第十三章 夜の神の裏切り
その日の放課後、星川未空は図書室へ行かなかった。
廊下で真堂輝に呼び止められた時も、未空は一度だけ振り返っただけだった。
「星川さん、今日、図書室行かないのか?」
「行かない」
「体調悪い?」
「悪くない」
「じゃあ、何か用事?」
輝の声には心配が混じっていた。
以前の輝なら、ただ不思議そうに首を突っ込んできただけだったかもしれない。今は違う。椛のこと、琥珀のこと、白狐のこと、小春神社のこと。いくつもの出来事を通して、輝は誰かの様子が少し違うことを気にするようになっていた。
未空はそれを感じた。
けれど、今日は説明しなかった。
「玲と話す」
短く答える。
輝の表情が変わった。
「月代さんと?」
「うん」
「それ、今じゃないと駄目か?」
「今じゃないと駄目」
輝は言葉を探すように視線を動かした。
昨夜、小春神社で琥珀が椛に接触した。
その場に玲はいなかった。
けれど、琥珀と玲がつながっているかもしれないことは、もう未空の中ではほとんど確信に近かった。
輝も、それを感じ取ったのだろう。
「一人で行くのか」
「うん」
「オレも――」
「来ないで」
未空は輝の言葉を遮った。
声は大きくない。
でも、はっきりしていた。
「これは、あたしが聞かないといけない」
輝は口を閉じた。
未空は、輝の隣にいる悠樹を見た。悠樹は黙ってこちらを見ていた。止めるべきかどうか、かなり冷静に判断している顔だった。
「危ない可能性がある」
悠樹が言った。
「わかってる」
「それでも一人で行くのか」
「うん」
「理由は」
「玲は、あたしの友達だから」
その言葉を口にした瞬間、未空の胸が少し痛んだ。
友達。
まだ、そう呼んでいいのか。
わからない。
でも、そう呼ばなければ、あの並んで帰った時間まで全部消えてしまう気がした。
悠樹はしばらく黙った。
それから、短く息を吐く。
「場所は」
「楓川緑道」
「何かあったらすぐ連絡を」
「できたら」
「できたらでは困る」
「でも、できないかもしれない」
未空の言葉に、輝の顔がさらに険しくなる。
「星川さん」
「輝くん」
未空は、珍しく輝の名前を呼んだ。
輝は驚いたように黙る。
「追いかけないで」
「……でも」
「お願い」
輝は何か言いたそうだった。
だが、結局、言葉を飲み込んだ。
「わかった。でも、遅かったら行く」
「うん」
「ほんとに行くからな」
「うん」
「オレ、そういうのは空気読まないぞ」
「知ってる」
未空がそう言うと、輝は少しだけ苦い顔をした。
「それ、褒めてないよな」
「たぶん」
「たぶんか」
いつものようなやり取り。
けれど、その軽さは長く続かなかった。
未空は二人から離れ、校舎を出た。
空はすでに夕方から夜へ向かっていた。
西の赤みは薄れ、東の空には月が出ている。白く、静かな月。川へ向かう道を歩くにつれ、町の音は少しずつ遠くなっていった。
未空は、玲へメッセージを送っていた。
楓川緑道で話したい。
返事は短かった。
わかった。
それだけだった。
未空は、その短さに玲らしさを感じた。
同時に、怖くもなった。
いつもと同じだからこそ。
何かが変わっていることを、認めたくなくなる。
楓川緑道に着く頃には、空はほとんど夜だった。
街灯が白く道を照らしている。
川面には月が映り、水の流れに合わせて細かく揺れていた。風は少し冷たい。桜並木は若葉を濃くし、葉の隙間から月の光が落ちている。
ここを、玲と何度も歩いた。
黙って歩いた。
少しだけ話した。
見えるものの話をした。
人間ではなかったらどうするか、と玲が聞いた夜もあった。
未空はその時、答えた。
たぶん、驚く。
怖いとも思う。
でも、それだけではない。
玲は、玲だから。
今も、その答えは嘘ではなかった。
だからこそ、痛かった。
