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第十四章 楓、目覚める

 朝になっても、部屋の空気は重かった。


 カーテンの隙間から差し込む光は、いつもと同じ朝の色をしていた。台所では葵城悠樹が味噌汁を温めている。トースターが小さな音を立て、フライパンの上で卵が焼ける匂いが広がっている。


 それだけ見れば、いつもの朝だった。


 けれど、誰もいつもの声を出せなかった。


 真堂輝はリビングの床に座ったまま、食卓の方を見ていた。いつもなら朝から「眠い」「学校行きたくない」「悠樹、オレの代わりに出席してきて」などと無茶苦茶を言うところだが、今日は何も言わない。


 言えなかった。


 ソファーには椛が座っている。


 新小春モールで買ったワンピースではなく、いつもの白い千早と紅い袴。けれど、髪には楓のヘアピンがついていた。膝の上には、うさぎのぬいぐるみ。小さな手でその耳を握っている。


 椛は昨夜から、ほとんど喋っていない。


 輝が「おはよう、椛」と呼ぶと、小さく「おはよう」と返した。悠樹が朝食を食べるかと聞くと、頷いた。綾乃が隣の部屋から顔を出して「今日はアタシも一緒に学校行くから」と言うと、少しだけ目を上げた。


 でも、その声は薄かった。


 未空も同じだった。


 星川未空は、朝早くに一度だけ顔を見せた。綾乃に付き添われて、輝たちの部屋へ来たのだ。


 未空は怪我をしているわけではない。


 けれど、顔色は悪かった。


 昨夜、楓川緑道で玲に突きつけられた言葉が、まだ身体のどこかに残っているようだった。


 君との時間は、都合がよかっただけだ。


 そう思えばいい。


 未空は何も言わなかった。


 椛も何も言わなかった。


 ただ、二人は少しの間、同じソファーに並んで座っていた。


 見えるだけで何もできない少女と、忘れられて消えかけている神様。


 二人の間に、言葉はなかった。


 それでも、椛は未空の袖をそっと握った。


 未空も、椛の手を払いはしなかった。


 輝はその光景を見て、胸の奥がぎゅっと痛くなった。


 自分は何もできていない。


 椛が夜の神社で琥珀に揺さぶられた時も、答えられなかった。


 未空が玲に傷つけられた時も、間に合わなかった。


 名前を呼ぶことだけはできる。


 でも、それだけで本当に足りるのか。


 ずっと覚えていられるのか。


 琥珀の問いは、まだ輝の喉に刺さっていた。


「輝」


 悠樹が台所から声をかける。


「皿を出せ」


「……おう」


 輝は立ち上がる。


 だが、その動きにもいつもの勢いがない。


 悠樹は味噌汁をよそいながら、短く言った。


「落ち込んでいる暇があるなら、手を動かせ」


「厳しいな」


「何もしないで悩んでいるよりは、何かした方がいい」


「正論」


「正論だ」


 輝は食器棚から皿を取り出し、食卓に並べた。


 椛の分の小さな茶碗。


 未空の分も出しかけて、彼女がもう帰ったことに気づく。


 少しだけ手が止まる。


 綾乃がそれを見て言った。


「未空は、今日は学校休むって」


「そっか」


「無理に行かせる状態じゃないもの」


「……だよな」


 椛が、うさぎの耳を握ったまま顔を伏せた。


「椛のせい?」


 小さな声だった。


 全員の動きが止まる。


 輝が慌てて振り返る。


「違う」


 即答だった。


 椛は顔を上げない。


「でも、椛がいたから、琥珀さんが来て。玲お姉ちゃんも……未空お姉ちゃんも、傷ついた」


「それは違う」


 悠樹も言った。


「原因をすべて自分に引き受けるな」


「でも」


「でもじゃない」


 綾乃の声が少し強くなる。


 しかし、すぐに息を吸って、声をやわらげた。


「椛ちゃんが悪いんじゃない。琥珀さんが椛ちゃんを連れていこうとしたことも、玲が未空を傷つけたことも、椛ちゃんのせいじゃない」


「でも、椛がいなかったら」


 椛の声が震える。


「みんな、こんなに困らなかった」


 誰もすぐには答えられなかった。


 それは、完全には否定できない言葉だったからだ。


