第十五章 葉月神社の弓
楓が目を覚ました翌日、輝たちの部屋は、いよいよ普通のマンションの一室ではなくなりつつあった。
リビングのソファーには、椛が座っている。
その隣に、楓が座っている。
二人はよく似ていた。
白い千早に紅い袴という、神社の古い記憶をそのまままとったような姿。小さな手。大きな瞳。年齢で言えば同じくらいに見える。
けれど、並ぶと違いははっきりしていた。
椛は柔らかい。
泣きそうな時も、笑う時も、水面に浮かぶ灯籠のように、どこか揺れている。
楓は強い。
怒る時は遠慮がなく、黙っていても根を張った木のようにそこにいる。けれど、よく見ると輪郭は椛より薄かった。赤い楓の葉の光が、時折彼女の髪や袖の端からこぼれ、すぐに消える。
未空には、それが見えていた。
楓の足元からは、焼けた御神木へ続く細い光の糸のようなものが伸びている。
遠く離れた小春神社の御神木。
焦げた幹。
まだ残っている根。
そこから引き出された最後の命が、楓をここに立たせている。
だから、強く見えるのに危うい。
楓は、使えば減る存在だった。
「じろじろ見ないで」
楓が言った。
未空は瞬きをする。
「見てた?」
「見てた」
「ごめん」
「謝るほどじゃないけど、見える人に見られるの、くすぐったい」
「くすぐったい?」
「根っこを触られてるみたい」
未空は少しだけ首を傾げた。
「根っこ」
「そう。楓は木だから」
「でも、女の子の形」
「楓は楓」
「うん」
未空が頷くと、楓は少しだけ満足そうにした。
その向かいでは、輝が床に座ってノートを広げている。
横には悠樹。
テーブルの上には、小春神社、楓祭り、白狐、御神木、玲、琥珀、楓と書かれたメモが散らばっていた。紙面のあちこちに輝の雑な字と、悠樹の整った字が混在している。
「整理するとだな」
輝が言った。
「椛は小春神社の土地神。御神木が依り代。楓はその御神木の残り火から出てきた。琥珀さんは白狐で、椛を消したくないけど、やり方が怖い。玲は夜の神で、琥珀さん側。で、小春市の霊的な何かがだいぶやばい」
「最後が雑すぎる」
悠樹が即座に突っ込む。
「でも合ってるだろ」
「大筋としては否定しないが、雑だ」
「悠樹、まとめて」
「まず、小春神社を中心に何らかの霊的な結界、あるいは土地の記憶の流れがある。琥珀さんは御神木、図書室の記録、白狐の噂、玲の夜の力を利用している可能性がある」
「つまり、やばい」
「雑に戻すな」
綾乃がキッチンから麦茶を運んできて言った。
「で、どうするの?」
「それが問題だ」
悠樹は眉間を押さえる。
「相手が人間なら警察や消防、学校、行政に相談する選択肢もある。しかし今回の相手は白狐と夜の神だ。制度で対応できる範囲を超えている」
「でも、放っておいたら琥珀さん、また椛ちゃんを連れていこうとするわよね」
綾乃が椛を見る。
椛は小さくうなずいた。
昨夜ほど沈んではいない。
楓が隣にいるからだろう。
だが、不安が消えたわけではなかった。
「琥珀さん、椛を消させないって言ってた」
「うん」
輝が頷く。
「でも、そのために小春市を神隠しの町にするとか言い出しそうな勢いだった」
「言い出しそうじゃなくて、たぶんもう動いてる」
未空が静かに言った。
全員の視線が集まる。
未空は窓の外を見ていた。
そこから見えるのは、マンションの向かいの住宅と、細い電線と、午後の空だけだ。
けれど未空には、その向こうに別のものが見えているようだった。
「小春神社だけじゃない。町の流れが、いくつかの場所につながってる」
「流れ?」
武が聞く。
彼はソファーの横に座り、いつものように興味津々の顔をしている。だが、以前のように「すごい」「面白い」とすぐに言わなくなった。言葉を選んでいるのが、少し不器用なほど伝わってくる。
「小春神社。楓川。図書室。旧商店街。新小春モールの噂。あと、もう一つ」
未空は少しだけ眉を寄せた。
「山の方」
「山?」
武が顔を上げる。
「神社がある」
「神社って、もしかして……」
武は自分を指さした。
「葉月神社?」
未空は武を見る。
「たぶん」
武は少し驚いた顔をした。
葉月神社。
小春市の北側、低い山の上にある古い神社。
