第十四章 楓、目覚める
朝になっても、部屋の空気は重かった。
カーテンの隙間から差し込む光は、いつもと同じ朝の色をしていた。台所では葵城悠樹が味噌汁を温めている。トースターが小さな音を立て、フライパンの上で卵が焼ける匂いが広がっている。
それだけ見れば、いつもの朝だった。
けれど、誰もいつもの声を出せなかった。
真堂輝はリビングの床に座ったまま、食卓の方を見ていた。いつもなら朝から「眠い」「学校行きたくない」「悠樹、オレの代わりに出席してきて」などと無茶苦茶を言うところだが、今日は何も言わない。
言えなかった。
ソファーには椛が座っている。
新小春モールで買ったワンピースではなく、いつもの白い千早と紅い袴。けれど、髪には楓のヘアピンがついていた。膝の上には、うさぎのぬいぐるみ。小さな手でその耳を握っている。
椛は昨夜から、ほとんど喋っていない。
輝が「おはよう、椛」と呼ぶと、小さく「おはよう」と返した。悠樹が朝食を食べるかと聞くと、頷いた。綾乃が隣の部屋から顔を出して「今日はアタシも一緒に学校行くから」と言うと、少しだけ目を上げた。
でも、その声は薄かった。
未空も同じだった。
星川未空は、朝早くに一度だけ顔を見せた。綾乃に付き添われて、輝たちの部屋へ来たのだ。
未空は怪我をしているわけではない。
けれど、顔色は悪かった。
昨夜、楓川緑道で玲に突きつけられた言葉が、まだ身体のどこかに残っているようだった。
君との時間は、都合がよかっただけだ。
そう思えばいい。
未空は何も言わなかった。
椛も何も言わなかった。
ただ、二人は少しの間、同じソファーに並んで座っていた。
見えるだけで何もできない少女と、忘れられて消えかけている神様。
二人の間に、言葉はなかった。
それでも、椛は未空の袖をそっと握った。
未空も、椛の手を払いはしなかった。
輝はその光景を見て、胸の奥がぎゅっと痛くなった。
自分は何もできていない。
椛が夜の神社で琥珀に揺さぶられた時も、答えられなかった。
未空が玲に傷つけられた時も、間に合わなかった。
名前を呼ぶことだけはできる。
でも、それだけで本当に足りるのか。
ずっと覚えていられるのか。
琥珀の問いは、まだ輝の喉に刺さっていた。
「輝」
悠樹が台所から声をかける。
「皿を出せ」
「……おう」
輝は立ち上がる。
だが、その動きにもいつもの勢いがない。
悠樹は味噌汁をよそいながら、短く言った。
「落ち込んでいる暇があるなら、手を動かせ」
「厳しいな」
「何もしないで悩んでいるよりは、何かした方がいい」
「正論」
「正論だ」
輝は食器棚から皿を取り出し、食卓に並べた。
椛の分の小さな茶碗。
未空の分も出しかけて、彼女がもう帰ったことに気づく。
少しだけ手が止まる。
綾乃がそれを見て言った。
「未空は、今日は学校休むって」
「そっか」
「無理に行かせる状態じゃないもの」
「……だよな」
椛が、うさぎの耳を握ったまま顔を伏せた。
「椛のせい?」
小さな声だった。
全員の動きが止まる。
輝が慌てて振り返る。
「違う」
即答だった。
椛は顔を上げない。
「でも、椛がいたから、琥珀さんが来て。玲お姉ちゃんも……未空お姉ちゃんも、傷ついた」
「それは違う」
悠樹も言った。
「原因をすべて自分に引き受けるな」
「でも」
「でもじゃない」
綾乃の声が少し強くなる。
しかし、すぐに息を吸って、声をやわらげた。
「椛ちゃんが悪いんじゃない。琥珀さんが椛ちゃんを連れていこうとしたことも、玲が未空を傷つけたことも、椛ちゃんのせいじゃない」
「でも、椛がいなかったら」
椛の声が震える。
「みんな、こんなに困らなかった」
誰もすぐには答えられなかった。
それは、完全には否定できない言葉だったからだ。
椛が現れなければ、輝たちは小春神社の奥に踏み込まなかったかもしれない。
未空が玲の正体に向き合うことも、もっと遅かったかもしれない。
