第八章 郷土資料棚の白狐
月曜日の図書室は、いつもより静かだった。
放課後になっても、部活動へ向かう声は廊下の向こうで遠く響いているだけで、図書室の中まではあまり届かない。窓から差し込む午後の光が、閲覧机の上に長く伸びている。棚と棚の間には、紙と埃と木の匂いが薄く漂っていた。
真堂輝は、貸出カウンターの前で腕を組んでいた。
顔は真剣だった。
少なくとも本人は、真剣な顔をしているつもりだった。
「……よし」
小さく気合いを入れる。
図書委員になってから、まだ大した仕事はしていない。
というより、新しい管理人である玉城琥珀が「無理に当番に入らなくていい」と言ったせいで、図書委員としての役目はかなり軽くなっている。
だが今日は違う。
輝には目的があった。
小春神社のことを調べる。
焼けた御神木のことを調べる。
椛のことを調べる。
そして、白狐のことも調べる。
ただし、騒がない。
面白がりすぎない。
勝手に妖怪だ神様だと決めつけない。
輝は朝から、何度もそう自分に言い聞かせていた。
昨夜、椛に「迷惑なら出ていく」と言わせてしまった。
あの時の声を思い出すと、胸の奥がまだ少し痛くなる。
椛は小さくて、よく泣いて、でも笑うと本当に子どもみたいで、神様か妖怪か何かはまだわからない。
わからない。
だからこそ、決めつけない。
輝はそう思っていた。
思っていたのだが。
「真堂くん」
背後から声がした。
「うおっ!?」
輝は肩を跳ねさせて振り向いた。
星川未空が立っていた。
いつものように静かで、足音がほとんどしない。手には薄いノートと筆箱を持っている。放課後の光の中で、未空の黒髪は少し青みがかって見えた。
「びっくりした……」
「大きい声」
「いや、今のは星川さんが忍者みたいに近づくからだろ」
「普通に歩いた」
「普通って何だっけ」
輝は胸を押さえながら息を吐く。
未空は気にした様子もなく、カウンターの上にノートを置いた。
「調べるんでしょ」
「おう」
「小春神社」
「あと御神木と、楓川と、白狐……は、まあ、慎重に」
最後だけ声が少し小さくなる。
未空は輝を見た。
「慎重に?」
「うん。オレ、すぐ騒ぐから」
「自覚あるんだ」
「昨日からできた」
「そう」
未空は少しだけ目を細めた。
笑ったのかどうかはわからない。
ただ、輝には少しだけ安心されたように見えた。
そこへ、奥のカウンターの影から、柔らかい声がした。
「二人とも、来てくれたんだね」
玉城琥珀だった。
いつからそこにいたのか、輝にはわからなかった。
銀色がかった長い髪を後ろでゆるく束ね、白いシャツに淡いグレーのカーディガンを羽織っている。姿勢は自然で、笑みは穏やか。図書室の空気に溶け込みすぎていて、最初から本棚の一部だったと言われても、少し信じてしまいそうだった。
輝は少し身構えた。
琥珀は前に会った時と同じように穏やかだ。
だが、未空は彼の背後に白い尾のような影を見たと言っていた。
それを思い出すと、ただの図書室管理人として見るには、少し難しい。
「こんにちは、玉城さん」
未空が先に挨拶する。
琥珀はにこりと笑った。
「こんにちは、星川さん。真堂くんも」
「ど、どうも」
輝は少しぎこちなく頭を下げた。
琥珀はそれを見て、楽しそうに目を細める。
「今日は静かだね」
「オレ、いつも静かですよ」
「そうだったかな」
「そうです」
未空が横から言う。
「違う」
「星川さん!?」
未空は淡々としていた。
琥珀は声を立てずに笑う。
「それで、今日は何を調べに?」
未空が答えた。
「小春神社の郷土資料を見たいです」
琥珀の笑みが、ほんのわずかに深くなった。
「小春神社」
「はい」