小春神社よりも規模が大きく、今でも参拝客がいる。正月や七五三、厄除け祈願などで利用されることも多い。小春市の人間にとって「神社」と聞いてまず思い浮かぶのは、小春神社ではなく葉月神社の方だった。
そして、武の祖父が神主をしている場所でもある。
「そういえば」
武はぽんと手を打った。
「じいちゃんの神社、古い弓矢が奉納されてるんだよ」
部屋の空気が少し変わった。
輝が身を乗り出す。
「弓矢?」
「うん。土地を鎮めるための古い祭具って聞いたことある。蔵の奥にあって、普段は見せてもらえないんだけど」
「それだ!」
輝は立ち上がった。
「神器じゃん! 完全にイベントアイテムじゃん!」
「輝」
悠樹と綾乃が同時に低い声を出した。
輝は固まる。
「……すみません、言い方が軽かったです」
武も少しだけ気まずそうに頭をかいた。
「でも、ボクも最初に聞いた時はそう思ってた。古い弓矢とか、絶対かっこいいじゃんって。封印された神器みたいで」
楓がじろりと武を見る。
「封印された神器って何」
「えっと、強い敵を倒す伝説の武器みたいな……」
「神社のものって、そういう遊び道具なの?」
楓の声が刺さった。
武は口を閉じる。
その問いは、祖父に言われる前にもう一度突きつけられたようなものだった。
「違う、と思う」
武は少し時間をかけて答えた。
「思う?」
「ちゃんとわかってない。だから、じいちゃんに聞きに行きたい」
武はいつもより真面目な顔をしていた。
「小春神社の結界を補強するとか、琥珀さんを止めるとか、ボクには見えないし、霊力とかもない。でも、葉月神社なら案内できる。じいちゃんにも話せる。たぶん叱られるけど」
「たぶんじゃなく、確実に叱られるだろうな」
悠樹が言う。
「だよね」
武は肩を落とした。
綾乃は腕を組んだ。
「行きましょう」
「即決だな」
輝が言う。
「だって、手がかりがあるんでしょ。行かない理由ある?」
「椛と楓は?」
悠樹が問う。
椛は少し不安そうに顔を上げる。
楓は胸を張った。
「楓も行く」
「だめ」
未空が即答した。
楓はむっとする。
「何で」
「昨日、力を使いすぎた。まだ不安定。葉月神社の流れが強い場所に行ったら、どうなるかわからない」
「でも」
「楓が倒れたら、椛も不安定になる」
未空の言葉に、楓は黙った。
椛は楓の袖をそっと握る。
「楓、一緒に待ってよう」
「椛」
「椛も、ちょっとこわい。でも、輝お兄ちゃんたちが調べてきてくれるなら、待つ」
楓はしばらく不満そうにしていた。
だが、椛に袖を握られているせいか、強くは出られない。
「……わかった。でも、何かあったらすぐ呼んで」
「呼ぶ」
輝が答える。
「楓も、椛も」
楓は輝を見た。
「呼び方、忘れないで」
「忘れない」
輝はそう言った。
まだ、琥珀に問われた「いつまで」の答えは出ていない。
でも、今ここで名前を呼ぶことはできる。
今ここで忘れないことはできる。
それを積み重ねるしかない。
葉月神社へ向かうことになったのは、その日の午後だった。
参加者は輝、悠樹、綾乃、武。
未空は椛と楓のそばに残ると言った。玲のことでまだ完全に立ち直っていないこともある。だが、それ以上に、今の椛と楓から目を離したくなかったのだろう。
綾乃は出発前、未空の肩に手を置いた。
「無理しないでよ」
「うん」
「何かあったらすぐ電話」
「うん」
「椛ちゃんと楓ちゃんも、変なもの見えたら未空に言うのよ」
椛は素直に頷く。
「うん」
楓は少し首を傾げた。
「変なものって、人間の基準?」
「そこは未空判断で」
「わかった」
綾乃は満足そうに頷いた。
輝が横から言う。
「綾乃、すっかり仕切り役だな」
「誰かが仕切らないと、あんたたちすぐ雑に動くから」
「オレだけじゃないよな?」
輝は武を見る。
武は目を逸らした。
「ボクも、たぶん雑」
「認めるの早いな」
「最近、ちょっと学んだ」
武は苦笑した。
葉月神社は、小春市の北側の山の中腹にある。
駅前からバスも出ているが、本数は少ない。途中まで歩いて、山道へ入る。参道の入口には大きな石の鳥居があり、その先に長い石段が続いていた。
綾乃は石段を見上げた瞬間、顔をしかめた。
「……また階段」
