プロローグ 白い祈り
街は、まだ、燃えていなかった。
燃える前の、姿のまま、止まっていた。
崩れた家々が、月明かりに、灰色の、輪郭だけを、晒している。壁は残っているのに、屋根がない家。屋根は残っているのに、壁がない家。まるで、誰かが、この街を、無造作に、切り取っていったように。
その、切り取られた断面から。
時折、黒い、澱んだ光が、洩れていた。
窓の奥。半開きの、扉の隙間。井戸の底。
街のあちこちに、その光が、宿っていた。まるで、燐が、燃えているかのように。
弾が、なかった。
最後の一発を、撃ち尽くした。
撃鉄が、空を噛む。
かち。
かち。
それだけだった。
ルキウス=レインは、その音を、ひどく遠くに、聞いた。
目の前に、クラウスが、いた。
昨日まで、隣で博打を打っていた男だ。借りた金を、一度も返さなかった。へらへら笑って、そのくせ、いざとなれば真っ先に前へ出る。どうしようもなく、いい奴だった。
三日前も、そうだった。誰かが、汚染地帯の、偵察を、渋ったとき。クラウスだけが、手を、挙げた。「俺、身軽だから」と、笑いながら。その、身軽さで、何度、この部隊を、救ってきたか。
その男が、こちらへ、歩いてくる。
膝が、後ろに折れている。肘が、前に曲がっている。首は、ありえない角度に傾いで、それでも口の端は、幸福そうに吊り上がっていた。眼球のあるべきところに、黒い、澱んだ光が、灯っている。
――否。
その理解は、正しくない。
そう悟った瞬間、背筋が、凍った。
気づかなければ、よかった。
気づいてしまえば、もう、逃げられない。
目の前にあるものは、死体では、なかった。
死体とは、命の去ったあとの、静かな残骸のことを言う。それは無害で、それゆえに、悼むことができる。人が死者を弔えるのには、単純な理由がある。死者は、もう、こちらへ来ないからだ。
だが、これは、来る。
――祈骸。
肉体という容れ物を失い、なお、消滅を拒んだ、一片の執着。会いたかった。帰りたかった。楽になりたかった。人が最期に握りしめる、たった一つの願い。それだけが、宿主を失ってなお、この世界の隙間に引っかかり、独りでに、人の形を、求める。
そして、その願いは、生者へと、感染する。
なぜなら――それを聞く者もまた、心のいちばん奥底で、同じことを、願っているからだ。
「一緒に……祈ろう」
クラウスだったものが、手を、伸ばした。
「楽になろう、ルキウス。もう、痛くない。おれたち、やっと、帰れるんだ」
優しい声だった。
悪意なんて、微塵もなかった。
それが、何より、怖かった。
その誘いに、頷いてしまいそうな、自分自身が。
撃った。反射的に。
かち。
空だ。
――そうだ。弾は、もう、ない。
いや。あったとして、同じことだ。
鉛の玉で、人の未練が、殺せるものか。
「クラウス、やめてくれ。頼む。来るな」
「祈ろう」
「来るなって、言ってんだろうがァッ!」
伸ばされた指が。
ルキウスの、頬に。
触れる――
*
その、寸前。
「触れるな」
声が、した。
低く、静かで、なのに戦場の全部を断ち切って、耳の奥にまっすぐ届く声。
その、一言だけで。
伸ばされかけていた、クラウスの、指が。止まった。ルキウス自身の、心臓も、一瞬、止まったような、気がした。
誰かの手が、襟を掴み、後ろへ引き倒す。
尻餅をついた視界に、映ったのは。
黒い、神父服の、背中だった。
擦り切れて、灰にまみれた、古いやつ。背には、不釣り合いに大きな、黒い棺のようなものを、背負っている。
その男の周りだけ。
――灰が、避けていた。
揺れていた空気が、男を中心に、数歩の円の中だけ、ぴたりと凪いでいる。まるで、世界の方が、この男をどう扱えばいいのか、決めあぐねているみたいに。
男が、腕を、まくった。
剝き出しになった、その腕を見て。
ルキウスは、息を、呑んだ。
名前だった。
腕に。
びっしりと。
無数の、名前が、刻まれていた。
古い傷跡のように。だが、傷では、ない。文字だ。人の、名だ。手首から、肘へ、二の腕へ。数え切れない名が、幾重にも層を成して、肌を埋め尽くしている。
まるで、墓地だ。
この男の躯そのものが、歩く、墓地だった。
「――お前は、クラウス」
男が、言った。
祈骸の、黒い光を、覗き込みながら。