「昨日、行ったのかな」
輝が眉を上げる。
「知ってるんですか?」
「小春神社の御神木は今、立入禁止になっているからね。最近、そのことを調べに来る人が少し増えている」
「白狐火災の動画のせいですか?」
「それもあるだろうね」
琥珀は穏やかに言った。
「人は、燃えたものを見に行きたがる。見えている火が消えても、噂の火はなかなか消えない」
その言い方が、輝の耳に引っかかった。
噂の火。
白狐火災の動画を何度も見返していた自分を思い出す。
画面の中の炎。
コメント欄に並ぶ言葉。
面白がっていた自分。
輝は少しだけ口を閉じた。
琥珀は二人の反応を見ていたが、すぐにいつもの柔らかい声へ戻った。
「郷土資料なら、奥の棚だよ。古いものもあるから、扱いには気をつけて。手伝おうか」
「お願いします」
未空が答える。
輝も頷いた。
「お願いします」
琥珀はカウンターから出て、奥の書架へ歩いていく。
図書室の奥。
普段の生徒があまり近づかない場所。
棚の上には、小さな紙札が貼られていた。
郷土資料。
その文字だけで、空気が少し古くなる気がした。
棚には、分厚い市史、薄い冊子、古い新聞の縮刷版、地図、学校の記念誌、町内会が作ったらしい手書きに近い資料などが並んでいる。背表紙の色は焼け、紙は黄ばんでいるものが多かった。
琥珀は迷いなく数冊を抜き出した。
「まずは、このあたりかな。『小春市郷土史 楓川流域編』『楓川治水と川鎮めの記録』『小春神社縁起抄』『楓祭り保存会資料』。それから……」
少しだけ指が止まる。
「白狐についてなら、これも」
琥珀が抜き出したのは、薄い冊子だった。
表紙には、墨で書いたような文字がある。
『白狐異聞』
輝の胸が跳ねた。
白狐。
喉元まで「やっぱりあった!」という声が出かかった。
しかし、その瞬間、椛の顔が浮かんだ。
迷惑なら出ていく。
小さな声。
椛は、面白い怪談の登場人物ではない。
輝は言葉を飲み込んだ。
代わりに、少しだけ拳を握る。
「……それも、見せてもらっていいですか」
自分でも驚くくらい、声が落ち着いていた。
琥珀が輝を見る。
薄い琥珀色の瞳が、少しだけ楽しそうに揺れた。
「もちろん」
閲覧机に、資料が並べられた。
輝と未空は向かい合って座る。
琥珀は少し離れた席に腰を下ろした。手伝うと言いながら、二人が読むのを眺めているようにも見える。
輝はまず、『楓川治水と川鎮めの記録』を開いた。
古い紙の匂いが立つ。
ページには、楓川の古い地図が載っていた。
今よりずっと曲がりくねった川筋。
川沿いの田畑。
小さな集落。
そして、小春神社の位置。
「昔の楓川って、こんなに蛇行してたのか」
輝が小さく呟く。
未空が横から地図を見る。
「今は護岸されてる」
「昔は氾濫してたって書いてあるな。えーっと……『楓川は古くより小春郷の田畑を潤す一方、たびたび大水をもたらした。特に旧暦八月から九月にかけての大雨では、川沿いの村々に被害が出たとされる』」
輝は読んでから、椛が神社で見た記憶を思い出した。
黒く濁った水。
神社へ駆け込む人々。
御神木に結ばれた願い。
「これ、椛が見たやつと似てるよな」
未空は頷く。
「うん」
輝は続きを読む。
「『水難を鎮めるため、小春神社では川鎮めの祭が行われた。村人は楓の葉を御神木へ結び、川守りの神へ祈りを捧げた』」
「川守りの神」
未空が繰り返す。
「椛のことかな」
輝は言いかけて、少しだけ止まった。
断言しない。
決めつけない。
「……かもしれない」
未空は、その間に気づいたように輝を見た。
「慎重」
「努力してる」
「いいと思う」
「星川さんに褒められた」
「褒めたかはわからない」
