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黒陽黙示録アベル ― RE:NEHEMOS  作者: 鉄川零


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1/13

プロローグ 白い祈り

 街は、まだ、燃えていなかった。


 燃える前の、姿のまま、止まっていた。


 崩れた家々が、月明かりに、灰色の、輪郭だけを、晒している。壁は残っているのに、屋根がない家。屋根は残っているのに、壁がない家。まるで、誰かが、この街を、無造作に、切り取っていったように。


 その、切り取られた断面から。


 時折、黒い、澱んだ光が、洩れていた。


 窓の奥。半開きの、扉の隙間。井戸の底。


 街のあちこちに、その光が、宿っていた。まるで、燐が、燃えているかのように。


 弾が、なかった。


 最後の一発を、撃ち尽くした。


 撃鉄が、(から)を噛む。


 かち。


 かち。


 それだけだった。


 ルキウス=レインは、その音を、ひどく遠くに、聞いた。


 目の前に、クラウスが、いた。


 昨日まで、隣で博打を打っていた男だ。借りた金を、一度も返さなかった。へらへら笑って、そのくせ、いざとなれば真っ先に前へ出る。どうしようもなく、いい奴だった。


 三日前も、そうだった。誰かが、汚染地帯の、偵察を、渋ったとき。クラウスだけが、手を、挙げた。「俺、身軽だから」と、笑いながら。その、身軽さで、何度、この部隊を、救ってきたか。


 その男が、こちらへ、歩いてくる。


 膝が、後ろに折れている。肘が、前に曲がっている。首は、ありえない角度に傾いで、それでも口の端は、幸福そうに吊り上がっていた。眼球のあるべきところに、黒い、澱んだ光が、灯っている。


 ――否。


 その理解は、正しくない。


 そう悟った瞬間、背筋が、凍った。


 気づかなければ、よかった。


 気づいてしまえば、もう、逃げられない。


 目の前にあるものは、死体では、なかった。


 死体とは、命の去ったあとの、静かな残骸のことを言う。それは無害で、それゆえに、悼むことができる。人が死者を弔えるのには、単純な理由がある。死者は、もう、こちらへ来ないからだ。


 だが、これは、来る。


 ――祈骸(きがい)


 肉体という容れ物を失い、なお、消滅を拒んだ、一片の執着。会いたかった。帰りたかった。楽になりたかった。人が最期に握りしめる、たった一つの願い。それだけが、宿主を失ってなお、この世界の隙間に引っかかり、独りでに、人の形を、求める。


