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第十六章 神隠しの町

 最初の異変は、駅で起きた。


 朝の小春駅は、いつものように人で混み合っていた。改札前には通勤客が列を作り、制服姿の高校生たちが眠そうな顔でスマートフォンを眺めている。売店からはコーヒーと温められたパンの匂いが漂い、発車メロディと案内放送が忙しなく重なっていた。


 その中で、電光掲示板だけが妙だった。


『遅延 小春線 上下線』


 その表示は珍しくない。


 朝の電車はよく遅れる。人身事故、信号確認、車両点検、混雑、強風、理由はいくらでもある。


 だが、その日の表示には理由がなかった。


『遅延 小春線 上下線』


 ただそれだけ。


 五分遅れ。


 十分遅れ。


 十五分遅れ。


 ホームの人々は最初こそざわついたが、やがて諦めたようにスマートフォンへ目を落とした。


「また遅延かよ」


「最近多くない?」


「この路線、ほんと使えない」


 誰かがそう言った。


 駅員は改札横で何度も頭を下げている。


「現在、運行状況を確認しております。お急ぎのところ申し訳ございません」


 しかし、線路の向こうには電車が見えていた。


 ホームのすぐ手前。


 来ている。


 来ているのに、駅へ入ってこない。


 車両の先頭が、朝の光を受けて銀色に光っている。運転席も見える。乗客の影も見える。


 それなのに、電車はまるで透明な膜に押し留められたように、駅の手前で止まっていた。


 誰もそれをおかしいとは言わなかった。


 見えているはずなのに、見えていないように。


 人々はただ、遅延表示を見てため息をつく。


 その駅の上空で、白い狐火が一つ、ふっと揺れて消えた。


 同じ朝、地図アプリから小春神社が消えた。


 真堂輝がそれに気づいたのは、学校へ向かう途中だった。


 彼は寝癖を直さないまま、片手にスマートフォンを持ち、もう片方の手でコンビニの袋を揺らしていた。袋の中には、朝食代わりの菓子パンと、椛と楓に買って帰る予定の小さなプリンが入っている。