「神社ってだいたい階段あるよね」
武が明るく言う。
「その言い方、腹立つわね」
「え、何で?」
「武は軽々上れる側だからよ」
「毎朝走ってるからね」
「そういうところ!」
綾乃が怒る。
輝は石段を見上げ、少しだけ後ずさった。
「小春神社より長くないか?」
「長いよ」
武は即答した。
「でも、途中に踊り場が三つあるから大丈夫」
「全然大丈夫じゃない情報だな」
悠樹は淡々と参道の横の案内板を確認している。
「葉月神社。創建は不詳。現在の社殿は江戸後期に再建。山の水源と小春市北部の土地を守る社……」
「悠樹、読むのは後でいいから上ろうよ」
武が言う。
「おまえが急かすな。綾乃が怒る」
「もう怒ってるわよ」
綾乃は一段目に足をかけた。
四人は石段を上り始めた。
武は軽かった。
まるで階段ではなく平地を歩いているように、すいすい上っていく。小柄な体が、石段の上を跳ねるように進む。
綾乃は三十段目あたりで息を切らし始めた。
「武……」
「何?」
「何でそんなに平気なのよ」
「剣道部だし、毎朝走ってるし」
「聞いたアタシが馬鹿だった」
「綾乃、荷物持とうか?」
武がようやく気づいて戻ってくる。
「最初から言いなさいよ!」
「ごめん。上るの楽しくて」
「石段を楽しいって言う人間、信用ならない」
輝も息を切らしながら言う。
「同意する」
悠樹だけは比較的落ち着いていたが、それでも額に汗が浮かんでいる。
「おまえたち、普段の運動不足が出ている」
「悠樹が一番嫌なこと言った」
「事実だ」
「事実って便利だけど痛いな」
途中の踊り場で休憩した。
振り返ると、小春市の町並みが見えた。
駅前の新小春モール。
古い商店街。
楓川の細い銀色の線。
その先に、小春神社がある方角。
輝は息を整えながら町を見下ろした。
ここから見ると、小春市は一つの町だった。
便利な場所も、古い場所も、忘れられた神社も、今も人の集まる神社も、全部同じ土地の上にある。
未空が言っていた「流れ」という言葉を思い出す。
小春神社だけではない。
町全体が、見えない何かでつながっている。
そのつながりを、琥珀は使おうとしているのかもしれない。
「輝」
悠樹が声をかける。
「何だ」
「顔が珍しく真面目だ」
「珍しくは余計だろ」
「葉月神社へ着いたら、先走るなよ」
「わかってる」
「本当にか」
「たぶん」
「たぶんでは困る」
輝は頭をかいた。
「でも、今回は武のじいちゃんだろ。さすがにいきなり神器貸してくださいとは言わない」
「武が言いそうだ」
悠樹は武を見る。
武は目を逸らした。
「……言わないように気をつける」
「言う気だったな」
綾乃が冷たく言う。
「ちょっとだけ」
「ちょっとでも駄目」
「はい」
さらに石段を上り、ようやく葉月神社の境内へ着いた。
小春神社とは、空気が違った。
まず、人の気配がある。
境内は掃き清められ、砂利にはきれいに箒目が残っている。手水舎には水が流れ、柄杓も整えられていた。社務所の戸は開いていて、授与所にはお守りや御札が並んでいる。拝殿は大きく、しめ縄も新しい。
鳥居の朱色は深く、木々の緑とよく映えていた。
同じ神社でも、小春神社の無人で取り残されたような空気とは違う。
葉月神社は、今も人の暮らしの中にある神社だった。
「ここが武のじいちゃんの神社か」
輝が呟く。
「うん」
武は少し得意そうだった。
しかし、その得意げな顔はすぐに引き締まる。
拝殿の前に、一人の老人が立っていた。
白い作務衣に羽織をかけた、背筋の伸びた老人。
髪は白いが、目は鋭い。
立っているだけで、境内の空気が少し改まるような人だった。
葉月光伸。
武の祖父であり、葉月神社の神主。
武は一瞬だけ姿勢を正した。
「じいちゃん」
「武」
光伸は低い声で言った。
「友人を連れてくるなら、事前に連絡をしなさい」
「メッセージ送ったよ」
「『今から行く。大事な話。あとお茶出る?』は事前連絡とは言わん」
輝は吹き出しかけた。
悠樹が目で止める。
綾乃は完全に呆れている。
「武」
「はい」
「お茶目当てか」
「それも少し」
「正直なのはよろしい」
光伸はため息をついた。
厳しそうだが、武を見る目には少しだけ甘さがあった。