 椛が現れなければ、輝たちは小春神社の奥に踏み込まなかったかもしれない。


 未空が玲の正体に向き合うことも、もっと遅かったかもしれない。


 琥珀の計画が動いていたとしても、彼らがここまで巻き込まれることはなかったかもしれない。


 けれど、それは椛のせいではない。


 少なくとも、輝はそう思った。


「椛」


 輝は椛の前にしゃがんだ。


 椛は目を上げる。


「オレは、困ってる」


 悠樹が眉をひそめる。


「輝」


「最後まで聞けって」


 輝は続ける。


「正直、困ってる。白狐とか、小春神社とか、琥珀さんとか、玲のこととか、全部わけわかんねえし。昨日だって、オレ、答えられなかった」


 椛の瞳が揺れる。


「でも、椛がいなかった方がよかったとは思ってない」


 輝は言葉を選んだ。


 今の椛に、軽い慰めは届かない。


 だから、できるだけ本当に思っていることだけを言う。


「困ってるけど、椛がいて迷惑だとは思ってない。面倒なことは増えたけど、椛がいない方がいいとは思ってない。そこは間違えるな」


 椛は、じっと輝を見ていた。


 輝の言葉は不器用だった。


 慰めとしては下手かもしれない。


 でも、嘘ではなかった。


「輝お兄ちゃん」


「何だ」


「椛、消えたら」


「消えない」


「でも」


「消えない」


 輝は繰り返した。


 根拠はない。


 方法もわからない。


 それでも、そこだけは譲りたくなかった。


 椛は何か言いかけて、やめた。


 朝食は静かに終わった。


 椛は少しだけ食べた。


 悠樹はそれを見て安心したようだったが、顔には出さなかった。綾乃は学校へ行く前に「何かあったら絶対連絡して」と念を押した。未空の様子を見に行くと言って、綾乃はいつもより早く部屋を出た。


 輝と悠樹も学校へ行く準備をする。


 椛は留守番だった。


 本当なら誰か大人がいるべきなのだろう。


 だが、この部屋の事情は普通ではない。綾乃の家にも説明しづらい。学校を休み続けるわけにもいかない。悠樹はかなり悩んだ末、昼休みに一度戻ること、綾乃の家にも軽く様子を見てもらうこと、椛には絶対に外へ出ないよう言うことを条件にした。


「椛ちゃん」


 悠樹は玄関で、少し屈んで目線を合わせた。


「一人で出ない。誰か来ても開けない。何かあったら、僕か輝か綾乃に連絡する」


 椛は小さく頷く。


「うん」


「本当に」


「うん」


 輝も言う。


「椛、帰ったらプリン買ってくるから」


「プリン?」


「甘いやつ」


「黄色い?」


「黄色い」


「……食べたい」


「よし。じゃあ、それまで待ってろ」


 椛は少しだけ笑った。


 その笑顔に、輝は安心しかけた。


 けれど、その安心は長く続かなかった。


 放課後、輝が全力でマンションへ戻った時、部屋に椛はいなかった。


 玄関に、椛のスニーカーがなかった。


 テーブルの上には、うさぎのぬいぐるみが置かれていた。


 そして、その横に、小さな楓のヘアピンがあった。


 輝の背筋が冷えた。


「椛!」


 部屋の中を探す。


 リビング。


 寝室の前。


 洗面所。


 ベランダ。


 どこにもいない。


 遅れて帰ってきた悠樹が、玄関の様子だけで事態を理解した。


「小春神社だ」


「だよな」


 輝はもう靴を履き直していた。


「待て、連絡を――」


「あとでしてくれ!」


「輝!」


 悠樹の制止を振り切って、輝は飛び出した。


 階段を駆け下りる。


 胸が苦しい。


 昨日の夜、椛は神社へ一人で行った。


 琥珀に会った。


 自分が土地神だったことを知らされ、人間に忘れられたことを知った。


 消えても仕方ないのかもしれないと言った。


 そして今、また神社へ向かっている。


 嫌な予感しかしなかった。


 輝は走った。


 楓川緑道を抜ける。


 川面の光が視界の端で揺れる。


 途中で何人かとぶつかりそうになり、謝る余裕もなく走る。スマートフォンがポケットの中で震えている。悠樹からだろう。綾乃かもしれない。武かもしれない。未空かもしれない。


