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第十一章 忘れられた祭り

 月曜日の放課後、図書室の郷土資料棚には、いつもより多くの人間が集まっていた。


 真堂輝。


 星川未空。


 藍澄武。


 葵城悠樹。


 四人がそろうと、静かな図書室の奥が少しだけ騒がしくなる。


 正確に言えば、主に輝と武が騒がしい。


「うわ、また古い資料だ」


 輝は机の上に積まれた冊子を見て、露骨に顔をしかめた。


 黄ばんだ紙。


 薄いホチキス留めの冊子。


 表紙だけで眠くなりそうな市史の別冊。


 手書きの地図をコピーしたらしい資料。


 郷土資料棚から引っ張り出してきたそれらは、どれもこれも、普通の高校生が放課後に喜んで読むものではなかった。


 武だけは違った。


 彼は目を輝かせて、古い冊子を両手で持ち上げている。


「すごいよ、これ。『小春市旧市街祭礼聞書』だって。タイトルからして絶対何かあるやつだよ」


「タイトルだけで絶対とか言うな」


 悠樹が冷静に言う。


「でもさ、聞書って響き、いいよね。昔の人から聞いた話をまとめましたって感じで」


「実際そういう資料だろうな。ただし、伝聞は伝聞だ。事実と混同するな」


「悠樹は夢がないなあ」


「調査に夢を持ち込むな」


 悠樹はノートを開き、すでに項目を作っていた。


 楓川。


 小春神社。


 御神木。


 白狐。


 楓祭り。


 祭神名。


 それぞれの下に、資料名とページ数を書き込めるようになっている。筆跡は整っていて、見ただけで性格が出ていた。


 輝はそれを横目で見て、少しだけ引いた。


「悠樹、本気すぎない?」


「おまえたちが本気にならないからだ」


「オレは本気だぞ」


「五分前に『文字が多い』と言って寝そうになっていただろ」


「あれは脳が情報を処理しようとして省エネモードに入っただけだ」


「寝るな」


「はい」


 未空は二人のやり取りを聞きながら、黙って資料を開いていた。


 彼女の前にあるのは、『楓祭り保存会資料』と書かれた薄い冊子だった。


 保存会。


 その言葉が、少し悲しかった。


 保存しなければ残らないもの。


 誰かが意識して残そうとしなければ、消えてしまうもの。


 未空は表紙を指先でなぞり、ゆっくりページをめくった。


 そこには、写真のコピーが貼られていた。


 古いモノクロ写真。


 川沿いに人が並んでいる。


 子どもたちが手に何かを持っている。


 丸い灯籠のようなものが、川のほとりにいくつも置かれている。


 写真の端には、手書きで「楓祭り 昭和三十年代頃」と書かれていた。


「楓祭り」


 未空が呟く。


 輝と武が同時に顔を上げた。


「見つけた?」


「どこどこ?」


 武が椅子ごと未空の方へ寄ろうとして、脚が床にこすれて音を立てた。


 図書室の奥から、玉城琥珀が穏やかに言う。


「椅子は持ち上げて動かしてね」


「あ、ごめんなさい」


 武は慌てて椅子を持ち上げた。


 琥珀はカウンター近くで返却本を整理している。銀色がかった長い髪を後ろで束ね、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。こちらへ深く関わるわけではない。ただ、必要な時だけ静かに声をかける。


 未空は琥珀を一瞬だけ見た。


 彼の背後に、今日も赤い火の揺らぎがあるような気がした。


 しかし、瞬きをすると消える。


 見える。


 でも、わからない。


 未空は視線を資料に戻した。


「これ」


 彼女は写真を指さした。


 輝と武が覗き込む。


 悠樹もノートを持ったまま立ち上がり、未空の後ろから写真を見た。


「古いな」


 輝が言う。


「でも、けっこう人いる」


 写真の中の小春市は、今よりずっと古かった。


 楓川の護岸は今ほど整っていない。川辺には土の道があり、子どもたちは浴衣や普段着のような服で並んでいる。大人たちは提灯を持ち、川面には小さな灯籠がいくつも浮かんでいた。