琥珀の計画が動いていたとしても、彼らがここまで巻き込まれることはなかったかもしれない。
けれど、それは椛のせいではない。
少なくとも、輝はそう思った。
「椛」
輝は椛の前にしゃがんだ。
椛は目を上げる。
「オレは、困ってる」
悠樹が眉をひそめる。
「輝」
「最後まで聞けって」
輝は続ける。
「正直、困ってる。白狐とか、小春神社とか、琥珀さんとか、玲のこととか、全部わけわかんねえし。昨日だって、オレ、答えられなかった」
椛の瞳が揺れる。
「でも、椛がいなかった方がよかったとは思ってない」
輝は言葉を選んだ。
今の椛に、軽い慰めは届かない。
だから、できるだけ本当に思っていることだけを言う。
「困ってるけど、椛がいて迷惑だとは思ってない。面倒なことは増えたけど、椛がいない方がいいとは思ってない。そこは間違えるな」
椛は、じっと輝を見ていた。
輝の言葉は不器用だった。
慰めとしては下手かもしれない。
でも、嘘ではなかった。
「輝お兄ちゃん」
「何だ」
「椛、消えたら」
「消えない」
「でも」
「消えない」
輝は繰り返した。
根拠はない。
方法もわからない。
それでも、そこだけは譲りたくなかった。
椛は何か言いかけて、やめた。
朝食は静かに終わった。
椛は少しだけ食べた。
悠樹はそれを見て安心したようだったが、顔には出さなかった。綾乃は学校へ行く前に「何かあったら絶対連絡して」と念を押した。未空の様子を見に行くと言って、綾乃はいつもより早く部屋を出た。
輝と悠樹も学校へ行く準備をする。
椛は留守番だった。
本当なら誰か大人がいるべきなのだろう。
だが、この部屋の事情は普通ではない。綾乃の家にも説明しづらい。学校を休み続けるわけにもいかない。悠樹はかなり悩んだ末、昼休みに一度戻ること、綾乃の家にも軽く様子を見てもらうこと、椛には絶対に外へ出ないよう言うことを条件にした。
「椛ちゃん」
悠樹は玄関で、少し屈んで目線を合わせた。
「一人で出ない。誰か来ても開けない。何かあったら、僕か輝か綾乃に連絡する」
椛は小さく頷く。
「うん」
「本当に」
「うん」
輝も言う。
「椛、帰ったらプリン買ってくるから」
「プリン?」
「甘いやつ」
「黄色い?」
「黄色い」
「……食べたい」
「よし。じゃあ、それまで待ってろ」
椛は少しだけ笑った。
その笑顔に、輝は安心しかけた。
けれど、その安心は長く続かなかった。
放課後、輝が全力でマンションへ戻った時、部屋に椛はいなかった。
玄関に、椛のスニーカーがなかった。
テーブルの上には、うさぎのぬいぐるみが置かれていた。
そして、その横に、小さな楓のヘアピンがあった。
輝の背筋が冷えた。
「椛!」
部屋の中を探す。
リビング。
寝室の前。
洗面所。
ベランダ。
どこにもいない。
遅れて帰ってきた悠樹が、玄関の様子だけで事態を理解した。
「小春神社だ」
「だよな」
輝はもう靴を履き直していた。
「待て、連絡を――」
「あとでしてくれ!」
「輝!」
悠樹の制止を振り切って、輝は飛び出した。
階段を駆け下りる。
胸が苦しい。
昨日の夜、椛は神社へ一人で行った。
琥珀に会った。
自分が土地神だったことを知らされ、人間に忘れられたことを知った。
消えても仕方ないのかもしれないと言った。
そして今、また神社へ向かっている。
嫌な予感しかしなかった。
輝は走った。
楓川緑道を抜ける。
川面の光が視界の端で揺れる。
途中で何人かとぶつかりそうになり、謝る余裕もなく走る。スマートフォンがポケットの中で震えている。悠樹からだろう。綾乃かもしれない。武かもしれない。未空かもしれない。
でも、今は止まれなかった。
小春神社の石段が見えた。
輝は息を切らしながら駆け上がる。
足が重い。
肺が痛い。
昨日の夜も走ったのに、また同じ場所へ向かっている。
