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第十章 新小春モールの神様

 その週の土曜日、涼宮綾乃は朝から妙に張り切っていた。


 張り切っている人間というものは、自分では平常運転のつもりでも、周囲にはだいたい伝わる。


 午前十時。


 輝と悠樹のマンションのリビングで、綾乃はソファーの前に立ち、腰に手を当てていた。


 その前に、椛がちょこんと座っている。


 白い千早。


 紅い袴。


 綾乃が貸したカーディガン。


 ここ数日ですっかり見慣れた姿ではあるが、やはり現代の町へ出るには目立ちすぎる格好だった。


「椛ちゃん」


 綾乃が言った。


「今日は服を買いに行きます」


 椛はぱちぱちと瞬きをした。


「ふく?」


「そう。服」


 綾乃は椛の袖を指さす。


「その格好もかわいいけど、ずっとそれだと目立つでしょ。神様かどうか知らないけど、外を歩くたびに巫女さんみたいな格好してたら、みんな振り返るし」


 椛は自分の袖を見下ろした。


 白い布を小さな指でつまむ。


「これ、だめ?」


「だめじゃないわよ」


 綾乃はすぐに言った。


「だめじゃない。すごく似合ってる。でも、毎日それだけじゃ不便でしょ。洗い替えもないし、寒い日もあるし、動きにくいし」


「洗い替え」


 椛は知らない言葉を覚えるように繰り返した。


 キッチンでは、悠樹が朝食の片づけをしながらため息をついていた。


「必要性は理解している」


「でしょ」


 綾乃が胸を張る。


「ただし」


 悠樹は財布を手に取り、中身を確認した。


 その動きが妙に現実的だった。


「問題は予算だ」


 輝が床に寝転がりながら顔を上げる。


「悠樹、顔が主婦」


「黙れ」


「朝から金銭管理してる高校生、なかなかいないぞ」


「誰のせいで生活費を気にしていると思っている」


「社会?」


「おまえだ」


「オレ個人の責任にするな」


「かなり大きい」


 悠樹は財布を閉じ、深く息を吐いた。


「最低限、下着類、靴下、普段着を二、三着。上着も一枚。靴は……サイズがわからないから現地で合わせるしかない」


「完全に保護者じゃない」


 綾乃が言う。


「違う」


「じゃあ何?」


「一時的な生活管理担当だ」


「保護者じゃない」


「違う」


「意地でも認めないのね」


 悠樹は返事をしなかった。


 椛はそんなやり取りを見て、小さく笑う。


「悠樹お兄ちゃん、お母さんみたい」


 部屋の空気が止まった。


 輝は床を叩いて笑い出した。


「椛、ナイス!」


「輝、うるさい」


「いや、これは笑うだろ。悠樹お兄ちゃん、お母さんだって」


「輝」


 悠樹の声が低くなる。


「次に笑ったら、今日の昼食代は自分で払え」


 輝は即座に正座した。


「お母さん、いつもありがとうございます」


「誰がお母さんだ」


 綾乃が吹き出す。


 椛も笑う。


 悠樹は本気で疲れた顔をした。


 それでも、出発の準備は着々と進んだ。


 輝は財布をポケットに突っ込み、鞄は持たない。悠樹は必要なものを小さなバッグにまとめる。綾乃は自分の家から持ってきたトートバッグを肩にかけ、椛の手を取った。


「今日は新小春モールよ」


 綾乃が宣言する。


「しんこはるもーる」


 椛はまた知らない言葉を繰り返した。


「大きいお店?」


「大きいお店がいっぱい入った、もっと大きい建物」


「お店の、おうち?」


「まあ、だいたい合ってるわね」


「お店が住んでるの?」


「それはちょっと違うかな」


 輝が横から口を挟む。


「つまり、現代の神殿だな」


「何でそうなるのよ」


「人が集まり、金を納め、欲しいものを願い、供物を受け取る」


「いやな言い方しないで」


 綾乃が呆れる。


 しかし椛は真面目に受け取った。


「神殿……」


「輝」


 悠樹が低い声を出す。


「椛ちゃんが信じるから変な説明をするな」


「いや、でも間違ってなくない?」


「間違っている」


「断言」


「断言だ」


 そんなことを言い合いながら、四人はマンションを出た。


 小春市の中心部へ向かう道は、土曜の午前らしく人通りが増えていた。


 楓川沿いの緑道を抜け、旧駅前商店街を横目に見ながら駅の方へ歩く。古い店の看板、閉じたままのシャッター、喫茶店の古いサンプルケース。その向こうに、新しく整備された広い道路と、ガラス張りの建物が見えてくる。