 その灯籠は、丸い紙の中にろうそくを入れたものらしい。


 水面に小さな光が点々と続いている。


 モノクロ写真なのに、不思議とその光だけはあたたかく見えた。


 未空は本文を読む。


「楓祭り。小春神社の御神木が紅葉する頃に行われた川鎮めと子ども守りの祭礼。子どもたちは御神木の下で楓の葉を拾い、願いを書いた紙とともに楓川へ流した。夜には灯籠を流し、水難除け、家内安全、子どもの健やかな成長を祈った」


「灯籠流し……」


 武の声が少しだけ低くなる。


 輝は写真の川面を見つめた。


 小さな灯りが水に浮かんでいる。


 椛が神社で見たと言っていた記憶。


 雨。


 川。


 鈴。


 子どもたちの笑い声。


 それと、この写真が重なった。


「椛、これ見たら何か思い出すかな」


 輝が言う。


 悠樹はすぐには答えなかった。


「可能性はある。ただし、無理に見せるべきではない」


「わかってる」


 輝は少しだけむっとした。


「オレだって、もう何でも見せて騒ぐわけじゃない」


「そうだな」


 悠樹はあっさり頷いた。


 輝は逆に目を丸くした。


「そこは否定しないのかよ」


「最近は少し慎重になっている」


「褒めた?」


「少しだけ」


「少しか……」


 輝は微妙な顔をした。


 武は別のページをめくり、声を上げる。


「あ、こっちにも書いてある。『楓祭りは小春神社の例祭とは別に、川沿いの子どもが中心になって行われた行事である。古くは御神木の下で祭神の名を唱え、楓の葉を三枚拾い、川へ流す風習があった』」


