第九章 月の帰り道
図書室を出たあと、星川未空はしばらく廊下の窓際に立っていた。
放課後の校舎には、昼間の騒がしさとは違う音が満ちている。部活動へ向かう生徒たちの足音。階段を駆け下りる男子の声。どこかの教室で机を動かす音。校庭から響く笛の音。
その全部が、少し遠く聞こえた。
未空の手には、図書室で書いたノートがある。
小春神社。
楓川の氾濫。
川鎮めの祭り。
祭神名の欠落。
白狐異聞。
神の使いだった白狐。
狐火。
図書室の窓に映った、見えるはずのない小春神社の鳥居。
文字にすればするほど、何かに近づいている気がした。
けれど、その何かが何なのかは、まだわからない。
見える。
でも、わからない。
未空はノートを閉じた。
「星川さん」
隣で真堂輝が声をかける。
輝もいつもより少し静かだった。鞄を肩にかけ、手には同じように書き込んだノートを持っている。図書室の中で、白狐伝承に興奮しかけて言葉を飲み込んだ時から、輝の表情はどこか考え込むようになっていた。
「帰る?」
未空が聞く。
「帰る。椛に今日のこと話さないとだし」
「そう」
「星川さんは?」
「帰る」
「一人で?」
その問いに、未空は少しだけ廊下の先を見た。
階段のそばに、月代玲が立っていた。
長い黒髪。
整った横顔。
手には鞄。
廊下の夕方の光の中でも、玲の周りだけ少し夜が早く来ているように見える。
玲は未空を待っていた。
そう言葉で確認しなくても、未空にはわかった。
「玲と帰る」
「そっか」
輝は玲の方を見て、少しだけ手を上げた。
「月代さん、おつかれ」
「おつかれさま、真堂」
玲は静かに返した。
声はいつも通りだった。
冷たいわけではない。
近いわけでもない。
教室で聞く玲の声そのものだった。
けれど未空には、その奥にほんの少しだけ違うものが混じっているように感じられた。
月明かりのような、薄い距離。
「じゃあ、オレ先帰るわ」
輝は未空に向かって言った。
「椛にも何かあったら連絡して。いや、何もなくても連絡してもいいけど。えっと……まあ、何かあったら」
「うん」
「あと、琥珀さんのこと、気をつけろよ」
輝は少し照れたように言い足した。
「オレが言うのも変だけど」
「変じゃない」
「そう?」
「うん」
未空が頷くと、輝は少し安心したように笑った。
「じゃ、また明日」
「また明日」
輝は手を振り、階段を下りていった。
足音が遠ざかる。
未空はその背中が見えなくなるまで見送った。
輝は変わり始めている。
昨日までなら、白狐の資料を見つけた時点で騒いでいたはずだ。妖怪だ、伝説だ、やっぱり事件だ、と声を上げていたはずだ。
でも今日は、言葉を飲み込んだ。
椛のことを考えた。
それが未空には、少し不思議だった。
人はそんなに早く変わるものなのだろうか。
それとも、変わろうとする人は、案外すぐに一歩目を踏み出せるものなのだろうか。
「行くか」
玲が言った。
「うん」
二人は並んで階段を下りた。
校舎の外へ出ると、空は夕方から夜へ傾き始めていた。
西の空にはまだ薄い赤が残っている。けれど東の空はすでに濃い青を深め、その中に白い月が浮かんでいた。満月ではない。少し欠けた月。けれど、昼の名残の中でもはっきり見えるほど明るい。
未空と玲は、いつものように楓川緑道へ向かった。
この道を歩く時、二人はあまり喋らない。
沈黙が、気まずくない。
それは未空にとって、とても珍しいことだった。
たいていの人は、沈黙を埋めようとする。
何か言わなければいけないと思う。
質問をする。
冗談を言う。
心配する。
気を遣う。
その全部が、未空には少し疲れる。
玲は違う。
隣にいても、沈黙を急がない。
未空が何かを見ても、すぐに説明を求めない。
答えない時は、そのままにしてくれる。
だから未空は、玲の隣を歩ける。