「それで、何の用だ」
武は一歩前に出る。
「じいちゃん、あのさ」
「うむ」
「土地を鎮める古い弓、あるでしょ」
光伸の表情がわずかに変わる。
武はその変化に気づかず、いつもの調子で続けてしまった。
「ちょっと貸してほしいんだ。小春神社のことで必要かもしれなくて。ほら、神器の弓っていうか、こう、今まさに必要なイベントアイテムっぽくて――」
次の瞬間。
光伸の杖が、武の足元の石を強く打った。
乾いた音が境内に響く。
武はびくっと肩を震わせた。
輝も背筋を伸ばす。
綾乃は「ほら」と言いたそうな顔をした。
光伸の目が、武をまっすぐ射抜く。
「神社のものは、おまえたちの冒険道具ではない」
その声は、怒鳴ってはいなかった。
けれど、境内の空気が一段冷えるほど厳しかった。
武は口を閉じた。
光伸は続ける。
「弓は見世物ではない。怪談を解く鍵でも、妖怪を退治する玩具でもない。そこにあるのは、土地と人との間に積み重なった祈りだ。おまえは、それを何だと思っている」
武は俯いた。
「……ごめんなさい」
「謝る相手は私だけではない」
光伸は拝殿の方を見る。
武もそちらを見る。
輝たちも、自然と背筋を正した。
拝殿の奥に、何があるのかは見えない。
けれど、そこには確かに長い時間がある。
人が手を合わせてきた時間。
土地を鎮めるために祈ってきた時間。
武はそれを、これまで身近なものとして見ていた。
身近すぎて、軽く扱っていた。
祖父の神社。
お茶と和菓子が出る場所。
古い祭具があって、伝承があって、少しわくわくする場所。
それは間違いではない。
でも、それだけではなかった。
「ごめん」
武は今度は、拝殿へ向かって頭を下げた。
「軽く言った」
光伸はしばらく黙っていた。
やがて、輝たちへ視線を向ける。
「君たちは、武の友人だな」
悠樹が一歩前へ出た。
「葵城悠樹です。突然押しかけて申し訳ありません」
「真堂輝です」
「涼宮綾乃です」
三人が頭を下げる。
光伸は三人を順に見た。
その目は厳しいが、敵意はなかった。
「小春神社のことで来たと言ったな」
輝は頷いた。
「はい」
「小春神社で、何が起きている」
輝は言葉に迷った。
どこまで話すべきか。
白狐。
椛。
楓。
玲。
琥珀。
土地神。
御神木。
あまりにも普通ではない話ばかりだ。
悠樹が助けるように口を開く。
「信じていただけるかはわかりませんが、最近の小春神社周辺の異変は、御神木の火災だけでは済まない状況です。古い祭神の名が失われていること、白狐伝承と火災の噂が結びついていること、楓川や旧商店街の記録にも異常があることがわかってきました」
光伸は黙って聞いている。
輝は続けた。
「小春神社の土地神だった子がいます。椛って名前です。御神木を依り代にしてた。でも、人間に忘れられて、御神木も燃えて、消えかけてる」
声が少し震えた。
「その椛を、琥珀さん……白狐が連れていこうとしてます。消させないためだって言ってます。でも、そのやり方が町を巻き込むかもしれなくて」
光伸の目が細くなる。
「白狐」
「はい」
「玉城琥珀と名乗っているか」
輝たちは息を呑んだ。
武が顔を上げる。
「じいちゃん、知ってるの?」
「知らぬ名ではない」
光伸はゆっくり言った。
「古い名だ。玉藻の名を持つ白狐。小春神社の周囲に伝承が残っていた」
綾乃が小さく言う。
「やっぱり……」
光伸は彼女を見た。
「そして、椛か」
その名を聞いて、輝は目を見開いた。
「知ってるんですか」
「名までは知らなかった」
光伸は首を横に振る。
「だが、小春神社に小さな土地神がいたことは、古い記録に残っている。川を鎮め、子どもを守る神。名は、記録の中でも曖昧になっている」
「また名前だけ」
輝は拳を握る。
光伸はその様子を見て、少しだけ目を伏せた。
「小春神社は、かつて楓川を鎮める社だった。葉月神社はその外側から、山の水源と土地の流れを支える役割を持っていた」
「外側から支える?」
悠樹が聞く。
「川は山から来る。水は土地を巡る。小春神社だけで川を鎮めていたわけではない。葉月神社は、山の側から水と土地の荒ぶる流れを整え、小春神社へ祈りが届く道を保っていた」
輝は思わず町を見下ろす方へ視線を向けた。