「祭神の名」


 未空が繰り返す。


 輝が身を乗り出す。


「その名前、載ってるか?」


 武は文章を追う。


 その顔が、少しずつ困惑に変わった。


「……ない」


「ない?」


「ここ、祭神の名って書いてあるのに、その次が『楓の葉を』になってる。変じゃない?」


 資料を輝たちへ向ける。


 確かにそこには文章があった。


『御神木の下に集まり、祭神の名を唱え、楓の葉を三枚拾い――』


 なのに、名前は書かれていない。


 名前が入るべき場所がない。


 文章としては成立している。


 けれど、肝心なものだけが抜けているような違和感があった。


 輝は眉を寄せた。


「またかよ」


 図書室で小春神社の由来を調べた時も、そうだった。


 小春さま。


 楓さま。


 川守りの神。


 子守りの神。


 たくさんの呼び名は残っているのに、椛という名前だけが出てこない。


 今回も同じだ。


 祭神の名を唱えた。


 そう書かれている。


 だが、その名前は残っていない。


「椛の名前だけ、ない」


 未空が言った。


 静かな声だった。


 武は資料を見つめる。


「でも、祭りはあったんだよね」


「うん」


「子どもたちが楓の葉を拾って、川に流して、神様にお願いしてた」


「うん」


「神様の名前も、唱えてた」


「うん」


「なのに、名前だけない」


 武の声から、いつもの軽さが少しずつ抜けていく。


 輝は机の上に手を置いた。


「誰も覚えてないのかよ」


 その声には、怒りが混じっていた。


 大きな声ではない。


 むしろ低い。


 けれど、図書室の奥ではそれだけで十分だった。


 琥珀が遠くで本を置く手を止めた。


 未空は輝を見る。


「だから、薄くなってる」


 輝は顔を上げた。


 未空は資料の写真を見つめている。


「椛は、名前を呼ばれると少し安定する。逆に、誰にも呼ばれないと薄くなる。たぶん、昔はたくさん呼ばれてた。椛さまって。神社で椛が聞いた声は、それだと思う」


「でも、今は誰も呼ばない」


「うん」


「資料にもない」


「うん」


「だから、椛は消えかけてるってことか」


 未空はすぐには答えなかった。


 断言できるほど、わかってはいない。


 でも、見えているものはある。


 椛の輪郭が薄くなる瞬間。


 名前を呼ばれると、少し戻ること。


 祭神の名前だけが資料から抜け落ちていること。


 それらは偶然ではない。


「たぶん」


 未空は言った。


 輝は椅子の背にもたれた。


「くそ」


「図書室で汚い言葉を使うな」


 悠樹が注意する。


 だが、その声もいつもほど冷たくはなかった。


 悠樹も、怒っているのだ。


 ただ、それを輝ほど直接出さないだけだった。


「すみません」


 輝は珍しく素直に謝った。


 武はまだ資料を見ている。


 その目は、いつもと少し違っていた。


「ねえ、輝」


「何だ」


「ボクさ、今までこういう古い伝承とか怪談とか見ると、すごいって思ってたんだよね」


「知ってる」


「怖い話とか、消えた祭りとか、名前のない神様とか、そういうの。ミステリーっていうか、ロマンっていうか。調べたら面白いって思ってた」


 武は資料の写真に指を置く。


 子どもたちが笑っている。


 御神木の下で。


 その後ろに、薄い影がある。


 武はそれに気づいていない。


 まだ、写真の中の違和感を見抜けるほどではない。


 でも、感じ始めていた。


「でも、名前がないって、ただ謎ってことじゃないんだね」


 武の声は静かだった。


「誰かが忘れられたってことなんだ」


 未空は小さく頷いた。


 輝は武を見た。


 武は明るくて、軽くて、白狐の噂にも誰より先に食いついた。


 でも、今は笑っていない。


 少しずつ、彼も変わろうとしている。


 それが輝にはわかった。


 悠樹はノートに書き込む。


「楓祭り。秋。御神木の紅葉。楓の葉を川へ流す。灯籠流し。川の安全。家内安全。子どもの成長。祭神名は資料上確認できず」


 淡々とした声。


 けれど、最後の一文だけ少し筆圧が強かった。


 調査はそこで終わらなかった。


 図書室に残る資料だけでは、祭りの詳細が足りなかった。


 武が「旧商店街の方に聞いた方が早いかも」と言い出したのは、彼らしい発想だった。


「聞き込み?」


 輝が顔をしかめる。