 そして、その願いは、生者へと、感染する。


 なぜなら――それを聞く者もまた、心のいちばん奥底で、同じことを、願っているからだ。


 「一緒に……祈ろう」


 クラウスだったものが、手を、伸ばした。


 「楽になろう、ルキウス。もう、痛くない。おれたち、やっと、帰れるんだ」


 優しい声だった。


 悪意なんて、微塵もなかった。


 それが、何より、怖かった。


 その誘いに、頷いてしまいそうな、自分自身が。


 撃った。反射的に。


 かち。


 空だ。


 ――そうだ。弾は、もう、ない。


 いや。あったとして、同じことだ。


 鉛の玉で、人の未練が、殺せるものか。


 「クラウス、やめてくれ。頼む。来るな」


 「祈ろう」


 「来るなって、言ってんだろうがァッ!」


 伸ばされた指が。


 ルキウスの、頬に。


 触れる――



 その、寸前。


 「触れるな」


 声が、した。


 低く、静かで、なのに戦場の全部を断ち切って、耳の奥にまっすぐ届く声。


 その、一言だけで。


 伸ばされかけていた、クラウスの、指が。止まった。ルキウス自身の、心臓も、一瞬、止まったような、気がした。


 誰かの手が、襟を掴み、後ろへ引き倒す。


 尻餅をついた視界に、映ったのは。


 黒い、神父服の、背中だった。


 擦り切れて、灰にまみれた、古いやつ。背には、不釣り合いに大きな、黒い棺のようなものを、背負っている。


 その男の周りだけ。


 ――灰が、避けていた。


 揺れていた空気が、男を中心に、数歩の円の中だけ、ぴたりと凪いでいる。まるで、世界の方が、この男をどう扱えばいいのか、決めあぐねているみたいに。


 男が、腕を、まくった。


 剝き出しになった、その腕を見て。


 ルキウスは、息を、呑んだ。


 名前だった。


 腕に。


 びっしりと。


 無数の、名前が、刻まれていた。


 古い傷跡のように。だが、傷では、ない。文字だ。人の、名だ。手首から、肘へ、二の腕へ。数え切れない名が、幾重にも層を成して、肌を埋め尽くしている。


 まるで、墓地だ。


 この男の躯そのものが、歩く、墓地だった。


 「――お前は、クラウス」


 男が、言った。


 祈骸の、黒い光を、覗き込みながら。


 その指が、震えている。男の輪郭が、揺らいだ。滲んで、ちらついて、二重になった。まるで、祈骸と、同じように。どちらが化け物か、わからなくなるほどに。


 男は、何かに、耐えていた。


 歯を、食いしばって。


 押し寄せる何かに、必死に、耐えるように。


 「博打好きの、クラウス。借りた金は、返さなかった。だが、仲間の前でだけは、いつも笑ってやがった。お前は――もう一度、あいつらと、安酒を、飲みたかったんだな」


 そして、男は、自らの腕に、指を、這わせた。


 まだ、名の刻まれていない、わずかな余白へ。


 指先が、皮膚を、なぞる。


 その軌跡が――光った。


 文字が、焼きついていく。男自身の肌に。「クラウス」と。白く、灼けるような光で、その名が、刻まれる。


 その、瞬間。


 世界が、止まった。


 クラウスを中心に、半径数歩。ぶれの消えた、鮮明な、一枚の絵。


 そこに立っていたのは、化け物では、なかった。


 ただの、しがない、博打好きの傭兵。昨日までと、同じ顔で。


 クラウスが、こちらを見て。


 ――目尻を、微かに下げた。


 「わりぃ。金、返せなかったわ」


 とでも、言うように。


 そして、崩れた。


 黒い灰へ。静止した空気の中を、その一片一片が、ゆっくりと、落ちていく。


 最後の灰が、地に触れた瞬間。


 男の腕で、刻まれたばかりの「クラウス」の名が、す、と、光を収めた。


 もう、消えない。その躯に。永遠に。


 ――一人、増えた。


 ルキウスには、そう見えた。この男が背負う、死者が。また一人。



 だが。


 今日は、多すぎた。


 灰の向こうから、次々と、湧いて出た。十。二十。数えるのを、やめた。


 湧く、という言葉が、正しかった。


 地面が、孕んでいた。積もった灰が、あちこちで、内側から、押し上げられる。ぼこり、と。膿んだ皮膚が、破れるように。そこから、まず、指が出た。次に、肘が。膝が。順番が、でたらめだった。人体の、組み立て方を、忘れた者が、思い出しながら、組んでいるみたいに。


 立ち上がった、その、どれもが。


 笑って、いた。


 顔の造作は、ばらばらだ。男。女。老人。まだ、背の低い、子供の形をしたものまで。なのに、口の端の、吊り上がる角度だけが。全部、同じだった。まるで、同じ型で、押したように。


 眼窩に灯った黒い光が、一斉に、こちらを、向く。


 百の、澱んだ、瞳。


 そして、囁きが、重なった。


 「あいたい」「かえりたい」「らくになりたい」「あいたい」「あいたい」「かえりたい」――


 ずれた、輪唱のように。


 ひとつひとつは、小さい。ささやかな、たった一つの願い。だが、それが百も重なると、もう、意味を成さなかった。ただの、地鳴りだ。低く、腹の底を、揺さぶる、祈りの、地鳴り。


