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第十二章 消えてもいい神様

 椛は、雨の音を聞いていた。


 最初は、輝たちのマンションの窓を叩く夜の雨だと思った。


 けれど、違った。


 これは今の雨ではない。


 もっと古い雨。


 もっと重い雨。


 空そのものが破れて、そこから水が落ちてくるような雨だった。


 椛は立っていた。


 どこか知らない場所に。


 でも、知らないはずなのに、足の裏が覚えている場所だった。


 土の匂いがする。


 濡れた草の匂いがする。


 泥と水と、川の濁った匂い。


 目の前には、楓川があった。


 けれど、今の楓川ではない。コンクリートで整えられた川ではない。街灯の光を映す穏やかな川でもない。


 黒く濁った水が、うねりながら田畑へ押し寄せていた。


 雨で膨れ上がった川は、土手を越え、畦を壊し、草を飲み込み、低い家々の軒先まで迫っている。水の上には、折れた枝や藁や、どこかの家から流された桶のようなものが浮かんでいた。


 人の声が聞こえる。


「早く、こっちだ!」


「子どもを先に!」


「神社へ上がれ!」


 大人たちが叫んでいる。


 裸足の子どもが泣きながら石段を上っていく。


 母親が赤ん坊を抱え、父親が荷物を背負い、老人が杖をつきながら誰かに支えられている。


 雨は容赦なく降っていた。


 小春神社の石段は、水に濡れて黒く光っている。


 その上に、大きな楓の木が立っていた。


 今はもう焼けて黒くなってしまった御神木。


 でも、夢の中のその木は生きていた。


 太い幹。


 広がる枝。


 雨に濡れた葉。


 幹には、いくつもの布や紙が結ばれている。


 願い。


 名前。


 祈り。


 椛は、その木の根元にいた。


 体があるのかないのか、自分でもよくわからない。


 でも、そこにいた。


 雨の中で、震える人々の声が届く。


「椛さま」


 誰かが呼んだ。


 椛は振り向く。


 御神木に手を合わせる女の人がいた。


 泥で汚れた着物の袖を握りしめ、涙を浮かべている。隣には、熱にうなされた小さな子どもを抱いた父親がいる。


「椛さま、どうかこの子をお守りください」


 母親の声が震えていた。


「この子の熱を、どうか」


 父親も頭を下げる。


「川が鎮まったら、必ずお礼に参ります。どうか、どうか」


 椛は、その言葉を聞いていた。


 胸の奥が温かくなる。


 自分の名前が、雨の中で呼ばれている。


 椛さま。


 椛さま。


 誰かがそう呼ぶたびに、御神木の葉がかすかに揺れた。


 次の景色へ移る。


 雨は止んでいた。


 楓川の水はまだ多いが、濁流ではなくなっている。空には薄い光が差し、田畑の上に水が残っている。人々は疲れた顔で、それでも神社へ上ってきた。


「椛さま、ありがとうございました」


 誰かが言う。


 おにぎりを供える人がいる。


 赤い楓の葉を御神木に結ぶ子どもがいる。


 小さな鈴が鳴る。


 からん。


 からん。


 その音は、雨の後の空気の中で澄んでいた。


 また景色が変わる。


 秋。


 御神木が赤く染まっている。


 子どもたちが笑いながら楓の葉を拾っている。小さな手に赤い葉を三枚、大事そうに持っている子もいれば、両手いっぱいに集めて大人に笑われている子もいる。


「椛さま、見て!」


「いちばん赤い葉、見つけた!」


「お願い、かなう?」


 子どもたちが呼ぶ。