その指が、震えている。男の輪郭が、揺らいだ。滲んで、ちらついて、二重になった。まるで、祈骸と、同じように。どちらが化け物か、わからなくなるほどに。
男は、何かに、耐えていた。
歯を、食いしばって。
押し寄せる何かに、必死に、耐えるように。
「博打好きの、クラウス。借りた金は、返さなかった。だが、仲間の前でだけは、いつも笑ってやがった。お前は――もう一度、あいつらと、安酒を、飲みたかったんだな」
そして、男は、自らの腕に、指を、這わせた。
まだ、名の刻まれていない、わずかな余白へ。
指先が、皮膚を、なぞる。
その軌跡が――光った。
文字が、焼きついていく。男自身の肌に。「クラウス」と。白く、灼けるような光で、その名が、刻まれる。
その、瞬間。
世界が、止まった。
クラウスを中心に、半径数歩。ぶれの消えた、鮮明な、一枚の絵。
そこに立っていたのは、化け物では、なかった。
ただの、しがない、博打好きの傭兵。昨日までと、同じ顔で。
クラウスが、こちらを見て。
――目尻を、微かに下げた。
「わりぃ。金、返せなかったわ」
とでも、言うように。
そして、崩れた。
黒い灰へ。静止した空気の中を、その一片一片が、ゆっくりと、落ちていく。
最後の灰が、地に触れた瞬間。
男の腕で、刻まれたばかりの「クラウス」の名が、す、と、光を収めた。
もう、消えない。その躯に。永遠に。
――一人、増えた。
ルキウスには、そう見えた。この男が背負う、死者が。また一人。
*
だが。
今日は、多すぎた。
灰の向こうから、次々と、湧いて出た。十。二十。数えるのを、やめた。
湧く、という言葉が、正しかった。
地面が、孕んでいた。積もった灰が、あちこちで、内側から、押し上げられる。ぼこり、と。膿んだ皮膚が、破れるように。そこから、まず、指が出た。次に、肘が。膝が。順番が、でたらめだった。人体の、組み立て方を、忘れた者が、思い出しながら、組んでいるみたいに。
立ち上がった、その、どれもが。
笑って、いた。
顔の造作は、ばらばらだ。男。女。老人。まだ、背の低い、子供の形をしたものまで。なのに、口の端の、吊り上がる角度だけが。全部、同じだった。まるで、同じ型で、押したように。
眼窩に灯った黒い光が、一斉に、こちらを、向く。
百の、澱んだ、瞳。
そして、囁きが、重なった。
「あいたい」「かえりたい」「らくになりたい」「あいたい」「あいたい」「かえりたい」――
ずれた、輪唱のように。
ひとつひとつは、小さい。ささやかな、たった一つの願い。だが、それが百も重なると、もう、意味を成さなかった。ただの、地鳴りだ。低く、腹の底を、揺さぶる、祈りの、地鳴り。
灰が、その音圧に、細かく、跳ねていた。
一体を刻む間に、三体が近づく。三体を刻む間に、十体が囲む。
男が名を刻む速度より、滅びが満ちる速度の方が、速い。
「――間に合わないぞ、あんた!」
ルキウスは、叫んでいた。
男は、答えない。
ただ、背の棺に、手を、かけた。
「……借りる」
呟いた。誰に、ともなく。
あるいは――その躯に眠る、無数の、死者たちに。
「お前たちの名を、借りる」
腕の名が、光った。
胸の名が。背の、無数の名が。
これまで刻んできた、すべての死者の名が、一斉に、灼熱した。
墓地が、燃え上がる。
そして、棺が――割れた。
中から、一本の、黒い槍が、迸り出る。
その穂先へ、溢れた死者の名が、光の奔流となって、注ぎ込まれていく。名も知らぬ、幾千の死者が。百年分の、墓地が。みな、光の粒子となって、槍に、宿る。
男が、槍を、握った。
振るう。
――刹那。
空間に、文字が、奔った。
白い、光の文字。男が刻んできた、死者の名だ。それが、宙に、無数に、書き起こされる。祈骸の群れの、周囲に、頭上に、足元に。
名が、名を、呼ぶ。
光の文字が、繋がっていく。一つの名の終わりが、次の名の始まりへ。数珠つなぎに。
――鎖に、なった。
死者の名で編まれた、光の鎖。
それが、蛇のように奔り、数十体の祈骸を、一斉に、搦め捕った。
手足に。首に。胴に。
巻きついて。締め上げて。
――縫い、止める。
祈骸が、暴れる。だが、動けない。名の鎖が、その揺らぎを、許さない。ぶれることを。形を変えることを。逃げることを。
だが。
鎖は、止めただけだ。
縛り、繋ぎ止めた。それだけ。
弔いは――まだ、だ。
男が、握った槍を。