「そう。こういうのって、古いお店の人が覚えてたりするんだよ。商店街のイベント名として残ってるなら、昔からやってる店に聞けば何か出るかも」


「おまえ、そういうところだけ妙に実用的だな」


「ボク、情報収集担当だから」


「自分で言うと怪しい」


 悠樹は少し考えた。


「悪くない。資料だけでは限界がある。聞き取り記録も必要だ」


「悠樹が乗った」


「ただし、相手に迷惑をかけるな。騒ぐな。失礼な聞き方をするな」


「それ、オレに言ってる?」


「輝と武の両方だ」


「ボクも?」


「当然だ」


 武は少し肩を落とした。


 それから、四人は図書室を出て旧駅前商店街へ向かった。


 小春西高校から旧商店街までは、歩いて二十分ほど。


 放課後の道を、四人で歩く。


 輝は最初こそやる気を見せていたが、十分ほど歩いたあたりで少し飽き始めた。


「なあ、聞き込みって何件くらい回るんだ?」


「必要なだけ」


 悠樹が答える。


「それ一番終わりが見えないやつ」


「文句を言うな」


「オレ、資料読むより現地調査の方が向いてると思ってたけど、現地調査も歩くんだな」


「当たり前だろ」


「ワープとかないのか」


「ない」


「神様がいる世界なのに?」


「椛ちゃんに頼むな」


「頼まないって」


 未空は二人の後ろを歩きながら、楓川の方を見た。


 夕方の光が水面に落ちている。


 灯籠流し。


 もし昔の祭りがあったなら、この川に小さな灯りがいくつも浮かんでいたはずだ。


 子どもたちが楓の葉を持ち、川へ願いを流した。


 その時、椛はどこにいたのだろう。


 御神木の下か。


 川のほとりか。


 それとも、子どもたちのすぐ隣で笑っていたのか。


 未空には、一瞬だけ見えた。


 夕方の楓川に、まだ灯っていないはずの灯籠が流れる幻。


 水面に揺れる小さな光。


 その向こうで、巫女装束の小さな少女が立っている。


 椛。


 そう呼ぼうとした瞬間、幻は消えた。


「未空?」


 武が振り返る。


「どうしたの?」


「何でもない」


「何か見えた?」


「少し」


「何が?」


「灯籠」


 武は川を見た。


 もちろん、何も見えない。


 ただ水が流れているだけだ。


 それでも、武はもう「見たかった」とは言わなかった。


「そっか」


 短く答える。


 それだけで、未空は少しだけ楽だった。


 旧駅前商店街に入ると、空気が変わった。


 新小春モールの明るさとは違う。


 通りは狭く、看板は古く、シャッターが閉まった店も多い。昔ながらの魚屋、古本屋、金物店、写真館、和菓子屋。営業している店もあるが、客は少ない。


 商店街の入口には、古びたアーチがかかっていた。


『小春旧駅前商店街』


 その下に、色あせたポスターが貼られている。


『小春楓まつり 地域ふれあい市』


 輝がそれを見つけた。


「楓まつり」


 ポスターには、屋台、抽選会、地元野菜販売、子どもスタンプラリー、と書かれている。


 日付は昨年の秋。


 場所は旧駅前商店街。


 小春神社や楓川の名前はない。


「これ、今の楓祭り?」


 武が言う。


「祭りっていうか、商店街イベントだな」


 悠樹がポスターを読む。


「灯籠流しも、神社も、御神木も書いてない」


「名前だけ残ってる」


 未空が言った。


 輝はポスターを見つめる。


 楓まつり。


 漢字も少し変わっている。


 昔は楓祭り。


 今は楓まつり。


 商店街のイベント名としては悪くない。


 けれど、そこから椛の気配は消えていた。


 武が言った。


「イベントとして残ってるだけでも、すごいことなのかもしれないけど」


「でも、祭りの意味は消えてる」


 未空が静かに言う。


「うん」


 武は小さく頷いた。


 四人が向かったのは、商店街の中ほどにある和菓子屋だった。


 店名は『梅野屋』。


 古い木の看板が出ていて、店先には季節の饅頭や最中が並んでいる。ショーケースの中には、楓の形をした小さな練り切りもあった。


 武が目を輝かせる。


「ここ、うちのおじいちゃんが好きなんだよね」


「だから聞き込み候補にしたのか」


 悠樹が言う。


「もちろん。あと、ボクも好き」


「本音が出た」


「和菓子は大事だよ」


 店に入ると、奥から白髪の老人が出てきた。


 背は少し曲がっているが、目は穏やかで、声はよく通る。


「いらっしゃい」


 武がすぐに前へ出た。


「こんにちは。葉月神社の光伸じいちゃんの孫です」