 でも、今は止まれなかった。


 小春神社の石段が見えた。


 輝は息を切らしながら駆け上がる。


 足が重い。


 肺が痛い。


 昨日の夜も走ったのに、また同じ場所へ向かっている。


 どうして自分は、いつも追いかけてばかりなのだろう。


 もっと早く気づけなかったのか。


 もっとちゃんと言葉をかけられなかったのか。


 輝は歯を食いしばった。


 鳥居をくぐる。


 境内には、椛がいた。


 焼けた御神木の前。


 立入禁止のロープの手前。


 椛は一人で立っていた。


 白い千早と紅い袴。


 新しく買ったスニーカーだけが、現代のものとして足元にある。


 髪には、楓のヘアピンがない。


 輝が来る前に置いてきたのだ。


「椛!」


 輝が叫ぶ。


 椛は振り返った。


 泣いてはいなかった。


 それが、かえって怖かった。


「輝お兄ちゃん」


「何してるんだよ!」


 輝は椛の前まで走り寄る。


 息が整わない。


 膝に手をつき、荒く呼吸しながら、それでも目を逸らさなかった。


「一人で出るなって言っただろ」


「ごめんなさい」


「謝るなら、先に帰るぞ」


「まだ帰れない」


「何でだよ」


 椛は御神木を見上げた。


 焼けた幹。


 黒い枝。


 夕方の光が、その焦げた表面を赤く染めている。


「椛、考えたの」


「何を」


「椛がいなくなったら、琥珀さんは椛を連れていこうとしなくなるかなって」


 輝の息が止まる。


「玲お姉ちゃんも、未空お姉ちゃんを傷つけなくてよくなるかなって。小春市も、神隠しとか、火とか、怖いことにならないかなって」


「椛」


「椛が土地神だったなら、この町を守らなきゃいけなかったのに、何もできない。川も守れない。御神木も守れなかった。琥珀さんも止められない。玲お姉ちゃんも止められない」