――天へ、掲げた。
その穂先で、無数の死者の名が、灼熱し、光の柱となって、灰の空を、貫いた。
鎖に縛められた祈骸たちが、一斉に、その光を、仰ぐ。
そして、男は。
名を、呼んだ。
「テオ=ブラント」
「イルゼ=マイア」
「ハンナ=ロート」
ひとつ。
またひとつ。
鎖に縛めた、その一体、一体へ。
声が、灰の戦場に、響いていく。低く。途切れず。祈りのように。
「――ヨナス。エミル。ステファン=ヴァイク。名も、告げられなかった、そこの、お前――いや」
男の声が、一瞬、掠れた。
「……ルカ。お前の名は、ルカだ」
呼ばれるたび。
縛られた祈骸が、ひとつずつ。
――人間の顔を、取り戻していく。
みな、それぞれの顔で。それぞれの、最期の願いを、抱いた顔で。ある者は泣き、ある者は笑い、ある者は、ただ、安堵の息を、吐いて。
光の鎖が、ほどけていく。役目を、終えて。
もう、縛る必要は、ない。
彼らは、もう、揺らがない。
名を、呼ばれたから。自分が、確かに、いたと、知ったから。
一体、また一体と。
安らかに。
灰へ、還っていった。
最後の一片が、地に、触れる。
光の鎖の、最後の一環が、粒子となって、消えた。
あとに残ったのは、静寂と、降りしきる、灰と。
槍を掲げたまま、灰の空を見上げる、一人の、神父だけだった。
ルキウスは、その光景を、ただ、見ていた。
男が百年かけて弔った、無数の死者の力で。いま、新たな数十の魂が、還っていく。
――死者が、死者を、弔っている。
尻餅をついたまま、なぜか、涙が、出た。
この世界に来て、初めて。
「正しいもの」を、見た気が、した。
*
やがて、戦場は、静まり返った。
灰が、降っていた。
音もなく。ゆっくりと。まるで、何事もなかったかのように。
崩れた家々の、輪郭が、月明かりの下に、また、浮かび上がっていた。壁だけの家。屋根だけの家。その、いずれの窓からも、もう、黒い光は、洩れていない。
街は、ただの、廃墟に、戻っていた。
どこにでも、あるような。誰も、覚えていないような。
男が、槍を、棺へ戻す。
全身の光が、収まっていく。あとには、無数の名を刻まれた、ただの、灰まみれの神父が、残った。
「歩けるか」
男が、初めて、ルキウスを見て、それだけを訊いた。
――そこで、初めて。
ルキウスは、この男の、顔を、見た。
若い、のか。年寄りなのか。わからなかった。
肌が、白い。灰にまみれてなお、その下の色が、蝋のように、白い。血の気が、薄い。だが、死人の白さとも、違った。もっと――使われていない、白さだ。陽に、灼かれたことのない。何十年も、この灰の下だけを、歩いてきた者の。
髪も、色を、失っていた。銀とも、灰ともつかない。灰が積もっているのか、もとから、そうなのか。見分けが、つかない。
目だけが、灰色に、静かだった。
凪いでいる、と思った。
だが、次の瞬間、ルキウスは、その印象を、撤回した。
凪いでいるのでは、ない。
――何も、映していないのだ。
いま、たった今、数十の魂を、還したばかりだというのに。その目には、達成も、疲労も、悲しみも、何ひとつ、浮かんでいなかった。まるで、水を、注いでも、注いでも、底の抜けた器のように。
美しい顔だ、と。
場違いにも、そう、思った。
整っている、という意味では、ない。そうではなく――削られている。余計なものが、何ひとつ、残っていない。喜怒哀楽が、長い時間をかけて、風化して、こそげ落ちた、あとの顔。
彫像に、似ていた。
誰かが、祈るために彫って、そして、忘れ去った、古い聖人像に。
「……あんた」
ルキウスは、震える声で、問うた。
「その腕の、名前は。……全部、あんたが、弔った奴らか」
男は、答えない。
ただ、まくった袖を、静かに、戻した。無数の死者を、覆い隠すように。
「アベル=レギス」
背の棺を、負い直す。
「世界最後の、弔い人だ」
男が、歩き出す。
誰も歩けない灰の中を、一人だけ、歩ける男として。
その、背を追いながら。
ルキウスは、まだ、震えていた。
あの、腕。あの、無数の、名前。
いったい、何人を、弔えば。人の躯は、あんなに、墓地になるのか。
いったい、何年――いや。
背筋を、冷たいものが、這った。
あの数は。
一人の人間が、一生かけて、弔えるような。
数では、なかった。
(プロローグ 了)