「ああ、藍澄さんとこの坊ちゃんか」


 老人の顔がほころぶ。


「大きくなったねえ」


「高校生です」


「そうかい。小学生くらいに見えたよ」


「よく言われますけど、傷つきます」


 武は真顔で言った。


 輝は吹き出しそうになり、悠樹に肘で止められた。


 老人は笑いながら、奥の椅子を勧めてくれた。


「今日はどうしたんだい。お使いかい」


「いえ、小春の楓祭りについて聞きたくて」


「楓祭り?」


 老人の表情が少し懐かしそうになる。


「ああ、昔のかい。今の商店街の楓まつりじゃなくて」


「はい。小春神社と楓川でやっていた方です」


 老人は奥の棚から古い缶を取り出した。


 中には、写真が何枚か入っているようだった。


「懐かしいねえ。わしが子どもの頃には、まだ少しだけ残っていたよ。ちゃんとした祭りというより、町内の行事みたいになっていたけどね」


「どんな祭りだったんですか」


 未空が尋ねた。


 老人は椅子に座り、ゆっくり話し始めた。


「秋になるとね、小春神社の大きな楓が真っ赤になったんだ。今はもう、あんなに赤い木は見ないねえ。子どもたちはその葉っぱを拾って、紙に願いを書いて、川へ流す。夜には灯籠を流したよ。川の事故が起きませんように、家族が無事でありますように、子どもが元気に育ちますようにってね」


「川鎮めと子ども守り」


 悠樹が確認する。


「そうそう。昔は楓川がよく暴れたからね。今みたいに護岸も立派じゃなかった。大雨が降ると、みんな怖がったもんだよ」


 老人は一枚の写真を取り出した。


 それは、図書室で見たものより少し鮮明だった。


 御神木の下に子どもたちが並んでいる。


 葉を持って笑う子。


 提灯を持つ大人。


 後ろには、小春神社の拝殿。


 そして。


 未空は息を止めた。


 子どもたちの輪の少し後ろ。


 御神木の根元。


 そこに、小さな少女のような影が写っていた。


 白い衣。


 紅い袴。


 顔はぼやけていて、はっきりしない。


 けれど未空にはわかった。


 椛だ。


 椛が、そこにいた。


「これ」


 未空が写真を指さす。


 老人は目を細めた。


「ああ、不思議な写真だろう。昔から、うちではそう言われていてね。光の加減か、現像の失敗か。子どもの影みたいに見える」


「この子のこと、何か覚えてますか」


 未空の声は少しだけ急いでいた。


 老人は写真を見た。


 眉間にしわを寄せ、遠い記憶を探るように目を細める。


「さあ……なんだったかねえ」


「名前は?」


 輝が思わず聞いた。


 老人は少し困ったように笑った。


「名前か。昔は、何か呼んでいた気がするんだけどね。なんとか様、とか」


「なんとか様」


 輝の声が硬くなる。


「楓の神様、だったかな。いや、川守りの神様だったか。子どもを守る神様とも言ったねえ」


「椛」


 未空が静かに言った。


 老人は未空を見る。


「え?」


「椛さま、ではありませんでしたか」


 老人はしばらく黙った。


 その名前を聞いて、何かを思い出しかけたような顔をする。


 けれど、すぐに首を横に振った。


「どうだったかなあ。聞いたことがあるような、ないような。すまないねえ、年を取ると記憶が曖昧で」


 輝は拳を握った。


 老人に悪気がないことはわかっている。


 むしろ、親切に昔の話をしてくれている。


 それでも、胸の奥が熱くなった。


 椛は本当にいた。


 写真に写っている。


 祭りにも関わっていた。


 子どもたちのそばにいた。


 人々は神様として祈っていた。


 なのに。


 名前だけが、誰の口にも残っていない。


「誰も覚えてないのかよ」


 輝はもう一度言った。


 今度は、図書室の時よりもはっきり怒っていた。


 店の中が静かになる。


 老人は驚いたように輝を見る。


 輝はすぐに自分の言い方がきつかったと気づいた。


「すみません。おじいさんに怒ってるわけじゃないです」


 悠樹が横から補う。


「彼は、今その神社のことを少し調べていて、感情的になっています」


「いや、いいんだよ」


 老人は写真を見つめた。


「確かに、忘れたんだろうねえ」


 その声は、静かだった。


「昔は、当たり前にあったものだった。祭りも、川へのお祈りも、御神木に手を合わせることも。でも、川は整備されて、事故も減って、町は駅前の方へ移って、商店街も変わって。いつの間にか、やらなくなった」