どうして自分は、いつも追いかけてばかりなのだろう。
もっと早く気づけなかったのか。
もっとちゃんと言葉をかけられなかったのか。
輝は歯を食いしばった。
鳥居をくぐる。
境内には、椛がいた。
焼けた御神木の前。
立入禁止のロープの手前。
椛は一人で立っていた。
白い千早と紅い袴。
新しく買ったスニーカーだけが、現代のものとして足元にある。
髪には、楓のヘアピンがない。
輝が来る前に置いてきたのだ。
「椛!」
輝が叫ぶ。
椛は振り返った。
泣いてはいなかった。
それが、かえって怖かった。
「輝お兄ちゃん」
「何してるんだよ!」
輝は椛の前まで走り寄る。
息が整わない。
膝に手をつき、荒く呼吸しながら、それでも目を逸らさなかった。
「一人で出るなって言っただろ」
「ごめんなさい」
「謝るなら、先に帰るぞ」
「まだ帰れない」
「何でだよ」
椛は御神木を見上げた。
焼けた幹。
黒い枝。
夕方の光が、その焦げた表面を赤く染めている。
「椛、考えたの」
「何を」
「椛がいなくなったら、琥珀さんは椛を連れていこうとしなくなるかなって」
輝の息が止まる。
「玲お姉ちゃんも、未空お姉ちゃんを傷つけなくてよくなるかなって。小春市も、神隠しとか、火とか、怖いことにならないかなって」
「椛」
「椛が土地神だったなら、この町を守らなきゃいけなかったのに、何もできない。川も守れない。御神木も守れなかった。琥珀さんも止められない。玲お姉ちゃんも止められない」
椛は、自分の胸を押さえた。
「みんな、椛の名前を呼んでくれる。でも、椛はみんなを守れない」
輝は言葉を探した。
違う。
そんなことはない。
言いたい。
でも、椛の中でそれがどれほど重いのかを考えると、簡単には言えなかった。
椛は続ける。
「神様なのに、何もできないなら」
声が少しだけ震えた。
「椛、もう消えてもいいのかもしれない」
その言葉が落ちた瞬間、境内の風が止まった。
輝は目を見開く。
「椛、言うな」
「でも」
「言うな!」
輝の声が境内に響いた。
椛はびくっと肩を震わせる。
輝はすぐに、自分の声が強すぎたことに気づいた。
だが、止められなかった。
「消えてもいいなんて、言うな」
声が震えていた。
怒りなのか、恐怖なのか、悲しみなのか、自分でもわからなかった。
「椛がそう言ったら、本当に消えそうで怖いんだよ」
椛は、輝を見た。
その時だった。
焼けた御神木の奥で、何かが赤く光った。
輝と椛が同時に振り返る。
黒く焦げた幹の裂け目。
そこから、赤い楓の葉が一枚、舞い上がった。
風はない。
それなのに、葉はふわりと浮かび、夕方の境内をゆっくり回る。
一枚。
また一枚。
焼けた御神木の内側から、赤い葉が次々と舞い出した。
それは本物の葉ではない。
光でできた葉。
記憶でできた葉。
燃え残った命の色をしている。
御神木の根元から、淡い光が広がった。
地面の灰が揺れる。
焦げた根の間に、かすかな緑が見えた。
新芽ではない。
もっと古いもの。
御神木の奥に残っていた記憶そのものが、地面から滲み出してくるようだった。
椛が息を呑む。
「お兄ちゃん……?」
その声に、光が揺れた。
赤い葉が集まる。
御神木の根元で、葉が渦を巻く。
淡い光が人の形を取り始めた。
小さな足。
紅色の袴。
白い衣。
椛によく似た顔立ち。
けれど、椛より少しだけ目つきが強い。
髪には、赤く色づいた楓の葉のような飾りが揺れていた。
少女だった。
椛と同じくらいの年頃に見える。
でも、そこに宿る気配は違う。
椛が水と祈りの柔らかさをまとっているなら、その少女は木の根と風と、燃えてもなお残った火のようだった。
少女は目を開けるなり、椛を見た。
そして、怒った。
「だめ!」
境内に、はっきりした声が響く。
椛はびくっとする。
「消えてもいいなんて言っちゃだめ!」
椛は目を丸くした。
輝も固まった。