 椛は、自分の胸を押さえた。


「みんな、椛の名前を呼んでくれる。でも、椛はみんなを守れない」


 輝は言葉を探した。


 違う。


 そんなことはない。


 言いたい。


 でも、椛の中でそれがどれほど重いのかを考えると、簡単には言えなかった。


 椛は続ける。


「神様なのに、何もできないなら」


 声が少しだけ震えた。


「椛、もう消えてもいいのかもしれない」


 その言葉が落ちた瞬間、境内の風が止まった。


 輝は目を見開く。


「椛、言うな」


「でも」


「言うな!」


 輝の声が境内に響いた。


 椛はびくっと肩を震わせる。


 輝はすぐに、自分の声が強すぎたことに気づいた。


 だが、止められなかった。


「消えてもいいなんて、言うな」


 声が震えていた。


 怒りなのか、恐怖なのか、悲しみなのか、自分でもわからなかった。


「椛がそう言ったら、本当に消えそうで怖いんだよ」


 椛は、輝を見た。


 その時だった。


 焼けた御神木の奥で、何かが赤く光った。


 輝と椛が同時に振り返る。


 黒く焦げた幹の裂け目。


 そこから、赤い楓の葉が一枚、舞い上がった。


 風はない。


 それなのに、葉はふわりと浮かび、夕方の境内をゆっくり回る。


 一枚。


 また一枚。


 焼けた御神木の内側から、赤い葉が次々と舞い出した。


 それは本物の葉ではない。


 光でできた葉。


 記憶でできた葉。


 燃え残った命の色をしている。


 御神木の根元から、淡い光が広がった。


 地面の灰が揺れる。


 焦げた根の間に、かすかな緑が見えた。


 新芽ではない。


 もっと古いもの。


 御神木の奥に残っていた記憶そのものが、地面から滲み出してくるようだった。


 椛が息を呑む。


「お兄ちゃん……?」


 その声に、光が揺れた。


 赤い葉が集まる。


 御神木の根元で、葉が渦を巻く。


 淡い光が人の形を取り始めた。


 小さな足。


 紅色の袴。


 白い衣。


 椛によく似た顔立ち。


 けれど、椛より少しだけ目つきが強い。


 髪には、赤く色づいた楓の葉のような飾りが揺れていた。


 少女だった。


 椛と同じくらいの年頃に見える。


 でも、そこに宿る気配は違う。


 椛が水と祈りの柔らかさをまとっているなら、その少女は木の根と風と、燃えてもなお残った火のようだった。


 少女は目を開けるなり、椛を見た。


 そして、怒った。


「だめ!」


 境内に、はっきりした声が響く。


 椛はびくっとする。


「消えてもいいなんて言っちゃだめ!」


 椛は目を丸くした。


 輝も固まった。


 現れた少女は、両手を握りしめて椛へ歩いてくる。光の葉が足元で散り、焼けた地面の上を赤く照らす。


「何でそんなこと言うの。何で自分で自分をいらないみたいに言うの。椛が消えていいわけないでしょ!」


 椛は戸惑いながら後ずさる。


「あなた、だれ……?」


 少女は一瞬、言葉に詰まった。


 怒っていた顔が少しだけ寂しそうになる。


 けれど、すぐにまた胸を張った。


「楓」


「かえで」


「そう。楓は、楓」


 椛の瞳が揺れる。


「お兄ちゃんじゃないの?」


 その問いに、楓は少しだけ困った顔をした。


 輝はその横顔を見て、胸がきゅっとなった。


 椛がずっと探していた「お兄ちゃん」。


 それは御神木の記憶、あるいは椛を支えていたものだと、みんなで少しずつ考えていた。


 でも、目の前に現れたのは兄ではなかった。


 椛によく似た少女。


 楓。


「椛がそう呼びたかったなら、お兄ちゃんでもいいよ」


 楓は言った。


 その声は怒っている時より少し柔らかかった。


「ずっと椛のそばにいた。椛が泣いた時も、笑った時も、名前を呼ばれた時も、忘れられた時も。椛が御神木って呼んでたものの中で、ずっと見てた」


 椛は震える声で言う。


「じゃあ、やっぱり」


「でも、楓は楓だよ」


 楓はまっすぐ言った。


「椛を守るために、最後に残った根っこから出てきた。御神木の記憶と、ちょっとだけ残ってた命。それが楓」


「楓……」


 椛はその名前を呼んだ。


 呼んだ瞬間、楓の輪郭が少しだけはっきりした。


 楓は目を丸くし、それから少し照れたように唇を尖らせた。


「今さら呼ぶの、遅い」


「ごめん」


「謝るところじゃない」


「でも」


「でもじゃない」


 楓は椛の前に立ち、両手を広げた。


「椛は消えちゃだめ。消えてもいいなんて、二度と言わないで」


 椛の目に涙が浮かぶ。


「でも、椛、何もできない」


「できる」


「できないよ。川も守れない。子どもも守れない。御神木も燃えちゃった。みんなを巻き込んでる。玲お姉ちゃんも、未空お姉ちゃんも」


「それでも、消えていい理由にはならない」


 楓の声は強かった。