 老人は指先で写真の端を撫でる。


「必要がなくなった、と思ったのかもしれないね」


「必要がなくなったら、忘れるんですか」


 輝が聞いた。


 老人は少しだけ寂しそうに笑った。


「人は、そういうものだよ」


 その言葉は、どこかで聞いた琥珀の声と重なった。


 人間は、名前を忘れるのが得意だからね。


 輝は唇を噛んだ。


 武は黙っていた。


 いつもなら、古い写真や不思議な影を見つけたら真っ先に興奮するはずだった。


 でも、今は違う。


 写真の中の小さな影を見て、胸がざわついていた。


 この影を「心霊写真みたい」と言うのは簡単だ。


 「本物の神様が写ってるかも」と騒ぐのも簡単だ。


 でも、この影が椛なら。


 椛が本当にそこにいた証拠なら。


 それを面白いネタとして扱うのは、違う気がした。


「写真、撮らせてもらってもいいですか」


 悠樹が丁寧に尋ねる。


「もちろん。ただ、古いものだから大事にしておくれ」


「ありがとうございます」


 悠樹はスマートフォンで写真を撮った。


 輝はその間、写真の中の椛らしき影をじっと見ていた。


 白い衣。


 紅い袴。


 御神木の下。


 子どもたちの笑い声の中。


 椛は、たぶん笑っていた。


 顔は見えない。


 でも、そう思った。


 店を出る時、老人は楓の形をした練り切りをいくつか包んでくれた。


「調べもの、頑張りなさい」


「ありがとうございます」


 武が深く頭を下げる。


 輝も頭を下げた。


 旧商店街へ出ると、夕方の光が通りに斜めに差していた。


 シャッターの下りた店の前に、薄い影が伸びている。


 新小春モールの明るさとは違う、少し寂しい夕方だった。


 武は紙袋を抱えたまま、ぽつりと言った。


「ボク、今まで忘れられた祭りって、ちょっとかっこいいと思ってた」


 輝は武を見る。


 武は苦笑した。


「秘密の儀式とか、失われた伝承とか、封印された神様とか。そういう言葉、好きだったんだ。でも、忘れられたって、つまり誰もやらなくなったってことで、誰も名前を呼ばなくなったってことで……」


 武は旧商店街のポスターを見る。


『小春楓まつり 地域ふれあい市』


「名前だけ残ってても、意味が消えちゃうことってあるんだね」


 未空は静かに頷いた。


「うん」


「それも、噂と似てるのかな」


 武は続ける。


「白狐の噂も、最初は神の使いだったのに、だんだん火事を起こす妖狐になった。楓祭りも、最初は神様の名前を呼んで川に願いを流す祭りだったのに、今は商店街のイベント名だけになってる」