 椛は、嬉しかった。


 名前を呼ばれるたび、胸の奥が明るくなる。


 自分がそこにいることを、誰かが知っている。


 椛は椛として、そこにいる。


 夜になる。


 楓川に灯籠が流れている。


 小さな灯りが、水の上をひとつ、またひとつと進んでいく。川面に揺れる光は、星が地上に降りてきたみたいだった。


 人々は手を合わせていた。


 子どもたちは灯籠を見送っていた。


 椛さま。


 椛さま。


 椛さま。


 名前が、いくつも重なる。


 その声が嬉しくて、あたたかくて、椛は笑った。


 自分は、この町にいる。


 この川にいる。


 この木にいる。


 人々の祈りの中にいる。


 そう思った。


 次の瞬間、火の匂いがした。


 秋の灯籠の光が、赤い炎に変わる。


 御神木の葉が燃える。


 枝が折れる。


 黒い煙が空へ上がる。


 誰かが叫んでいる。


 誰かがスマートフォンを向けている。


 誰かが「白狐だ」と言っている。


 でも、誰も椛の名前を呼ばない。


 椛さま。


 そう呼んでいた声が、遠ざかる。


 どんどん遠ざかる。


 手を伸ばしても届かない。


 椛は叫ぼうとした。


 でも、声が出ない。


 名前を呼ばれないと、自分の声の出し方さえわからなくなる。


 炎の向こうに、白い影がいた。


 白銀の狐。


 赤い火の中で、尾を揺らしている。


 その狐の目は、悲しそうに見えた。


 怒っているようにも見えた。


 そして、椛を見ていた。


「椛」


 誰かが呼んだ。


 その声は、夢の中の人々の声ではなかった。


 輝の声だった。


 椛は目を開けた。


 そこは、マンションの廊下だった。


 輝の部屋の近くに敷かれた布団。


 薄暗い天井。


 カーテンの隙間から差し込む街灯の光。


 隣の部屋から、悠樹が寝返りを打つかすかな音が聞こえる。


 雨は降っていない。


 でも、椛の頬は濡れていた。


 泣いていたのだと気づくのに、少し時間がかかった。


 椛は布団の中で体を起こした。


 胸の奥が、まだざわざわしている。


 椛さま。


 その声が、耳の奥に残っている。


 雨。


 川。


 御神木。


 人々の祈り。


 子どもたちの笑い声。


 ありがとう、と言った声。


 そして、火。


 忘れられる音。


 椛は両手で胸を押さえた。


「椛……」


 小さく、自分の名前を呼ぶ。


 すると、少しだけ呼吸が楽になった。


 でも、すぐに不安が戻ってくる。


 自分は何なのか。


 どうして小春神社を知っているのか。


 どうして昔の人たちは椛さまと呼んでいたのか。


 どうして今は誰も覚えていないのか。


 輝たちは優しい。


 悠樹はご飯を作ってくれる。


 綾乃は服を選んでくれる。


 未空は手を握ってくれる。


 武は写真を探してくれる。


 輝は名前を呼んでくれる。


 でも、それでも。


 椛は怖かった。


 自分がここにいることで、みんなを困らせているのではないか。


 自分が何者か確かめないまま、あの部屋にいていいのか。


 もし自分が本当に、もう必要なくなったものだったら。


 椛は、布団から出た。


 足音を立てないように、そっと立つ。


 輝の部屋のドアは少し開いている。


 中を覗くと、輝はベッドで横向きに眠っていた。片手が布団からはみ出していて、机の上には開いたままのノートがある。そこには、汚い字で「椛」「楓祭り」「御神木」「名前」と書かれていた。