「そこは褒めたってことでいいだろ」
輝が少しだけ笑う。
琥珀は二人のやり取りを見ていた。
笑みは穏やかだったが、その奥で何を考えているのかは読めない。
未空は別の冊子を開いた。
『小春神社縁起抄』
表紙の裏には、手書きの文字を活字に起こしたような文章が並んでいる。
未空は静かに読み進めた。
「小春神社は、楓川の流域を守る古い社。創建年は不詳。御神木は大楓。川の氾濫を鎮め、子どもの病を守る神を祀ったとされる」
「子どもの病?」
輝が顔を上げる。
「椛、子どもたちの笑い声を聞いたって言ってたよな」
「うん」
未空は続ける。
「祭神名は、資料によって違う」
そこに、いくつかの呼び名が並んでいた。
小春さま。
楓さま。
川守りの神。
子守りの神。
楓川の姫神。
御神木さま。
輝は眉をひそめる。
「多くないか?」
「多い」
「神様の名前って、こんなにばらばらになるものなのか?」
「地方の伝承なら、表記ゆれや呼び方の違いはあると思う」
未空はページをめくる。
「でも」
「でも?」
「椛がない」
その一言で、輝は黙った。
未空は資料を指でたどる。
小春さま。
楓さま。
川守りの神。
子守りの神。
どの呼び名も、椛と関係がありそうに見える。
楓。
川。
子ども。
御神木。
けれど、椛という名前だけがない。
「おかしいのか?」
輝が聞く。
未空は少し考えた。
「名前だけ、抜けている感じがする」
「抜けてる?」
「最初からなかったんじゃなくて、あった場所が白くなってるみたい」
輝は資料を覗き込んだ。
文字は普通に印刷されている。空白があるわけではない。紙が破れているわけでもない。
けれど、未空の言い方を聞いてから見ると、確かにどこか落ち着かない。
川を守る神。
子どもを守る神。
大楓の御神木に宿る神。
そこまで書かれているのに、肝心の名前だけがない。
まるで、誰かがその名を避けるように、別の呼び方ばかりを残したようだった。
「椛は、自分の名前だけ覚えてた」
輝が言った。
「お兄ちゃんのことも、神社のことも、自分が何なのかもわからないのに、名前だけは覚えてた」
「うん」
「でも、資料にはない」
「うん」
「何だよ、それ」
輝の声に、少しだけ苛立ちが混じった。
椛は覚えている。
けれど町は覚えていない。
そんなふうに思えてしまった。
琥珀が静かに言った。
「名前は、よく失われる」
二人が顔を上げる。
琥珀は資料の背表紙に指を置いていた。
「古い神様の名前は、土地によって変わる。人によって呼び方も変わる。時代が変われば、漢字も変わる。時には、呼んではいけないものとして避けられることもある。時には、単に誰も呼ばなくなる」
声は穏やかだった。
だからこそ、輝には少し怖く聞こえた。
「誰も呼ばなくなると、どうなるんですか」
自分でも、なぜそんな質問をしたのかわからなかった。
琥珀は、少しだけ笑った。
「忘れられる」
短い答えだった。
「人間は、名前を忘れるのが得意だからね」
その言葉は、図書室の奥に静かに落ちた。
輝はすぐに返事ができなかった。
人間は、名前を忘れるのが得意。
それは、ただの一般論に聞こえる。
けれど、琥珀の声には、妙な重みがあった。
誰かを責めているようで。
誰かを諦めているようで。
それでも、まだ怒っているようで。
未空は、琥珀を見ていた。
彼の背後。
窓から差し込む光の中に、赤い揺らぎが見えた。
炎ではない。
灯りでもない。
狐火。
そんな言葉が浮かぶ。
赤い火の粉のようなものが、琥珀の肩越しに揺れ、すぐに消える。また現れる。まるで、彼の影の中で何かが静かに息をしているようだった。
未空は目を細める。
琥珀はその視線に気づいたように、未空を見た。