 新小春モール。


 小春駅の再開発に合わせて建てられた大型商業施設だった。


 駅前の顔、と言われている。


 実際、休日になると小春市内だけでなく、隣町からも人が集まる。ファッション、雑貨、書店、映画館、フードコート、ゲームセンター、スーパー、家電量販店。便利なものはだいたい揃っている。


 その一方で、旧駅前商店街の人たちからは複雑な目で見られている場所でもあった。


 輝にとっては、暇な時にふらっと寄れる普通のモール。


 悠樹にとっては、食材と日用品をまとめて買える便利な場所。


 綾乃にとっては、服や雑貨を見て回れる楽しい場所。


 そして、椛にとっては。


「……おっきい」


 モールの入り口に立った椛は、上を見上げたまま動かなくなった。


 ガラス張りの正面入口。


 自動ドア。


 吹き抜けの天井。


 入口横の大型広告。


 明るい照明。


 流れる音楽。


 行き交う人々。


 椛の知っている神社とは、何もかも違う。


 小春神社は古く、静かで、人の気配が薄かった。


 ここは新しく、明るく、人の気配で満ちている。


 椛は綾乃の手をぎゅっと握った。


「こわい?」


 綾乃が聞く。


 椛は少し考えた。


「こわい。でも、きらきらしてる」


「じゃあ、ゆっくり見よう」


「うん」


 自動ドアが開いた。


 椛はびくっと肩を震わせる。


「開いた!」


「自動ドアよ」


「勝手に?」


「勝手に」


「すごい」


 輝が横から得意げに言う。


「見たか椛。これが現代の結界門だ」


「だから変な説明をするな」


 悠樹が即座に突っ込む。


 モールの中へ入ると、椛の目はさらに忙しく動いた。


 天井から吊るされた案内板。


 並んだ店の看板。


 明るいショーウィンドウ。


 香水や焼き菓子の匂い。


 ベビーカーを押す親子。


 手をつないで歩く子どもたち。


 吹き抜けの下を行き交う人の流れ。


 椛はそれらを一つずつ見て、驚いたり、怖がったり、少し笑ったりした。


 エスカレーターの前で、最初の事件が起きた。


「階段が動いてる」


 椛は真剣な顔で言った。


「動く階段よ」


 綾乃が説明する。


「階段、歩くの?」


「人が乗るの」


「食べられない?」


「食べられない」


「ほんと?」


「たまに靴ひもは危ないけど、椛ちゃんは大丈夫。ちゃんと手をつなぐから」


 綾乃が手を差し出す。


 椛はその手を握ったまま、エスカレーターの段をじっと見た。


 動く。


 出てくる。


 上がっていく。


 消える。


 また出てくる。


「生きてるみたい」


「機械だよ」


 悠樹が言う。


「きかい」


「人間が作った道具」


「人間、すごい」


「たまにはな」


 輝が言う。


 悠樹が冷たい目を向けた。


「なぜおまえが上から目線なんだ」


「人類代表として」


「やめろ」


 綾乃が椛の手を握り直す。


「一、二、三で乗るわよ。はい、一、二、三」


「わっ」


 椛は小さく声を上げながら段に乗った。


 最初は身体を固くしていたが、すぐに上へ運ばれていく感覚に目を丸くする。


「上がってる」


「上がってるわね」


「椛、歩いてないのに」


「便利でしょ」


「ちょっと、たのしい」


 椛が笑った。


 その笑顔を見て、綾乃も笑う。


 輝は前の段で振り返った。


「椛、次は下りもあるぞ」


「下りも動くの?」


「動く」


「すごい」


「あと、エレベーターっていう箱も上下する」


「箱が?」


「そう。閉じ込められて上がったり下がったりする」


 椛の顔がこわばる。


「こわい」


「輝」


 綾乃の声が低くなる。


「何で怖がらせるのよ」


「いや、事実を」


「説明の仕方!」


 輝はまた怒られた。