 隣を歩く葵城悠樹は、呆れた顔で言った。


「朝から菓子パン二つはやめろと言っただろ」


「一つは昼前の予備」


「つまり朝食ではないか」


「成長期だから」


「寝坊して朝食を食べ損ねた人間が言うな」


「悠樹の味噌汁、飲みたかった」


「起きれば飲めた」


「それが難しいんだよ」


「起きろ」


 いつものやり取り。


 それだけなら、普通の朝だった。


 しかし、輝が何気なく地図アプリを開いた瞬間、足が止まった。


「……あれ?」


「どうした」


「小春神社って、ここだったよな」


 輝は画面を悠樹に見せる。


 地図には、小春駅、旧駅前商店街、楓川緑道、新小春モール、小春西高校、葉月神社へ向かう道まで表示されていた。


 だが、小春神社の名前だけがない。


 あるはずの場所には、ただの緑地が表示されている。


 鳥居のマークも、神社名も、参道もない。


「検索しても出ない」


 輝は検索欄に『小春神社』と入れる。


 候補は出ない。


 代わりに、『小春神社前バス停』や『小春神社跡地周辺整備計画』という妙な候補だけが出た。


「跡地?」


 輝の声が低くなる。


「跡地って何だよ。まだあるだろ」


 悠樹はスマートフォンを取り出し、自分の地図アプリでも調べた。


 結果は同じだった。


 小春神社は表示されない。


 葉月神社は表示される。


 新小春モールも表示される。


 旧駅前商店街も表示される。


 小春神社だけが、地図から抜け落ちている。


「通信の不具合かもしれない」


 悠樹はそう言った。


 だが、その声はいつもほど確信に満ちていなかった。


「おまえ、そう思ってないだろ」


「可能性として否定はしない」


「それ、思ってない時の言い方だ」


 輝は画面を見つめた。


 地図上で、小春神社の場所だけが妙に白い。


 何かがあった跡のように。


 文字を消しゴムでこすり落とした後のように。


「椛と楓には?」


 輝が聞く。


「まだ言うな」


 悠樹は即座に答えた。


「不安定にさせるだけだ。先に確認する」


「確認って」


「学校で星川さんと武に聞く。図書室の資料も見る。放課後、小春神社へ行く」


「今日も神社か」


「文句を言うな」


「言ってない」


 輝はスマートフォンを握りしめた。


 小春神社が地図から消える。


 それは、ただの表示不具合に見えなかった。


 名前が読めなくなる。


 記録から抜け落ちる。


 椛の名前に起きていたことが、今度は神社そのものに広がっているようだった。


 その日の午前、楓川沿いを歩いた人が同じ場所に戻ってきた。


 小春西高校の近くで、武がその話を持ち込んできた。


「ねえ、これ見て」


 昼休み。


 藍澄武は、輝と悠樹の机の前にスマートフォンを突き出した。いつもなら昼食の弁当と一緒に持ってくる情報は、どこか楽しそうな匂いがした。だが、今日は違う。


 武の顔には、少しだけ緊張があった。


 画面には、地域掲示板の投稿が表示されている。


『楓川緑道で変なことあった。駅から旧商店街に向かって歩いてたのに、気づいたら同じ橋に戻ってた。三回。疲れてるのかな』


 その下には、似たようなコメントが続いていた。


『自分も昨日あった。犬の散歩してたら、なぜか小春大橋の前に戻った』


『地図アプリだと直進なのに、歩いてると道がずれる感じ』


『小春市って最近変じゃない?』


『白狐の呪いじゃね』


『またそれかよ』


 輝は画面を見て、顔をしかめた。


「楓川緑道……」


「玲が未空さんを閉じ込めた場所でもある」


 武が言う。


 その声は小さかった。


 月代玲。


 月夜霊尊。


 未空を夜の神域へ閉じ込めた、未空の友達だった存在。


 その名前を口にする時、武はまだ少し怖がっている。けれど、以前のように「本物の夜の神だ、すごい」とは言わない。