山。
川。
神社。
町。
全部がつながっている。
未空が見たという霊的な流れは、ただの感覚ではなかった。
「じゃあ、その弓は」
武が恐る恐る言う。
光伸は武を見た。
「敵を射抜くためのものではない」
武は黙る。
「土地の荒ぶる力を射抜き、祓い、倒す。そういう言い伝えをする者もいる。だが、本来の弓は、名と祈りを届けるための祭具だ」
「名と祈り」
輝が繰り返す。
「矢は、まっすぐ飛ぶ。人の手を離れ、空を通り、見えない場所へ届く。そこに紙垂を結び、名を載せ、祈りを託す。そうして、土地の中心へ届ける」
光伸の声は、静かだった。
「射るのは敵ではない。忘れられた名が届くべき場所だ」
輝の胸の奥で、何かが強く鳴った。
椛の名前。
楓の名前。
忘れられた祭り。
灯籠流し。
名前を呼ぶこと。
それらが、弓矢という形へ少しずつつながっていく。
悠樹が慎重に問う。
「その弓を、お借りすることは」
「ならん」
光伸は即答した。
武が肩を落とす。
輝も思わず声を上げかけた。
しかし、光伸の目がそれを止めた。
「今のおまえたちに渡せるものではない」
「今の、ということは」
悠樹が言う。
「条件次第では、可能性があるという意味ですか」
光伸は少しだけ悠樹を見た。
「聡いな」
「よく言われます」
輝がぼそっと言う。
「そして性格が悪い」
「黙れ」
光伸の口元が、ほんのわずかに緩んだように見えた。
「弓は、扱う者がいなければ意味がない。技術だけでも、血筋だけでも足りぬ。何を届けるのかを知らなければならない」
「椛の名前を届ける」
輝は思わず言った。
光伸の目が輝を見る。
輝は少しだけ息を呑んだが、目を逸らさなかった。
「椛の名前を、町に届ける。たぶん、それが必要なんだと思います」
「たぶん、か」
「はい。まだ全部はわかってません」
「正直でよろしい」
光伸は背を向けた。
「ついて来なさい」
案内されたのは、社務所の奥にある小さな資料室だった。
葉月神社は手入れが行き届いているが、奥の資料室には古い匂いが残っていた。木の棚、和綴じの記録帳、古い地図、祭礼に使われた道具の箱。湿気を避けるための乾燥剤が置かれているが、それでも紙と木と時間の匂いがする。
光伸は棚の一番上から、細長い箱と厚い記録帳を取り出した。
箱は開けなかった。
その代わり、記録帳を机に置く。
「弓は見せぬ。今は記録だけだ」
武が少しだけ残念そうな顔をして、すぐに引っ込めた。
光伸はそれを見ている。
「武」
「はい」
「残念だと思ったな」
「……少し」
「それでよい。興味を持つこと自体は悪ではない。だが、見たい、触れたい、使いたいという心だけでは祭具に近づけぬ」
武は黙って頷いた。
光伸は記録帳を開いた。
そこには、古い絵が残っていた。
色は褪せている。
しかし、何が描かれているかはわかった。
楓川。
夜の灯籠流し。
川面に浮かぶ小さな灯り。
御神木の赤い葉。
その手前で、一人の少年が弓を引いている。
少年の矢には、白い紙垂が結びつけられていた。
紙垂には、文字が書かれている。
だが、その文字はところどころ薄く、読めない。
輝は身を乗り出す。
「これ、楓祭り……?」
「そうだ」
光伸が答える。
「古くは、楓祭りの終わりに葉月神社から使いの者が下り、小春神社で弓を引いたという。矢は川へ向けるのではない。御神木と川と山を結ぶ見えない流れへ向ける」
「狙うものは、敵じゃない」
悠樹が呟く。
「名前を届ける中心」
「そうだ」
光伸は頷く。
「矢に結ぶ紙垂には、祭神の名と祈りの言葉が書かれていた。だが、見ての通り、名の部分は読めぬ」
輝は絵を見つめた。
紙垂の文字。
読めない名前。
椛。
きっとそこにあったはずの名前。
武が小さく言った。
「これを、ボクは神器って呼んで、貸してって言ったんだ」
誰も茶化さなかった。
武は記録帳の絵を見つめている。
「弓って、敵を倒すものだと思ってた。妖怪退治とか、そういうやつ。かっこいい道具だって思ってた」
光伸は黙っている。
「でも、これ、違うんだね。誰かの名前を届けるためのものなんだ」
「そうだ」
「じゃあ、オカルトグッズじゃない」
「当然だ」
「冒険道具でもない」