 悠樹はため息をつく。


「今日の目的は服を買うことだ。寄り道はほどほどにしろ」


「ほどほどって何分?」


「十分」


「短い」


「おまえ基準ではな」


 綾乃は三階の子ども服売り場へ向かった。


 椛の外見は八歳くらいに見える。


 正確な年齢は不明。


 本人もわからない。


 神様かもしれない存在の服のサイズをどう選ぶべきかという問題はあったが、結局、現物合わせしかないという結論になった。


 子ども服売り場は明るかった。


 パステルカラーのワンピース、デニムのパンツ、プリントTシャツ、カーディガン、帽子、靴下。小さなマネキンが並び、鏡には花のシールが貼られている。


 椛は入口でまた固まった。


「いっぱい」


「いっぱいあるわよ」


 綾乃は嬉しそうだった。


「今日は椛ちゃんに似合う服を選びます」


「椛、選ばれるの?」


「椛ちゃんも選ぶの」


「椛が?」


「そう」


 綾乃は棚の前でワンピースを一枚手に取った。


 淡いクリーム色のワンピースだった。裾に小さな花の刺繍がある。


「こういうのどう?」


 椛はワンピースを見て、目を丸くする。


「ふわふわ」


「かわいいでしょ」


「椛が着るの?」


「そうよ」


 椛は戸惑った顔をする。


「椛、これ着ていいの?」


「もちろん」


「でも、椛の服じゃない」


「買ったら椛ちゃんの服になるの」


「買うと、椛の?」


「そう」


 椛は不思議そうにワンピースを見た。


 物を買う。


 自分のものになる。


 その感覚からして、まだ椛には新しかった。


 輝は別の棚から、勢いよく一着を持ってきた。


「椛、これどうだ」


 差し出されたのは、派手な宇宙柄のパーカーだった。


 星、惑星、ロケット、謎の宇宙人の顔までプリントされている。


 椛はじっと見た。


「夜?」


「宇宙だ」


「うちゅう」


「そう、宇宙。神様っぽいだろ」


「何で神様っぽいのよ」


 綾乃が即座に突っ込む。


「宇宙だから」


「雑」


「じゃあこれは?」


 輝は次に、恐竜のしっぽがついたフード付きパーカーを持ってきた。


「椛、恐竜になる」


「ならないわよ」


「かわいいだろ」


「かわいいけど、最初の一着としてそれは違う」


「じゃあ、こっち」


 輝が三着目に持ってきたのは、狐耳のついたパーカーだった。


 白いふわふわの耳。


 後ろには小さな尻尾の飾り。


 輝は持ってきた瞬間、自分で「あ」と思った。


 椛もその服を見た。


 表情が少しだけ曇る。


 綾乃の視線が、輝に突き刺さった。


「輝」


「すみませんでした」


 輝は即座に狐耳パーカーを棚へ戻した。


「今のは本当に何も考えてなかった」


「考えなさいよ」


「はい」


 椛は少しだけ胸元を押さえていたが、泣きはしなかった。


 輝はしゃがんで目線を合わせる。


「椛、ごめん。嫌だった?」


 椛は少し考えて、頷いた。


「ちょっと、きゅってした」


「そっか。悪かった」


「うん」


 椛はそれだけ言って、綾乃の持っているワンピースを見た。


「椛、こっちがいい」


 綾乃の顔がぱっと明るくなる。


「これ?」


「うん。ふわふわだけど、狐じゃない」


「よし。じゃあ試着しよ」


 悠樹が財布を見ながら言った。


「値段を確認してからにしてくれ」


「現実的」


 輝が言う。


「必要なことだ」


「お母さん」


「輝」


「ごめん」


 その時、売り場の端から静かな声がした。


「椛」


 星川未空だった。


 待ち合わせをしていたわけではない。


 ただ、「モールに行く」とメッセージを送ったところ、少し遅れて合流すると返ってきていた。