「未空」
声がした。
玲は、川沿いのベンチのそばに立っていた。
制服姿。
長い黒髪。
月明かりを受けて、髪の縁が銀色に光っている。
その姿はいつも通りだった。
いつも通り、静かで、綺麗で、近寄りがたい。
でも未空には、玲の周囲に夜が濃くまとわりついているのが見えた。
街灯の下にいるのに、玲の足元だけ影が深い。
川面の月の光が、彼女の影へ吸い込まれているようだった。
「玲」
未空は名前を呼んだ。
玲の瞳が、ほんの少し動く。
それだけで、未空にはわかった。
玲はその名前に反応している。
月代玲。
人間の世界での名前。
自分が呼んできた、友達の名前。
「話とは何だ」
玲が聞いた。
声はいつもと同じだった。
未空は一歩近づく。
「琥珀さんと会ってる?」
玲は表情を変えなかった。
「玉城琥珀のことか」
「うん」
「学校の図書室管理人だ。会うことはある」
「小春神社でも?」
沈黙。
風が、川沿いの葉を揺らした。
玲は未空を見ている。
未空も目を逸らさない。
「何の話だ」
玲は静かに言った。
否定ではない。
問い返し。
未空は胸の奥が冷えるのを感じた。
「椛が夜、小春神社に行った。琥珀さんがいた。白狐みたいな姿だった。玲はそこにいなかった」
「なら、私とは関係ない」
「本当に?」
「ああ」
玲の答えは滑らかだった。
滑らかすぎた。
未空は、玲の背後を見た。
影が揺れている。
人の形をしていない。
夜そのものが、玲の足元から川へ広がっている。
「白狐火災も?」
「私が火を放ったとでも?」
「そうじゃない」
「なら、何を聞きたい」
玲の声が少し冷たくなる。
未空は唇を結んだ。
言葉が足りない。
いつもそうだ。
見えたものを、どう言えばいいかわからない。
でも、今日は言わなければならない。
「玲は、琥珀さんのことを知ってた」
「なぜそう思う」
「初めて図書室で話した時、気をつけた方がいいと言った」
「誰でもそう思うだろう。銀色の髪の不審な管理人だ」
「そういう意味じゃなかった」
未空は首を横に振る。
「玲は、あの人が人間じゃないかもしれないって知ってた」
「君がそう言ったからだ」
「違う」
未空の声が少しだけ強くなった。
「玲は、椛を見た時も変だった。椛は玲を怖がった。玲の手は椛に触れなかった。神社の夜、琥珀さんの話をしてる時、玲はいつも何か知ってる顔をしてた」
「思い込みだ」
「そうかもしれない」
未空は認めた。
自分の霊視は、答えではない。
見えるだけ。
間違うこともある。
わからないことの方が多い。
でも。
「でも、玲は人間じゃないんでしょう」
言った。
言ってしまった。
川の音が、遠くなった気がした。
玲は黙った。
否定しなかった。
未空は、その沈黙だけで胸が痛くなった。
ああ。
やっぱり。
気づいていた。
ずっと前から。
でも、言葉にしたくなかった。
言葉にすれば、友達の形が壊れるから。
街灯が、一つ消えた。
未空は振り返る。
緑道に並ぶ街灯のうち、少し離れたものがふっと暗くなっている。
次に、もう一つ。
ぱちん、と小さな音を立てて消える。
川沿いの道が、少しずつ夜に沈んでいく。
人通りはない。
さっきまで聞こえていた自転車の音も、遠くの車の音も、いつの間にか消えていた。
楓川の水音だけがある。
そして、月明かり。
玲の影が広がった。
人の影ではなかった。
長く、薄く、黒い水のように地面を這い、街灯の明かりの外へ伸びていく。影の中には、月の欠片のような白い光がいくつも浮かんでいた。
玲は、ゆっくりと言った。
「そうだ」
未空の息が止まる。
「私は人間ではない」
玲の声は、もう教室で聞く月代玲の声ではなかった。
もっと古く、もっと冷たく、夜の底から響くような声。
月明かりが彼女の髪を銀色に変えていく。
黒い制服の輪郭が揺れ、影が重なる。