現れた少女は、両手を握りしめて椛へ歩いてくる。光の葉が足元で散り、焼けた地面の上を赤く照らす。
「何でそんなこと言うの。何で自分で自分をいらないみたいに言うの。椛が消えていいわけないでしょ!」
椛は戸惑いながら後ずさる。
「あなた、だれ……?」
少女は一瞬、言葉に詰まった。
怒っていた顔が少しだけ寂しそうになる。
けれど、すぐにまた胸を張った。
「楓」
「かえで」
「そう。楓は、楓」
椛の瞳が揺れる。
「お兄ちゃんじゃないの?」
その問いに、楓は少しだけ困った顔をした。
輝はその横顔を見て、胸がきゅっとなった。
椛がずっと探していた「お兄ちゃん」。
それは御神木の記憶、あるいは椛を支えていたものだと、みんなで少しずつ考えていた。
でも、目の前に現れたのは兄ではなかった。
椛によく似た少女。
楓。
「椛がそう呼びたかったなら、お兄ちゃんでもいいよ」
楓は言った。
その声は怒っている時より少し柔らかかった。
「ずっと椛のそばにいた。椛が泣いた時も、笑った時も、名前を呼ばれた時も、忘れられた時も。椛が御神木って呼んでたものの中で、ずっと見てた」
椛は震える声で言う。
「じゃあ、やっぱり」
「でも、楓は楓だよ」
楓はまっすぐ言った。
「椛を守るために、最後に残った根っこから出てきた。御神木の記憶と、ちょっとだけ残ってた命。それが楓」
「楓……」
椛はその名前を呼んだ。
呼んだ瞬間、楓の輪郭が少しだけはっきりした。
楓は目を丸くし、それから少し照れたように唇を尖らせた。
「今さら呼ぶの、遅い」
「ごめん」
「謝るところじゃない」
「でも」
「でもじゃない」
楓は椛の前に立ち、両手を広げた。
「椛は消えちゃだめ。消えてもいいなんて、二度と言わないで」
椛の目に涙が浮かぶ。
「でも、椛、何もできない」
「できる」
「できないよ。川も守れない。子どもも守れない。御神木も燃えちゃった。みんなを巻き込んでる。玲お姉ちゃんも、未空お姉ちゃんも」
「それでも、消えていい理由にはならない」
楓の声は強かった。
「何もできないなら、泣いていい。怖いなら、怖いって言っていい。守れないなら、守ってって言っていい。でも、消えてもいいなんて言っちゃだめ」
椛の涙がこぼれる。
「神様なのに?」
「神様でも!」
楓は叫んだ。
「神様でも、椛は椛でしょ!」
その言葉は、綾乃が新小春モールの試着室で言った言葉に似ていた。
神様でも、椛ちゃんは椛ちゃんでしょ。
服くらい好きなの着ればいいの。
椛は、泣きながら楓を見た。
御神木の記憶から生まれた少女が、人間の綾乃と同じようなことを言っている。
それが、不思議だった。
そして、少しだけ嬉しかった。
「楓」
輝がやっと声を出した。
楓は輝を見た。
その目つきが急に鋭くなる。
「あなたが輝?」
「え、あ、そうだけど」
「椛を泣かせた人」
「ぐっ」
輝は胸を押さえた。
まさか初対面でそこを刺されるとは思わなかった。
「いや、それは本当に反省していて」
「反省だけなら誰でもできる」
「おっしゃる通りで」
「でも、椛の名前は呼んでた」
楓は少しだけ目を細めた。
「それは、少しだけ褒める」
「少しだけ……」
「調子に乗らないで」
「はい」
楓は小さいのに、妙に迫力があった。
輝は反射的に背筋を伸ばした。
その時、石段の方から複数の足音がした。
「輝!」
悠樹が駆け込んでくる。
その後ろに、綾乃、未空、武。
未空はまだ少し顔色が悪いが、足取りはしっかりしている。綾乃がすぐ隣を走り、武は息も乱さず先に境内へ入ってきた。体力だけは本当に頼りになる。
綾乃は御神木の前の光景を見て、足を止めた。
「……増えてる」
第一声がそれだった。
武も目を丸くする。
「椛ちゃんが二人?」
「違う!」
楓が即座に怒った。
「楓は楓!」
「しゃ、喋った!」
武が一歩下がる。
綾乃が武の頭を軽く叩いた。
「失礼」
「ごめん」
未空は楓をじっと見ていた。