 未空はシンプルな私服姿だった。白いブラウスに濃い色のスカート。いつも通り派手さはなく、モールの明るさの中でも少しだけ静かに見える。


 椛の表情が明るくなった。


「お姉ちゃん」


 椛は綾乃の手を離し、未空の方へ小走りで向かう。


 未空は少しだけ身をかがめた。


「服、買うの?」


「うん。椛の服になるんだって」


「そう」


「お姉ちゃん、見てて」


「うん」


 未空は短く頷いた。


 綾乃はその様子を見て、少しだけ満足そうにした。


「未空、ちょうどいいところに来たわね。椛ちゃんの試着、見てあげて」


「見るだけ?」


「できれば褒めて」


「わかった」


 未空の返事は真剣だった。


 輝が小声で言う。


「星川さん、褒めるの得意なのかな」


「たぶん、素直に言うから大丈夫でしょ」


 綾乃が言う。


「輝よりは確実に安全」


「比較対象が低すぎないか?」


「自覚して」


「はい」


 試着室へ向かうと、椛は少し緊張した。


 巫女装束以外の服を着る。


 それは、ただの着替えではなかった。


 椛にとって、自分を包むものが変わるということは、自分が何か別のものになってしまうような気がした。


「こわい?」


 綾乃が聞く。


 椛は小さく頷く。


「ちょっと」


「じゃあ、アタシが外で待ってる。未空もいる。何かあったらすぐ呼んで」


「輝お兄ちゃんは?」


「輝は遠くに置いとく」


「何でだよ」


「試着室の前で騒ぐ男子は迷惑だから」


「正論だった」


 輝は素直に少し離れたベンチへ移動した。


 悠樹も当然のように離れる。


「僕もあちらにいる」


「悠樹はいてもいいけど」


 綾乃が言うと、悠樹は本気で困った顔をした。


「いいわけがないだろう」


「冗談よ」


「冗談に聞こえない」


 椛はそのやり取りを見て、少しだけ笑った。


 それから、ワンピースを抱えて試着室に入る。


 カーテンが閉まる。


 中で布が擦れる音がした。


 椛は慣れない服に戸惑っているらしい。袖を通すのに少し時間がかかる。


「だいじょうぶ?」


 綾乃が声をかける。


「ひもがない」


「ひも?」


「袴のひも」


「ああ、ワンピースだからないのよ」


「落ちない?」


「落ちない」


「ほんと?」


「ほんと」


 しばらくして、カーテンが少し開いた。


 椛が顔だけ出す。


「変じゃない?」


「見ないとわかんないわよ」


 椛は迷ったあと、そっと出てきた。


 淡いクリーム色のワンピース。


 膝下までの丈。


 裾の花の刺繍。


 上から薄いカーディガン。


 巫女装束の時とはまったく違う。


 神社の古い記憶をまとっていた小さな存在が、現代のモールにいる普通の女の子に見えた。


 綾乃は息を呑んだ。


「かわいい」


 言葉が即座に出た。


 未空も頷く。


「似合う」


 椛は恥ずかしそうに俯いた。


「ほんと?」


「ほんと」


 未空の声は淡々としているが、嘘がない。


 だから、椛にも伝わった。


 輝も遠くから身を乗り出す。


「椛、めちゃくちゃ似合ってるぞ!」


 綾乃が即座に振り返る。


「大声出さない!」


「ごめん。でも似合ってる」


 悠樹も少しだけ表情を和らげた。


「いいと思う」


 椛は鏡の前に立った。


 鏡の中に、自分がいる。


 白い千早でも、紅い袴でもない。


 普通のワンピースを着た、小さな女の子。


 椛はじっと鏡を見る。


 知らない自分だった。


 でも、嫌ではなかった。


 ただ、少しだけ不安だった。


「椛」


 椛は鏡の中の自分に向かって呟いた。


「神様じゃなくなったみたい」


 その場が静かになった。


 綾乃は少しだけ目を細める。


 それから、椛の隣にしゃがんだ。


「神様でも、椛ちゃんは椛ちゃんでしょ」


 椛が綾乃を見る。