未空には、玲の背後に夜空が見えた。
星のない夜。
戸を閉めた家々。
火を消した村。
人々が暗闇を恐れ、月に祈り、夜に名前を与えようとした時代。
「月夜霊尊」
玲が言った。
その名が、川面に落ちる。
月が揺れる。
「夜に呼ばれ、夜に忘れられたもの」
未空は、胸の奥を強く掴まれたような気がした。
月夜霊尊。
それが玲の真名なのだと、本能的にわかった。
完全な名ではないのかもしれない。
けれど、それは月代玲という人間の名前の奥に隠れていた、本当の輪郭だった。
「玲……」
「月代玲は、人間の中で暮らすための名だ」
玲は静かに言う。
「学校へ通り、制服を着て、学級委員を務め、人間のように振る舞うための名にすぎない」
「じゃあ」
未空の声が震えた。
「じゃあ、あたしと一緒に帰ってたのも?」
玲は答えない。
「図書室で隣に座ったのも」
玲は黙っている。
「黙って歩いたのも。川を見たのも。あたしが見えるって言っても、変な顔しなかったのも」
言葉が、勝手にこぼれる。
「全部、月代玲っていう名前の演技だったの?」
玲の表情が、一瞬だけ揺れた。
本当に一瞬だった。
けれど未空には見えた。
見えてしまった。
玲は傷ついている。
今の言葉で、ちゃんと傷ついている。
それなのに、玲はその傷をすぐに夜の中へ沈めた。
「必要だった」
冷たい声。
「君は見える。小春神社の異変にも、琥珀の狐火にも、椛の薄さにも気づく。近くにいれば、君がどこまで見えているか知ることができた」
未空は、言葉を失った。
玲は続ける。
「君との時間は、都合がよかっただけだ」
その言葉は、刃物みたいだった。
未空の中で、何かが静かに切れた。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと先にある、音のない空白。
未空は、玲を見ていた。
目の前にいるのは、玲だ。
月代玲。
月夜霊尊。
友達だった人。
友達ではなかったかもしれないもの。
「嘘」
未空は小さく言った。
玲の瞳が揺れる。
「何が」
「今の、嘘」
「違う」
「嘘だよ」
未空は一歩近づいた。
足元の影が冷たい。
夜が足首に触れるような感覚がある。
それでも、未空は立ち止まらなかった。
「玲は、嘘をつくのが下手」
「君が私の何を知っている」
「知らない。何も知らない」
未空は正直に言った。
「月夜霊尊なんて知らない。夜に呼ばれたとか、夜に忘れられたとか、そういうのも知らない。でも、玲のことは少し知ってる」
「人間の名だ」
「それでも」
「仮の姿だ」
「それでも」
未空の声が震える。
「玲は、あたしの隣で黙って歩いてくれた」
川面の月が揺れた。
「言葉がなくても、隣にいてくれた。あたしが見えるって言っても、騒がなかった。急かさなかった。変だって言わなかった」
玲の口元が、わずかに引き結ばれる。
「だから、友達だったことも嘘なの?」
未空は問うた。
その言葉は、プロットでも資料でもなく、未空自身の胸から出たものだった。
玲は、すぐには答えなかった。
夜の影が揺れる。
街灯がまた一つ消えた。
残る灯りは少ない。
楓川緑道は、現実の小春市から少しずつ切り離されている。
玲は、未空を見ていた。
冷たい顔を保とうとしている。
でも、できていない。
未空には見える。
玲の中で、何かが軋んでいる。
並んで帰った道。
ベンチに座って月を見た時間。
未空が「玲は玲だから」と言った夜。
それらは、玲の中にも残っている。
残っているからこそ、玲はそれを壊そうとしている。
「嘘だった」
玲は言った。
未空の呼吸が止まる。
「すべて、必要だっただけだ」
玲の声は冷たかった。
冷たくしようとしていた。
「君は、見える人間だった。椛に触れられる人間だった。琥珀にとっても、私にとっても、君の目は都合がよかった」