 椛は、その字を見た。


 輝は覚えようとしてくれている。


 椛の名前を。


 椛のことを。


 それが嬉しい。


 嬉しいからこそ、怖い。


「ごめんね、輝お兄ちゃん」


 椛は小さく呟いた。


 起こさない。


 迷惑をかけない。


 自分で確かめる。


 椛は玄関へ向かった。


 新小春モールで買ってもらったスニーカーを履く。まだ少し慣れない。紐を結ぶのに時間がかかったが、綾乃に教わった通り、どうにか形にした。


 楓のヘアピンを髪につける。


 綾乃が買ってくれたワンピースの上に、薄いカーディガンを羽織る。


 うさぎのぬいぐるみは、少し迷って置いていった。


 連れていくと、汚れてしまう気がしたから。


 椛は玄関の扉を開けた。


 夜の空気が、部屋の中へ入ってくる。


 冷たい。


 でも、どこか懐かしい。


 椛は静かに外へ出た。


 小春市の夜は、昼間とは違う町のようだった。


 駅前の明るい通りから離れると、街灯の間に暗い影が落ちる。マンションの窓にはそれぞれ違う明かりが灯り、遠くで車の走る音がする。楓川の方から、水の匂いが流れてくる。


 椛は一人で歩いた。


 道を知っているわけではない。


 でも、足が向かう場所は決まっていた。


 小春神社。


 焼けた御神木のある場所。


 椛の名前を呼んでいた声が残っているかもしれない場所。


 楓川緑道へ出ると、川面に月が映っていた。


 水面の月は、静かに揺れている。


 椛は立ち止まった。


 川が怖かった。


 夢で見た濁流を思い出す。


 黒い水。


 流されるもの。


 泣く子ども。


 それでも、川は同時に懐かしかった。


 灯籠が流れていた。


 人々の願いが浮かんでいた。


 椛は川へ小さく頭を下げた。


 どうしてそうしたのか、自分でもわからない。


 ただ、そうしなければいけない気がした。


 その頃、輝は目を覚ました。


 理由はわからない。


 喉が渇いたわけでもない。


 音がしたわけでもない。


 ただ、ふと目が覚めた。


「……椛?」


 寝ぼけた声で名前を呼ぶ。


 返事はない。


 輝は半分閉じた目で廊下を見る。


 布団がある。


 しかし、そこに椛はいなかった。


 眠気が一瞬で飛んだ。


「椛?」


 今度ははっきり声を出す。


 返事がない。


 輝はベッドから飛び起き、廊下へ出た。


 布団は空。


 うさぎのぬいぐるみが、ぽつんと置かれている。


 玄関を見る。


 椛のスニーカーがない。


「悠樹!」


 輝は叫んだ。


 隣の部屋のドアが開く。


 寝癖のない悠樹が、なぜかすでに半分起きた顔で出てきた。


「何だ、夜中に」


「椛がいない!」


 悠樹の表情が変わった。


 眠気が消える。


「玄関は」


「靴がない」


「携帯を持っていない。行き先は限られる」


「小春神社か?」


「可能性は高い」


 悠樹はすぐに動いた。


 上着を取り、スマートフォンを手にする。


「綾乃に連絡する。星川さんにも」


「オレ、先に行く」


「待て」


「待てない!」


 輝は靴を履きながら叫んだ。


「椛、一人なんだぞ!」


「だからこそ、無闇に走るな。道で見落としたら意味がない」


 悠樹の声は冷静だった。


 その冷静さに、輝は歯を食いしばる。


 正しい。


 でも、じっとしていられない。


 悠樹は短く言う。


「一緒に行く。綾乃は追ってくる。星川さんには神社へ向かうよう送る」


「わかった」


 二人は部屋を飛び出した。


 隣の部屋のドアが開く。


 寝間着の上にパーカーを羽織った綾乃が顔を出した。


「何、こんな時間に――」


「椛がいない!」


 輝が叫ぶ。


 綾乃の顔色が変わった。


「行く」


「着替えろ」


 悠樹が言う。


「三十秒」


「無理だろ」


「やる」


 綾乃はドアを閉めた。


 本当に三十秒後、ジーンズに着替え、髪も適当に結んだ綾乃が出てきた。


「行くわよ」


 輝は頷く。


 三人は夜の小春市へ駆け出した。