「何もできないなら、泣いていい。怖いなら、怖いって言っていい。守れないなら、守ってって言っていい。でも、消えてもいいなんて言っちゃだめ」


 椛の涙がこぼれる。


「神様なのに?」


「神様でも!」


 楓は叫んだ。


「神様でも、椛は椛でしょ!」


 その言葉は、綾乃が新小春モールの試着室で言った言葉に似ていた。


 神様でも、椛ちゃんは椛ちゃんでしょ。


 服くらい好きなの着ればいいの。


 椛は、泣きながら楓を見た。


 御神木の記憶から生まれた少女が、人間の綾乃と同じようなことを言っている。


 それが、不思議だった。


 そして、少しだけ嬉しかった。


「楓」


 輝がやっと声を出した。


 楓は輝を見た。


 その目つきが急に鋭くなる。


「あなたが輝?」


「え、あ、そうだけど」


「椛を泣かせた人」


「ぐっ」


 輝は胸を押さえた。


 まさか初対面でそこを刺されるとは思わなかった。


「いや、それは本当に反省していて」


「反省だけなら誰でもできる」


「おっしゃる通りで」


「でも、椛の名前は呼んでた」


 楓は少しだけ目を細めた。


「それは、少しだけ褒める」


「少しだけ……」


「調子に乗らないで」


「はい」


 楓は小さいのに、妙に迫力があった。


 輝は反射的に背筋を伸ばした。


 その時、石段の方から複数の足音がした。


「輝!」


 悠樹が駆け込んでくる。


 その後ろに、綾乃、未空、武。


 未空はまだ少し顔色が悪いが、足取りはしっかりしている。綾乃がすぐ隣を走り、武は息も乱さず先に境内へ入ってきた。体力だけは本当に頼りになる。


 綾乃は御神木の前の光景を見て、足を止めた。


「……増えてる」


 第一声がそれだった。


 武も目を丸くする。


「椛ちゃんが二人?」


「違う!」


 楓が即座に怒った。


「楓は楓!」


「しゃ、喋った!」


 武が一歩下がる。


 綾乃が武の頭を軽く叩いた。


「失礼」


「ごめん」


 未空は楓をじっと見ていた。


 見える。


 椛とよく似ているが、気配は違う。


 椛は水と祈り。


 楓は木の根と葉と、燃え残った生命。


 焼けた御神木の根元から、楓の足元へ細い光の糸が伸びている。


 未空には、それが見えた。


「御神木の中に残ってたもの」


 未空が呟く。


 楓は未空を見た。


「見える人」


「うん」


「昨日、泣いてた人」


 未空の表情が少しだけ揺れる。


 綾乃が楓を睨んだ。


「そこは言わなくていいの」


「ごめん」


 楓は素直に謝った。


 その様子に、輝は少しだけ拍子抜けする。


 怒りっぽいが、悪い子ではなさそうだった。


 悠樹は状況を整理しようとしていた。


「つまり、あなたは御神木の記憶と生命力から生まれた存在、という理解でいいのか」


「たぶん」


 楓はあっさり言う。


「たぶんか」


「楓も今起きたばかりだから、全部わかるわけじゃない」


「そうか」


 悠樹は頭を押さえた。


「また情報が増えた」


「悠樹、現実逃避してる?」


 輝が聞く。


「していない。整理している」


「顔が現実逃避」


「黙れ」


 いつものやり取りが少しだけ戻り、椛が涙の中で小さく笑った。


 その瞬間、境内に赤い狐火が灯った。


 全員が振り返る。


 鳥居のそばに、玉城琥珀が立っていた。


 図書室の管理人の姿。


 しかし、夕方の神社では、その背後に白銀の尾の影がはっきりと揺れている。足元には赤い狐火。琥珀色の瞳は、楓を見てわずかに細められていた。


「……まさか」


 琥珀の声には、珍しく余裕がなかった。


「まだ根が残っていたのか」


 楓は椛の前に立った。


 小さな身体で、椛を庇うように。


「椛は連れていかせない」


 琥珀は楓を見つめる。


「御神木の残り火が、形を取ったんだね」


「残り火じゃない。楓は楓」


「そう。名前まで持ったか」


 琥珀は苦く笑った。


「厄介だな」


 輝は椛の手を握った。


 椛の手は冷たい。


 でも、さっきより少しだけ力が戻っている。


 楓が現れたからだ。


 消えてもいいと言った椛を、誰より強く否定する存在が現れたからだ。


「琥珀さん」


 輝が言う。


「椛は行かせない」


「君は昨夜、答えられなかった」


 琥珀の言葉が、また輝の胸を刺す。


「いつまで覚えていられるか。君は答えられなかった」


「答えられなかった」


 輝は認めた。


 椛がこちらを見る。


 輝はその手を握り直した。


「でも、今の答えは決まってる」


「今?」


「椛を一人にしない」


 琥珀は目を細める。


「弱い答えだね」


「そうかもな」


 輝は言った。


「でも、今できることをしない理由にはならない」


 琥珀の瞳の奥で、赤い火が強くなった。


「君たちはいつも今だけだ」