言葉が少なくても、友達でいられる。
そう思える。
楓川緑道へ入ると、川面に夕方の光が映っていた。
水はゆっくり流れている。護岸された川の両側には街灯が並び、そのうちのいくつかはすでに点いていた。白い灯りが水面に伸び、揺れて、切れて、またつながる。
川の上に、月があった。
空の月よりも、水面の月の方が少し近く見える。
未空は、その月を見ながら言った。
「琥珀さん、変」
玲は驚かなかった。
「図書室の管理人か」
「うん」
「何が変だ」
「いろいろ」
「具体的には?」
玲の問いは静かだった。
未空は少し考える。
「背中に、狐の尾みたいな影が見えた」
「前に言っていたな」
「今日は、火も見えた」
「火」
「赤い火。狐火みたいなもの。燃えている感じじゃなくて、揺れているだけ。でも、熱はありそうだった」
「そうか」
玲はそれだけ言った。
未空は歩きながら、ノートを抱える手に力を入れた。
「それから、図書室の窓に小春神社が見えた」
玲の歩調が、ほんの少しだけ変わった。
未空は気づいた。
けれど、すぐには指摘しない。
「校庭の向こうに、鳥居があった。御神木も見えた。瞬きしたら消えた」
「真堂も見たのか」
「うん」
「なら、君だけの幻ではない」
「たぶん」
「たぶん、か」
「わからないから」
未空は川を見る。
月の光が、水面で細く伸びていた。
「見えるだけで、わかるわけじゃない」
声は小さかった。
それでも、玲には聞こえた。
「白い尾が見えても、それが何なのかわからない。火が見えても、誰の火なのかわからない。椛が薄くなっているのはわかる。でも、どうしたらいいのかわからない。図書室の窓に神社が見えても、それが何を意味するのかわからない」
言葉にすると、思っていたより苦しかった。
「みんな、あたしが何か見えるって言うと、答えを知ってるみたいに思う。でも、違う。見えるだけ。わからない。何もできない」
未空はそこで口を閉じた。
言いすぎたかもしれない。
玲は少しだけ未空を見た。
その表情は変わらない。
けれど、責めるような色はなかった。
「見えるだけでも、見えない者よりは近い」
玲は静かに言った。
未空は足を止めそうになった。
「近い?」
「ああ」
玲は川の方を見たまま続ける。
「見えない者は、そこに何かがあることに気づかない。気づかなければ、避けることも、近づくことも、名前を呼ぶこともできない」
「でも、見えてもわからない」
「わからなくても、見えたと口にできる。君が言わなければ、真堂たちは図書室の異変をただの見間違いで片づけたかもしれない。椛が人間ではないかもしれないことにも、もっと遅く気づいたかもしれない」
「それで椛を怖がらせた」
「君だけのせいではない」
玲の声は、少しだけ柔らかかった。
「未空は、見えたことを言う。時々、言葉が足りない。だが、嘘はつかない」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶん」
未空は小さく繰り返した。
玲の「たぶん」は、少し不器用だった。
でも、その不器用さが未空には心地よかった。
上手に慰められるより、ずっと楽だった。
二人は川沿いのベンチに座った。
ベンチは少し冷えていた。木の板の隙間に、昼間の埃と小さな葉が残っている。前には楓川が流れ、その向こうに住宅地の灯りが点り始めている。
月は、川の真ん中に落ちていた。
水面に映る月は、揺れているのに壊れない。
未空はそれを見ていた。
隣で、玲の髪が月明かりを受ける。
黒髪のはずなのに、光の加減で銀色に見えた。
未空は、ふと息を止めた。
玲の影が、人間の形からずれた気がした。
ベンチの後ろに伸びる影。
街灯と月明かりが混ざってできた影。
その輪郭が、一瞬だけ人のものではなくなる。