見える。
椛とよく似ているが、気配は違う。
椛は水と祈り。
楓は木の根と葉と、燃え残った生命。
焼けた御神木の根元から、楓の足元へ細い光の糸が伸びている。
未空には、それが見えた。
「御神木の中に残ってたもの」
未空が呟く。
楓は未空を見た。
「見える人」
「うん」
「昨日、泣いてた人」
未空の表情が少しだけ揺れる。
綾乃が楓を睨んだ。
「そこは言わなくていいの」
「ごめん」
楓は素直に謝った。
その様子に、輝は少しだけ拍子抜けする。
怒りっぽいが、悪い子ではなさそうだった。
悠樹は状況を整理しようとしていた。
「つまり、あなたは御神木の記憶と生命力から生まれた存在、という理解でいいのか」
「たぶん」
楓はあっさり言う。
「たぶんか」
「楓も今起きたばかりだから、全部わかるわけじゃない」
「そうか」
悠樹は頭を押さえた。
「また情報が増えた」
「悠樹、現実逃避してる?」
輝が聞く。
「していない。整理している」
「顔が現実逃避」
「黙れ」
いつものやり取りが少しだけ戻り、椛が涙の中で小さく笑った。
その瞬間、境内に赤い狐火が灯った。
全員が振り返る。
鳥居のそばに、玉城琥珀が立っていた。
図書室の管理人の姿。
しかし、夕方の神社では、その背後に白銀の尾の影がはっきりと揺れている。足元には赤い狐火。琥珀色の瞳は、楓を見てわずかに細められていた。
「……まさか」
琥珀の声には、珍しく余裕がなかった。
「まだ根が残っていたのか」
楓は椛の前に立った。
小さな身体で、椛を庇うように。
「椛は連れていかせない」
琥珀は楓を見つめる。
「御神木の残り火が、形を取ったんだね」
「残り火じゃない。楓は楓」
「そう。名前まで持ったか」
琥珀は苦く笑った。
「厄介だな」
輝は椛の手を握った。
椛の手は冷たい。
でも、さっきより少しだけ力が戻っている。
楓が現れたからだ。
消えてもいいと言った椛を、誰より強く否定する存在が現れたからだ。
「琥珀さん」
輝が言う。
「椛は行かせない」
「君は昨夜、答えられなかった」
琥珀の言葉が、また輝の胸を刺す。
「いつまで覚えていられるか。君は答えられなかった」
「答えられなかった」
輝は認めた。
椛がこちらを見る。
輝はその手を握り直した。
「でも、今の答えは決まってる」
「今?」
「椛を一人にしない」
琥珀は目を細める。
「弱い答えだね」
「そうかもな」
輝は言った。
「でも、今できることをしない理由にはならない」
琥珀の瞳の奥で、赤い火が強くなった。
「君たちはいつも今だけだ」
狐火が増える。
一つ。
二つ。
三つ。
赤い火が境内を囲むように浮かび上がる。
「今は優しい。今は名前を呼ぶ。今は守ると言う。だが、その今はすぐに過ぎる。過ぎた後、君たちは忘れる」
狐火が椛へ伸びた。
輝が反射的に前へ出る。
だが、楓の方が早かった。
「来ないで!」
楓が両手を広げる。
御神木の根元から、赤い楓の葉が一斉に舞い上がった。
風が吹く。
境内の空気が渦を巻き、狐火へぶつかる。
赤い火と赤い葉がぶつかり、光が弾けた。
熱い風が輝の頬をかすめる。
綾乃が未空を庇う。
武が一瞬身構えるが、何をすればいいかわからず、その場で拳を握った。
悠樹はすぐに叫ぶ。
「離れすぎるな! 椛ちゃんから目を離すな!」
輝は椛の名前を呼んだ。
「椛!」
椛の肩が震える。
輝は続ける。
「椛、こっち見ろ!」
「輝お兄ちゃん」
「名前を呼ぶ。何度でも呼ぶ。今はそれしかできないけど、やる」
輝は椛の手を握ったまま、叫んだ。
「椛!」
その声に、椛の輪郭が少しだけ強くなる。
未空には、それが見えた。
名前が、椛をこちらへつなぎ留めている。
楓も叫ぶ。
「もっと呼んで!」
輝は驚く。
「え?」
「その子の名前、呼べるんでしょ! なら呼んで! 椛が消えたいって思い込まないように、ここにいるってわかるように!」