未空は唇を噛んだ。
涙は出なかった。
涙が出るより先に、胸が凍ってしまったようだった。
「そう」
未空は言った。
声は、自分でも驚くほど小さかった。
「都合が、よかったんだ」
「そうだ」
玲が答える。
その答えのあと、玲の影が急に広がった。
夜が足元から立ち上がる。
未空は身構えた。
「玲?」
「これ以上、近づくな」
玲の声が夜に沈む。
「君は見えすぎる。だが、見えるだけだ」
その言葉が、未空の胸を刺した。
見えるだけ。
自分で何度も言ってきた言葉。
玲が一番、未空の痛いところを知っている。
知っているから、そこを突いてきた。
「見えても、止められない。見えても、守れない。椛が薄くなっても、君は呼ぶことしかできない。琥珀が動いても、君は見ることしかできない。私が人間でないと気づいても、君は何もできなかった」
「……うん」
未空は頷いた。
「何もできなかった」
認めるしかなかった。
玲の言葉は、痛いほど正しかった。
見える。
でも、わからない。
わかっても、何もできない。
だから、いつも黙っていた。
踏み込めなかった。
友達の正体にも。
友達が苦しんでいるかもしれないことにも。
未空は、見ていたのに何もしなかった。
夜が、未空の周囲を包む。
川沿いの道が消えていく。
街灯も、ベンチも、住宅地の灯りも遠ざかる。
気づけば未空は、黒い水面の上に立っていた。
いや、立っているように見えた。
足元には楓川があるはずなのに、水は沈まない。月が大きく、水面いっぱいに映っている。その月の上に、未空は一人で立っていた。
周囲は夜。
どこまでも広がる夜。
遠くに玲がいる。
しかし、距離がわからない。
すぐ近くにも見える。
手の届かないほど遠くにも見える。
「ここは」
未空の声が、夜に吸い込まれる。
「夜の神域」
玲が答えた。
「君の霊視に、私の夜を重ねた。しばらく、ここからは出られない」
「閉じ込めるの」
「ああ」
「どうして」
「君が邪魔だから」
玲の声は冷たい。
でも、未空にはその奥の揺れが聞こえてしまう。
邪魔だから。
そう言いながら、本当は。
未空をこれ以上先へ進ませたくない。
琥珀の計画の中心から遠ざけたい。
自分が完全に向こう側へ行くために、未空を置き去りにしたい。
そういう矛盾した感情が、夜の中で滲んでいる。
「玲」
未空は呼んだ。
しかし、声は届かない。
名前が、夜の底へ沈む。
月夜霊尊。
夜に呼ばれ、夜に忘れられたもの。
その名を持つ玲の神域では、未空の声はあまりにも小さかった。
周囲に、いくつもの景色が浮かぶ。
教室。
図書室。
楓川緑道。
ベンチ。
並んで歩いた道。
玲の横顔。
玲が「見えるだけでも、見えない者よりは近い」と言ってくれた夜。
全部が見える。
未空には見える。
でも、手を伸ばしても触れられない。
景色は水面の反射みたいに揺れ、指先が触れた瞬間に消えてしまう。
「やめて」
未空は呟いた。
何に向けた言葉なのか、自分でもわからない。
玲にか。
夜にか。
自分の目にか。
見えるだけの自分にか。
何もできない。
見えているのに、何もできない。
その無力感が、未空の胸を押し潰す。
膝をつきそうになった時、遠くで声がした。
「星川さん!」
輝の声。
未空は顔を上げた。
夜の神域の向こう、楓川緑道の現実側で、誰かが走ってくる気配がある。
「未空!」
今度は綾乃の声。
いつもよりずっと強い。
怒っていて、泣きそうで、それでもまっすぐな声。
夜の水面に、ひびが入った。
玲の表情がわずかに動く。
「……来たか」
玲が呟く。
現実の楓川緑道では、輝たちが駆け込んできていた。
輝、悠樹、綾乃、そして少し遅れて武。
椛はマンションに残してきた。これ以上不安定な椛を夜の異変へ連れてくるわけにはいかないと、悠樹が判断したのだ。