長く、薄く、夜そのものが床に広がるように。
その影の奥に、月の欠片のような光が沈んでいた。
未空は見た。
見えてしまった。
でも、見なかったふりをした。
視線を川へ戻す。
心臓が少しだけ速い。
玲が何者なのか、未空はずっと前から気づきかけている。
人間ではないかもしれない。
夜に近すぎる。
月の光の下で、輪郭が濃くなりすぎる。
椛が玲を怖がった理由も、たぶんそこにある。
でも、それを口にしてしまえば。
今、隣に座っている友達の形が、変わってしまう気がした。
玲は、未空が見なかったふりをしたことに気づいているようだった。
しばらく沈黙が続く。
川の音。
車の音。
遠くの踏切の音。
小春市の夜が、少しずつ形を持ち始める。
「未空」
玲が呼んだ。
「何」
「もし、私が人間でなかったら、君はどうする?」
未空はすぐには答えなかった。
川面の月を見た。
欠けた月。
揺れる月。
水に映っているのに、空にもある月。
未空は考えた。
もし玲が人間でなかったら。
それは本当に「もし」なのだろうか。
もう、ほとんど答えは見えているのではないか。
それでも、言葉にしない。
言葉にすると、戻れない。
「たぶん、驚く」
未空は答えた。
玲はわずかに目を細めた。
笑ったように見えた。
「それだけか」
「たぶん」
「また、たぶん」
「わからないから」
「君らしい」
玲は川を見る。
その横顔は、月明かりの中でひどく静かだった。
「怖がらないのか」
玲の声は、いつもより少しだけ低かった。
未空は答えない。
怖くない、と言えば嘘になる。
見えるものは怖い。
わからないものは怖い。
人間だと思っていた友達が、人間ではないかもしれないことも、怖くないわけではない。
でも。
玲と並んで帰ったこと。
何も喋らず川沿いを歩いたこと。
未空が見えたものをうまく説明できなくても、玲が急かさなかったこと。
教室で一人になりそうな時、玲が隣に立っていたこと。
そういうものまで、怖いという言葉に押し流されたくなかった。
「驚く」
未空はもう一度言った。
「たぶん、怖いとも思う」
玲の視線が、未空へ向く。
「でも、それだけじゃないと思う」
「それだけではない?」
「玲は、玲だから」
言ってから、未空は少しだけ視線を落とした。
うまく言えない。
もっと何か言うべきかもしれない。
友達だから大丈夫、とか。
人間じゃなくても関係ない、とか。
そういうわかりやすい言葉を言えたらよかったのかもしれない。
でも、今の未空にはまだ言えなかった。
怖いかもしれない。
驚くかもしれない。
踏み込む勇気も、まだない。
それでも、玲を玲として見たいと思う。
それだけは本当だった。
玲は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、いつもより少し長かった。
「未空は」
玲が言う。
「時々、とても残酷なことを言う」
未空は顔を上げる。
「そう?」
「ああ」
「ごめん」
「謝ることではない」
玲は少しだけ笑った。
今度は、確かに笑った。
ほんのわずかな表情の変化。
けれど、未空にはわかった。
玲が笑った。
それだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
「人間ではないものを、人間の名前で呼び続けるのは、残酷な時がある」
玲は静かに言った。
未空はその意味を考えようとした。
けれど、玲はすぐに続ける。
「だが、嬉しい時もある」
風が吹いた。
川沿いの若葉が揺れる。
月が水面で細かく砕ける。
未空は、玲の横顔を見る。
玲はもう笑っていなかった。
けれど、その声の奥には、たしかに温かいものが残っていた。
「玲」
未空は名前を呼んだ。
玲は振り向かない。
「何だ」
「呼んだだけ」