「服くらい、好きなの着ればいいの」


「好きなの」


「そう。神様だからこの格好じゃなきゃいけないとか、人間みたいに見えるから神様じゃなくなるとか、そういうの、アタシはよくわかんないけど」


 綾乃は鏡の中の椛を見る。


「でも、椛ちゃんが着てみたいなら着ればいい。かわいいって思うなら、それでいい。神様でも、神様じゃなくても、椛ちゃんは椛ちゃんなんだから」


 椛はその言葉をすぐには飲み込めなかった。


 神様でも。


 神様じゃなくても。


 椛は椛。


 それは、輝が夜に名前を呼んでくれた時と少し似ていた。


 ここにいていい。


 そう言われた時と似ていた。


 椛は鏡の中の自分をもう一度見た。


 知らない服。


 知らない場所。


 知らない町の明るい店。


 でも、そこに映っているのは、たしかに椛だった。


「椛、これ好き」


 小さく言った。


 綾乃が笑う。


「じゃあ、それに決まり」


 悠樹が値札を見て、少しだけ肩の力を抜いた。


「予算内だ」


「そこ?」


 輝が言う。


「重要だ」


「現実」


「現実だ」


 その後、椛の服選びは少しだけ楽しくなった。


 綾乃は実用的な服を選び、悠樹は値段と洗濯のしやすさを確認し、未空は椛が困った時だけ静かに助言し、輝は時々変な服を持ってきては綾乃に没収された。


「椛、これどうだ。忍者」


「戻して」


「じゃあ、これ。カエル」


「戻して」


「これは? 『最強』って書いてあるTシャツ」


「絶対戻して」


「綾乃、厳しい」


「まともなの持ってきなさい」


「まともって難しいな」


「なぜ難しいのよ」


 椛はそのやり取りを見て、何度も笑った。


 買い物が終わる頃には、袋が二つ増えていた。


 ワンピース、カーディガン、普段着、靴下、下着、スニーカー。


 悠樹はレシートを確認しながら、またため息をつく。


「しばらく節約だな」


「悠樹お兄ちゃん、ごめんなさい」


 椛が心配そうに言う。


 悠樹はすぐに首を横に振った。


「必要なものだから気にしなくていい」


「でも」


「気にしなくていい。輝の無駄遣いを減らせばいい」


「何でオレが」


「普段から無駄遣いが多いからだ」


「オレ、何買ってる?」


「コンビニの新作菓子、謎のガチャガチャ、使いもしないホラー雑誌」


「全部必要経費だろ」


「違う」


 未空が静かに言う。


「違うと思う」


「星川さんまで」


 椛はくすくす笑った。


 次に向かったのはフードコートだった。


 休日の昼前で、人は多い。


 ラーメン、うどん、ハンバーガー、クレープ、たこ焼き、カレー。店ごとに違う匂いが混ざり、天井の高い空間に人の声が反響している。


 椛は音の多さに少し驚いたが、輝が「ここは食べ物の合戦場だ」と言い、悠樹に「余計に混乱させるな」と叱られたことで、少し安心したらしい。


 椛が選んだのは、シンプルなうどんだった。


 理由は「白くて、やさしそう」だった。


 輝はハンバーガー。


 綾乃はオムライス。


 悠樹は予算を考えて安い定食。


 未空は小さなサンドイッチ。


 食べ始めると、椛はうどんの麺に苦戦した。


「長い」


「すすればいいんだよ」


 輝が実演しようとして、思い切りむせた。


「げほっ!」


「何やってんのよ」


 綾乃が呆れる。


「見本に失敗した」


「最低の見本ね」


 椛は心配そうに輝を見る。


「輝お兄ちゃん、大丈夫?」


「ああ。うどんは強敵だった」


「敵なの?」


「いや、食べ物だ」


 悠樹が訂正する。


 未空は黙って椛の器を少しだけ近づけ、箸で麺を短くしてやった。


「これなら食べやすい」


「ありがとう、お姉ちゃん」


 椛は嬉しそうにうどんを食べた。


 その様子は、本当にただの子どもだった。