 未空の傷ついた顔を見てしまったからだ。


「夜の道を、玲がずらしてるのかな」


 輝が言う。


 武は頷きかけて、すぐに首を傾げた。


「たぶん。でも、未空さんじゃないとわからないと思う」


「未空さん、今日は?」


 悠樹が尋ねる。


「来てる。でも、朝からあまり話してない」


 武は廊下の方を見る。


「綾乃がそばにいる」


「なら、後で聞こう」


 悠樹は短く言った。


「無理に聞くなよ」


 輝が言う。


「わかっている」


「おまえはわかってるけど、武は」


「ボクもわかってるよ」


 武は少しだけむっとした顔をした。


 それから、すぐに表情を緩める。


「いや、前のボクなら聞き方悪かったかも。気をつける」


 輝は武を見た。


「成長したな」


「最近、叱られることが多いからね」


「叱られて伸びるタイプか」


「伸びる前にちょっとへこむタイプ」


 武は苦笑した。


 その時、校内放送が鳴った。


『本日の清掃区域は――』


 普通の放送だった。


 放送委員の声が、淡々と予定を読み上げている。


 だが、その声の奥に、音が混じった。


 笛。


 太鼓。


 小さな鈴。


 祭囃子。


 教室の何人かが顔を上げた。


「今の何?」


「放送事故?」


「誰か音楽流した?」


 すぐに笑い声が起きる。


 誰かが「祭りかよ」と言い、別の誰かが「楓まつりの宣伝?」と返した。


 多くの生徒は、それで終わった。


 気のせい。


 放送事故。


 誰かの悪ふざけ。


 しかし、輝たちは黙っていた。


 武の顔から笑みが消える。


 悠樹は眉をひそめる。


 輝は、放送のスピーカーを見上げた。


 笛の音が、ほんの一瞬だけはっきりした。


 昔の祭りの音。


 楓祭り。


 灯籠流し。


 椛の名前を呼んでいたはずの町の音。


 それが、学校の放送に混じっている。


「始まってる」


 輝は小さく言った。


 午後の図書室には、存在しない郷土資料が現れていた。


 放課後、輝たちが図書室へ向かうと、郷土資料棚の前に未空が立っていた。


 隣には綾乃がいる。


 綾乃はいつものように腕を組んでいるが、未空から一歩以上離れない。まるで、いつでも未空を現実へ引き戻せるように。


 未空は、一冊の本を見つめていた。


 見覚えのない本だった。


 表紙は白い。


 題名はない。


 背表紙にも何も書かれていない。


 それなのに、その本だけが郷土資料棚の真ん中に立てられている。


 輝は息を呑んだ。


「これ、前からあったか?」


「ない」


 未空が答える。


「少なくとも、あたしは見てない」


 武も棚を覗く。


「蔵書ラベルもない。バーコードもない。図書室の本じゃないよ」


 悠樹は本に触れようとして、手を止めた。


「星川さん、どう見える」


 未空は白い本を見つめた。


 顔色が悪い。


 だが、目を逸らさない。


「中に、町がある」


「町?」


「小春市。でも、少し違う。駅が止まってる。川沿いの道が輪になってる。商店街のシャッターが開いてる。小春神社が、地図から消えてる」


 輝は背筋が冷えるのを感じた。


 全部、今日起きている異変だ。


 未空は続ける。


「ページが、まだ増えてる」


「増えてる?」


「書かれてる。今も」


 その時、白い本がひとりでに開いた。


 誰も触れていない。


 ページが、ぱらぱらとめくれる。


 そこには、文字が浮かび上がっていた。


『小春駅、外界との接続不安定』


『楓川緑道、巡回路化』


『小春神社、地図記録より消失』


『旧駅前商店街、夜間点灯準備』


『小春西高校、祭囃子混入』


『白狐火災、噂拡散率上昇』


『月夜霊尊、夜道封鎖開始』


 綾乃が声を失う。


 武は思わず一歩下がった。


「これ……何?」


「記録」


 未空が言った。