輝は歯を食いしばる。
「椛!」
綾乃も叫んだ。
「椛ちゃん!」
悠樹が続く。
「椛ちゃん!」
武も声を張る。
「椛ちゃん!」
未空は静かに、しかし確かに言った。
「椛」
名前が重なる。
境内の中で、椛の名前が何度も響く。
椛は泣いていた。
でも、さっきとは違う涙だった。
消えてもいいと思い込んだ涙ではない。
呼ばれて、引き戻されて、まだここにいていいのだと感じ始める涙だった。
琥珀の狐火がさらに強くなる。
「名前を数人で呼んだだけで、何が変わる」
琥珀の声には苛立ちが混じっていた。
「町は忘れた。人間は忘れた。その事実は変わらない」
「変わらないよ」
楓が言った。
風の中で、小さな身体が揺れる。
「人間が忘れたことは、許してない。御神木を燃やしたことも、椛の名前をなくしたことも、楓は怒ってる」
琥珀の目が細くなる。
「なら、こちらへ来るべきだ」
「でも」
楓は椛の前に立ったまま、首を横に振る。
「椛に消えていいって言わせるのは、もっと嫌」
その言葉に、琥珀の表情が揺れた。
楓は続ける。
「人間に怒ってる。琥珀の言うことも、少しわかる。でも、椛を連れていって、椛がもっと泣くなら、楓は琥珀を止める」
赤い楓の葉が、楓の周囲で舞う。
それは美しかった。
だが、未空には見えていた。
楓の足元の光が、少しずつ薄くなっている。
御神木の根元から伸びる光の糸が、葉を舞わせるたびに細くなっている。
「楓」
未空が声を上げる。
「力、使いすぎないで」
楓は一瞬だけ未空を見る。
驚いた顔。
それから、少しだけ笑った。
「見える人、すごいね」
「すごくない」
「でも、見えてる」
楓は再び琥珀へ向き直る。
「大丈夫。今は、椛を守る」
「それで君が消えても?」
琥珀が問う。
楓は一瞬だけ黙った。
その沈黙で、輝たちは気づいた。
楓もまた、危うい存在なのだ。
御神木の残り火。
最後の生命力。
椛を守るために形を取った、あまりにも不安定な少女。
楓は、消えない存在ではない。
むしろ、椛よりもずっと短い火なのかもしれない。
「楓も消えない」
椛が言った。
楓が振り返る。
椛は涙を拭き、楓を見ていた。
「楓も、消えちゃだめ」
楓の表情が、初めて少しだけ崩れた。
「椛」
「椛、消えてもいいって言った。ごめんなさい。でも、楓もだめ。椛を守るためだけに消えちゃだめ」
楓は、何か言おうとして、言葉に詰まった。
その隙を突くように、狐火が一つ、椛へ向かって走る。
輝が叫んだ。
「椛!」
楓が手を伸ばす。
赤い葉が狐火を包み、風が火を散らした。
火の粉が境内に散る。
輝は椛を庇うように引き寄せる。
綾乃が「危ない!」と叫び、未空を抱き寄せる。武は反射的に近くにあった落ちた枝を拾ったが、すぐに「これでどうしろっていうんだ」と自分で青ざめた。
悠樹が叫ぶ。
「無理に戦うな! 琥珀さんも、本気で奪う気ならとっくに仕掛けている!」
琥珀の目が悠樹へ向く。
「よく見ているね」
「あなたは焦っている」
悠樹は言った。
「楓の存在が想定外だった。御神木が完全には死んでいないことも。だから今、無理に椛ちゃんを奪えば何が起きるかわからない」
琥珀は静かに笑った。
「人間にしては、冷静だ」
「人間なので、冷静でいようとしているだけです」
悠樹の声は震えていなかった。
だが、拳は強く握られていた。
琥珀は椛を見る。
次に楓を見る。
狐火が少しずつ弱まった。
「今日は、引こう」
輝は身構えたまま言う。
「何でだよ」
「君たちが勝ったわけではない」
「わかってる」
「楓」
琥珀は少女の名を呼んだ。
楓の輪郭が、ほんの少し揺れる。
琥珀は続ける。
「君は、椛を守るために生まれた。でも、人間に怒っている。忘れられた痛みも知っている。いずれ、僕の言葉がわかる時が来る」
楓は唇を噛む。
否定できない。
人間に怒っている。
それは本当だった。