 椛は、小春神社の石段の下にいた。


 夜の石段は、昼よりずっと暗い。


 街灯は途中までしかなく、上の鳥居は闇の中にぼんやり浮かんでいる。石段の両側の木々が夜風に揺れ、葉の音がかすかに響く。


 椛は息を整えながら、石段を見上げた。


 怖い。


 でも、行かなければいけない。


 足を一段目に乗せる。


 スニーカーの底に、石の冷たさが伝わる。


 一段。


 また一段。


 上るたびに、夢の中の雨音が近づく。


 椛さま。


 椛さま。


 ありがとう。


 どうか。


 お願いします。


 その声が、石段の隙間から染み出してくるようだった。


 鳥居をくぐる。


 境内は暗かった。


 社務所の窓は黒く、拝殿の鈴の紐は夜の中で灰色に見える。賽銭箱は古び、誰もいない。


 そして奥に、焼けた御神木が立っていた。


 昼に見た時より、ずっと大きく見えた。


 黒い幹。


 折れた枝。


 立入禁止のロープ。


 月明かりが焦げた木肌を白く照らしている。


 椛はロープの手前まで歩いた。


「……お兄ちゃん」


 小さく呼ぶ。


 返事はない。


「椛、来たよ」


 風が吹いた。


 焦げた匂いが、ほんのわずかに鼻をかすめる。


 椛は震えた。


 その時、背後から声がした。


「一人で来たんだね」


 椛は振り返った。


 鳥居の近くに、玉城琥珀が立っていた。


 図書室で見るのと同じ、銀色がかった長い髪。中性的な顔。穏やかな笑み。


 けれど、何かが違う。


 月明かりの下で、琥珀の髪は白銀に近く光っていた。薄い琥珀色の瞳の奥に、赤い火が揺れている。足元には、影のようなものが尾の形を作っていた。


 人間に見える。


 でも、完全には人間ではない。


 椛は一歩下がった。


「玉城……さん?」


「学校では、そう名乗っているよ」


 琥珀は微笑む。


「でも、ここでは、別の呼び方の方が近いかもしれない」


 琥珀の背後で、白い尾の影が揺れる。


 赤い狐火が二つ、三つ、音もなく浮かんだ。


 椛の胸がきゅっと縮む。


「キツネ……」


「そう。白狐。白銀の狐。神の使い。妖狐。火を呼ぶもの。人間は、時代によっていろいろな名前で僕を呼んだ」


 琥珀はゆっくり歩いてくる。


「でも、今夜話したいのは僕のことではない」


 椛は御神木の方へ少し身を寄せた。


 逃げたいのに、足が動かない。


 怖い。


 でも、琥珀の声には不思議な優しさがあった。


 椛の怖さを知っているような。


 椛の痛みを、もうずっと前から知っていたような声だった。


「君のことだよ、椛」


 名前を呼ばれた。


 椛の輪郭が、少しだけ震える。


 輝たちに呼ばれる時とは違う。


 温かいのに、怖い。


 懐かしいのに、冷たい。


 琥珀は立入禁止のロープの前で止まった。


 焼けた御神木を見上げる。


「思い出し始めたんだね」


「……夢を見たの」


「昔の小春市?」


 椛は小さく頷く。


「雨。川。神社。人がいっぱいいて、椛の名前を呼んでた。椛さまって。ありがとうって。お願いって」


「そうだよ」


 琥珀の声は静かだった。


「君は、ここの土地神だった」


 椛は息を止めた。


「土地神」


「小春神社の神。楓川流域を守る神。川を鎮め、子どもを守り、御神木を依り代としていた小さな神様」


 琥珀は御神木へ手を伸ばす。


 ロープの向こうにある焦げた幹へ、触れるような仕草をした。


 直接触れていない。


 それなのに、黒い幹の表面に赤い光が走った。


 楓の葉の幻が、一枚だけ浮かぶ。


 椛は目を見開いた。


「椛が……神様?」


「そう」


「椛、楓川を守ってたの?」


「守っていた」


「子どもたちのことも?」


「守っていた」


「御神木が……椛のおうち?」


「おうち、という言い方も間違ってはいないね。君の形を支えるものだった。人々の祈りを受け止める場所であり、君がこの土地に留まるための依り代だった」


 琥珀の声は優しかった。


 だが、その内容は、椛の胸を締めつけた。


 土地神。