 神様かもしれない。


 土地の記憶を持っているかもしれない。


 御神木とつながっているかもしれない。


 けれど、今この瞬間、椛はフードコートでうどんを食べている小さな女の子だった。


 輝はその姿を見て、少しだけ胸が温かくなった。


 同時に、少しだけ怖くなった。


 この普通の時間は、いつまで続くのだろう。


 椛は、いつまでここにいられるのだろう。


 その答えは、まだ誰にもわからなかった。


 昼食の後、椛は雑貨屋で小さなヘアピンを見つけた。


 赤い楓の葉の形をした飾りがついている。


 椛はそれを見た瞬間、足を止めた。


「これ」


「欲しい?」


 綾乃が聞く。


 椛は少し迷う。


「きれい」


 悠樹が値段を確認する。


 高くはなかった。


「買おう」


「いいの?」


「いい」


 悠樹が答える。


 椛は両手でヘアピンを持ち、宝物のように見つめた。


 綾乃がその場で髪につけてやる。


 楓の葉のヘアピンは、椛の髪によく似合った。


「どう?」


 綾乃が聞く。


「軽い」


「感想そこ?」


 輝が笑う。


「でも、かわいいぞ」


 椛は少し照れた。


「うん」


 その後、輝の強い希望でゲームセンターにも少しだけ寄った。


 椛は音と光に最初は怯えた。


 クレーンゲームの機械を見て、「箱の中にぬいぐるみが閉じ込められてる」と真剣に言い、輝が「救出作戦だ」と言って百円玉を投入し、見事に失敗した。


「救えなかった……」


「下手」


 未空が言う。


「星川さん、直球」


 綾乃が試しにやると、一回で小さなうさぎのぬいぐるみが取れた。


 輝は膝から崩れ落ちた。


「世界は不公平だ」


「実力よ」


 綾乃は得意げに言い、ぬいぐるみを椛に渡した。


「はい、椛ちゃん」


「椛に?」


「うん。今日の記念」


 椛はうさぎを抱きしめた。


「ありがとう」


 その笑顔は、朝よりずっと柔らかかった。


 新小春モールの明るい照明の下で、椛は少しずつこの町の新しい顔に触れていく。


 神社の石段ではない道。


 鈴の音ではない音楽。


 御神木の影ではないガラスの吹き抜け。


 古い祈りではない買い物袋。


 それでも、そこには人がいて、笑いがあって、温かい食べ物があって、誰かが自分の名前を呼ぶ声がある。


 椛は、それを少しだけ好きになりかけていた。


 だからこそ。


 大型書店の前で、それを見つけた時の痛みは、不意打ちだった。


 モール二階の大型書店は、広かった。


 新刊、文庫、漫画、雑誌、学習参考書、児童書、郷土本。店内には本の匂いと、静かなBGMが流れている。


 輝は最初、漫画コーナーへ行こうとした。


 悠樹に襟を掴まれた。


「今日は漫画を買いに来たわけではない」


「見るだけ」


「見るだけで済んだことがない」


「信用がない」


「実績」


 その時、入口近くの雑誌コーナーで、聞き慣れた声がした。


「あっ、輝! 悠樹! みんなも!」


 藍澄武だった。


 武は雑誌を一冊手に取り、目を輝かせている。


 私服姿で、斜めがけのバッグを背負っていた。どうやら一人でモールに来ていたらしい。


「武、何してんだ?」


 輝が近づく。


「いや、すごいの見つけたんだよ。これこれ!」


 武が差し出した雑誌の表紙を見た瞬間、輝の顔から少し表情が消えた。


 表紙には、大きな文字でこう書かれていた。


『小春市の呪い 白狐火災の謎を追え!』


 赤黒い背景。


 炎の写真。


 不鮮明な白い狐のシルエット。


 煽るような見出し。


『御神木を焼いた狐が住宅街に現れた?』


『SNSで拡散中の怪動画を徹底検証』


『地元に伝わる白狐伝説と火難の因縁』


『あなたの家にも白狐が来る』


 平積みされた雑誌は何冊もあった。