「でも、普通の記録じゃない。町を記録してるんじゃなくて、記録で町を変えてる」


 輝は白い本を睨んだ。


「琥珀さんか」


 その瞬間、図書室の奥から声がした。


「正解」


 玉城琥珀が、カウンターの向こうに立っていた。


 いつもの図書室管理人の姿。


 銀色がかった長い髪。


 穏やかな笑み。


 しかし、その背後には赤い狐火がいくつも浮かんでいた。


 図書室に他の生徒はいない。


 いつの間にか、誰もいなくなっている。


 廊下の音も遠い。


 図書室だけが、学校から少し切り離されたように静かだった。


「玉城さん」


 悠樹が低い声で言う。


 琥珀は白い本へ近づいた。


「郷土資料というものは面白い。町が忘れたものを、紙が覚えている。人が呼ばなくなった名前も、祭りも、古い道も、川の記憶も。紙は捨てられない限り、黙って残り続ける」


 琥珀はページに指を置く。


 文字が赤く揺れた。


「なら、逆もできると思わない?」


「逆?」


 輝が聞く。


「記録が町を覚えているなら、町に記録を思い出させることもできる」


 琥珀の声は穏やかだった。


「白狐火災の噂。楓祭りの記録。小春神社の失われた祭神名。夜の怪談。学校の放送。商店街の古い写真。地図から消えた場所。人が気のせいで済ませた小さな違和感」


 ページの上に、赤い狐火が滲む。


「それらを編み直している。小春市全体を、一つの器にするために」


「器って何の」


 綾乃が問う。


 琥珀は綾乃を見る。


「忘れられたものが消えずに済む場所」


 綾乃は眉をひそめる。


「それ、町を閉じ込めるってこと?」


「閉じ込めるのではない。守るんだ」


 琥珀は微笑む。


「外へ出れば、忘れられる。新しいものに押し流される。名前は消える。祈りは薄れる。だから、町ごと切り離す。ここを忘れられたものたちの神域にする」


 武が小さく息を呑んだ。


「神隠しの町……」


 琥珀の瞳が武へ向く。


「いい言葉だね、藍澄くん。君ならそう言ってくれると思っていた」


 武の顔がこわばる。


 以前なら、その言葉に胸が躍ったかもしれない。


 神隠しの町。


 外界から切り離された異界。


 オカルト好きなら、たまらない響きだ。


 でも、今は違う。


 その町の中には人がいる。


 気づかないまま閉じ込められようとしている人たちがいる。


 椛がいる。


 楓がいる。


 未空も、綾乃も、悠樹も、輝もいる。


 これは面白い怪談ではない。


「やめてください」


 武は言った。


 声は少し震えていたが、逃げなかった。


「そういうの、面白く聞こえるけど、違う。町を閉じ込めるのは、守ることじゃないと思う」


 琥珀は少しだけ目を細める。


「君も、そう言う側になったんだね」


「そうなりたいです」


 武は答えた。


 琥珀は笑った。


 優しい笑みだった。


 けれど、その優しさが怖かった。


「人間は、変わるのが早い」


 その言葉に、輝はぞっとした。


 琥珀にとって、それは褒め言葉ではない。


 人間は変わる。


 興味も、優しさも、信仰も、すぐに変わる。


 だから信じられない。


 だから町ごと閉じようとしている。


「椛はどこにいる」


 琥珀が言った。


 その声が変わった。


 穏やかだが、芯がある。


「椛と楓は関係ないだろ」


 輝が前へ出る。


「関係ない?」


 琥珀は珍しく、少しだけ笑みを消した。


「この町は椛の土地だ。楓川も、小春神社も、御神木も、町の古い記憶も。椛を抜きにして、この器は完成しない」


 未空の顔が青ざめる。


「椛の力が必要なんだ」


「そう」


 琥珀はあっさり認めた。


「椛は鍵だ。そして楓は、燃え残った根。二人が揃ったことで、町を結び直せる可能性が高まった」


「結び直すって」


「忘れられたものを、もう消えない形にする」