 楓川。


 御神木。


 人々の祈り。


 それは、椛がずっと探していた答えだった。


 でも、答えは同時に、もっと大きな問いを連れてきた。


「じゃあ」


 椛の声が震える。


「どうして、椛は忘れてたの?」


 琥珀は、少しだけ目を伏せた。


「君が忘れたんじゃない」


「え?」


「人間が忘れたんだ」


 風が止まった。


 境内の木々が、一瞬だけ静まり返る。


 椛は琥珀を見た。


「人間が、椛を忘れたの?」


「そうだよ」


 琥珀は答えた。


 声は穏やかだった。


 でも、その奥に長い怒りが沈んでいた。


「人間は忘れる。祈った神さえ、必要がなくなれば忘れる」


 椛の手が震えた。


「必要が……なくなった?」


「楓川は整備された。水害は減った。医者も薬も増えた。子どもが病になれば病院へ行く。川が危なければ行政が工事をする。困った時に、御神木の前で君の名前を呼ぶ必要はなくなった」


「でも」


 椛は首を横に振る。


「でも、みんな、ありがとうって言ってた。椛さまって呼んでた。子どもたちも、笑ってた」


「昔はね」


 琥珀は優しく言った。


「昔は、君を必要としていた。けれど、必要がなくなったら、人間は別のものを見る。新しい町。新しい道路。新しい店。新しい噂。古い神社は遠くなり、御神木はただの老木になり、祭りは商店街のイベント名だけになった」


 椛の目に涙が浮かぶ。


「椛の名前は?」


「資料からも、人の口からも、抜け落ちた」


「どうして」


「誰も呼ばなかったから」


 琥珀の瞳の奥で狐火が揺れた。


「名前は、呼ばれなければ薄くなる。薄くなれば、読めなくなる。読めなくなれば、思い出せなくなる。そうして神は消える」


 椛は御神木を見た。


 黒く焦げた幹。


 折れた枝。


 立入禁止のロープ。


 そこに、自分がいた。


 昔は。


 でも今は、誰も来ない。


 誰も鈴を鳴らさない。


 誰も名前を呼ばない。


 椛は両手で胸を押さえた。


 痛い。


 胸の奥が、ぎゅっと縮んでいる。


 でも、不思議と怒りは湧かなかった。


 悲しかった。


 寂しかった。


 怖かった。


 そして、少し納得してしまった。


 必要がなくなったのなら。


 忘れられたのなら。


 もう、ここにいなくてもいいのかもしれない。


 椛は泣きながら言った。


「じゃあ、椛、消えてもいいの?」


 琥珀の表情が、一瞬だけ変わった。


 穏やかな笑みが消える。


 その奥から、白銀の狐の顔が覗いたように見えた。


「いいわけがない」


 声が低くなった。


 椛は驚いて琥珀を見る。


「君は消えてはいけない」


「でも、椛、もう必要ないんでしょ」


「必要がないと決めたのは人間だ。君が消える理由にはならない」


「でも、椛がいると、輝お兄ちゃんたちも困る。悠樹お兄ちゃんも、お金とか、ご飯とか、心配してる。綾乃お姉ちゃんも、未空お姉ちゃんも、武お兄ちゃんも、みんな椛のために調べてくれてる」


 椛は涙を拭う。


「椛、何もできない。神様だったのに、何も覚えてない。川も守れない。子どもも守れない。お兄ちゃんも見つけられない」


 声が崩れる。


「だったら、椛、消えても仕方ないのかなって」


 琥珀が近づいた。


 狐火が椛の足元で小さく揺れる。


 熱くはない。


 むしろ、少しだけあたたかい。


「僕と来るんだ、椛」


 琥珀は優しく言った。


「君を消させはしない」


 椛は顔を上げる。


「琥珀さんと?」


「そう。人間のところにいても、君はまた傷つくだけだ。あの子たちは今は優しい。君の名前を呼ぶ。君に服を買い、食事を作り、写真を見せる。けれど、彼らも人間だ」


 琥珀の声は、刃物のように静かだった。


「いつか大人になる。町を出る。忙しくなる。忘れる。あるいは、覚えていると言いながら、君を置いていく」


「そんなこと……」


「ないと言える?」


 椛は答えられなかった。


 輝は優しい。


 名前を呼んでくれる。


 でも、ずっと?


 ずっと覚えていてくれる?