 通りかかった客が手に取り、表紙を見て笑ったり、スマートフォンで撮影したりしている。


 武は興奮気味だった。


「これ、もう特集になってるんだよ。すごくない? 白狐火災、完全にローカル怪談化してる! しかも中に小春神社の御神木の写真も――」


「武」


 輝が低く呼んだ。


 武は言葉を止めた。


 輝の表情を見て、ようやく気づいたのだろう。


 椛が、綾乃の手を握っていた。


 その目は、雑誌の表紙から離れない。


 炎。


 白い狐。


 焼けた御神木。


 煽る文字。


 小春市の呪い。


 椛の顔色が少しずつ悪くなる。


「椛ちゃん?」


 綾乃が声をかける。


 椛は胸を押さえた。


「熱い」


「え?」


「火……」


 椛の視界が揺れる。


 明るい書店の照明が、赤い炎に変わる。


 雑誌の表紙の炎が、紙の上から立ち上がるように見えた。


 白い狐。


 炎の中で揺れる尾。


 焼ける木の匂い。


 折れる枝の音。


 誰かが叫ぶ声。


 お兄ちゃん。


 椛は喉の奥で小さく声を詰まらせた。


「いや……」


 未空がすぐに椛の肩へ手を置いた。


「椛」


 名前を呼ぶ。


 椛の輪郭が、少しだけ戻る。


 輝も一歩近づいた。


「椛、大丈夫だ。ここはモールだ。火はない」


 自分でも驚くくらい、落ち着いた声だった。


「椛、見ろ。オレだ。輝だ。綾乃もいる。悠樹も、星川さんも、武もいる」


 椛は震える目で輝を見る。


「輝、お兄ちゃん」


「うん。ここにいる」


 輝は雑誌を見ないように、椛の視界に入った。


「火はない。雑誌だ。ただの紙だ」


 言ってから、輝は胸の奥がきしむのを感じた。


 ただの紙。


 けれど、その紙が椛を傷つけている。


 面白い怪談として並べられた言葉が、椛の中に残る火を呼び起こしている。


 白狐の噂。


 小春市の呪い。


 御神木を焼いた狐。


 そういう見出しが、誰かの痛みを軽くしている。


 いや。


 軽くしているだけではない。


 形を変えて、広げている。


 武は手に持った雑誌を見下ろした。


 さっきまでの興奮が、少しずつ引いていく。


「……ごめん」


 武は小さく言った。


「ボク、また面白がってた」


 綾乃は武を見た。


 今度は叩かなかった。


 ただ、少し厳しい声で言う。


「気づいたなら、次から気をつけなさい」


「うん」


 武は雑誌を棚に戻しかけて、手を止めた。


「でも、これ、買った方がいいかもしれない」


「何で」


 綾乃が眉をひそめる。


「内容を確認した方がいい。どんな噂になってるのか、どこまで広がってるのか。情報として」


 武は輝を見る。


「面白がるためじゃなくて」


 輝は武の目を見た。


 まだ少し揺れている。


 でも、さっきとは違う。


 武も、ほんの少しだけ変わろうとしているのかもしれない。


 悠樹が雑誌を手に取った。


「買うなら僕が預かる。椛ちゃんの前では開かない」


「うん」


 武は頷いた。


 椛は未空と綾乃に支えられながら、少しずつ呼吸を整えていた。


 輝は雑誌の平積みを見る。


 何冊もある。


 何人も手に取る。


 誰かが笑う。


 誰かがSNSに写真を上げる。


 噂はまた広がる。


 そのたびに、白狐は「呪い」になり、小春神社は「怪談スポット」になり、椛の記憶は誰かの娯楽になる。


 輝は、以前ならきっとその輪の中にいた。


 小春市の呪い、すげえ。


 白狐火災、やっぱ本物じゃん。


 そんなふうに笑っていた。


 だからこそ、今は笑えなかった。


「……嫌だな」


 輝は小さく言った。


 悠樹が聞く。


「何が」


「こういうの」


 輝は雑誌の表紙を見る。