「そうか」
「うん」
ただそれだけの会話。
それだけでよかった。
しばらく二人はベンチに座っていた。
何も話さない。
川を見る。
月を見る。
同じ沈黙の中にいる。
未空は、この時間が好きだった。
好きだと口に出すほど簡単ではない。
でも、失いたくはなかった。
やがて、玲が立ち上がった。
「遅くなる」
「うん」
二人はまた歩き出した。
楓川緑道の街灯は、もうすべて点いていた。白い灯りが道を照らし、その間に短い影がいくつも落ちている。川の向こうの住宅地からは、夕食の匂いが少しだけ流れてきた。
道の途中で、二人は別れる。
未空の家へ向かう道と、玲が帰る道はそこで分かれる。
未空は足を止めた。
「じゃあ」
「ああ」
玲は短く返す。
いつもなら、それだけで別れる。
けれど、その夜は違った。
未空が数歩進んだところで、玲が呼んだ。
「未空」
いつもより少し優しい声だった。
未空は振り返る。
玲は街灯の下に立っていた。
月明かりと白い灯りが重なり、黒髪の縁だけが銀色に光っている。
「何」
未空が尋ねる。
玲は何も言わなかった。
言葉を探しているようにも見えた。
言葉を飲み込んだようにも見えた。
未空は待った。
玲が話すなら聞く。
話さないなら、それでもいい。
しばらくして、玲は小さく首を横に振った。
「何でもない」
「そう」
「気をつけて帰れ」
「玲も」
「ああ」
未空はもう一度だけ玲を見た。
踏み込めない。
何かに気づいているのに、言えない。
このままにしておいたら、後で後悔するかもしれない。
そう思った。
でも、言えなかった。
未空は背を向けて歩き出す。
玲は、未空の背中が見えなくなるまでその場に立っていた。
夜が濃くなる。
街灯の白い輪の外で、影が深くなる。
玲はゆっくりと空を見上げた。
月が、そこにある。
小さく欠けた月。
けれど、夜の中では十分すぎるほど明るい。
玲は目を細めた。
「玲は、玲だから」
未空の言葉が、胸の奥に残っていた。
名前。
人間の世界での名前。
隠すための名前。
友達に呼ばれる名前。
それが、こんなに重くなるとは思っていなかった。
玲は、踵を返した。
向かったのは、自分の帰り道ではなかった。
夜の小春市を、玲は音もなく歩く。
人通りの少ない道を選び、街灯の薄い影を渡り、楓川から離れて小春神社の方へ向かう。夜になると、町の輪郭は昼間より曖昧になる。商店街の閉じたシャッター、誰もいないバス停、空き地のフェンス、古い路地。人が見ようとしないものほど、夜の中ではよく見えた。
小春神社の石段は、昼より長く見えた。
玲は立ち止まらずに上った。
石段の上には、くすんだ鳥居がある。
境内は暗かった。
社務所の窓は黒く、賽銭箱も、鈴の紐も、夜の底に沈んでいる。焼けた御神木は境内の奥で、黒い影のように立っていた。立入禁止のロープが、夜風にかすかに揺れている。
その御神木の前に、誰かが立っていた。
銀色がかった長い髪。
中性的な横顔。
穏やかな笑み。
図書室の管理人、玉城琥珀。
だが、夜の神社に立つその姿は、学校で見るものとは少し違っていた。
銀の髪の向こうで、白い尾のような影が揺れている。
足元には赤い狐火が二つ、三つ、音もなく浮かんでいた。
「遅かったね」
琥珀が言った。
声は優しい。
けれど、図書室で生徒に向けるものより少し冷たい。
玲は鳥居の下で足を止めた。
「用があった」
「星川未空?」
琥珀は名前を口にした。
玲の瞳が、わずかに動く。
「関係ない」
「そうかな」
琥珀は笑う。
「君が誰かの名前にそんなふうに反応するのは、少し珍しい」
「何の話だ」
「友達の話」
玲は黙った。
狐火が御神木の根元で揺れる。
赤い光が、焼けた幹の黒い表面を舐めるように照らしている。火なのに、燃え広がらない。照らすだけ。そこに残った焦げ跡を思い出させるだけ。