「何か見える?」
柔らかい声。
未空は答えなかった。
輝が未空を見る。
「星川さん?」
「……何でもない」
「本当に?」
「今は、わからない」
未空は視線を資料へ戻した。
琥珀はそれ以上追及しなかった。
次に開いたのは、『楓祭り保存会資料』だった。
保存会といっても、今では活動していないらしい。資料も古く、ページの端に手書きのメモが残っている。
そこには、秋に行われていた祭りのことが書かれていた。
御神木が紅葉する頃、子どもたちは楓の葉を拾い、小さな紙灯籠と一緒に楓川へ流す。
川へ一年の無事を返す。
水に連れていかれたものを慰める。
子どもの健やかな成長を祈る。
祭りの最後には、小春神社で鈴を鳴らし、御神木の前で名を呼ぶ。
「名を呼ぶ?」
輝が身を乗り出す。
未空が文章を指でたどる。
「『古くは祭神の名を三度唱え、楓の葉を奉じたと伝わる』」
「祭神の名って」
「その後が読めない」
「消えてる?」
「消えてはいない」
未空は資料を輝へ向けた。
そこには確かに文章が印刷されていた。
だが、祭神名が入るはずの場所だけ、奇妙にぼやけて見える。
文字があるようで、ない。
墨が薄いわけでも、印刷がかすれているわけでもない。
目で追おうとすると、視線が滑る。
頭の中で音にならない。
「何だこれ」
輝は目をこすった。
「読めそうで読めない」
「うん」
未空の声が少しだけ低くなる。
「名前だけ、読めない」
輝は背筋が冷えるのを感じた。
資料が古いからではない。
印刷の問題でもない。
そこには、何かがあった。
あったはずのものが、なくなっている。
誰かの名前が、抜け落ちている。
椛。
輝は、心の中でその名前を呼んだ。
すると、読めなかった文字のあたりが、ほんの一瞬だけ赤く滲んだように見えた。
「今……」
「見えた?」
未空が聞く。
「何か、赤く」
「楓の葉みたいだった」
「やっぱり見えたんだな」
輝の声が少し震えた。
怖いというより、腹の底がざわつく。
資料の中でまで、椛の名前は消えている。
それがどういうことなのか、まだわからない。
けれど、良いことではない。
それだけはわかった。
琥珀は、静かに二人を見ていた。
口元には穏やかな笑み。
しかしその瞳は、少しだけ遠くを見ている。
「小春市には、忘れられたものが多い」
琥珀が言う。
「古い川筋。昔の祭り。使われなくなった道。閉まったままの商店。誰も掃かない石段。人が来なくなった神社」
輝は黙って聞く。
「それでも、紙に残っていれば、誰かが見つけられる。写真に残っていれば、誰かが思い出せる。けれど、名前そのものが失われたら」
琥珀の声が、少しだけ細くなる。
「何を思い出せばいいのかも、わからなくなる」
未空は資料から顔を上げた。
「玉城さん」
「何かな」
「あなたは、何を思い出してほしいんですか」
空気が止まった。
輝は未空を見た。
未空の声はいつも通り静かだった。
けれど、その問いは真っ直ぐすぎた。
琥珀は、少しだけ目を細めた。
「僕?」
「うん」
「どうしてそう思うのかな」
「あなたは、忘れる話をするときだけ、少し怒っている」
輝は息を呑んだ。
未空は琥珀から目を逸らさない。
琥珀はしばらく黙っていた。
図書室の時計の針が、小さく音を立てる。
やがて、琥珀は笑った。
いつもの穏やかな笑みだった。
「星川さんは、よく見ているね」
「見えるだけ」
「それは、とても不便だろう」
未空は答えない。
琥珀は、ゆっくりと立ち上がった。
「次は、白狐の資料を見ようか」
話を逸らされた。
輝にも、それはわかった。
だが、今は追及できない。
琥珀は『白狐異聞』を開いた。