 椛は、それを聞くのが怖かった。


 琥珀はさらに言う。


「僕なら覚えていられる。僕は君と同じ、忘れられる側だから。人間に名前を変えられ、恐れられ、歪められても、それでも消えずに残ってきた。君を消さない方法を知っている」


「でも」


「君はまだ知らないだけだ。忘れられたものは、忘れた人間の中に戻ってはいけない」


 琥珀は手を差し出す。


「おいで、椛。人間にもう一度忘れられる前に」


 椛は、その手を見た。


 白く細い手。


 人間の手の形をしている。


 けれど、その指先に狐火が灯っている。


 怖い。


 でも、琥珀は椛を消したくないと言った。


 消えてはいけないと言った。


 その言葉は、今の椛にはあまりにも優しかった。


「椛!」


 石段の方から声が響いた。


 椛は振り返った。


 輝が鳥居をくぐって駆け込んでくる。


 息を切らし、髪は乱れ、靴紐も片方ほどけていた。後ろから悠樹と綾乃も来る。少し遅れて、未空が石段を上りきった。


 未空は息を切らしていない。


 ただ、その顔はいつもより青ざめていた。


「椛!」


 輝がもう一度呼ぶ。


 椛の輪郭が、ほんの少し強くなる。


 胸の奥に、温かいものが灯る。


「輝お兄ちゃん……」


 輝は椛へ駆け寄ろうとして、琥珀の姿を見て足を止めた。


 月明かりの中の琥珀。


 白銀に光る髪。


 足元の狐火。


 揺れる尾の影。


 図書室の穏やかな管理人とは、明らかに違う。


「玉城さん」


 輝の声が硬くなる。


「……いや、違うのか」


 琥珀は微笑んだ。


「学校では玉城琥珀。ここでは、もう少し古い名もある。でも、今は琥珀でいいよ」


 悠樹が輝の隣に立つ。


 綾乃は椛を見て、すぐに叫んだ。


「椛ちゃん、こっちに来て!」


 椛は一歩動こうとした。


 けれど、琥珀の言葉が胸に残っている。


 人間は忘れる。


 いつか大人になる。


 町を出る。


 忙しくなる。


 忘れる。


 輝たちの方へ行きたい。


 でも、行っていいのかわからない。


 未空が静かに言った。


「椛、泣いてる」


 その声で、輝は椛の顔を見た。


 涙で濡れた頬。


 震える手。


 消えそうに薄い輪郭。


 輝の胸が痛くなる。


「椛、何言われたんだ」


 椛は答えられなかった。


 代わりに、琥珀が言った。


「本当のことを教えただけだよ」


「本当のこと?」


「その子が小春神社の土地神だったこと。楓川を守り、子どもたちの祈りを受けていたこと。御神木を依り代としていたこと。人間に忘れられたことで弱り、御神木を焼かれたことで消えかけていること」