「そのために、町を外から切り離すのかよ」


 輝が言う。


「そうだよ」


 琥珀は答えた。


「外の世界は忘れる。なら、忘れられない内側を作ればいい」


 その時、窓の外が暗くなった。


 まだ夕方のはずなのに、夜が急に近づいてくる。


 図書室の窓から、月が見えた。


 大きすぎる月だった。


 空の低いところに、白く、異様に大きく浮かんでいる。


 未空の肩が震えた。


「玲」


 小さな声。


 琥珀は窓を見た。


「月夜霊尊は、夜の道を閉じている。外へ出る道は、少しずつ夜に沈む。駅も、川沿いも、商店街も。人が気づく頃には、もう戻れない」


 綾乃が未空の手を握った。


 未空はその手を握り返す。


 強く。


 玲の気配がする。


 夜の道を閉ざす玲。


 自分を傷つけた玲。


 それでも、まだ胸のどこかで名前を呼びそうになる玲。


 未空の中で痛みが揺れる。


 冷静にならなければいけない。


 でも、玲の気配を感じると、胸が裂けるように痛い。


「未空」


 綾乃が呼ぶ。


 未空ははっとする。


「今は、こっち見て」


「うん」


「玲のことは、後で怒ればいい」


「怒る?」


「アタシも怒る」


 未空は少しだけ目を伏せた。


「うん」


 その小さなやり取りを見て、琥珀の表情が一瞬だけ揺れた。


 羨ましそうにも見えた。


 苛立っているようにも見えた。


「人間同士は、すぐに手を握る」


 琥珀が言った。


「でも、その手はいつか離れる」


「それでも」


 悠樹が口を開いた。


 全員の視線が悠樹に向く。


 悠樹は、白い本と琥珀を交互に見ていた。


「手がいつか離れることと、今握ることに意味がないことは同じではありません」


 琥珀は悠樹を見る。


「君はいつも、現実的だ」


「そうであろうとしています」


「現実的に考えれば、人間は忘れる。小春神社がどうなったか、君も見ただろう」


「見ました」


「なら、わかるはずだ。町を閉じることこそ、忘れられたものを守る方法だと」


 悠樹は少しだけ息を吸った。


「町を閉じ込めることは、町を守ることじゃない」


 その言葉は、静かだった。


 だが、強かった。


「町は変わります。人も変わる。商店街は寂れ、モールができ、神社は忘れられ、祭りは別の形になる。それは確かに残酷です。けれど、変わらないように閉じ込めることは、守ることではない」


 琥珀の目が細くなる。


 悠樹は続ける。


「町を器にして、外とのつながりを断てば、そこにいる人間も、忘れられたものたちも、全部あなたの結界の一部になる。それは救済ではなく、支配です」


「支配」


 琥珀はその言葉を繰り返した。


 声が少し低くなる。


「人間はいつもそう言う。自分たちが忘れ、壊し、名前を奪ったことは仕方がないと言うくせに、取り戻そうとするものを支配と呼ぶ」


「取り戻すことと、閉じ込めることは違います」


「違わない」


「違います」


 悠樹は退かなかった。


「椛ちゃんが自分で選ぶなら別です。楓ちゃんが選ぶなら別です。けれど、町ごと巻き込み、気づいていない人たちまで閉じ込めて、忘れられたもののためだと言うなら、それは守ることではありません」


 琥珀は黙った。


 図書室の白い本のページが、ひとりでにめくれる。


 新しい文字が浮かぶ。


『外界遮断率 三十七』


『夜道封鎖 進行中』


『楓川巡回化 拡大』


『小春神社名消失 第二段階』


 輝はページを見て、拳を握った。


「ふざけんな」


「輝」


 悠樹が制止する。


 しかし、輝は一歩前へ出た。


「町を勝手に書き換えるなよ。椛の土地だからって、椛の許可もなく使うな。楓の根が残ってたからって、勝手に計画に組み込むな」


「君はまだ言葉を探している」


 琥珀が言った。


 輝の胸に、またあの問いが蘇る。


 いつまで覚えていられる?