綾乃は息を切らしながら、街灯の消えた道を見た。
そこに未空がいる。
でも、未空はすぐそこにいるのに、遠い。
月明かりの水面の向こうに立っているように見える。
その前に、玲が立っていた。
月代玲。
いや、もうそれだけではない。
月明かりの中で、玲の影は人の形をしていなかった。夜そのものが少女の姿を取っているようだった。
武は息を呑んだ。
「月代さん……?」
声が震えている。
オカルト好きの武でも、いや、オカルト好きだからこそわかる。
これは面白がっていいものではない。
本物だ。
本物の、人間ではないもの。
そして、それが未空を傷つけている。
「玲!」
綾乃が叫んだ。
玲はそちらを見る。
綾乃は迷わず走った。
悠樹が「待て」と言う前に、綾乃は未空へ向かって手を伸ばしていた。
夜の壁がある。
普通なら触れられない。
けれど、綾乃はそんなことを知らない。
知らないから、止まらなかった。
「未空!」
綾乃の手が、夜の膜に触れた。
ばちん、と小さな音がする。
綾乃の指先に冷たい痛みが走った。
「痛っ……!」
「綾乃!」
輝が駆け寄る。
綾乃はそれでも手を引かなかった。
「離さない!」
彼女は叫んだ。
「未空、こっち!」
夜の神域の中で、未空は綾乃の声を聞いた。
見えるだけ。
何もできない。
そう思っていた。
でも、綾乃は見えないのに手を伸ばしている。
何が起きているのか、きっとほとんどわかっていない。
玲が何者かも、夜の神域が何なのかも、難しいことはわからない。
それでも、未空へ手を伸ばしている。
未空は、その手へ向かって歩いた。
足元の月が揺れる。
夜が重い。
玲の神域が、未空を引き留める。
見えるだけの自分。
何もできない自分。
その声が頭の中で何度も響く。
でも、未空は手を伸ばした。
自分から。
綾乃の手へ。
指先が触れた瞬間、夜にひびが入った。
輝も未空の名前を呼ぶ。
「星川さん!」
悠樹が状況を見て、冷静に言う。
「未空さんの名前を呼べ! 意識をこちらへ引き戻す!」
「星川さん!」
武も叫ぶ。
「未空さん!」
綾乃は涙目で叫んだ。
「未空!」
名前が重なる。
未空。
未空。
未空。
見えるだけの自分ではない。
名前を呼ばれている自分がいる。
未空は、夜の中で初めてはっきり声を出した。
「綾乃」
その瞬間、夜の膜が破れた。
未空の身体が現実の楓川緑道へ倒れ込む。
綾乃がそれを受け止めた。
勢いで二人とも地面に座り込む。
「未空!」
綾乃は未空を抱きしめた。
強く。
痛いくらいに。
未空は、最初少し驚いた。
それから、綾乃の腕の中で息をした。
温かい。
人間の体温。
夜ではない。
水面ではない。
ここは現実だ。
「大丈夫? どこか痛い? 寒くない? 玲に何されたの?」
綾乃が一気に聞く。
未空は答えようとして、声が出なかった。
代わりに、綾乃の袖を掴んだ。
綾乃はそれだけで、さらに強く抱きしめた。
「もういい。今は言わなくていい」
輝は玲を睨んでいた。
「月代さん……いや、玲」
玲は黙っている。
影はまだ広がっている。
しかし、さっきより少し揺らいでいた。
未空を閉じ込めきれなかった。
綾乃が、見えないまま壊した。
それが玲にとっても予想外だったのだろう。
綾乃は未空を抱きしめたまま、顔を上げた。
その目は怒っていた。
悲しいほどまっすぐに怒っていた。
「玲」
呼び捨てだった。
玲の瞳が動く。
「アタシ、難しい事情なんか知らない」
綾乃は言った。
「神様とか、夜とか、琥珀さんとか、人間が忘れたとか、そういうの、ちゃんと説明されたって多分半分もわからない」
声が震えている。
でも、退かない。
「でも、未空を傷つけたことは、なかったことにしないで!」
その言葉に、玲の表情が揺れた。
はっきりと。