 言葉が一つ落ちるたびに、椛の身体が震える。


 輝は琥珀を睨んだ。


「何で今そんなことを言うんだよ」


「知る必要があるから」


「椛がこんな状態なのにか」


「知らないまま消える方がいい?」


 輝は言葉に詰まった。


 琥珀は静かに続ける。


「君たちは優しい。けれど、優しさだけで神は残らない。名前を一度呼んだだけで救えるほど、忘却は軽くない」


 悠樹が低い声で言う。


「あなたは何をするつもりですか」


「椛を消させない」


「そのために?」


「小春市に、忘れられたものを思い出させる」


 琥珀の声が、少しだけ暗くなる。


「人間が忘れたなら、忘れられない形で刻むしかない。恐れでも、噂でも、神隠しでも。どんな形でも、消えるよりはいい」


 未空は琥珀の背後を見た。


 狐火が揺れている。


 その火は御神木の根元へ伸び、黒い幹の中に残る赤い光とつながっているように見えた。


 この人は、本気だ。


 椛を消したくない。


 それは嘘ではない。


 でも、そのために何かを歪めようとしている。


 未空には、そう見えた。


 綾乃が怒った声を出した。


「椛ちゃんを怖がらせて、連れていくのが救うことなの?」


「人間の部屋で、かわいい服を着せて、名前を呼んで、いつか忘れるよりは誠実だと思うよ」


「忘れないわよ!」


 綾乃が叫ぶ。


 琥珀は、少し悲しそうに笑った。


「今はね」


 その一言で、綾乃も言葉を詰まらせる。


 未来のことは、誰にもわからない。


 ずっと覚えていると、今ここで言うのは簡単だ。


 でも、十年後。


 二十年後。


 もっと先。


 人間である彼らは変わる。


 暮らしも、町も、関係も変わる。


 その事実を否定することはできなかった。


 琥珀は、輝を見た。


「真堂輝」


 名を呼ばれ、輝は息を呑む。


「君はその子を、いつまで覚えていられる?」


 境内が静まり返った。


 夜風がロープを揺らす。


 焦げた御神木が、月明かりの下で黒く立っている。


 椛は輝を見た。


 涙の残る目で。


 答えを求めるように。


 縋るように。


 輝は、口を開いた。


 覚えている。


 ずっと覚えている。


 そう言えばいい。


 言いたかった。


 けれど、言葉が出なかった。


 いつまで。


 その問いが、重すぎた。


 明日なら答えられる。


 来週も、きっと覚えている。


 来年だって、忘れたくない。


 でも、ずっと?


 大人になっても?


 町を離れても?


 何十年も?


 自分が死ぬまで?