 輝は奥歯を噛んだ。


 確かに、まだ答えは見つかっていない。


 ずっと覚えると簡単に言えない。


 町をどうするべきかもわからない。


 琥珀の怒りを完全に否定できない。


 忘れられたものが消えていく痛みも、少しはわかってしまう。


 だから、言葉が遅れる。


 でも。


「探してるよ」


 輝は言った。


「まだ、ちゃんとした答えは見つかってない。でも、探してる。おまえみたいに、全部もう決めたって顔で町を閉じるつもりはない」


 琥珀の瞳に赤い火が揺れる。


「それは、迷っているだけだ」


「そうだよ」


 輝は認めた。


「迷ってる。椛をどう守ればいいのか。琥珀さんをどう止めればいいのか。玲をどうしたらいいのか。町が忘れたことをどうすればいいのか。全部迷ってる」


 輝は息を吸った。


「でも、迷ってるから、まだ勝手に決めてない」


 図書室が静まり返る。


 琥珀は輝を見ていた。


 怒っているのか、呆れているのか、少しだけ悲しんでいるのか、わからなかった。


 その時、白い本のページに新しい文字が浮かんだ。


『椛、接続』


 未空が顔を上げる。


「まずい」


「何が」


 輝が聞く。


「椛が、感じてる」


 その頃、マンションのリビングで、椛は胸を押さえていた。


 窓の外は、まだ夕方のはずなのに薄暗い。


 遠くの空に、大きすぎる月が浮かんでいる。


 椛はソファーに座ったまま、肩を震わせていた。


 隣で楓が椛の手を握っている。


「椛!」


「町が……」


 椛の声が震える。


「町が、引っ張られてる」


 楓は窓の外を見る。


 楓にも感じていた。


 小春市の地面の奥、楓川の水の下、焼けた御神木の根、小春神社の石段、旧商店街の古い看板、新小春モールの明るい照明、学校の図書室。


 それらが、赤い糸と黒い夜で結ばれていく。


 琥珀の狐火。


 玲の夜。


 記録と噂と忘却。


 町全体が、何かの形へ編まれていく。


「痛い?」


 楓が聞く。


 椛は首を横に振ろうとして、できなかった。


「痛い。怖い。でも、懐かしい」


「懐かしい?」


「昔の声が、いっぱいする」


 椛の目に涙が浮かぶ。


「椛さまって呼ぶ声。楓祭りの音。灯籠の光。子どもたちの笑い声。でも、全部、琥珀さんの火でつながってる。玲お姉ちゃんの夜で閉じられてる」


 椛は震える手で、胸元を押さえる。


「小春市、椛の身体みたい」


 楓の表情が険しくなる。


「うん」


「それを、勝手に変えられてる」


「うん」


 楓の瞳に怒りが宿る。


 御神木の残り火が、彼女の輪郭で赤く揺れた。


「許さない」


「でも」


 椛は小さく言う。


「忘れられたものたちが、消えないなら」


「椛?」


「琥珀さんの言ってること、全部間違いじゃない」


 椛の涙がこぼれる。


「椛も消えたくない。楓も消えてほしくない。白狐さんも、玲お姉ちゃんも、忘れられたものたちも、消えないなら……」


「そのために町を閉じ込めるの?」


 楓の声が少し強くなる。


「椛は、それでいいの?」


「わからない」


 椛は泣きながら首を振った。


「わからないよ。椛、神様だったのに、何が正しいのかわからない」


 楓は椛の手を強く握った。


「わからないなら、一人で決めちゃだめ」


「でも」


「輝たちが帰ってくるまで待つ」


「うん」


「それまで、椛は消えてもいいとか、琥珀についていくとか、絶対言わない」


「……うん」


 楓は窓の外を睨んだ。


 大きすぎる月。


 夜の気配。


 狐火の赤い糸。


 楓の中にも怒りがある。


 人間に対する怒り。


 忘れた町への怒り。


 琥珀の言葉に共鳴するものが、確かにある。


 けれど、椛の手の震えを感じていると、その怒りだけでは選べなかった。


 図書室では、琥珀が白い本を閉じた。


 ばたん、と音が響く。


「椛が揺れている」


 琥珀は言った。


 その声には、わずかに優しさがあった。


「当然だよ。あの子は土地神だ。この町の痛みが、あの子には届く。忘れられたものたちの声も、消えかけた記憶も、全部」


「それを利用してるんだろ」


 輝が言う。


「利用?」


 琥珀は首を傾げる。


「僕は、聞こえるようにしているだけだ。人間が聞かない声を、あの子に届けている」


「それが利用だって言ってるんだよ」


「君たちだって、椛に古い写真を見せた。楓祭りの記録を見せた。名前が忘れられたことを教えた。それは利用ではないの?」


 輝は言葉に詰まった。


 まただ。


 琥珀の言葉は、いつも完全には否定できない。


 輝たちも、椛に過去を見せた。


 椛は泣いた。


 それでも必要だと思った。


 では、琥珀との違いは何か。


 輝は、まだうまく言えない。


 悠樹が代わりに言った。


「選ぶ余地を残しているかどうかです」


 琥珀が悠樹を見る。


「僕たちは椛ちゃんに情報を渡した。傷つけたかもしれない。それでも、椛ちゃんがどうするかを決める余地を残そうとしている。あなたは、町ごと状況を作り、逃げ道を塞ぎ、椛ちゃんが来るしかないようにしている」