薄い冊子の中には、地域の古い伝承をまとめた文章が載っている。活字は古く、ところどころ読みにくい。
琥珀がページをめくる。
「白狐については、時代によって語られ方が変わっている。最初は山に現れる白銀の狐。人の道案内をする。迷子の子どもを村へ戻す。小春神社の神の使いともされていた」
「神の使い」
輝が繰り返す。
琥珀は頷く。
「けれど、後の時代になると話が変わる。白狐は人を化かす。火を呼ぶ。不吉を運ぶ。夜に見た者は災いに遭う。狐火とともに家を焼く。そんな話が増えていく」
「どうして変わったんですか」
輝が聞いた。
「さあ」
琥珀は穏やかに答える。
「人間が怖がったからかもしれない。何か不幸が起きた時、理由を必要としたからかもしれない。狐に罪を着せれば、納得しやすかったのかもしれない」
ページには、古い挿絵があった。
山道に立つ白い狐。
月の下で揺れる狐火。
炎に包まれた家。
輝の頭に、白狐火災の動画が浮かぶ。
燃える屋根。
揺れる尾。
コメント欄の言葉。
白狐の呪い。
「やっぱ白狐が……」
輝はそこまで言って、止まった。
やっぱ白狐が犯人なのか。
言いかけた。
だが、言葉を飲み込む。
椛を泣かせた時と同じだ。
わからないものを、すぐに決めつける。
誰かの痛みを、面白い形に整えてしまう。
輝は口を閉じ、少しだけ息を吐いた。
「……白狐の話も、変えられたのかもしれないんですね」
琥珀の瞳が、かすかに揺れた。
「そう考える?」
「わからないです。でも、最初は神の使いだったのに、途中から不吉な妖狐になったなら、何かあったのかなって」
「何か」
「本当のことかもしれないし、勝手な噂かもしれない」
輝は冊子の挿絵を見る。
「動画の白狐も、オレ、最初はすげえって思ってました。白狐が火事を起こしたんだって、簡単に思った。椛のことも、妖怪とか神様とか、勝手に言った」
未空は黙って輝を見ている。
「でも、白狐にも何か事情があるなら……いや、あるかどうかわかんないけど。もしあるなら、オレが勝手に犯人みたいに言うのは違うのかなって」
言ってから、輝は少し恥ずかしくなった。
真面目に喋りすぎた。
しかも琥珀の前で。
しかし、琥珀は笑わなかった。
ただ、静かに輝を見ていた。
「真堂くんは、変わるのが早いね」
「え?」
「昨日まで面白がっていたものを、今日は少し違う見方で見ている」
「それは……椛に怒られたからです」
「怒られて変われる人は、多くないよ」
琥珀の言葉は優しかった。
だが、未空には、その奥にほんの少しだけ寂しさが混じっているように聞こえた。
「多くは、怒られても忘れる。傷つけたことも、傷つけられた側の名前も」
まただ。
忘れる。
名前。
琥珀の言葉は、必ずそこへ戻っていく。
未空は琥珀の背後を見た。
赤い揺らぎが、さっきより強い。
火の粉が、床に落ちる前に消える。
白い尾の影が、一瞬だけ棚の隙間を横切った。
未空は息を止める。
琥珀は、その視線に気づいている。
気づいていながら、何も言わない。
輝は『白狐異聞』の次のページをめくった。
そこには、白狐に関する短い話がいくつか並んでいた。
白狐を見た夜、家が燃えた。
白狐を追った者が山で迷った。
白狐が鳴くと、川が増水する。
白狐は小春神社の御神木に近づく者を惑わす。
しかし、その下に別の手書きメモがあった。
『古老いわく、白狐はもとは神の使いにして、川守りの神に仕えたものなり。後世、火難の兆しとして忌まる』
輝はその一文を指で押さえた。
「川守りの神に仕えた」
「小春神社の神」
未空が言う。
「椛とつながる」
「かもしれない」
輝は慎重に言い直す。
未空が小さく頷いた。
その時だった。