冷たい顔が崩れかける。
綾乃は続けた。
「未空は、あんたのこと友達だと思ってた。人間じゃないかもしれないって気づいてても、踏み込まないでいた。壊したくなかったからでしょ。大事だったからでしょ」
未空の腕が、綾乃の服を強く握る。
「それを、都合がよかっただけとか、嘘だったとか。そんな言葉で切り捨てるな!」
玲は何も言わない。
月明かりが、その横顔を照らす。
輝は、その表情を見てしまった。
玲は傷ついている。
綾乃の言葉で。
未空の沈黙で。
自分が言った冷たい言葉で。
でも、戻らない。
戻れないようにしている。
輝には、それが少しだけわかった。
小春神社で琥珀に問いを突きつけられた時、答えられなかった自分がいた。
人外の痛み。
忘れられる側の痛み。
それは確かにある。
琥珀の言葉にも、玲の怒りにも、一理あるのかもしれない。
でも今、目の前では未空が傷ついている。
人間側にも痛みがある。
それをなかったことにはできない。
「玲」
未空が、綾乃の腕の中で声を出した。
かすれた声だった。
玲は、未空を見る。
未空は泣いていなかった。
泣けないほど、傷ついているように見えた。
「都合がよかっただけなら」
未空は言った。
「どうして、そんな顔するの」
玲の喉が小さく動いた。
答えはない。
遠くで、赤い狐火が揺れた。
楓川の向こう岸。
木々の影の中。
玉城琥珀の姿は見えない。
けれど、赤い火だけがそこにある。
玲はその火を見た。
そして、表情を消した。
「これ以上、近づくな」
玲は言った。
声は再び冷たくなっていた。
「未空。君はもう、私のそばに来るべきではない」
「玲」
「次に来れば、もっと深い夜に閉じ込める」
未空の指が震える。
綾乃が未空を庇うように抱きしめる。
輝が一歩前へ出る。
「待てよ」
玲は輝を見た。
「何を待つ」
「逃げるなよ。言いっぱなしで、未空を傷つけて、それで終わりかよ」
「終わりだ」
「違うだろ」
輝は拳を握った。
「おまえ、完全に冷たい顔できてない。未空を傷つけて、自分も傷ついてる。だったら――」
「人間が、わかったような口を利くな」
玲の声が夜を震わせた。
輝は息を呑む。
「君たちはいつもそうだ。少し見えれば理解した気になる。少し優しくすれば救える気になる。名前を呼べば残せる気になる。だが、人間は忘れる。変わる。いなくなる」
玲の影が広がる。
「未空も、いつか私を忘れる」
「そんなの」
輝は言い返しかけて、止まった。
言えない。
琥珀に問われたことと同じだ。
いつまで覚えていられる。
その問いに、自分は答えられなかった。
玲はそれを見抜いたように、少しだけ目を伏せた。
「だから、先に壊す」
玲は言った。
「忘れられる前に。置いていかれる前に。人間の側に戻れなくなる前に」
その言葉は、誰に向けたものだったのか。
未空へか。
輝たちへか。
それとも、自分自身へか。
玲は踵を返した。
夜の影が、彼女の足元で道を作る。
「玲!」
未空が呼んだ。
玲の背中が一瞬止まる。
未空は立ち上がろうとした。
綾乃が支え、輝も手を貸す。
「玲」
未空はもう一度呼ぶ。
声は震えていた。
「本当に、全部嘘だったの?」
玲は振り返らなかった。
長い沈黙。
川の音。
月明かり。
遠くの狐火。
やがて玲は、低く答えた。
「そう思えばいい」
未空の表情が崩れた。
それは「嘘だった」よりも残酷な答えだった。
玲は最後まで、言い切れなかった。
でも、戻りもしなかった。
夜が彼女を包む。
月明かりの中で、玲の姿は少しずつ薄くなる。
消える直前、輝には見えた。
玲の横顔に、たった一瞬だけ浮かんだ痛み。
そして、未空を見ないようにしている目。
次の瞬間、玲は夜の中へ消えた。
赤い狐火も、遠くで一度揺れ、消えた。
街灯が戻る。
一つ。
また一つ。