 狐火が増える。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 赤い火が境内を囲むように浮かび上がる。


「今は優しい。今は名前を呼ぶ。今は守ると言う。だが、その今はすぐに過ぎる。過ぎた後、君たちは忘れる」


 狐火が椛へ伸びた。


 輝が反射的に前へ出る。


 だが、楓の方が早かった。


「来ないで!」


 楓が両手を広げる。


 御神木の根元から、赤い楓の葉が一斉に舞い上がった。


 風が吹く。


 境内の空気が渦を巻き、狐火へぶつかる。


 赤い火と赤い葉がぶつかり、光が弾けた。


 熱い風が輝の頬をかすめる。


 綾乃が未空を庇う。


 武が一瞬身構えるが、何をすればいいかわからず、その場で拳を握った。


 悠樹はすぐに叫ぶ。


「離れすぎるな! 椛ちゃんから目を離すな!」


 輝は椛の名前を呼んだ。


「椛!」


 椛の肩が震える。


 輝は続ける。


「椛、こっち見ろ!」


「輝お兄ちゃん」


「名前を呼ぶ。何度でも呼ぶ。今はそれしかできないけど、やる」


 輝は椛の手を握ったまま、叫んだ。


「椛!」


 その声に、椛の輪郭が少しだけ強くなる。


 未空には、それが見えた。


 名前が、椛をこちらへつなぎ留めている。


 楓も叫ぶ。


「もっと呼んで!」


 輝は驚く。


「え?」


「その子の名前、呼べるんでしょ! なら呼んで! 椛が消えたいって思い込まないように、ここにいるってわかるように!」


 輝は歯を食いしばる。


「椛!」


 綾乃も叫んだ。


「椛ちゃん!」


 悠樹が続く。


「椛ちゃん!」


 武も声を張る。


「椛ちゃん!」


 未空は静かに、しかし確かに言った。


「椛」


 名前が重なる。


 境内の中で、椛の名前が何度も響く。


 椛は泣いていた。


 でも、さっきとは違う涙だった。


 消えてもいいと思い込んだ涙ではない。


 呼ばれて、引き戻されて、まだここにいていいのだと感じ始める涙だった。


 琥珀の狐火がさらに強くなる。


「名前を数人で呼んだだけで、何が変わる」


 琥珀の声には苛立ちが混じっていた。


「町は忘れた。人間は忘れた。その事実は変わらない」


「変わらないよ」


 楓が言った。


 風の中で、小さな身体が揺れる。


「人間が忘れたことは、許してない。御神木を燃やしたことも、椛の名前をなくしたことも、楓は怒ってる」


 琥珀の目が細くなる。


「なら、こちらへ来るべきだ」


「でも」


 楓は椛の前に立ったまま、首を横に振る。


「椛に消えていいって言わせるのは、もっと嫌」


 その言葉に、琥珀の表情が揺れた。


 楓は続ける。


「人間に怒ってる。琥珀の言うことも、少しわかる。でも、椛を連れていって、椛がもっと泣くなら、楓は琥珀を止める」


 赤い楓の葉が、楓の周囲で舞う。


 それは美しかった。


 だが、未空には見えていた。


 楓の足元の光が、少しずつ薄くなっている。


 御神木の根元から伸びる光の糸が、葉を舞わせるたびに細くなっている。


「楓」


 未空が声を上げる。


「力、使いすぎないで」


 楓は一瞬だけ未空を見る。


 驚いた顔。


 それから、少しだけ笑った。


「見える人、すごいね」


「すごくない」


「でも、見えてる」


 楓は再び琥珀へ向き直る。


「大丈夫。今は、椛を守る」


「それで君が消えても?」


 琥珀が問う。


 楓は一瞬だけ黙った。


 その沈黙で、輝たちは気づいた。


 楓もまた、危うい存在なのだ。


 御神木の残り火。


 最後の生命力。


 椛を守るために形を取った、あまりにも不安定な少女。


 楓は、消えない存在ではない。


 むしろ、椛よりもずっと短い火なのかもしれない。


「楓も消えない」


 椛が言った。


 楓が振り返る。


 椛は涙を拭き、楓を見ていた。


「楓も、消えちゃだめ」


 楓の表情が、初めて少しだけ崩れた。


「椛」


「椛、消えてもいいって言った。ごめんなさい。でも、楓もだめ。椛を守るためだけに消えちゃだめ」


 楓は、何か言おうとして、言葉に詰まった。


 その隙を突くように、狐火が一つ、椛へ向かって走る。


 輝が叫んだ。


「椛!」


 楓が手を伸ばす。


 赤い葉が狐火を包み、風が火を散らした。


 火の粉が境内に散る。


 輝は椛を庇うように引き寄せる。


 綾乃が「危ない!」と叫び、未空を抱き寄せる。武は反射的に近くにあった落ちた枝を拾ったが、すぐに「これでどうしろっていうんだ」と自分で青ざめた。


 悠樹が叫ぶ。


「無理に戦うな! 琥珀さんも、本気で奪う気ならとっくに仕掛けている!」


 琥珀の目が悠樹へ向く。


「よく見ているね」


「あなたは焦っている」


 悠樹は言った。


「楓の存在が想定外だった。御神木が完全には死んでいないことも。だから今、無理に椛ちゃんを奪えば何が起きるかわからない」


 琥珀は静かに笑った。