「当然だ」
「ごめんなさい」
武は深く頭を下げた。
今度の謝罪は、祖父だけに向けたものではなかった。
葉月神社へ。
小春神社へ。
御神木へ。
名前を忘れられた椛へ。
そして、面白い噂として消費してきた自分自身の軽さへ。
武は頭を下げたまま言った。
「ボク、最初は白狐の噂も、御神木の火事も、椛ちゃんのことも、ちょっと面白がってた。すごいもの見つけたって思ってた。でも、違った。全部、誰かの痛みとか、祈りとか、忘れられた名前につながってた」
声が少し震える。
「だから、ちゃんと調べたい。面白いからじゃなくて、届けるために」
光伸は、しばらく武を見ていた。
厳しい目。
しかし、その奥に少しだけ柔らかいものがあった。
「ようやく、少しは聞く耳を持ったか」
「少し?」
「少しだ」
「じいちゃん、厳しい」
「神社のものを軽く借りようとした孫に、甘い言葉をかける気はない」
「はい」
武はしゅんとした。
綾乃が小声で輝に言う。
「武、ちゃんと叱られてよかったわね」
「何か、綾乃が保護者みたいだな」
「誰が保護者よ」
「悠樹と同じ枠」
「やめなさい」
悠樹が横から冷たく言う。
「僕も巻き込むな」
光伸は記録帳の別のページを開いた。
そこには、祝詞の断片らしきものが記されていた。
かな文字と漢字が混じり、古い表記で読みにくい。
だが、いくつかの言葉はわかった。
楓川。
小春の御木。
子らの息災。
名を結ぶ。
灯を流す。
矢に託す。
輝は、その言葉を見ていた。
名を結ぶ。
椛の名前。
楓の名前。
それを届ける。
それは、ただ叫ぶこととは違うのかもしれない。
ただ覚えていると言うだけでは足りないのかもしれない。
でも、名前を呼ぶことが無意味ではないことも、少しわかった。
矢は名前を運ぶ。
声は、その名前を矢に載せる。
「これ、写してもいいですか」
悠樹が尋ねる。
「この部屋の外へ持ち出すことは許さん。だが、ここで写すなら許す」
「ありがとうございます」
悠樹はすぐにノートを開いた。
武も慌ててメモを取る。
「ボクも写す」
「字を丁寧に書け」
光伸が言う。
「ボクの字、そんなにひどい?」
「ひどい」
「即答」
輝が小声で笑う。
「おまえ、人のこと言えないだろ」
悠樹が言う。
「オレは味のある字」
「読みにくい字だ」
「厳しい」
資料室の空気が少しだけ緩んだ。
しかし、記録帳の絵は厳粛だった。
灯籠が流れる川。
弓を引く少年。
紙垂を結んだ矢。
読めない神の名。
そこには、失われた祭りの中心が残っていた。
完全には消えていない。
名前が読めなくなっても、形は残っている。
届け方は、まだ残っている。
光伸は、輝の顔を見た。
「真堂輝と言ったな」
「はい」
「おまえは、弓を引けるのか」
「……引いたことはないです」
「正直でよろしい」
「剣道なら武の方ができます」
武が顔を上げる。
「ボク?」
「うん。運動できるし、体力あるし」
輝は言った。
「こういうの、武の方が向いてるんじゃないかって」
武は少しだけ目を伏せた。
その言葉は嬉しいようで、怖いようでもあった。
しかし、光伸は静かに首を横に振った。
「技量だけで決まるものではない」
「でも」
「弓を引く者は、何を届けるかを知らねばならない。誰の名を届けるのか。なぜ届けるのか。その名を、どれだけ呼んできたのか」
輝は黙った。
椛の名前を呼んできた。
たくさん呼んだ。
でも、泣かせもした。
傷つけもした。
答えられなかった。
そんな自分が、名前を届ける役でいいのか。
その問いは、すぐに答えを出せるものではなかった。
光伸は記録帳を閉じた。
「弓を貸すかどうかは、今は決めぬ」
「はい」
悠樹が頷く。
「だが、必要な時が来るかもしれん。その時までに、おまえたちは自分たちが何を届けたいのかを考えなさい」
「何を届けたいのか」
綾乃が繰り返す。
「椛ちゃんと楓ちゃんの名前じゃないの?」
「名は、ただ文字を読むだけでは届かぬ」
光伸は言った。
「その名を呼ぶ心がいる。祈りがいる。責任がいる。神に残ってほしいと願うなら、人は何を引き受けるのか。それを考えねばならん」
輝は、琥珀の問いを思い出した。
君はその子を、いつまで覚えていられる?