 琥珀の笑みが薄くなる。


「逃げ道を残したから、人間は忘れた」


「それでも、逃げ道を塞いでいい理由にはならない」


 悠樹の声は揺れなかった。


 琥珀はしばらく黙った。


 そして、図書室の窓の外へ目を向ける。


 大きな月。


 夜になりかけの校庭。


 誰もいないはずの校庭の端に、白い狐火が並んでいる。


「今夜、町はもう一段階、内側へ入る」


 琥珀は言った。


「駅は止まり、川沿いの道は巡り、商店街には過去の灯りがつく。学校には祭囃子が戻り、図書室には記録が集まる。小春神社は地図から消え、代わりに神域として立ち上がる」


 武が息を呑む。


 未空は震える手を握りしめる。


 琥珀は、静かに続けた。


「椛に伝えて。君が来れば、この町は救われる。人間に忘れられたものたちが、もう消えずに済む」


 その声は、本当に優しかった。


 だからこそ、怖かった。


「でも、来なければ?」


 綾乃が聞いた。


 琥珀は綾乃を見る。


「来るよ」


「どうして言い切れるの」


「椛は優しいから」


 琥珀は微笑んだ。


「自分の町が痛んでいるのを、放っておけない」


 赤い狐火が一つ、図書室の床に落ちる。


 火は床を焦がさない。


 代わりに、小さな赤い楓の葉の形になって消えた。


「また会おう」


 琥珀の姿が薄れる。


 輝が走り出そうとする。


 だが、悠樹が腕を掴んだ。


「今は追うな」


「でも!」


「椛ちゃんのところへ戻る方が先だ」


 輝は歯を食いしばった。


 その通りだった。


 今、琥珀を追っても捕まえられない。


 それより、椛が揺れている。


 椛のところへ戻らなければ。


 輝は琥珀が消えた場所を睨みつけた。


「くそ」


 その言葉を残して、琥珀は消えた。


 図書室には、白い本だけが残っていた。


 その表紙には、いつの間にか薄い文字が浮かんでいる。


『神隠しの町』


 武が小さく呟いた。


「ボクが言った言葉だ」


 誰も責めなかった。


 しかし、武は唇を噛んだ。


 噂は言葉から広がる。


 軽い言葉が、怪談を作る。


 そして今、彼が口にした言葉が、白い本の表紙に刻まれている。


 武は、本当に言葉の重さを感じ始めていた。


 図書室を出ると、廊下は普通に戻っていた。


 生徒たちの声が聞こえる。


 部活動へ向かう足音。


 先生の注意する声。


 何も知らない日常。


 だが、窓の外の月は大きいままだった。


 空はまだ夕方なのに、月だけが夜の顔をしている。


 輝たちは走った。


 学校を出て、マンションへ向かう。


 途中、旧駅前商店街の方から灯りが見えた。


 閉店したはずの写真館の窓に、オレンジ色の明かりが灯っている。


 営業していないはずの駄菓子屋の軒先に、小さな提灯が揺れている。


 誰もいない店内に、人影のようなものが動いた。


 綾乃が息を呑む。


「何、あれ」


「昔の商店街」


 未空が言った。


「今の町に、昔の記憶が重なってる」


 武は立ち止まりかけた。


 調べたい。


 見たい。


 そういう気持ちが一瞬だけ顔を出した。


 だが、すぐに首を振る。


「後で。今は椛ちゃん」


 輝は頷いた。


 楓川緑道を通ると、道がおかしかった。


 まっすぐ歩いているはずなのに、同じ橋が見える。


 前に進んでいるのに、川の音が同じ場所から聞こえる。


 輝は舌打ちした。


「これが巡回路化ってやつか」


「言葉にするとゲームみたいで嫌だな」


 悠樹が言う。


「今ツッコミ入れる余裕あるのかよ」


「余裕を失うと判断を誤る」


「悠樹らしい」


 未空が目を閉じる。


 玲の夜の気配が、道の端に残っている。


 黒い糸。


 月の影。


 道を丸め、同じ場所へ戻す力。


 胸が痛む。


 玲。


 その名前を呼びそうになる。


 でも、今は呼ばない。


 未空は綾乃の手を握った。


「こっち」


 未空が道を指す。


 見た目には植え込みしかない。


 だが、彼女にはその先に細い裂け目のようなものが見えていた。


「そこ、道ないけど」


 武が言う。


「ある」


 未空は言った。


 綾乃が即座に頷く。


「未空があるって言うならある」


「信頼が強い」


 輝が言う。


「今さら疑ってる暇ないでしょ」


 綾乃が返す。


 五人は未空の指示通りに進んだ。


 植え込みの隙間を抜けると、なぜかいつもの道へ出た。


 マンションの建物が見える。


 輝は息を吐いた。


「助かった、星川さん」


「うん」


 未空は短く答える。


 だが、その顔はまだ青い。


 玲の夜を破ることは、未空にとって簡単ではない。


 それでも、彼女は歩いた。


 マンションへ戻ると、椛と楓はリビングで待っていた。


 椛は泣いていた。


 楓は怒っていた。


 その顔を見ただけで、輝は胸が痛んだ。


「椛!」


 輝が駆け寄る。


 椛は輝を見た。


「輝お兄ちゃん」


「大丈夫か」


「町が、痛い」


 椛の声は震えていた。


「でも、琥珀さんの声も聞こえた。椛が来れば、町を救えるって。忘れられたものが消えずに済むって」


 輝は言葉を詰まらせる。


 楓が代わりに言った。


「琥珀は、椛を使うつもり」


「でも」


 椛は首を振る。


「でも、忘れられたものたちが本当にいる。椛だけじゃない。白狐さんも、玲お姉ちゃんも、昔の祭りも、商店街の声も、川に流れた灯籠も。みんな、消えたくないって言ってる」


 部屋が静かになる。


 琥珀の言葉は、完全な嘘ではない。


 忘れられたものたちは、本当に消えかけている。


 椛はそれを感じてしまっている。


 だから揺れる。


 自分が行けば、誰かを救えるかもしれない。


 自分が行かなければ、町が痛み続けるかもしれない。


 そう思ってしまう。


 悠樹が静かに言った。


「椛ちゃん」


「なあに」


「町を閉じ込めることは、町を守ることじゃない」


 図書室で琥珀に言ったのと同じ言葉。


 今度は、椛に向けて。


「忘れられたものを残す方法が必要なのは確かだと思う。椛ちゃんや楓ちゃんを消してはいけない。白狐や玲の痛みも、なかったことにはできない。でも、町にいる人たちの選択肢を奪って、外へ出られないようにして、気づかないまま神域に閉じ込めることは、救いではない」