「人間にしては、冷静だ」


「人間なので、冷静でいようとしているだけです」


 悠樹の声は震えていなかった。


 だが、拳は強く握られていた。


 琥珀は椛を見る。


 次に楓を見る。


 狐火が少しずつ弱まった。


「今日は、引こう」


 輝は身構えたまま言う。


「何でだよ」


「君たちが勝ったわけではない」


「わかってる」


「楓」


 琥珀は少女の名を呼んだ。


 楓の輪郭が、ほんの少し揺れる。


 琥珀は続ける。


「君は、椛を守るために生まれた。でも、人間に怒っている。忘れられた痛みも知っている。いずれ、僕の言葉がわかる時が来る」


 楓は唇を噛む。


 否定できない。


 人間に怒っている。


 それは本当だった。


 御神木を忘れ、椛の名前を忘れ、祭りを別のものに変えた人間たち。


 その痛みは、楓の中にもある。


 琥珀はそれを見抜いている。


「椛」


 琥珀は次に椛を見た。


「君が消えたくないと思うなら、僕は方法を用意する。人間に縋る以外の方法を」


 椛は輝の手を握ったまま、琥珀を見る。


 怖い。


 でも、琥珀の言葉が完全な嘘ではないこともわかってしまう。


 琥珀は、椛を消したくない。


 それは本当だ。


 ただ、その方法が怖い。


 琥珀は最後に輝を見る。


「名前を呼ぶだけで、どこまで届くか見せてもらうよ」


 赤い狐火が一つ、ふっと消える。


 次に、もう一つ。


 境内の赤い光が薄れ、琥珀の姿も夜の影へ溶けていく。


「また会おう」


 その声を残して、琥珀は消えた。


 風が戻る。


 小春神社の境内に、夕方の音が戻ってくる。


 遠くで車の音。


 鳥の声。


 川の気配。


 輝は、椛の手を握ったまま大きく息を吐いた。


 緊張が解けた瞬間、膝から力が抜けそうになる。


 だが、先に倒れたのは楓だった。


「楓!」


 椛が叫ぶ。


 楓はふらりと身体を傾け、御神木の根元に座り込んだ。


 顔色が悪い。


 輪郭が少し薄い。


 足元の赤い葉が、灰のように崩れて消えていく。


 未空が駆け寄る。


「力を使いすぎた」


「大丈夫」


 楓は強がるように言った。


「ちょっと、起きたばっかりで疲れただけ」


「嘘」


 未空が即答する。


 楓は目を丸くした。


「見える人、嘘も見えるの?」


「顔」


 綾乃が横から言う。


「あなた、椛ちゃんに似てるからわかりやすいのよ」


「似てない」


「似てるわよ」


「楓は楓」


「はいはい、楓ちゃんは楓ちゃんね」


 綾乃はしゃがんで、楓の額に手を当てようとした。


 楓は警戒して少し身を引く。


「何」


「熱ないか見ようとしたの」


「楓、木だよ」


「木でも女の子の形してるなら、具合悪そうな時は額を見るの」


「人間、変」


「よく言われる」


 綾乃は気にしなかった。


 楓は少し戸惑いながらも、綾乃の手を拒まなかった。


 椛は楓のそばに座る。


「楓」


「何」


「出てきてくれて、ありがとう」


 楓は目を逸らした。


「椛が変なこと言うから」


「ごめん」


「もう言わない?」


「……まだ、わからない」


 椛の正直な答えに、楓は一瞬怒りかけた。


 でも、すぐに息を吐いた。


「じゃあ、言いそうになったら楓が怒る」


「うん」


「何回でも怒る」


「うん」


「泣いても怒る」


「うん」


 椛は少しだけ笑った。


 楓も、ほんの少しだけ笑った。


 その笑顔はよく似ていた。


 輝は二人を見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


 椛は一人ではなかった。


 ずっと一人だと思っていたけれど、御神木の中に、椛を見ていた存在がいた。


 椛が探していた「お兄ちゃん」とは違った。


 でも、懐かしくて、怒ってくれて、消えてもいいなんて言うなと叫んでくれる存在。


 楓。


 その名前を、輝は声に出した。


「楓」


 楓がこちらを見る。


「何」


「えっと、よろしく」


「椛をまた泣かせたら怒る」


「はい」


「消えてもいいとか言わせても怒る」


「はい」


「あと、椛のほっぺをつまんだって聞いた」


「それは本当にもう許してください」


 輝は頭を下げた。


 武が小声で言う。


「輝、初対面から完全に弱いね」


「武、笑ってる場合か」


「笑ってない。ちょっとだけ安心してる」


 武は楓を見た。


「楓ちゃんも、椛ちゃんの仲間なんだね」


「仲間じゃない」


 楓は言った。


 武が少し慌てる。


「え、違うの?」


「椛の味方」


 楓は胸を張った。


 武は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「そっか。じゃあ、ボクも椛ちゃんの味方だから、楓ちゃんとも味方同士だね」