まだ答えられない。
でも、少しだけ違う問いが加わった。
何を届けたいのか。
椛をただ消したくないから名前を呼ぶのか。
楓をただ守りたいから名前を呼ぶのか。
それとも、もっと別の何かを届けるのか。
輝は拳を握った。
「考えます」
光伸は頷いた。
「よろしい」
資料室を出る頃には、夕方になっていた。
葉月神社の境内には、柔らかい光が差していた。山の上の風が木々を揺らし、遠くから鳥の声が聞こえる。
帰り際、光伸は武に包みを一つ渡した。
「これを持っていけ」
「何?」
「茶菓子だ」
武の顔がぱっと明るくなる。
「じいちゃん!」
「椛という子と、楓という子に渡しなさい。御神木の話をするなら、甘いものくらいあった方がよかろう」
武は包みを大事そうに受け取った。
「ありがとう」
「それと」
光伸の声が少しだけ厳しくなる。
「茶菓子を食べるためだけに来るな」
「……はい」
綾乃が笑いをこらえる。
輝はこらえきれず少し笑った。
武が振り返る。
「二人とも笑ってる」
「笑ってない」
「笑ってる」
「少しだけ」
悠樹が言った。
「悠樹まで!」
石段を下りる時、綾乃は当然のようにへばった。
「下りなのに疲れる……」
「下りは膝に来るからね」
武が言う。
「そういうことは手を貸しながら言いなさいよ」
「あ、持つ?」
「今さら!」
綾乃が怒りながらも、武の手を借りる。
輝はその後ろで笑った。
「武、少し成長したな」
「うん。叱られたからね」
「素直」
「じいちゃん、怖いし」
「でも、いいじいちゃんだな」
「うん」
武は神社の方を振り返った。
鳥居の向こうに、葉月神社の社殿が見える。
整えられた境内。
人が手を入れ、祈りを続けている場所。
小春神社とは違う。
けれど、どちらも同じ土地の中にある神社だった。
「ボクさ」
武はぽつりと言った。
「神社のものって、ずっとそこにあるから、何となく当たり前だと思ってた。じいちゃんの神社も、蔵も、祭具も、古い記録も。あるのが当たり前で、見せてもらえたらラッキーくらいに思ってた」
輝は黙って聞いた。
「でも、小春神社は忘れられた。御神木も燃えた。椛ちゃんの名前も消えかけた。葉月神社だって、誰も大事にしなくなったら、いつかそうなるのかもしれない」
「そうかもな」
「怖いね」
武は小さく笑った。
いつもの明るい笑いではない。
「オカルトって、怖いから面白いと思ってた。でも、本当に怖いのは、忘れることなのかも」
輝は、その言葉を胸の中で繰り返した。
本当に怖いのは、忘れること。
琥珀が怒る理由。
椛が消えかける理由。
玲が人間を信じられない理由。
それが少しだけ見えた気がした。
でも、だからといって琥珀のやり方を受け入れるわけにはいかない。
恐怖で刻むのではなく、名前と祈りを届ける。
葉月神社の弓は、そのためのものだった。
マンションへ戻ると、椛と楓が玄関まで迎えに来た。
未空もリビングから立ち上がる。
「おかえり」
椛が言った。
「ただいま、椛」
輝はすぐに返す。
続けて楓を見る。
「ただいま、楓」
楓は少しだけ目を丸くした。
それから、ぷいっと顔を背ける。
「おかえり」
小さな声だった。
武は持っていた包みを掲げる。
「じいちゃんから、椛ちゃんと楓ちゃんにお土産」
「おみやげ?」
椛の目が少し輝く。
楓もちらりと見る。
「高級和菓子だよ」
武が言う。
「武のおやつ目当ての神社訪問じゃなかったの?」
綾乃が突っ込む。
「今日は違うよ。今日は、ちゃんと叱られてきた」
「それを胸張って言う?」
「大事なことだから」
武は真面目な顔で言った。
それを見て、楓が少しだけ表情を緩める。
「面白がる人、少しだけ信用してもいいかも」
武の顔が明るくなった。
「本当?」
「少しだけ」
「少しだけでも前進だ」
椛は包みを開ける。
中には、楓の形をした和菓子と、月の形をした干菓子が入っていた。
月の形を見た瞬間、未空の表情がわずかに動く。
玲。
その名前が、部屋の中に声にならずに落ちた。
誰もすぐには触れなかった。
ただ、未空は月の干菓子をじっと見ていた。
楓が小さく言う。
「食べないなら、楓が食べる」
「食べる」
未空が即答した。
綾乃が少しだけ笑う。