「前なら面白いって思ったと思う。実際、白狐動画見た時は思った。でも、今は何か、嫌だ」


「それでいいんじゃない」


 綾乃が言った。


 輝は振り向く。


 綾乃は椛の背中をさすりながら、静かに言った。


「嫌だって思えるなら、前よりちゃんと見えてるってことでしょ」


「そうかな」


「たぶんね」


 未空も小さく頷いた。


「見えるだけでも、見えないより近い」


 その言葉に、輝は少しだけ首を傾げた。


「星川さん?」


「玲が言ってた」


「月代さんが?」


「うん」


 未空はそれ以上言わなかった。


 輝は不思議に思ったが、今は聞かなかった。


 椛が少し落ち着いたのを見て、悠樹が判断する。


「今日はもう帰ろう」


「服は買ったしね」


 綾乃が頷く。


「ゲームセンターはまた今度」


 輝が言う。


「それは別に約束しなくていい」


 悠樹が即答する。


 椛は少しだけ笑った。


「また、来てもいい?」


 その問いは、少し不安そうだった。


 楽しかった。


 でも怖かった。


 モールは、きらきらしていた。


 でも、火の記憶もあった。


 それでも、また来たいと思っていいのか。


 そんな問いに聞こえた。


 綾乃は迷わず答えた。


「もちろん」


「怖いものもあるのに?」


「怖いものがあったら、一緒に離れればいいのよ」


 綾乃は言う。


「楽しいものまで、全部やめなくていい」


 椛はその言葉を考えた。


 それから、小さく頷く。


「うん」


 モールを出る頃には、空は夕方へ傾いていた。


 ガラス張りの入口から外へ出ると、風が少しだけ冷たい。駅前の人通りは相変わらず多く、モールの中からは明るい音楽が漏れている。


 椛は新しいワンピースの入った袋と、楓のヘアピンと、うさぎのぬいぐるみを大事に抱えていた。


 巫女装束の上に着ていたカーディガンは、少しずれている。


 髪には、赤い楓のヘアピン。


 その姿は、神様にも、迷子にも、普通の女の子にも見えた。


 輝は椛の隣を歩きながら言った。


「椛」


「なあに」


「今日のワンピース、家帰ったらもう一回着てみろよ。悠樹に写真撮らせようぜ」


「写真?」


「思い出に残る」


 椛は目を丸くした。


「椛、残る?」


「残る」


 輝は少しだけ言葉を選ぶ。


「写真にも残るし、オレたちも覚えてる」


 椛は、袋を抱える手に力を込めた。


「そっか」


「うん」


「じゃあ、着る」


 椛は少し笑った。


 その笑顔を見て、輝は胸の奥の嫌な感じが少しだけ和らぐのを感じた。


 新小春モールは、明るく、便利で、新しい。


 古い神社のことも、御神木のことも、椛の名前も知らないまま、人を集め、光を灯し、商品を並べている。


 その中で、白狐の噂は雑誌になり、動画になり、誰かの娯楽になっていた。


 でも同じ場所で、椛はワンピースを選んだ。


 うどんを食べた。


 うさぎのぬいぐるみをもらった。


 楓のヘアピンを髪につけた。


 痛みだけではない。


 楽しいことも、確かにあった。


 だから、輝は思った。


 この町は、椛を忘れた町かもしれない。


 でも、今の町にも、椛が笑える場所を作ることはできるのかもしれない。


 まだ、そう信じるには弱い。


 それでも、そう思いたかった。


 新小春モールの大型書店では、白狐火災の雑誌がまだ平積みされている。


 誰かが一冊手に取り、ぱらぱらとめくった。


 そのページの片隅で、不鮮明な白狐の写真が赤い炎に囲まれている。


 誰も気づかない。


 その狐の目が、ほんの一瞬だけ、紙の上で光ったことに。


 そして、モールの明るい照明の下で、赤い狐火のようなものが、小さく揺れて消えたことに。

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