図書室の窓の外で、何かが揺れた。
未空が顔を上げる。
窓の向こうに見えるはずなのは、校庭と部室棟、その奥の住宅地だ。
小春神社は見えない。
方角も距離も違う。
それなのに。
窓の向こうに、鳥居が立っていた。
くすんだ朱色の鳥居。
苔のついた石段。
焼けた御神木の黒い枝。
誰もいない境内。
未空は、瞬きを忘れた。
輝も遅れて窓を見る。
「……え?」
見えた。
一瞬だけ。
校庭の向こうに、小春神社が重なっている。
まるで図書室の窓が、別の場所へつながったかのように。
次の瞬間、風がカーテンを揺らした。
未空が瞬きをする。
窓の外は普通の校庭に戻っていた。
サッカー部の生徒が走っている。
部室棟の前で誰かが水筒を持っている。
住宅地の屋根が夕方の光を受けている。
小春神社は、どこにもない。
「今の」
輝の声がかすれる。
「見た?」
未空は頷いた。
「鳥居」
「小春神社、だよな」
「うん」
輝は琥珀を見た。
琥珀は窓の方を見ていなかった。
ただ、閲覧机の上に開かれた資料を見ている。
その横顔は、穏やかだった。
穏やかすぎた。
「玉城さん」
輝が声をかける。
「今の、見ました?」
琥珀はゆっくり顔を上げる。
「何が?」
「窓の外に、小春神社が」
「小春神社?」
琥珀は窓を見る。
外には、いつもの校庭があるだけだ。
「ここから小春神社は見えないよ」
「いや、そうなんですけど」
「見えたの?」
琥珀の問いは、不思議がっているようで、どこか試しているようにも聞こえた。
輝は言葉に詰まる。
未空が代わりに言った。
「見えた」
「そう」
琥珀は短く答えた。
驚かない。
否定しない。
それが、かえって不自然だった。
「図書室は、記録が集まる場所だからね」
琥珀は言った。
「記録?」
「記録は、時々、場所より強くなる。誰かが書き残したもの。誰かが忘れたくなかったもの。誰かが忘れてしまったもの。そういうものが重なると、遠い場所が近く見えることもある」
「そんなこと、普通あります?」
輝が聞く。
琥珀は微笑む。
「普通ではないかもしれないね」
「それ、認めるんですか」
「僕は、本が好きだから」
「答えになってないです」
「本は、遠い場所へ行くための道具だよ。昔の町へも、いない人の記憶へも、忘れられた名前へも行ける」
琥珀は『小春神社縁起抄』の表紙を指で撫でる。
「この図書室には、そういう道が少し多いだけだ」
未空の背筋に、冷たいものが走った。
道。
図書室。
記録。
遠い場所。
忘れられた名前。
それらがただの比喩ではないことを、未空は感じていた。
この図書室は、普通の図書室ではない。
少なくとも、琥珀が来てからは。
輝は窓と琥珀を交互に見た。
「玉城さんって、やっぱり何か知ってますよね」
「知っていることもあるし、知らないこともある」
「答えがふわっとしすぎです」
「図書室の管理人は、答えを全部教える役ではないからね」
「じゃあ何の役なんですか」
「探したい人に、本棚の場所を教える役かな」
琥珀はそう言って、穏やかに笑った。
輝はその笑顔を見て、何とも言えない気持ちになる。
親切なのか。
怪しいのか。
味方なのか。
敵なのか。
まだ、何もわからない。
ただ、琥珀の言葉は、いつも何かを隠している。
そして、その隠しているものは、小春神社と白狐と椛につながっている。
それだけは、少しずつ確かになっていた。
未空はノートを開き、調べたことを書き始めた。
楓川の氾濫。
川鎮めの祭り。
楓祭り。
御神木。
川守りの神。
子守りの神。
祭神名、不明。
椛という名、資料になし。
白狐、もとは神の使い。
後世、不吉な妖狐・狐火・火難と結びつく。
図書室の窓に小春神社。