 悠樹が言う。


「言葉だけが残り、意味が変わる。あるいは意味が抜け落ちる。どちらも起こりうることだ」


「それって、怖いね」


 武は小さく言った。


「ボクが面白がってた怪談も、もしかしたら誰かの名前が抜け落ちたものなのかもしれない」


 輝は黙っていた。


 その言葉は、輝自身にも刺さった。


 白狐火災。


 小春市の呪い。


 狐の神様の復讐。


 自分たちが面白がっていた言葉の向こうで、椛は名前を忘れられていた。


 白狐も、たぶん何かを歪められていた。


 それはただの怖い話ではない。


 誰かの名前が、痛みが、忘れられた跡なのかもしれない。


「椛に、見せる?」


 武が聞いた。


 写真のことだ。


 輝はすぐには答えなかった。


 見せたい。


 椛が本当に町にいた証拠だ。


 椛が誰にも覚えられていなかったわけではない証拠だ。


 でも、同時に、名前が忘れられた証拠でもある。


 見せたら、椛は喜ぶだろうか。


 それとも、傷つくだろうか。


「悠樹」


 輝は助けを求めるように言った。


「どう思う」


 悠樹は少し考えた。


「見せるべきだと思う。ただし、急がずに。こちらが得た情報を整理して、椛ちゃんが落ち着いている時に話す」


「だよな」


「一人で抱える必要はない。綾乃にも相談しよう」


「また綾乃に怒られそうだな」


「怒られるようなことをしなければいい」


「正論」


 未空が写真のデータを見つめる。


 画面の中の古い写真。


 御神木の下に立つ少女の影。


 それはとても薄い。


 でも、確かに写っている。


「椛は、いた」


 未空は言った。


 輝も頷く。


「いたんだよな」


「うん」


「なのに、名前だけない」


 輝は旧商店街の空を見上げた。


 夕方の空に、うっすら月が出ている。


 玲のことを少しだけ思い出した。


 人間ではないものを、人間の名前で呼び続けるのは、残酷な時がある。


 以前、未空から聞いた玲の言葉が、なぜか頭に浮かぶ。


 でも、椛は名前を呼ばれなければ薄くなる。


 なら、呼ぶしかない。


 呼び続けるしかない。


 輝は拳を握った。


「だったら、オレたちが覚える」


 武が顔を上げる。


 未空も輝を見る。


「資料にないなら、書けばいい。誰も覚えてないなら、オレたちが覚える。椛がいたって、椛の名前で残せばいい」


 言ってから、輝は少しだけ照れた。


 熱くなりすぎた気がする。


 けれど、誰も笑わなかった。


 悠樹は静かに頷く。


「そのためには、正確な情報が必要だ」


「悠樹らしいな」


「感情だけで残したものは、また歪む可能性がある」


 武がうなずいた。


「じゃあ、もっと調べよう。楓祭りのこと。灯籠流しのこと。祭神の名前がどこで消えたのか。商店街の人にも、神社の人にも、ボクのおじいちゃんにも聞いてみる」


「おまえ、急に頼もしいな」


 輝が言う。


「ボク、情報収集担当だから」


「自分で言うと怪しいけど、今回はちょっと信用する」


「ちょっとかあ」


「回復途中」


「それ、綾乃の言い方じゃん」


 四人は旧商店街を歩き出した。


 閉じた店のシャッター。


 色あせたポスター。


 楓まつりの文字。


 和菓子屋で受け取った小さな紙袋。


 そのどれもが、今までとは少し違って見えた。


 町は忘れている。


 でも、完全に消えたわけではない。


 名前が抜け落ちても、祭りの形は残っていた。


 灯籠流しの写真は残っていた。


 御神木の下で笑う子どもたちも、椛らしき小さな影も、誰かの古い缶の中に残っていた。


 それは、まだ間に合うということなのかもしれない。


 未空は、そう思いたかった。


 その日の夜、輝たちはマンションのリビングで写真を椛に見せた。


 綾乃も隣の部屋から呼ばれて来ていた。悠樹は説明の順番を慎重に考え、未空は椛の様子を見ている。武は少し緊張した顔で、和菓子屋でもらった楓の練り切りをテーブルに置いた。


