの腰にも、届かない。だが、その足取りだけは、他の二体と、まったく、同じ律動を、刻んでいた。
「――ッ!」
ルキウスは、反射的に、腰へ手を伸ばした。
空だ。
銃は、さっき、投げ捨てた。クラウスの頬に叩きつけて、そのまま、置いてきた。
武器が、ない。
「下がってろ」
アベルの声。その男は、もう、腕を、まくっていた。無数の名を刻んだ、あの腕を。
「――冗談だろ」
自分でも驚くほど、乾いた笑いが、漏れた。
「あんた、さっき、あれだけ還したばかりだろうが。まだ、立ってられんのか」
アベルは、答えない。
答える必要が、なかった。
答えは、目の前に、あった。
三体の祈骸が、三方から、じわりと、間合いを詰めてくる。折れた膝で。傾いだ首で。それぞれの口が、それぞれの祈りを、囁いている。
女の、涙の跡だけが、頬に、乾いて、残っていた。老人の、指の爪が、割れて、剥がれかけていた。子供は――笑って、いた。ずっと。
「あいたい」
「かえりたい」
「らくに、なりたい」
アベルの指が、一体目の黒い光を、覗き込む。
その、背後。
二体目が、手を、伸ばした。
――間に合わない。
そう思った。思って。
気づけば、走り出していた。
*
なぜ、走ったのか。
わからない。何度、問い直しても、わからなかった。
あの男は、赤の他人だった。名を聞いたばかりの、得体の知れない神父だ。灰の中を平然と歩き、化け物を名前で鎮める、明らかに、まともじゃない男。
助ける義理など、微塵も、なかった。
だが。
あのとき、頭にあったのは、たった一つの映像だった。
――クラウスの、最後の顔。
目尻を、微かに下げた、あの表情。
「わりぃ。金、返せなかったわ」
そう言っているみたいだった、あの、一瞬。
あれを、見せてくれた男が。
背中から化け物に触られて、笑いながら石になる?
――ふざけるな。
そんなことが、あってたまるか。
肩から、ぶつかった。
二体目。その、伸ばされた腕を、体ごと、押しのける。
軽い。
驚くほど、軽かった。
肉の感触が、ない。骨の手応えも、ない。まるで、着ぐるみの中身が、空っぽみたいに。
――そうか。
これは、肉じゃ、ないんだ。
人一人の、たった一つの、願いだ。
それは、こんなにも、軽い。
祈骸が、よろめいた。
黒い光が、こちらを、見た。
「……いっしょに」
手が、伸びる。今度は、俺へ。
「祈ろう」
――しまった。
押しのけるので、精一杯だった。次は、ない。あの指が、頬に触れれば、終わりだ。笑って、石になる。
誰も、名前を、刻んでくれない。
いや。
――刻んで、もらえる、のか。
あの男が、いる。
あの男なら、俺が石になっても、あの腕に、俺の名を、刻んでくれる。「ルキウス=レイン。第七街道警備隊、第三小隊。仲間を全員失って、それでも、まだ、歩こうとしていた男」と。そう、刻んでくれる。
そうしたら、俺は。
あのクラウスみたいに。
安らかに、灰に、なれるのか。
――楽に、なれるのか。
その考えが、頭を掠めた、瞬間。
全身の毛が、逆立った。
これだ。
これが、こいつらの、本当の武器だ。
触れて、殺すんじゃ、ない。
こいつらを、見ているだけで。
「楽になりたい」という、自分の中の、いちばん柔らかいところが。
――勝手に、疼き始める。
「ふ、ざけるな」
吼えた。自分自身に。
「ふざけるなよ、俺ァ、まだ――」
右手が、勝手に、動いていた。
腰の、後ろ。銃を差す場所とは、逆側。
そこに、ずっと、あった。抜いたことなど、一度も、なかった。
支給されて、三年。撃ち方すら、まともに教わっていない。
――灰火術式銃。
軍が「実用に耐えん」と匙を投げた、旧式の、欠陥品。
銃、と呼ぶには、あまりに、歪だった。
銃身が、異様に、短い。掌に収まるほどしか、ない。そのかわり、その先へ――五枚の、薄い鉄環が、径を細めながら、宙に、連なっている。環と環のあいだは、空だ。指を、通せる。覗けば、向こう側の景色が、そのまま、見える。いちばん先の、いちばん小さな環。それが、この銃の、銃口だった。
環の内側にだけ、びっしりと、術式が、彫り込まれている。
文字では、ない。図でも、ない。ひとつながりの、渦だ。外周から中心へ向かって、無限に、細かくなっていく。肉眼で追える限界を超えて、なお、続いているのが、わかる。彫った者は、どこで、やめたのか。
――あるいは、やめられなかったのか。
撃鉄だけが、不釣り合いに、大きい。
そして、この銃の、いちばん、いかれたところは。
薬室が、ない。
弾を、装填する場所が、どこにも、ないのだ。
術理は、こうだ。
この世界の、あらゆる存在は、揺らいでいる。灰もまた、例外では、ない。降り積もったこの灰は、かつて何かであったものの、なれの果て――「何かであったかもしれない」の、残滓だ。だから、灰は、まだ、決まっていない。石にも、なれる。水にも、なれる。炎にも。ただ、そう決めてやる者が、いないだけだ。
決めるには、観測が、要る。
そして、観測には――強度が、要る。
人の感情ほど、強く、偏った観測は、ない。怒り。憎悪。渇望。それらは、世界を、歪める。「そうであってほしい」と願うのでは、ない。「そうでなければ、承知しない」と、世界の首を、掴んで、揺さぶる。
五つの環は、その歪みを、集めるための、漏斗だ。
撃つ者の腹の底から、感情を、吸い上げ。環から環へ、送り、圧縮し、絞り込み。最後の環で、針の先ほどの一点にまで、煮詰める。そして、その一点の「意志」を、周囲の灰へ、叩きつける。
灰は、逆らえない。
あまりに強く、そう決めつけられたものは、そう、なるしかない。
だから――燃える。
弾では、ない。炎でも、ない。「燃えろ」と、決めつけられた、灰だ。
美しい理屈だ、と思う。書き付けの上では。
だが、実戦では、こうなる。
――感情が、切れる。
人の腹に、無尽蔵の怒りなど、ない。撃てば、減る。撃ち続ければ、尽きる。尽きれば、環は、空回りし、灰は、ただの灰のまま、足元に、積もっている。
しかも、質が、要る。生半可な苛立ちでは、環を、通らない。臓腑を灼くような、本物だけが、通る。
つまり、この銃を撃ち続けられる兵とは。
――怒り続けられる兵、ということだ。
軍は、そんなものを、量産できなかった。
当然だ。人は、そんなふうには、できていない。
だから、匙を、投げた。
――だが。
ひとつだけ、誰にも、説明できないことが、ある。
この銃を、誰が、作ったのか。
軍の記録に、開発者の名が、ない。制式番号も、ない。ある日、倉庫に、数百挺、積まれていた。記録に残っているのは、それだけだ。
五つの環に、あの渦を彫った者が、どこかに、いたはずだ。
なのに――その名を、誰も、知らない。