御神木を忘れ、椛の名前を忘れ、祭りを別のものに変えた人間たち。
その痛みは、楓の中にもある。
琥珀はそれを見抜いている。
「椛」
琥珀は次に椛を見た。
「君が消えたくないと思うなら、僕は方法を用意する。人間に縋る以外の方法を」
椛は輝の手を握ったまま、琥珀を見る。
怖い。
でも、琥珀の言葉が完全な嘘ではないこともわかってしまう。
琥珀は、椛を消したくない。
それは本当だ。
ただ、その方法が怖い。
琥珀は最後に輝を見る。
「名前を呼ぶだけで、どこまで届くか見せてもらうよ」
赤い狐火が一つ、ふっと消える。
次に、もう一つ。
境内の赤い光が薄れ、琥珀の姿も夜の影へ溶けていく。
「また会おう」
その声を残して、琥珀は消えた。
風が戻る。
小春神社の境内に、夕方の音が戻ってくる。
遠くで車の音。
鳥の声。
川の気配。
輝は、椛の手を握ったまま大きく息を吐いた。
緊張が解けた瞬間、膝から力が抜けそうになる。
だが、先に倒れたのは楓だった。
「楓!」
椛が叫ぶ。
楓はふらりと身体を傾け、御神木の根元に座り込んだ。
顔色が悪い。
輪郭が少し薄い。
足元の赤い葉が、灰のように崩れて消えていく。
未空が駆け寄る。
「力を使いすぎた」
「大丈夫」
楓は強がるように言った。
「ちょっと、起きたばっかりで疲れただけ」
「嘘」
未空が即答する。
楓は目を丸くした。
「見える人、嘘も見えるの?」
「顔」
綾乃が横から言う。
「あなた、椛ちゃんに似てるからわかりやすいのよ」
「似てない」
「似てるわよ」
「楓は楓」
「はいはい、楓ちゃんは楓ちゃんね」
綾乃はしゃがんで、楓の額に手を当てようとした。
楓は警戒して少し身を引く。
「何」
「熱ないか見ようとしたの」
「楓、木だよ」
「木でも女の子の形してるなら、具合悪そうな時は額を見るの」
「人間、変」
「よく言われる」
綾乃は気にしなかった。
楓は少し戸惑いながらも、綾乃の手を拒まなかった。
椛は楓のそばに座る。
「楓」
「何」
「出てきてくれて、ありがとう」
楓は目を逸らした。
「椛が変なこと言うから」
「ごめん」
「もう言わない?」
「……まだ、わからない」
椛の正直な答えに、楓は一瞬怒りかけた。
でも、すぐに息を吐いた。
「じゃあ、言いそうになったら楓が怒る」
「うん」
「何回でも怒る」
「うん」
「泣いても怒る」
「うん」
椛は少しだけ笑った。
楓も、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔はよく似ていた。
輝は二人を見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
椛は一人ではなかった。
ずっと一人だと思っていたけれど、御神木の中に、椛を見ていた存在がいた。
椛が探していた「お兄ちゃん」とは違った。
でも、懐かしくて、怒ってくれて、消えてもいいなんて言うなと叫んでくれる存在。
楓。
その名前を、輝は声に出した。
「楓」
楓がこちらを見る。
「何」
「えっと、よろしく」
「椛をまた泣かせたら怒る」
「はい」
「消えてもいいとか言わせても怒る」
「はい」
「あと、椛のほっぺをつまんだって聞いた」
「それは本当にもう許してください」
輝は頭を下げた。
武が小声で言う。
「輝、初対面から完全に弱いね」
「武、笑ってる場合か」
「笑ってない。ちょっとだけ安心してる」
武は楓を見た。
「楓ちゃんも、椛ちゃんの仲間なんだね」
「仲間じゃない」
楓は言った。
武が少し慌てる。
「え、違うの?」
「椛の味方」
楓は胸を張った。
武は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「そっか。じゃあ、ボクも椛ちゃんの味方だから、楓ちゃんとも味方同士だね」
楓は武をじっと見る。
「面白がる人?」
武は少しだけ顔を強張らせた。