「食べましょ。こういうのは、考え込む前に食べるのも大事」
悠樹が湯を沸かし始める。
「茶を入れる」
「やっぱりお母さん」
輝が言って、すぐに悠樹に睨まれた。
「すみません」
リビングに、少しだけ日常の空気が戻る。
けれど、テーブルの上には、悠樹が写してきた葉月神社の記録が広げられていた。
灯籠流し。
弓を引く少年。
紙垂のついた矢。
読めない神の名。
椛と楓は、その絵をじっと見た。
椛は小さく言った。
「これ、知ってる気がする」
楓も頷く。
「根っこの奥に、ある」
輝は二人を見る。
「この弓で、椛と楓の名前を届けられるかもしれない」
「届ける?」
「町に。御神木に。忘れた人たちに。まだ、どうやるかはわからないけど」
椛は少しだけ不安そうにする。
「椛の名前、届く?」
輝はすぐには答えなかった。
届くと言い切りたい。
でも、軽く言いたくない。
だから、今言えることだけを言った。
「届くようにする」
椛は輝を見た。
輝は続ける。
「まだわかんないことばっかりだけど、調べる。考える。名前を呼ぶ。それで足りないなら、足りるようにする」
楓がじっと輝を見る。
「今度は、途中で逃げない?」
「逃げない」
「本当に?」
「怖くても、たぶん逃げない」
「たぶん」
「いや、そこは……逃げない。うん、逃げない」
楓は少しだけ満足したようだった。
「じゃあ、少しだけ信用する」
「少しだけばっかりだな」
「信用はちょっとずつ増えるもの」
楓は言った。
その言葉は、妙に重かった。
焼けた御神木の残り火から生まれた少女が言うと、ただの子どもの言葉ではなくなる。
輝は頷いた。
「じゃあ、ちょっとずつ増やす」
「うん」
未空は記録の絵を見ていた。
弓。
矢。
紙垂。
名前。
そして、町の流れ。
小春神社だけでは足りない。
葉月神社だけでも足りない。
図書室の記録、楓川、旧商店街の祭り、新小春モールで広がる噂、玲の夜、琥珀の狐火。
全部がつながっている。
その中心に、椛と楓の名前がある。
未空には、まだぼんやりとしか見えない。
でも、道は少しだけ見えてきた。
見えるだけでも、見えない者よりは近い。
玲の言葉が胸に刺さる。
痛い。
でも、その言葉は嘘ではなかった。
未空は小さく息を吐き、記録の絵を指さした。
「弓は、敵を倒すものじゃない」
全員が未空を見る。
「名前を届けるもの」
輝は頷く。
「うん」
「なら、倒す相手だけを探したら駄目」
「名前を届ける場所を探す」
悠樹が続ける。
「町の流れが最も強く集まる場所、あるいは瞬間」
武がノートを開く。
「楓祭りの記録、もっと調べる。葉月神社にもまた行く。じいちゃんにも、ちゃんと聞く。今度は軽く言わない」
綾乃が言う。
「アタシは、椛ちゃんと楓ちゃんの名前を呼ぶ」
「綾乃らしいな」
輝が言う。
「難しいことはわかんないもの。でも、名前を呼ぶくらいならできる」
椛が、少しだけ笑った。
「綾乃お姉ちゃんが呼ぶと、あったかい」
綾乃は一瞬照れた。
「そ、そう?」
「うん」
楓が横から言う。
「声が大きいからじゃない?」
「楓ちゃん?」
「でも、悪くない」
「それ、褒めてるの?」
「たぶん」
部屋に小さな笑いが起きた。
まだ危機は去っていない。
琥珀は動いている。
玲は戻っていない。
椛も楓も不安定なままだ。
葉月神社の弓は、まだ借りられない。
けれど、手がかりは増えた。
ただの武器ではなく、名前と祈りを届ける祭具。
それは、輝たちがこれから何をすべきかを、少しだけ照らしていた。
窓の外で、夕方の空が茜色に染まっている。
遠く、小春市の北の山に葉月神社がある。
その山から流れた水は、楓川へ向かい、小春神社のそばを通り、町を抜けていく。
忘れられた名前も、きっと同じように流れている。
どこかで止まり、薄れ、読めなくなってしまった名前。
それをもう一度、届けるための道がある。
輝は記録の絵を見つめた。
弓を引く少年。
紙垂の矢。
灯籠の川。
読めない名。
そこにいつか、椛と楓の名前を乗せる日が来るのかもしれない。
その時、自分は何を届けるのか。
輝はまだ答えを知らない。
けれど、逃げずに考えようと思った。
それが、今の彼にできる最初の祈りだった。