消えていた灯りが、ぱちん、ぱちんと点いていく。
楓川緑道は、普通の夜の道に戻っていた。
川の音が近い。
住宅地の灯りが見える。
遠くで自転車のベルが鳴った。
さっきまでの夜の神域が、まるで嘘だったかのように。
でも、未空の震えは嘘ではなかった。
綾乃は、未空をもう一度抱きしめた。
「大丈夫じゃなくていいから」
綾乃は言った。
「今は、大丈夫って言わなくていいから」
未空は黙っていた。
それから、ほんの少しだけ頷いた。
「……うん」
その声は小さかった。
輝は何も言えなかった。
悠樹も、しばらく黙っていた。
武は唇を噛み、玲が消えた場所を見ている。
彼はきっと怖がっている。
月代玲が本当に人間ではなかったことに。
自分が「夜っぽい」と軽く言っていた相手が、本物の夜の神だったことに。
でも、それ以上に、未空の傷つき方を見てしまった。
だから、彼は何も面白がれなかった。
輝は川面の月を見た。
水に映る月は、さっきと同じように揺れている。
同じ場所。
未空と玲が並んで歩いた場所。
静かな沈黙が友達の証だった場所。
そこが、裏切りの場所になってしまった。
でも。
輝は思った。
それだけで終わらせていいのか。
玲は「そう思えばいい」と言った。
嘘だったとは言い切らなかった。
友達だった時間を、自分で完全には消せなかった。
それなら。
まだ、何かが残っているのかもしれない。
椛の名前と同じように。
忘れられた祭りの灯籠と同じように。
完全に消えていないものが。
輝は、未空を見た。
今は言葉にできない。
励ますことも、簡単に「大丈夫」と言うこともできない。
だから、ただ名前を呼んだ。
「星川さん」
未空がゆっくり顔を上げる。
輝は言った。
「帰ろう」
未空は少しだけ瞬きをした。
綾乃が支えている。
悠樹が周囲を確認している。
武が黙って立っている。
誰も、急かさない。
未空は小さく頷いた。
「うん」
夜の楓川緑道を、五人はゆっくり歩き出した。
未空は何度も振り返りそうになった。
けれど、振り返らなかった。
振り返ったら、玲が立っているかもしれない。
もういないかもしれない。
どちらも怖かった。
胸の奥で、玲の声が残っている。
君との時間は、都合がよかっただけだ。
そう思えばいい。
未空は、その言葉を抱えたまま歩いた。
痛い。
でも、痛いということは、たぶん本当に大事だったということだ。
見えるだけ。
何もできない。
そう思っていた。
でも、綾乃の手を取ることはできた。
名前を呼ぶことはできた。
玲の嘘を、嘘だと言うことはできた。
それが何になるのかは、まだわからない。
けれど、何もできないわけではなかったのかもしれない。
未空は、夜の川を見た。
月が揺れている。
水面の月は、さっきより少しだけ遠く見えた。
その頃、小春神社の奥では、白い狐火が一つ灯っていた。
玉城琥珀は、焼けた御神木の前に立っている。
その隣に、玲が現れた。
月明かりをまとった少女は、いつもの無表情に戻っている。
しかし、指先だけがわずかに震えていた。
琥珀はそれを見た。
「切れた?」
玲は答えない。
「人間との縁は、早いうちに切る方がいい。長引くほど痛む」
「わかっている」
玲の声は低かった。
「なら、いい」
琥珀は御神木を見上げる。
「夜の力は、これから必要になる。君にはまだ働いてもらうよ」
「わかっている」
玲は同じ言葉を繰り返した。
琥珀は少しだけ笑う。
「迷っていないね」
玲は月を見た。
川面に映る月ではない。
空にある、本物の月。
その光は冷たく、遠い。
「迷っていない」
玲は言った。
その声は静かだった。
けれど、夜のどこかで、未空に呼ばれた名前がまだかすかに震えていた。
玲。
その人間の名前が、月夜霊尊の胸の奥で、消えずに残っていた。