 それでも、椛を忘れないと言い切れるのか。


 軽い言葉で椛を傷つけたことがある。


 面白がって泣かせたことがある。


 そんな自分が、ここで「ずっと覚えている」と言っていいのか。


 輝は答えられなかった。


 その沈黙が、何よりも残酷だった。


 椛の瞳が揺れる。


「輝お兄ちゃん……」


「違う」


 輝はかすれた声で言った。


「違うんだ、椛。忘れるつもりなんかない。オレは――」


「いつまで?」


 琥珀が静かに問う。


 輝の言葉が止まる。


 答えられない。


 それが答えのように、境内へ落ちた。


 椛は俯いた。


 小さな手が、ワンピースの裾を握る。


「そっか」


 その声は、とても小さかった。


「椛、やっぱり、消えても仕方ないのかな」


「違う!」


 輝が叫ぶ。


「違う、椛! それは違う!」


 しかし、何が違うのか。


 どう違うのか。


 どう言えば椛に届くのか。


 今の輝には、まだわからなかった。


 琥珀は椛へ手を伸ばす。


「おいで」


 椛は動かなかった。


 輝たちの方へも、琥珀の方へも行けない。


 ただ、御神木の前で震えている。


 その時、未空が椛の名前を呼んだ。


「椛」


 静かな声。


 椛は少しだけ顔を上げる。


「今は、決めなくていい」


 未空は言った。


「消えるかどうかも、誰と行くかも、今決めなくていい」


「でも」


「怖い時に決めなくていい」


 未空の言葉は短い。


 でも、まっすぐだった。


 綾乃も続ける。


「そうよ。怖いこと言われて、泣いてる時に決めたことなんて、あとで撤回していいの」


 悠樹が静かに言う。


「今日は帰ろう。話はそれからでいい」


 輝は椛を見た。


 今度は、約束をしなかった。


 ずっと覚えていると言い切れなかった。


 だから、今言えることだけを言った。


「椛、帰ろう」


 声が震えていた。


「オレ、今はちゃんと答えられない。でも、今ここで椛を一人にしたくない。帰ろう」


 椛は輝を見た。


 答えられなかった輝。


 でも、名前を呼んでくれた輝。


 ずっとを約束できない輝。


 でも、今ここで帰ろうと言ってくれる輝。


 椛は、ゆっくり一歩踏み出した。


 琥珀の方ではなく、輝たちの方へ。


 琥珀は止めなかった。


 ただ、静かに見ていた。


 椛は輝の前まで来ると、そこで足を止めた。


「輝お兄ちゃん」


「何だ」


「椛、まだ、わからない」


「うん」


「琥珀さんの言うことも、こわいけど、わかる気がする」


「うん」


 輝は唇を噛みながら頷いた。


 否定したかった。


 でも、できなかった。


 琥珀の言葉には、一理あった。


 人間は忘れる。


 椛は本当に忘れられていた。


 その事実を、輝は否定できない。


「でも、今日は帰る」


 椛は小さく言った。


「輝お兄ちゃんたちと、帰る」


 輝の胸が熱くなる。


「うん」


 輝は椛の手を取ろうとして、少しだけ迷った。


 椛が自分で決めたことを、勝手に引っ張ってしまっていいのか。


 すると椛の方から、小さな手を差し出した。


 輝は、その手を握った。


 冷たい。


 でも、確かにそこにある。


 綾乃がそっと椛の背中に手を添える。


 悠樹は琥珀から視線を外さない。


 未空も、琥珀の背後の狐火を見つめている。


 琥珀は微笑んだ。


「今日は、ね」


 その言葉に、輝は振り返る。


「琥珀さん」


「また会おう、椛」


 琥珀は椛だけを見て言った。


「君が本当に消えたくないと思う日まで、僕は待つよ」


 狐火が強く揺れた。


 次の瞬間、風が吹く。


 月明かりが一瞬だけ遮られ、境内が暗くなる。


 輝が瞬きをした時、琥珀の姿は消えていた。


 足元の狐火もない。


 ただ、焼けた御神木と、立入禁止のロープと、夜の静けさだけが残っている。


 椛は、琥珀が立っていた場所を見つめていた。


 その目は、まだ揺れている。


 輝は何か言おうとした。


 でも、言葉が見つからなかった。


 ずっと覚えている。


 そう言えなかった。


 その事実が、喉に刺さっている。


 悠樹が静かに言う。


「帰ろう」


 誰も反対しなかった。


 石段を下りる。


 椛は輝の手を握っていた。


 途中で綾乃が「靴紐ほどけてる」と輝を叱り、悠樹が「転ぶ前に結べ」とため息をついた。いつものやり取りのはずなのに、今夜は少しだけ遠く聞こえた。


 未空は、一番後ろで神社を振り返った。


 鳥居の奥。


 焼けた御神木のそばに、白い狐の影が一瞬だけ見えた。


 その狐は、こちらを見ていた。


 怒っているようで。


 泣いているようで。


 すぐに、闇へ溶けた。


 マンションへ戻るまで、椛はほとんど喋らなかった。


 輝も喋らなかった。


 部屋に戻ると、悠樹が温かい麦茶を入れた。綾乃は椛のスニーカーを脱がせ、未空は椛のそばに座った。


 椛は布団に戻る前に、うさぎのぬいぐるみを抱きしめた。


「椛」


 輝が呼ぶ。


 椛は振り返る。


「おやすみ」


 言いたいことは他にもあった。


 忘れない。


 消えるな。


 ここにいろ。


 でも、今の輝がそれを言えば、また軽くなってしまう気がした。


 だから、言えることだけを言った。


「おやすみ、椛」


 椛は少しだけ目を伏せた。


「おやすみ、輝お兄ちゃん」


 その夜、椛は眠った。


 けれど、その寝顔は前より少し寂しそうだった。


 輝は眠れなかった。


 スマートフォンも見なかった。


 ただ、暗いリビングの中で座り込み、琥珀の問いを何度も思い出していた。


 君はその子を、いつまで覚えていられる?


 答えられなかった。


 それが悔しい。


 情けない。


 椛を守りたいと思った。


 でも、守るという言葉が、こんなに重いものだとは知らなかった。


 輝は拳を握った。


 今は、答えられない。


 でも、いつか答えなければならない。


 その時、自分は何と言うのだろう。


 窓の外では、小春市の夜が静かに眠っている。


 楓川の水面には月が映り、小春神社の焼けた御神木は闇の中で黒く立っている。


 そして、どこかで。


 白い狐が、忘れられた神の名前を抱えたまま、赤い火を静かに揺らしていた。

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