琥珀は玲へ向き直った。
「迷っているのか」
「迷っていない」
答えは速かった。
速すぎた。
琥珀はそれを聞いて、少しだけ目を細める。
「そう」
「私は迷っていない」
玲は繰り返した。
声は静かだった。
だが、その静けさの底に、ごくわずかな揺れがあった。
「人間は忘れる。夜を怖がらなくなり、月を見上げなくなり、古い名を呼ばなくなる。見えなくなったものを、いなかったことにする。君の言うことは間違っていない」
「僕の言うこと、か」
琥珀の笑みが少し深くなる。
「君自身も、そう思っているだろう?」
「思っている」
「なら、問題はない」
琥珀は御神木へ視線を戻した。
「椛は揺れている。あの子はまだ、自分が忘れられたことをちゃんと知らない。けれど、知れば必ず傷つく。人間がどれだけ薄情かを知れば、こちらへ来るしかなくなる」
玲は黙っていた。
琥珀は続ける。
「真堂輝は、名前を呼ぶ。星川未空は、見える。涼宮綾乃は、普通に扱う。葵城悠樹は、世話をする。藍澄武は、噂を集める。みんな、それぞれ少しずつ椛をここへ留めようとしている」
「それが悪いのか」
玲の声が、少しだけ鋭くなった。
琥珀は玲を見る。
「悪いとは言っていない」
「なら」
「でも、いつまで続く?」
琥珀の声が低くなる。
「人間の興味は移ろう。優しさは疲れる。名前は忘れられる。今は椛と呼ぶ。明日も呼ぶかもしれない。来年も? 十年後も? 百年後も?」
狐火が揺れる。
「人間は、長く覚えていられない」
玲は、川沿いのベンチを思い出した。
未空が月を見ていた。
自分が人間でなかったらどうするかと問うた時、未空は驚くと言った。
怖いとも思うかもしれないと言った。
でも、それだけではないと言った。
玲は、玲だから。
その言葉が、今も残っている。
残っていることが、苦しかった。
「それでも」
玲は言いかけた。
琥珀の瞳が静かにこちらを見る。
玲は言葉を止めた。
それでも、何だ。
それでも、未空は。
そう言いかけたのか。
自分でもわからなかった。
琥珀は優しく言う。
「月代さん」
学校で呼ぶ名。
人間の中で使う名。
その呼び方に、玲は少しだけ眉を動かした。
「君は、こちら側だよ」
狐火の赤い光が、玲の影を長く伸ばす。
その影は、人間の少女の形をしていなかった。
もっと深い夜の形。
月のない森。
灯りの消えた道。
人間が昔、戸を閉め、息を潜め、名前も知らないものを恐れた夜の形。
「わかっている」
玲は言った。
今度の声は、先ほどより低かった。
「私は、人間ではない」
「うん」
「人間を信じていない」
「うん」
「だから、迷っていない」
琥珀は微笑んだ。
「ならいい」
玲は御神木を見上げる。
焼けた幹。
黒い枝。
その上に、月がある。
月明かりは、焼け跡にも平等に降りていた。
椛の泣きそうな顔。
未空の静かな横顔。
輝が名前を呼ぶ声。
綾乃の怒った声。
悠樹のため息。
それらが、玲の中で一瞬だけ重なる。
玲は目を閉じた。
「迷っていない」
もう一度、そう言った。
今度は、誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
琥珀は何も言わない。
狐火だけが、夜の境内で静かに揺れていた。
小春神社の石段の下では、町の灯りが遠く瞬いている。
楓川の水面には、まだ月が映っている。
そして、その月を見上げながら家路を歩く未空は、ふと足を止めた。
理由はわからない。
ただ、誰かに名前を呼ばれたような気がした。
玲。
未空は心の中で、その名前を呼んだ。
声にはしなかった。
声にしたら、何かが壊れる気がした。
だから、ただ胸の中で呼んだ。
夜のどこかで、その名前が小さく震えたことを、未空はまだ知らなかった。