 楓は武をじっと見る。


「面白がる人?」


 武は少しだけ顔を強張らせた。


 輝が驚く。


 楓は、武のこれまでの視線も感じ取っているのかもしれない。


 御神木の記憶。


 椛のそばで見てきたもの。


 その中には、輝や武が椛を珍しい存在として見ていた時間も含まれている。


 武は背筋を伸ばした。


「うん。最初は、ちょっと面白がってた」


 正直に言った。


「でも、今は違う。まだ完全にはわかってないけど、椛ちゃんや楓ちゃんをネタみたいに見たくない。だから、味方でいたい」


 楓はしばらく武を見ていた。


「じゃあ、保留」


「保留かあ」


「椛を守ったら、少し信用する」


「頑張ります」


 武は真剣に頷いた。


 悠樹は全員を見渡した。


「まずは、ここを離れよう」


「楓も連れて帰るの?」


 綾乃が聞く。


「置いていける状況ではないだろう」


「また増えたわね」


 輝が呟く。


 悠樹が頭を押さえる。


「本当に、また増えた」


「トゥプラスどころか、もう何人暮らしだよ」


「おまえが言うな」


 椛が小さく笑った。


 楓も少しだけ笑う。


 その笑い声が、焼けた境内に落ちる。


 まだ何も解決していない。


 琥珀は引いただけだ。


 玲は琥珀の側にいる。


 椛の「消えてもいい」という思いが完全に消えたわけでもない。


 楓の力は不安定で、使いすぎれば危うい。


 それでも、何かが変わった。


 椛は一人ではない。


 名前を呼ぶ人がいる。


 そして、消えてもいいなんて絶対に許さないと怒る存在がいる。


 輝は、焼けた御神木を見上げた。


 黒く焦げた幹の根元。


 そこに、ほんの小さな赤い光が残っている。


 燃え尽きた火ではない。


 命の残り火。


 それが楓という形を取ったのだ。


「帰ろう、椛」


 輝は言った。


 椛が頷く。


「うん」


 輝は少しだけ迷ってから、楓にも言った。


「帰ろう、楓」


 楓は目を丸くする。


 それから、照れ隠しのように顔を背けた。


「楓は、まだ帰る場所とか決めてない」


「じゃあ、ひとまず来い」


「人間の部屋?」


「うん。狭いし、悠樹がうるさいし、綾乃が距離近いし、オレが怒られるけど」


「紹介がひどい」


 悠樹が言う。


「でも、ご飯は出る」


 椛が言った。


 楓は椛を見る。


「ご飯」


「温かい」


「……行く」


 綾乃が笑った。


「決め手、ご飯なのね」


「大事でしょ」


 楓は真顔で言った。


 悠樹は深くため息をついた。


「また食費が増える」


「悠樹お兄ちゃん、お母さんみたい」


 椛が小さく言う。


 楓が即座に反応した。


「お母さん?」


「違う」


 悠樹が即答する。


 輝が吹き出しそうになり、悠樹に睨まれて飲み込んだ。


 少しだけ、いつもの空気が戻った。


 小春神社の石段を下りる時、椛は楓の手を握っていた。


 楓は少し照れくさそうにしていたが、手を離さなかった。


 未空は二人の後ろを歩きながら、ふと振り返る。


 焼けた御神木の根元に、赤い楓の葉が一枚だけ残っていた。


 それはすぐに風に乗って舞い上がり、夕方の空へ溶けるように消えた。


 未空には、その葉が消えたのではなく、どこかへ届きに行ったように見えた。


 忘れられた名前の先へ。


 まだ残っている町の記憶の奥へ。


 そして、次に必要になる何かへ。


 未空は小さく息を吐いた。


 玲に傷つけられた胸は、まだ痛い。


 その痛みは消えていない。


 でも、椛が楓の手を握っている姿を見ていると、ほんの少しだけ思えた。


 壊れたものの中にも、まだ残るものがある。


 焼けた御神木の中に、楓が残っていたように。


 人間の名前の奥に、玲がまだ残っているように。


 そう思いたかった。


 石段の下で、輝が振り返る。


「星川さん、行くぞ」


 未空は頷いた。


「うん」


 楓川の方から、夕方の風が吹いた。


 椛の髪が揺れ、楓の葉の飾りが小さく音を立てる。


 小春市は、まだ忘れている。


 まだ何も取り戻していない。


 けれど、焼けた神社から、小さな名前がもう一つ歩き出した。


 椛の隣で。


 椛を叱るために。


 椛を守るために。


 そして、いつか自分自身の名前でここに立つために。


 楓は、目を覚ました。

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