輝が驚く。
楓は、武のこれまでの視線も感じ取っているのかもしれない。
御神木の記憶。
椛のそばで見てきたもの。
その中には、輝や武が椛を珍しい存在として見ていた時間も含まれている。
武は背筋を伸ばした。
「うん。最初は、ちょっと面白がってた」
正直に言った。
「でも、今は違う。まだ完全にはわかってないけど、椛ちゃんや楓ちゃんをネタみたいに見たくない。だから、味方でいたい」
楓はしばらく武を見ていた。
「じゃあ、保留」
「保留かあ」
「椛を守ったら、少し信用する」
「頑張ります」
武は真剣に頷いた。
悠樹は全員を見渡した。
「まずは、ここを離れよう」
「楓も連れて帰るの?」
綾乃が聞く。
「置いていける状況ではないだろう」
「また増えたわね」
輝が呟く。
悠樹が頭を押さえる。
「本当に、また増えた」
「トゥプラスどころか、もう何人暮らしだよ」
「おまえが言うな」
椛が小さく笑った。
楓も少しだけ笑う。
その笑い声が、焼けた境内に落ちる。
まだ何も解決していない。
琥珀は引いただけだ。
玲は琥珀の側にいる。
椛の「消えてもいい」という思いが完全に消えたわけでもない。
楓の力は不安定で、使いすぎれば危うい。
それでも、何かが変わった。
椛は一人ではない。
名前を呼ぶ人がいる。
そして、消えてもいいなんて絶対に許さないと怒る存在がいる。
輝は、焼けた御神木を見上げた。
黒く焦げた幹の根元。
そこに、ほんの小さな赤い光が残っている。
燃え尽きた火ではない。
命の残り火。
それが楓という形を取ったのだ。
「帰ろう、椛」
輝は言った。
椛が頷く。
「うん」
輝は少しだけ迷ってから、楓にも言った。
「帰ろう、楓」
楓は目を丸くする。
それから、照れ隠しのように顔を背けた。
「楓は、まだ帰る場所とか決めてない」
「じゃあ、ひとまず来い」
「人間の部屋?」
「うん。狭いし、悠樹がうるさいし、綾乃が距離近いし、オレが怒られるけど」
「紹介がひどい」
悠樹が言う。
「でも、ご飯は出る」
椛が言った。
楓は椛を見る。
「ご飯」
「温かい」
「……行く」
綾乃が笑った。
「決め手、ご飯なのね」
「大事でしょ」
楓は真顔で言った。
悠樹は深くため息をついた。
「また食費が増える」
「悠樹お兄ちゃん、お母さんみたい」
椛が小さく言う。
楓が即座に反応した。
「お母さん?」
「違う」
悠樹が即答する。
輝が吹き出しそうになり、悠樹に睨まれて飲み込んだ。
少しだけ、いつもの空気が戻った。
小春神社の石段を下りる時、椛は楓の手を握っていた。
楓は少し照れくさそうにしていたが、手を離さなかった。
未空は二人の後ろを歩きながら、ふと振り返る。
焼けた御神木の根元に、赤い楓の葉が一枚だけ残っていた。
それはすぐに風に乗って舞い上がり、夕方の空へ溶けるように消えた。
未空には、その葉が消えたのではなく、どこかへ届きに行ったように見えた。
忘れられた名前の先へ。
まだ残っている町の記憶の奥へ。
そして、次に必要になる何かへ。
未空は小さく息を吐いた。
玲に傷つけられた胸は、まだ痛い。
その痛みは消えていない。
でも、椛が楓の手を握っている姿を見ていると、ほんの少しだけ思えた。
壊れたものの中にも、まだ残るものがある。
焼けた御神木の中に、楓が残っていたように。
人間の名前の奥に、玲がまだ残っているように。
そう思いたかった。
石段の下で、輝が振り返る。
「星川さん、行くぞ」
未空は頷いた。
「うん」
楓川の方から、夕方の風が吹いた。
椛の髪が揺れ、楓の葉の飾りが小さく音を立てる。
小春市は、まだ忘れている。
まだ何も取り戻していない。
けれど、焼けた神社から、小さな名前がもう一つ歩き出した。
椛の隣で。
椛を叱るために。
椛を守るために。
そして、いつか自分自身の名前でここに立つために。
楓は、目を覚ました。