 灰が、その音圧に、細かく、跳ねていた。


 一体を刻む間に、三体が近づく。三体を刻む間に、十体が囲む。


 男が名を刻む速度より、滅びが満ちる速度の方が、速い。


 「――間に合わないぞ、あんた!」


 ルキウスは、叫んでいた。


 男は、答えない。


 ただ、背の棺に、手を、かけた。


 「……借りる」


 呟いた。誰に、ともなく。


 あるいは――その躯に眠る、無数の、死者たちに。


 「お前たちの名を、借りる」


 腕の名が、光った。


 胸の名が。背の、無数の名が。


 これまで刻んできた、すべての死者の名が、一斉に、灼熱した。


 墓地が、燃え上がる。


 そして、棺が――割れた。


 中から、一本の、黒い槍が、(ほとばし)り出る。


 その穂先へ、溢れた死者の名が、光の奔流となって、注ぎ込まれていく。名も知らぬ、幾千の死者が。百年分の、墓地が。みな、光の粒子となって、槍に、宿る。


 男が、槍を、握った。


 振るう。


 ――刹那。


 空間に、文字が、(はし)った。


 白い、光の文字。男が刻んできた、死者の名だ。それが、宙に、無数に、書き起こされる。祈骸の群れの、周囲に、頭上に、足元に。


 名が、名を、呼ぶ。


 光の文字が、繋がっていく。一つの名の終わりが、次の名の始まりへ。数珠つなぎに。


 ――鎖に、なった。


 死者の名で編まれた、光の鎖。


 それが、蛇のように奔り、数十体の祈骸を、一斉に、(から)め捕った。


 手足に。首に。胴に。


 巻きついて。締め上げて。


 ――縫い、止める。


 祈骸が、暴れる。だが、動けない。名の鎖が、その揺らぎを、許さない。ぶれることを。形を変えることを。逃げることを。


 だが。


 鎖は、止めただけだ。


 縛り、繋ぎ止めた。それだけ。


 弔いは――まだ、だ。


 男が、握った槍を。


 ――天へ、掲げた。


 その穂先で、無数の死者の名が、灼熱し、光の柱となって、灰の空を、貫いた。


 鎖に縛められた祈骸たちが、一斉に、その光を、仰ぐ。


 そして、男は。


 名を、呼んだ。


 「テオ=ブラント」


 「イルゼ=マイア」


 「ハンナ=ロート」


 ひとつ。


 またひとつ。


 鎖に縛めた、その一体、一体へ。


 声が、灰の戦場に、響いていく。低く。途切れず。祈りのように。


 「――ヨナス。エミル。ステファン=ヴァイク。名も、告げられなかった、そこの、お前――いや」


 男の声が、一瞬、掠れた。


 「……ルカ。お前の名は、ルカだ」


 呼ばれるたび。


 縛られた祈骸が、ひとつずつ。


 ――人間の顔を、取り戻していく。


 みな、それぞれの顔で。それぞれの、最期の願いを、抱いた顔で。ある者は泣き、ある者は笑い、ある者は、ただ、安堵の息を、吐いて。


 光の鎖が、ほどけていく。役目を、終えて。


 もう、縛る必要は、ない。


 彼らは、もう、揺らがない。


 名を、呼ばれたから。自分が、確かに、いたと、知ったから。


 一体、また一体と。


 安らかに。


 灰へ、還っていった。


 最後の一片が、地に、触れる。


 光の鎖の、最後の一環が、粒子となって、消えた。


 あとに残ったのは、静寂と、降りしきる、灰と。


 槍を掲げたまま、灰の空を見上げる、一人の、神父だけだった。


 ルキウスは、その光景を、ただ、見ていた。


 男が百年かけて弔った、無数の死者の力で。いま、新たな数十の魂が、還っていく。


 ――死者が、死者を、弔っている。


 尻餅をついたまま、なぜか、涙が、出た。


 この世界に来て、初めて。


 「正しいもの」を、見た気が、した。



 やがて、戦場は、静まり返った。


 灰が、降っていた。


 音もなく。ゆっくりと。まるで、何事もなかったかのように。


 崩れた家々の、輪郭が、月明かりの下に、また、浮かび上がっていた。壁だけの家。屋根だけの家。その、いずれの窓からも、もう、黒い光は、洩れていない。


 街は、ただの、廃墟に、戻っていた。


 どこにでも、あるような。誰も、覚えていないような。


 男が、槍を、棺へ戻す。


 全身の光が、収まっていく。あとには、無数の名を刻まれた、ただの、灰まみれの神父が、残った。


 「歩けるか」


 男が、初めて、ルキウスを見て、それだけを訊いた。


 ――そこで、初めて。


 ルキウスは、この男の、顔を、見た。


 若い、のか。年寄りなのか。わからなかった。


 肌が、白い。灰にまみれてなお、その下の色が、蝋のように、白い。血の気が、薄い。だが、死人の白さとも、違った。もっと――使われていない、白さだ。陽に、灼かれたことのない。何十年も、この灰の下だけを、歩いてきた者の。


 髪も、色を、失っていた。銀とも、灰ともつかない。灰が積もっているのか、もとから、そうなのか。見分けが、つかない。


 目だけが、灰色に、静かだった。


 凪いでいる、と思った。


 だが、次の瞬間、ルキウスは、その印象を、撤回した。


 凪いでいるのでは、ない。


 ――何も、映していないのだ。


 いま、たった今、数十の魂を、還したばかりだというのに。その目には、達成も、疲労も、悲しみも、何ひとつ、浮かんでいなかった。まるで、水を、注いでも、注いでも、底の抜けた器のように。


 美しい顔だ、と。


 場違いにも、そう、思った。


 整っている、という意味では、ない。そうではなく――削られている。余計なものが、何ひとつ、残っていない。喜怒哀楽が、長い時間をかけて、風化して、こそげ落ちた、あとの顔。


 彫像に、似ていた。


 誰かが、祈るために彫って、そして、忘れ去った、古い聖人像に。


 「……あんた」


 ルキウスは、震える声で、問うた。


 「その腕の、名前は。……全部、あんたが、弔った奴らか」


 男は、答えない。


 ただ、まくった袖を、静かに、戻した。無数の死者を、覆い隠すように。


 「アベル=レギス」


 背の棺を、負い直す。


 「世界最後の、弔い人だ」


 男が、歩き出す。


 誰も歩けない灰の中を、一人だけ、歩ける男として。


 その、背を追いながら。


 ルキウスは、まだ、震えていた。


 あの、腕。あの、無数の、名前。


 いったい、何人を、弔えば。人の躯は、あんなに、墓地になるのか。


 いったい、何年――いや。


 背筋を、冷たいものが、這った。


 あの数は。


 一人の人間が、一生かけて、弔えるような。


 数では、なかった。


(プロローグ 了)

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