 椛は涙をこぼす。


「じゃあ、どうすればいいの」


 その問いに、誰もすぐには答えられなかった。


 輝も、言葉を探していた。


 椛を守りたい。


 町を閉じ込めたくない。


 琥珀を止めたい。


 玲にも戻ってきてほしい。


 忘れられたものを消したくない。


 全部、本当だ。


 でも、それを一つの答えにする言葉が、まだ見つからない。


「まだ、わからない」


 輝は言った。


 椛が輝を見る。


「でも、探す。椛一人に決めさせない。琥珀さんのところへ一人で行かせない。町が痛いなら、一緒に見る。一緒に考える」


「一緒に」


「うん」


 輝は椛の名前を呼んだ。


「椛」


 椛の輪郭が少しだけ強くなる。


 続けて楓を見る。


「楓」


 楓は頷いた。


「楓も考える。人間のことはまだ怒ってる。でも、椛を一人で差し出すのは嫌」


 綾乃が椛の隣に座る。


「難しいことは全部わかんない。でも、椛ちゃんが泣きながら行くなら、それは違う。絶対違う」


 武がノートを取り出す。


「ボク、調べる。白い本の記録も、商店街の灯りも、葉月神社の弓も、全部つながってるなら、どこかに琥珀さんを止めるヒントがあるはず」


 未空は窓の外の月を見た。


 大きすぎる月。


 玲の気配。


 痛み。


 それでも、未空は目を逸らさなかった。


「玲の夜は、あたしが見る」


 綾乃が心配そうに見る。


 未空は小さく頷いた。


「大丈夫じゃない。でも、見る」


 悠樹がノートを開く。


「まず、町の異変を整理する。駅、地図、楓川、図書室、商店街、学校放送、月。次に、結界の中心を探る。葉月神社の記録にあった弓矢と、楓祭りの灯籠流しが鍵になる可能性が高い」


 輝は椛の手を握った。


「椛」


「うん」


「今夜は、絶対一人で出るな」


「うん」


「琥珀さんの声が聞こえても、行くな」


「うん」


「行きたくなったら、オレを起こせ。悠樹でも、綾乃でも、星川さんでも、武でも、楓でもいい。誰かを起こせ」


 椛は涙を拭いた。


「起こしていいの?」


「いい」


 輝は言い切った。


「迷惑でも起こせ」


 悠樹が隣で補足する。


「迷惑ではないが、起こしていい」


「そこ訂正する?」


「する」


 綾乃が笑った。


 少しだけ、部屋の空気が緩む。


 椛も、涙の中で小さく笑った。


 外では、夜が早く降りていた。


 小春市の空に、大きな月が浮かんでいる。


 駅の電車はまだ止まっている。


 楓川緑道では、同じ橋へ戻る人が首を傾げている。


 旧商店街の閉店した店には、一晩だけ灯りがつき始めている。


 小春西高校の放送室では、誰もいないスピーカーから、かすかな祭囃子が流れている。


 新小春モールの大型書店では、白狐火災の雑誌のページがひとりでにめくれ、赤い狐火の写真がほんの一瞬だけ光った。


 そして、図書室の郷土資料棚では、白い本が閉じたまま、静かに文字を増やしていた。


『神隠しの町』


『進行中』


 小春市は、少しずつ外から切り離され始めている。


 多くの人は、まだ気づかない。


 気づいても、気のせいだと思う。


 遅延。


 通信不具合。


 放送事故。


 見間違い。


 疲れ。


 ただの噂。


 そうやって、町は自分に起きていることを、まだ名前にできない。


 けれど、輝たちは知ってしまった。


 これはただの怪異ではない。


 小春市そのものが、物語の中へ引き込まれようとしている。


 忘れられた神と、白狐と、夜の神と、人間たちの記憶が絡み合い、町全体が一つの結界へ変わろうとしている。


 その中心に、椛がいる。


 椛は窓の外を見た。


 町が痛い。


 でも、その町には今の人間たちもいる。


 輝がいる。


 悠樹がいる。


 綾乃がいる。


 未空がいる。


 武がいる。


 楓がいる。


 昔の町だけではない。


 今の町も、椛の町なのかもしれない。


 まだ、そう言い切る勇気はなかった。


 でも、椛は輝の手を握り返した。


「輝お兄ちゃん」


「何だ」


「椛、まだ行かない」


 輝は頷いた。


「うん」


「でも、町の声は聞く」


「一緒に聞く」


「うん」


 その時、遠くで祭囃子が鳴った。


 笛と太鼓と鈴の音。


 窓の外の夜に、赤い楓の葉が一枚舞った。


 それは風に乗って消える。


 けれど、消える直前、葉の端が白い狐火のように燃えた。


 神隠しの町は、もう始まっていた。

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