書きながら、未空は最後に小さく付け足した。
玉城琥珀――狐火。
輝が横から覗き込む。
「星川さん、字きれいだな」
「今そこ?」
「いや、緊張したから普通のこと言おうと思って」
「普通?」
「普通じゃなかった?」
「少し」
「少しか……」
輝は頭をかいた。
琥珀は、そんな二人を見ていた。
何かを懐かしむように。
何かを羨むように。
けれど、その表情はすぐにいつもの笑みに戻る。
「資料は、必要ならしばらく出しておくよ。ただし、持ち出しはできない」
「わかりました」
未空が言う。
「また来ます」
輝も頷いた。
「オレも来ます。椛のこと、もっと調べたいんで」
琥珀の瞳が、ほんの一瞬だけ細くなる。
「椛」
その名前を口にしなかった。
けれど、輝が呼んだ名前に反応したように見えた。
「その子のことを、君はよく名前で呼ぶんだね」
「え? まあ、椛は椛なんで」
「そう」
琥珀は静かに言った。
「それは、いいことだ」
輝には、その言葉の意味がまだわからない。
未空には、少しだけわかった気がした。
椛は名前を呼ばれることで安定する。
輝は無意識に、それをしている。
それを琥珀は知っている。
たぶん、未空よりずっと前から。
図書室の時計が、下校時刻の近づきを告げるチャイムを鳴らした。
輝と未空は資料を閉じ、机の上を整える。
琥珀は冊子を一冊ずつ丁寧に重ねた。
その指先が『白狐異聞』に触れた時、未空にはまた赤い火の粉が見えた。
小さな狐火。
それは琥珀の指先から生まれたのか、冊子の中からこぼれたのか、わからない。
未空は何も言わなかった。
言葉にすると、まだ壊れてしまいそうだった。
図書室を出る前、輝はもう一度だけ郷土資料棚を振り返った。
棚の奥。
古い資料の隙間に、何か白いものが見えた気がした。
狐の尾。
あるいは、ページの端。
瞬きをすると、それは消えていた。
「星川さん」
「何」
「怖いな」
輝は小さく言った。
未空は輝を見る。
「何が」
「わからないことが増えるのって、ちょっと怖い」
輝は笑っていなかった。
未空は少しだけ黙った。
それから、短く言った。
「うん」
「でも、知らないままよりはいいよな」
「たぶん」
「たぶんか」
「わからないから」
「星川さんらしいな」
二人は図書室を出た。
扉が閉まる。
廊下の明るさが戻ってくる。
部活帰りの生徒の声。
窓の外の校庭。
いつもの学校。
けれど、輝の手元のノートには、もう普通ではない言葉がいくつも並んでいる。
川守りの神。
子守りの神。
椛の名の欠落。
神の使いだった白狐。
不吉な妖狐。
狐火。
そして、図書室の窓に映った小春神社。
輝はノートを強く握った。
これは、面白い怪談ではない。
椛のことだ。
椛がここにいた証拠を探すことだ。
そう思うと、胸の奥で何かが少しだけ熱くなった。
図書室の中では、琥珀が一人、郷土資料棚の前に立っていた。
彼は『白狐異聞』を元の場所へ戻さず、しばらく手に持ったままだった。
窓の外には、もう小春神社は見えない。
校庭だけが夕方の光に照らされている。
琥珀は閉じた扉の方を見た。
輝と未空が出ていった扉。
それから、手元の冊子へ視線を落とす。
「名前を呼ぶ子がいるんだね」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、郷土資料棚の奥で、古い紙がかすかに震えた。
琥珀の足元に、赤い火の粉が一つ落ちる。
火の粉は床を焦がさず、白い狐の尾の形に揺れた。
そして、すぐに消えた。
図書室は、また静かになる。
けれど、その静けさの奥で、忘れられた名前へ続く道が、ほんの少しだけ開き始めていた。