 椛は新しく買ったワンピースに着替えていた。


 髪には楓のヘアピン。


 小さなうさぎのぬいぐるみを膝に抱いている。


 輝はスマートフォンの画面を椛へ向けた。


「椛」


「なあに」


「今日、昔の楓祭りの写真を見つけたんだ」


「楓祭り?」


「うん。小春神社と楓川でやってた祭り。子どもたちが楓の葉を拾って、川に流して、夜に灯籠を流す祭りだったらしい」


 椛は写真を見る。


 古い御神木。


 子どもたち。


 灯籠。


 そして、木の下の小さな影。


 椛の目が大きくなる。


「……これ」


 声が震えた。


 未空がそっと椛の肩に手を置く。


 椛は画面へ手を伸ばしかけ、触れる直前で止めた。


「椛?」


 綾乃が優しく呼ぶ。


 椛は、写真の中の少女の影を見つめていた。


「知らない」


 小さな声。


「でも、知ってる」


 その言葉は、小春神社で御神木を見た時と同じだった。


 椛の目に涙が浮かぶ。


 輝は慌てて言う。


「無理に思い出さなくていい。今日は、ただ、椛が昔ここにいたかもしれないってことを伝えたかっただけで」


「椛、いたの?」


 椛が聞いた。


 輝は、今度は迷わず答えた。


「いた」


 断言した。


 根拠は写真一枚だ。


 資料も曖昧だ。


 名前も残っていない。


 それでも、今はそう言いたかった。


「椛は、ここにいた。小春神社にも、楓川にも。子どもたちのそばにいたんだと思う」


 椛の涙がこぼれた。


 けれど、それは怖がっているだけの涙ではなかった。


 悲しい。


 懐かしい。


 うれしい。


 その全部が混ざった涙だった。


「でも、椛の名前、ないんでしょ」


 椛は言った。


 部屋の空気が少しだけ重くなる。


 武が俯く。


 輝は、ゆっくり頷いた。


「うん。資料には、なかった」


「おじいちゃんも、覚えてなかった?」


「名前は、覚えてなかった。でも、祭りのことは覚えてた。神様がいたことも、なんとなく覚えてた」


「なんとなく」


 椛はその言葉を繰り返した。


 未空が静かに言う。


「名前は消えてる。でも、全部は消えてない」


 椛は未空を見る。


「全部?」


「祭りは残ってる。写真も残ってる。川も、神社も、御神木も、完全には消えてない」


 綾乃も言った。


「それに、今はアタシたちが椛ちゃんの名前を知ってる」


 悠樹が続ける。


「記録も作れる。調べたことを整理して、残すこともできる」


 武が小さく手を上げた。


「ボクも調べる。面白がるためじゃなくて、椛ちゃんの名前をちゃんと探すために」


 椛は、みんなを見た。


 輝。


 悠樹。


 綾乃。


 未空。


 武。


 全員が、自分の方を見ている。


 椛の名前を知っている人たち。


 名前を呼んでくれる人たち。


 椛はうさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。


「椛、忘れられてたの?」


 誰もすぐには答えられなかった。


 その問いに、簡単な慰めを返すのは違う気がした。


 けれど、何も言わないこともできなかった。


 輝は椛の前にしゃがんだ。


「忘れられてたかもしれない」


 正直に言った。


 椛の瞳が揺れる。


「でも、今は忘れてない」


 輝は続けた。


「オレは覚えてる。悠樹も、綾乃も、星川さんも、武も。椛の名前、知ってる。だから、ここにいる間は何回でも呼ぶ」


 椛の涙がまたこぼれた。


「椛」


 未空が呼ぶ。


「椛ちゃん」


 綾乃が呼ぶ。


「椛ちゃん」


 武も呼ぶ。


「椛ちゃん」


 悠樹が最後に呼んだ。


 少し照れたような声だった。


 椛は泣きながら笑った。


「うん」


 その瞬間、未空には見えた。


 椛の輪郭が、少しだけ強くなる。


 部屋の空気に溶けかけていた小さな神様が、名前を呼ばれるたびに、そこへ戻ってくる。


 椛はまだ弱い。


 まだ何者かもわからない。


 人間に忘れられていたことを、これからもっと知るのかもしれない。


 でも、今はここにいる。


 輝たちのリビングに。


 温かい灯りの下に。


 古い写真と、楓の和菓子と、新しいワンピースと、うさぎのぬいぐるみを抱えて。


 椛はここにいる。


 その事実だけは、誰にも消せないように思えた。


 窓の外では、楓川の方から夜風が吹いていた。


 その風に乗って、遠い昔の灯籠の光が、ほんの一瞬だけ水面に浮かんだ気がした。


 小さな灯りが、ひとつ。


 またひとつ。


 忘れられた祭りの記憶が、誰かに見つけられたことを喜ぶように、夜の川の上で静かに揺れていた。

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